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罪の重さ、髪の重さ
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プロローグ
麻衣は、夜のホテルの一室で不倫相手の篠田涼介の腕の中にいた。薄暗い部屋の中、涼介は彼女の手を握り、優しく指を絡ませてくる。その手の温もりが、彼女の心の隙間を一瞬だけ埋めてくれるような気がした。
「麻衣、ここにいる間だけは、何も考えなくていいんだよ」
そう囁く涼介の言葉に、麻衣は何も言えずにいた。罪悪感は確かにあった。だが、彼との関係に足を踏み入れた時から、その感情を封じ込めていた。家庭の中で感じる孤独と夫への不満が、いつの間にかこの関係を「必要悪」として受け入れさせていた。
夫の隆二とは、結婚して6年になる。最初の数年は幸せだった。しかし、次第に彼は仕事に追われ、帰りが遅くなり、会話も減っていった。麻衣が求める温かさや寄り添いは、いつしか彼の仕事と疲労に取って代わられていた。帰宅しても隆二はすぐに寝室へ行き、食事もそこそこに、麻衣との接触を避けるようになった。
「仕方ない」と自分に言い聞かせる日々が続いた。しかし、心の隙間は次第に大きくなり、涼介との出会いでそれが埋められるかのように感じた。彼もまた、家庭に疲れ果てていた。二人はお互いに寄り添い、慰め合うようにして逢瀬を重ねるようになった。
涼介との関係が始まったのは、ほんの一瞬の迷いからだった。 一度だけ。そう決めていたが、彼の優しさに救われるたび、心は徐々に彼に引き寄せられていった。ホテルの部屋で、彼の腕の中で眠る瞬間だけが、麻衣にとって現実から逃れられる時間だった。
その夜も、涼介は彼女に優しいキスをしながら、静かに言葉を交わしていた。
「家ではどうなんだ?まだ、冷たいのか?」
麻衣はため息をつきながら答えた。
「うん、帰ってきても何も話さないの。まるで私は家にいないみたい……」
涼介は眉をひそめ、彼女の肩を軽く抱いた。
「俺なら、君をそんな風には扱わないのに……」
その言葉に、麻衣は一瞬心が揺れたが、どこかでこれは間違っているという自覚もあった。だが、その後悔の感情も、次の瞬間には彼との肌の触れ合いの中で霧散していく。今だけは、この瞬間だけは、何も考えたくない――そう思いながら、麻衣は再び涼介に身を委ねた。
翌日、麻衣は自宅に帰ると、何事もなかったかのように過ごそうとした。リビングにはいつものように静寂が広がり、夫の隆二も仕事から戻ってきていた。だが、どこか様子がおかしかった。彼はいつもよりも無口で、無表情だった。
「ただ疲れているのかもしれない」――麻衣はそう自分に言い聞かせ、夕食の準備を始めた。
しかし、夕食後、事件は突然訪れた。
「麻衣、話がある。」
隆二の声が静かに、だがどこか冷たく響いた。彼はリビングのソファに腰を下ろし、麻衣を見つめていた。麻衣は何か嫌な予感がしたが、その理由が何であるかはまだ気づいていなかった。
「何?どうしたの?」麻衣が聞くと、隆二はゆっくりとスマートフォンを取り出し、無言で画面を麻衣の前に差し出した。
画面に映し出されていたのは、麻衣と涼介のLINEのメッセージ履歴だった。二人が密かにやり取りしていた甘い言葉の数々――それがすべてそこにあった。
「これ、何だ?」
隆二の声は冷静だったが、感情を押し殺しているのがはっきりとわかった。麻衣はその場で凍りついた。どうしてこれを隆二が知っているのか。昨日までの自分の行動が、一瞬にしてすべて無意味に感じられた。
「隆二……違うの、これは……」
言い訳をしようとしたが、言葉が出なかった。言い逃れなどできないことは自分でもわかっていた。涼介との関係を裏で続けていたことは、明白な裏切りだ。それが隆二に知られた今、すべてが終わった。
「お前、どうしてこんなことをしたんだ?」
隆二の声は静かだったが、その静けさが逆に恐ろしかった。怒鳴られるほうがまだましだった。彼の瞳には、深い怒りと失望、そして裏切られた悲しみが滲んでいた。
「……ごめんなさい……本当に……」
麻衣はただそれだけしか言えなかった。涼介との不倫を正当化できる理由など何もなかった。彼女はただ、自分の弱さに負け、寂しさを埋めるために罪を犯しただけだった。
隆二はしばらくの間、無言で麻衣を見つめていた。その視線に耐えられなくなった麻衣は、俯いて涙を流した。彼に何と言えば、許してもらえるのか、それさえもわからなかった。
「坊主にしろ。」
突然、隆二が冷たく言った。
「え……?」
麻衣は顔を上げた。隆二の表情は変わらなかった。彼の目は冷たく、感情を押し殺したままだった。
「坊主にしなければ、離婚だ。それが俺の条件だ。」
麻衣は自分の耳を疑った。隆二が何を言っているのか理解できなかった。髪を剃れ――それが彼の求める罰だというのか。
「どうして……?」
「お前の裏切りは、この髪と一緒に消えてしまえばいい。お前の髪を剃ることで、少しでも俺の屈辱が和らぐなら、それでいい。」
麻衣は震える手で自分の髪に触れた。長い黒髪は、かつて隆二が褒めてくれたものだった。だが、今やその髪は、彼にとって憎むべき裏切りの象徴となってしまったのだ。
第1章:髪を失うという罰
夜の静寂が、リビングの空気を重く沈めていた。麻衣は、ただソファに座っていた。足は冷たく、震えている。薄いカーディガンではこの冷え切った部屋の寒さを和らげることはできなかった。天井の電気は、いつもよりもどこか薄暗く感じられ、部屋全体が重苦しい雰囲気に包まれていた。
目の前に座る夫の隆二は、無表情のままじっと麻衣を見つめていた。彼の顔に感情はほとんど見えない。冷たく、抑えられた怒りがその瞳の奥に隠されているのが麻衣にはわかっていた。
「坊主にしろ。」
隆二の声が、静かに、そして容赦なく響いた。冷たく鋭いその一言は、まるで麻衣の胸に突き刺さるようだった。
「……え?」
麻衣は自分の耳を疑った。何かの冗談か、あるいは彼が感情の勢いで言っただけの言葉であることを願いたかった。しかし、隆二の表情は変わらなかった。そのまっすぐな目が、冗談でも感情の発露でもないことをはっきりと示していた。
「お前の髪を剃れ。それが俺の条件だ。そうしなければ、離婚だ。」
沈黙が重く部屋に降りた。麻衣は、隆二の顔をじっと見つめたが、彼の冷たい瞳は何も変わらず、彼女を見下ろしていた。
外からは時折、車の通り過ぎる音が聞こえてきた。夜遅いということもあり、その音は遠く、現実感のないものに感じられた。まるで麻衣の周りだけが異質な空間に切り取られているかのように、現実がどんどん遠のいていく。
「どうして……どうしてそんなことを……」
麻衣の声は震えていた。言葉がうまく出てこない。自分の罪はわかっていた。涼介との裏切りが隆二にどれほどの痛みを与えたのかも、今の彼の態度を見れば明らかだ。しかし、それが髪を剃るという罰に結びつくとは思ってもみなかった。
「お前があの男に触れたその瞬間から、お前の存在が俺にとって汚れたものになった。」
隆二の言葉は冷たく、鋭く、麻衣の胸に深く突き刺さった。彼の口から出た「汚れたもの」という表現が、麻衣を押しつぶすような感覚を与えた。涼介との関係は間違いだった。それは分かっている。だが、隆二が自分を「汚れたもの」と見なしている事実が、麻衣の心に重くのしかかった。
「坊主にしなければ、俺はお前を許すことはできない。お前の罪を、その髪と一緒に刈り取るしかないんだ。」
隆二は机の上に置かれたバリカンを手に取り、それを無言で麻衣の前に差し出した。麻衣は、その黒く光るバリカンを見つめ、しばらくの間、何も言えなかった。
これまでずっと大切にしてきた長い黒髪――その髪が、今や彼にとって憎しみの対象となっている。麻衣は無意識に自分の髪に触れた。手の中で滑らかにすべる髪の感触は、今までは彼に愛される象徴だった。だが、今はそれが憎悪の対象に変わってしまった。
「髪を剃るだけで……あなたは本当に許してくれるの?」
麻衣は小さな声で尋ねたが、隆二は答えなかった。ただ彼の目は、冷たく、そして静かに麻衣を見つめていた。その沈黙が何を意味するのかは、麻衣には分かっていた。髪を剃ることが、全てを解決するわけではない。それでも、彼が求める罰を受け入れるしかなかった。
麻衣は覚悟を決め、バリカンを手に取った。重く冷たい感触が、彼女の震える手の中で異様な存在感を持っていた。手が小刻みに震え、呼吸が浅くなっていくのが自分でも分かった。
「……分かったわ。」
そう言ったものの、麻衣の心は決して落ち着いていなかった。目の前にある運命に抗うことはできないと分かっていながらも、彼女はこれから自分が何を失うのか、その重みをまだ完全には理解できていなかった。
麻衣はリビングの中央にある鏡の前に座っていた。小さな手鏡に映る自分の顔を見つめながら、深く息を吸い込む。指先がかすかに震えているのが自分でもわかった。鏡の中の自分が、まるで他人のように感じられる。これから、自分の大切にしてきたものを、自らの手で切り落とさなければならない。
目の前に置かれたバリカンが、異様に大きく見える。冷たい金属の光沢が、これからの運命を無言で告げているかのようだった。背後に立つ夫の隆二が、無言で彼女の行動を見守っている。その無表情の顔には、もう愛情は微塵も感じられなかった。ただ、彼の中にある怒りと失望が、痛いほど彼女に伝わってくる。
「本当に、これで……許してもらえるの?」
麻衣は、隆二に問いかけるように小さくつぶやいた。だが、彼は何も言わず、ただ彼女を見つめているだけだった。隆二の沈黙が、さらに麻衣の心に重くのしかかる。彼が望むのは謝罪ではなく、彼女が屈辱を味わうその瞬間だったのかもしれない――そう思うと、麻衣の胸が締めつけられた。
「やらなければ、離婚だ。」
隆二の言葉は冷たく、彼の心の中にある怒りが今なお静かに燃えていることを感じさせた。麻衣は無言のままうなずき、手に取ったバリカンの重みを感じながら、ゆっくりとスイッチを入れた。
ブーン……
機械音が低く唸りを上げ、振動が彼女の手に伝わる。麻衣は目を閉じ、深呼吸をした。心臓が早鐘のように打ち続け、指先の震えは止まらなかった。
「どうして……こんなことに……」
声に出したところで、何も変わらない。今更後悔しても、すでにすべてが取り返しのつかないところまで来ている。涼介との関係が壊したものは、麻衣にとってあまりにも大きかった。それでも、少しでも隆二の怒りが和らぐなら――そう信じたくて、彼女はそのバリカンを自分の頭に当てた。
冷たい刃が頭皮に触れた瞬間、麻衣は思わず目を閉じた。恐怖と屈辱が押し寄せ、体が小さく震える。だが、もう引き返すことはできない。彼女はゆっくりと手を動かし、バリカンの刃が最初の一房を切り落としていく。
