48 / 79
第1部 アイドル編
♬ 25departure
しおりを挟む初夏の陽射しがまばゆく輝くある日、京は機上の人となった。
根室と芽室をこの時点でもまだ混同しているような体たらくだったが、根室の飛行場はほんとうに小さくて驚いた。
そして、それにも増して驚いたのは、黄色い大地ならぬ赤い大地だった。北の大地に近づくにつれわかってきたそれは、家家の赤い屋根だった。
関東では赤い屋根瓦をあまり見かけないが、北海道ではそもそも瓦などではなかった。すべてトタン屋根なのだ。
その赤い、たぶん紅いとした方が近いかもしれないが、朱色の屋根の色に圧倒された。
カルチャーショックというのだろうか、黒い瓦が一枚も見当たらない朱色の平面の世界になにやら別世界に来たように思われたのだ。
旋回しながら地上へと降りてゆく、生まれてはじめて乗った飛行機の機内のなかで、未知のものとの遭遇に大げさでなく密かに心ふるわせていた。
やがて、とうとう広大な北の大地に降り立ったものの、牧場主である小早川さんは、いつまで経っても現れないのだった。
仕事が決まった後に小早川さんから直接メールが来て、根室の空港まで車で迎えに来てくれることになっていた。
牧場のある芽室に最も近い飛行場が根室だった。それでも芽室から四時間もかけて、迎えに来てくれるのだ。
手持ち無沙汰にスマホを見ていると、飛鳥ちゃんからレスがきた。
「仔猫ちゃんたちは、元気だよ」
京は、すかさずLINEを飛ばした。
「ありがとう! いま根室に着いたんだけど、牧場主さん待ちw」
あのチゲ鍋パーティのときに、京は妙案を思いついたのだ。ただ、思いついたのはいいのだが、思いついた直後、考えもせずにそれを言葉にして飛鳥ちゃんに伝えてしまっていた。
また会える口実ができる、などという狙いがあっての発言ではなかった。咄嗟に口をついてすらすらと言葉が迸ったのだ。
「夏にさ、たぶん二ヶ月くらい東京離れるんだけど、猫飼ってるからどうしようかと思ってるんだよ」
「そうなの? 預ける人いないなら、うちで預かってもいいけど?」
「マジ?」
言ってみるものである。そんなわけで子猫たちは、飛鳥ちゃんのとこに預けてきたのだった。
結局のところ、小早川さんとはすでに会っていたにもかかわらず、女の子のようにカールした長い髪を風になびかせ、パープルのシースルーシャツとベルボトムにギターのハードケースといった、ウッドストックのジミヘンみたいなサイケな京のいでたちに、小早川さんはまんまと騙されてしまったのだ。
確かに、牧場に行くのにギターケースを抱えている奴は、あまりいないかもしれない。
そんなこんなで、無事、小早川さんと出会え、奥様にも紹介していただき、それから一緒にでかいスーパーみたいなところに行ったのだけれど、買い置きをするのだそうで、そのボリュームたるや半端なかった。
すべてが、箱単位である。
荷物をすべてトランクに積み込むと車は再び芽室に向けて出発した。それこそアメリカ映画みたいに地平線まで果てしなく伸びてゆく道路は、リバー・フェニックスの出ていた映画のエンディングを想い出させた。
◯
出発する前日、渋谷で奈美と会った。奈美とはほとんど連絡をとりあっていなかったが、奈美が借りていたCDを返したいとメールして来たのだった。
それが、何を意味しているのかは明白だった。
まじめな奈美は、やはりなしくずし的な、うやむやな形でふたりの仲を終わらせたくはなかったのだろう。
それでも奈美は、まだ淡い希望を捨てきれずにいる自分に、はっきりと三下り半を突きつけてほしかったのかもしれない。
西村でお茶しながら、当たり障りのない互いの近況を話しあった。
はっきりと意思表示をしてほしいのが痛いほどわかったが、結局奈美は、そのことを口にしなかったし、京も言い出さなかった。
瀕死の飼い猫にとどめを刺すのが、ほんとうの優しさならば、京は悪人にちがいない。浮気の現場を見られたとしても、最後まで京はシラを切るだろう。
既に終わっていることを奈美は知っているのだ。だが、たとえわかっていることであっても、それを言葉にしてはいけない。 互いにわかっていることに、敢えて引導を渡す必要があるだろうか。あとは、時間に任せればいい。
小一時間ほど西村にいただろうか。西村を出て駅に向かってスクランブルを渡りながら、京はCDを返してもらっていなかったことを思い出した。
「あ、そういえばCD…」
奈美は、あっと言ってバッグから、数枚のCDを取り出した。
京は受け取ろうと手を伸ばしたけれど、奈美は決してCDを手放そうとはしなかった。
奈美は泣いていた。
「これ、返しちゃうともう永遠に京くんと会えないってわかってるもん」
奈美は急に立ち止まり、肩を震わせ嗚咽すると、その場に崩折れた。
「京くんと、別れたくないよー」
あまり感情を表に出さない奈美が、叫ぶようにそういって、CDを抱きしめたまま、スクランブル交差点のど真ん中で、激しく泣きじゃくった。
◯
地平線までまっすぐ伸びてゆく道路をぶっ飛ばしてゆく車の中で、京はずっと忘れていた花散る男女のやり方を、不意に思い出した。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。
つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。
彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。
なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか?
それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。
恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。
その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。
更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。
婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。
生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。
婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。
後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。
「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。
もうすぐ、お別れの時間です
夕立悠理
恋愛
──期限つきの恋だった。そんなの、わかってた、はずだったのに。
親友の代わりに、王太子の婚約者となった、レオーネ。けれど、親友の病は治り、婚約は解消される。その翌日、なぜか目覚めると、王太子が親友を見初めるパーティーの日まで、時間が巻き戻っていた。けれど、そのパーティーで、親友ではなくレオーネが見初められ──。王太子のことを信じたいけれど、信じられない。そんな想いにゆれるレオーネにずっと幼なじみだと思っていたアルロが告白し──!?
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる