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第10章
新たな覚悟
しおりを挟む冬の名残が少しだけ感じられる春の朝、恵梨香は自宅の鏡の前に立っていた。短く刈り上げた髪はすでに少し伸び、頭の形に沿って柔らかく丸みを帯びている。指先で髪を撫でると、その感触に自分の覚悟が薄れかけているような気がした。
「また整えないと……」
小さくつぶやいて、恵梨香はコートを羽織った。気持ちを切り替えるように、玄関を出て足早に駅へ向かう。今日こそ、自分をもう一度奮い立たせる日にする。そう心に決めていた。
向かった先は、前回も訪れた商店街の端にある古びた床屋だった。回転灯が静かに回り、ガラス越しに中の様子が見える。街の華やかな美容室とは違い、ここには実直さや堅実さが漂っている。それが今の自分にはしっくりくる場所だった。
ドアを開けると、いつもの店主が顔を上げた。彼は恵梨香を見るなり、ふっと笑った。
「お、また来たね。だいぶ伸びてきたみたいだ。」
「はい、そろそろ整えたいなと思って。」
「いいね。じゃあ、いつものスポーツ刈りで?」
「ええ、もっとスッキリさせてください。あと、シャンプーと……顔剃りもお願いできますか?」
少し照れくさそうにそう付け加えると、店主は「任せとけ」と短く答え、椅子を指差した。
椅子に腰を下ろし、首にタオルが巻かれる。鏡越しに自分の姿を見つめながら、恵梨香は目を閉じた。この瞬間が、彼女にとって一種の儀式のように思えた。髪を刈るたびに、少しずつ過去の自分を削ぎ落としていくような気がする。
「じゃあ、始めるよ。」
店主の低い声とともに、耳元でバリカンの音が響き始めた。バリバリ、と規則的な振動が頭皮に伝わり、髪が次々と落ちていく感触が心地よい。床に落ちる髪を見るたびに、恵梨香の心は少しずつ軽くなっていく。
「前よりもっと短くしたいのか?」
「そうですね。できるだけスッキリさせたいです。」
その言葉に、店主は「了解」と短く答え、バリカンをさらに頭頂部に近づけた。後頭部、側頭部、そして耳周りまで丁寧に刈り上げられるたびに、頭が軽くなっていくのを感じた。
鏡に映る自分の姿が少しずつ変わっていく。その短い髪は、彼女にとって単なるヘアスタイルではなかった。これまでの自分との決別、そして新しい自分への覚悟の象徴だった。
刈り終わると、店主はシャンプー台を指差した。
「じゃあ、次はシャンプーだな。こっちに来て。」
恵梨香は立ち上がり、シャンプー台の椅子に腰を下ろした。仰向けになると、天井の蛍光灯がぼんやりと見える。
店主が温かいお湯を髪にかけ始めると、頭皮に触れる感触が心地よくて、少しだけ緊張が解けた。
「短い髪のシャンプーって、なんか気持ちいいな。」
ふと漏らすと、店主は手を動かしながら笑った。
「そうだろう?短髪の特権だな。お湯も泡も頭皮に直接届くから、スッキリするんだよ。」
ゴシゴシと優しくマッサージするような動きが続き、頭全体がリフレッシュされていく。シャンプーの香りが鼻をくすぐり、心まで洗い流されるような感覚に包まれた。
「気持ちいいです。」
恵梨香が思わず言うと、店主は「そりゃよかった」と小さく答えた。
シャンプーが終わり、再び椅子に戻ると、店主が泡立てたカミソリ用の石鹸を顔に塗り始めた。柔らかなブラシで泡が塗り広げられる感触がくすぐったくて、少しだけ笑みがこぼれる。
「顔剃りは初めてか?」
「はい。なんだか少し緊張しますね。」
「大丈夫、痛くしないから安心しな。」
店主がそう言うと、冷たい刃がそっと頬に触れた。慎重に剃刀を動かすたび、細かい音が耳に届く。顔の産毛が取り除かれる感覚は初めての経験で、何とも言えない爽快感があった。
「よし、だいぶツルツルになったぞ。」
仕上げにお湯で拭き取られたとき、顔全体が驚くほどスッキリしていた。鏡を覗き込むと、自分の顔がひと際引き締まって見える。
「どうだ、仕上がりは?」
「……すごくいいです。ありがとうございます。」
鏡越しに自分を見つめ、恵梨香は心の底からそう思った。短く整えられた髪に触れ、剃りたてのツルツルした頬に手を当てる。そこには、確かに新しい自分がいた。
「何かあるのか?」
店主が軽く尋ねる。彼は刈り上げた後の客の心情を察する力があるのかもしれない。
「ええ、来週から、いよいよ本格的に志望校の対策に入ります。」