シャリ……シャリ……
軽い音とともに、彼女の黒髪が一房、無造作に床に落ちた。その瞬間、胸が締めつけられるような痛みが走った。麻衣の指先に伝わる感覚は、まるで自分自身の一部が切り離されていくようだった。
「これでいい……これでいいんだ……」
自分に言い聞かせるように、麻衣は再びバリカンを動かした。髪が次々と切り落とされ、長く艶やかな黒髪がどんどん床に散らばっていく。視界の端で、自分の髪がふわりと舞い落ちるのが見えた。その一房一房が、これまでの彼女の思い出や誇り、そして愛された自分を象徴しているように感じた。
サラサラ……
床に広がる髪の束が、まるで一枚の絵のように彼女を取り巻いていく。髪を失うたびに、自分が少しずつ「麻衣」ではなくなっていくような感覚があった。
鏡に映る自分の姿は、どんどん変わっていく。最初に切り落とされた部分が広がり、ついに前髪も失われた。額が露わになり、頭頂部の髪が剃られていくたびに、自分の顔がどんどん変わっていくのがわかる。今まで髪が隠していた部分が露出し、鏡に映る自分が誰なのか、一瞬わからなくなった。
「こんな私で……あなたは本当に満足するの?」
麻衣の目から涙がこぼれた。言葉が口をついて出たが、隆二は何も言わない。ただ彼女を見つめる冷たい視線だけが、彼女をその場に縛りつけていた。
再びバリカンを頭に当て、残りの髪をすべて剃り落とす。機械音が止まるたびに髪が落ち、麻衣の手はもう震えていなかった。ただ無心で、すべての髪を刈り終える瞬間を待っているかのように。
やがて、すべての髪が剃り落とされた。鏡に映る自分の姿は、まるで別人だった。坊主頭になった自分が、そこにいた。短い髪の感触が指先に残り、彼女はその異質な感覚にただ呆然とした。自分がこうなることを想像したことは一度もなかった――だが、今やそれが現実となっていた。
麻衣は鏡の前で、しばらく動けなかった。床には、かつて自分の誇りだった長い黒髪が散らばっている。それを見つめながら、彼女は唇を噛み締めた。涙が静かに頬を伝い、床に落ちる。これで、彼女はすべてを失ったのだ。
「……終わったわ……」
小さくつぶやくと、隆二がゆっくりと歩み寄ってきた。麻衣は顔を上げ、彼を見つめた。彼の目にはまだ冷たさが残っていたが、麻衣がすべての髪を剃ったことに対する満足感もどこかに感じられた。しかし、それでも彼の目には許しの色はなかった。
「これで、許してくれるの……?」
再び問いかける麻衣の声は、かすれていた。だが隆二は、彼女の問いには答えず、ただ「終わったな」とだけ言って部屋を出て行った。
麻衣はその背中を見送り、床に広がる自分の髪を見つめながら、涙を止めることができなかった。
第2章:結衣の犠牲
リビングに差し込む朝日が、冷たく感じられた。結衣はその光を見つめながら、自分の未来に何が起きるのかをぼんやりと考えていた。彼女の長い黒髪は、風になびくたびに絹のように滑らかに揺れる。それは、彼女にとって誇りであり、大切な存在だった。
「結衣、ちょっと来てくれるか。」
隆二の声が、リビングの奥から静かに響いた。その声には普段の父親らしい優しさはなかった。どこか冷たく、重苦しいものを含んでいるように感じられた。結衣は胸騒ぎを覚えながら、そっと立ち上がり、リビングへと向かった。
彼女がリビングに足を踏み入れると、目の前にいる母親の麻衣はうつむき、無言で座っていた。顔色は青白く、何かを言いたげだが、その声を発することができないように見えた。結衣はそんな母の姿を見て、さらに不安が募った。
「お父さん、どうしたの?」
結衣はおそるおそる父に尋ねた。彼女の心臓は早鐘のように鼓動し、全身が緊張で固まっていた。
「結衣、座れ。」
隆二は冷たく指示し、結衣は父の言葉に逆らうこともできず、無言で椅子に腰を下ろした。何が始まろうとしているのか、彼女はまだ理解できていなかったが、部屋に漂う重苦しい空気がただならぬことを予感させていた。
「お前の母さんが、俺を裏切った。」
隆二が告げたその言葉に、結衣は凍りついた。裏切った? 母が? 結衣は信じられない思いで母親の方を見つめた。麻衣は目を伏せ、何も言わず、ただ小さく震えていた。
「どういうこと……?」
結衣は小さな声でつぶやいた。まだ状況が飲み込めない。隆二は続けた。
「お前の母さんは、別の男と関係を持った。その結果として、俺たちの家族は壊れかけている。」
結衣の頭の中が真っ白になった。母が他の男と……? 信じたくなかった。しかし、母親の様子からして、それが事実であることは明白だった。心の中で何かが崩れていく感覚に、結衣は震えを覚えた。大切にしていた家族の絆が、今まさに目の前で崩壊しようとしている。
「だから、母さんは罰を受けた。お前も、だ。」
「えっ……?」
結衣は隆二の言葉に耳を疑った。自分も? 何も悪いことをしていないのに? 彼女は立ち上がり、動揺しながら父を見つめた。
「なんで……私が?」
隆二は冷たい目で結衣を見据えた。その視線は決して逃れることのできないものだった。
「お前も家族の一員だ。母親の罪は、家族全員で償う。お前の髪も剃れ。それが条件だ。」
「……どういうこと?私、何も悪いことなんてしてないじゃない!なんで、私がこんなことを……」
結衣の声は震え、絶望的な叫びへと変わっていった。自分は何も悪くない。母親が犯した罪のために、自分まで罰を受ける理由がわからない。髪を剃るという行為の意味すら理解できなかった。それでも、父の命令は重く、無情だった。
「結衣、これはお前のためでもある。俺が決めたことに従え。」
父の冷たい言葉に、結衣は怒りと恐怖が混じった感情に包まれた。自分が大切にしてきたものを奪われる。それは、何も関係のない自分が母の罪を償うために、屈辱的な罰を受けるということだった。
「そんなのおかしい!お母さんが悪いのに、どうして私が……!」
結衣は叫びながら立ち上がろうとしたが、麻衣が涙を浮かべながら手を伸ばし、彼女の腕をつかんだ。母親の手のひらは震え、冷たかった。
「ごめんね、結衣……本当にごめんね……」
麻衣の声は嗚咽に詰まっていた。結衣はその母親の言葉に、胸が締め付けられるような痛みを感じた。母親の泣き顔を見て、彼女は言葉を失った。自分の怒りや不満をぶつけたい気持ちはあったが、母の涙を前にして、それができなかった。
「お母さん……」
「結衣、お願い……座って。どうしてもやらなきゃいけないの……」
麻衣の声は震えていたが、切迫感が漂っていた。結衣は座る気配もなく、リビングの中央で立ち尽くしていた。彼女の長い黒髪が、今にもその場から逃げ出そうとする彼女の動きに合わせて、背中で揺れていた。
「いやだ!絶対に嫌!なんで私が坊主にされなきゃいけないの!お母さんが悪いんでしょ!」
結衣は叫び、母親を睨みつけた。恐怖と屈辱で心臓が爆発しそうだった。彼女は自分の頭に手をやり、髪を強く掴んだ。まるでその長い髪を守ろうとしているかのように。これまで何年もかけて伸ばし、大事にしてきたその髪は、彼女にとって誇りであり、自己表現そのものだった。
「結衣、やめなさい!」
隆二が怒りのこもった声で制した。冷たい怒声が、部屋の空気をさらに重くさせた。結衣はびくっと体を震わせたが、立ち止まる気配はなかった。恐怖が彼女を突き動かし、理性を超えた感情が爆発しようとしていた。