「そうか。それならちょうどいいな。この髪なら気合も入るだろう。」
彼の言葉に、恵梨香は笑みを浮かべて頷いた。
店を出ると、春の暖かな風が頭を撫でた。刈りたての髪に直接触れるその感覚は、初めて短髪にしたときと同じように新鮮だった。だが、違うのは、自分の心が以前よりずっと穏やかで、揺るぎないものになっていることだった。
「これで大丈夫。」
恵梨香はそう呟くと、肩を張って歩き出した。進むべき道はまだ長い。だが、この新たな覚悟とともに、どんな壁でも乗り越えられる気がしていた。
春の光の中、短髪の彼女が前を向いて歩いていく。その姿は、これから始まる未来を照らすように力強かった。
恵梨香は商店街を抜けて駅へ向かう道を歩いていた。春の光が差し込む街並みは、冬の頃の冷たさをすっかり失い、どこか柔らかで優しい空気を纏っていた。けれど、そんな穏やかな風景の中で、彼女の心は静かな闘志で燃えていた。
短く刈り込んだ頭に触れる風は、何もかもをリセットするような感覚を与えてくれる。頭が軽くなったのと同時に、心の中の迷いも少しだけ削ぎ落とされたように感じた。
「よし……もう一度、頑張ろう。」
つぶやく声は小さかったが、自分の中に確かな決意が響いた。
家に戻ると、恵梨香はまず机に向かった。壁に貼ってある志望校のパンフレットの表紙には、「医学部」という文字が誇らしげに印刷されている。その下には、自分の書いたスケジュール表。試験までの残りの日々を細かく分割し、苦手科目に多くの時間を割り当てた計画が貼られていた。
「ここからが本番だ。」
改めて計画表を見つめ直し、彼女は静かに参考書を開いた。
だが、その手は少しだけ止まる。ふと、今日床屋でのやり取りが思い出された。店主が言った「この髪なら気合も入るだろう」という言葉。あの言葉は、恵梨香の心を軽くしてくれたと同時に、妙に胸に響いていた。
気合――それは、今の自分に必要なものだった。目指す場所は高いし、課題は山積みだ。それでも、今日新たに整えた髪とともに、自分の中にはかつてない力が湧いているのを感じる。
夕方になり、ふと時計を見ると、予備校の工藤からメッセージが届いていた。
「お疲れさま!模試の直しとか進んでる?」
その何気ない一文に、恵梨香はクスッと笑みをこぼした。工藤はいつもそうやって気にかけてくれる。彼の軽い口調が時折自分を励ましてくれることに、彼女は気づいていた。
「うん、今日から本気出す(笑)」
そう返信すると、すぐに「お、それなら負けてられないな!」と返事が返ってきた。短いメッセージのやり取りが、彼女にまた少しだけ勇気を与えてくれる。
夜、参考書を閉じた恵梨香は、冷たい水で顔を洗い、タオルで拭きながら鏡を見つめた。そこには短髪の自分が映っている。かつて巻き髪で着飾っていた頃の面影はなくなり、鏡の中の自分はシンプルで、どこか強さが感じられた。
「これが、今の私。」
声に出してそう言うと、彼女は微笑んだ。髪型が変わっただけじゃない。自分の内面も少しずつ変わり始めているのを感じる。それは、過去の自分を否定するのではなく、そこに感謝しながら新しい道を歩んでいくという決意だった。
次の日、予備校で久しぶりに模試の結果が返却された。今回の結果は前回よりも少しだけ上がっていた。まだまだ志望校には程遠いものの、小さな前進が確かにあった。
「……やれる。」
その結果を見て、彼女は小さく呟いた。そして隣を見ると、工藤がちらりと彼女の答案を覗き込んでいる。
「お、上がったじゃん!すごいじゃん。」
工藤が親指を立てて笑うと、恵梨香も自然と微笑んだ。
「まだまだだけどね。でも、頑張る。」
その言葉に、工藤は軽く頷いた。
「まぁ、そりゃそうだ。でも一歩ずつやっていけばいいんじゃない?」
その言葉に、恵梨香はまた少し背中を押された気がした。
予備校からの帰り道、ふと見上げると空には春の夕焼けが広がっていた。赤とオレンジが混じり合う空を見つめながら、彼女はふっと息を吐いた。
「これでいい。この道を選んでよかった。」
そう思うと、不思議と胸の中に温かいものが広がった。短く刈り上げた髪に触れながら、彼女はこれから先の未来に向けて一歩ずつ歩みを進める決意を新たにした。
春の風が街を吹き抜ける中、恵梨香はしっかりと前を見据えて歩き始めた。新しい自分、新しい未来へ向けて。
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