「私、やりたくない!お母さんが悪いんだから、お母さんだけ坊主になればいい!なんで私が……!」
言葉を詰まらせながらも、結衣は必死に叫んだ。もうこれ以上、家族に従うつもりはない――そう決意したかのように。だが、その瞬間、隆二が一歩前に出て、結衣の腕を無造作に掴んだ。
「やめろ、結衣。いい加減にしろ!」
力強い手が結衣の腕を締め付けた。彼女は思わず悲鳴を上げ、父親の手を振り払おうと必死に抵抗したが、隆二の力には勝てなかった。彼は無言のまま結衣を椅子に押し込むように座らせた。結衣は身体を激しく動かし、椅子から立ち上がろうと足を突っ張らせた。
「やめて!お願い、やめて……!」
結衣は叫び声を上げ、涙があふれ出た。自分を押さえつけられ、強制的に坊主にされるという現実が、絶望となって彼女を襲った。腕を引き寄せられ、身体を無理やり固定される感覚が、さらなる恐怖を生んだ。
「お前の母親の罪を、家族全員で償うんだ。お前も例外じゃない。」
隆二は冷たく言い放った。彼の声には感情が欠けており、そこにはかつての優しい父親の姿はもう見当たらなかった。彼はただ、麻衣の裏切りに対する罰を家族全体に課すことだけを考えているようだった。
麻衣は泣きながらバリカンを手に取り、結衣の背後に立った。彼女の手は震え、頭を下げている娘の姿に目をやった。結衣が必死に抵抗しようとしているのを感じながらも、止めるわけにはいかなかった。隆二の厳しい目が、自分を突き動かしていた。
「ごめんね……結衣、お願い……大人しくして……」
麻衣の声は涙に詰まっていた。だが、結衣は叫び続けた。
「やめて!お願い、やめて!」
結衣は体を激しくよじり、椅子から逃げ出そうと足を蹴り上げた。だが、隆二が彼女の肩を強く押さえつけたことで、結衣の体は再び椅子に固定された。
「結衣、じっとしていろ!」
隆二の言葉が無情に響き渡る。結衣はもう、逃げられないことを悟り、体全体が小さく震えた。
麻衣は震える手でバリカンを持ち、スイッチを入れた。ブーン…… 低く唸るバリカンの音が、リビングの静寂を引き裂くように響いた。結衣の耳元でその音が鳴り響くと、心臓が早鐘のように鳴り、恐怖が全身を覆った。
「お願い、やめて……やめてよ……」
結衣は涙を流しながら、最後の懇願をした。だが、麻衣の手は止まらなかった。彼女は娘の頭にそっとバリカンを当てた。最初に刃が髪に触れる瞬間、結衣はびくっと体を震わせた。
シャリ……シャリ……
乾いた音とともに、長い黒髪がバリカンの刃に刈り取られ、音もなく床に落ちた。一房一房が切り落とされるたびに、結衣は自分の体が崩れていくかのような感覚を覚えた。髪が背中を滑り落ち、床にふわりと舞い降りる。その音すら、屈辱の重さとなって彼女を圧迫した。
「……いや……こんなの、嫌……」
結衣は涙を流し続け、体を小さく震わせながらつぶやいた。彼女の黒髪が次々と刈り取られ、床に広がっていく。バリカンが頭を動くたびに、彼女の誇りであった髪が切り落とされ、無残に散っていくのが見えた。
麻衣は涙を流しながら、無心でバリカンを動かしていた。娘をこれ以上傷つけたくないと願いながらも、手を止めることはできなかった。彼女は娘に屈辱を与え、自らも苦しむことを選ばざるを得なかった。
「これで……終わり……」
結衣は虚ろな声でつぶやき、目を閉じた。彼女の髪はすべて剃り落とされ、坊主頭になった自分が鏡に映っていた。そこには、かつての結衣ではない別人がいた。涙が頬を伝い、冷たい頭皮に触れるたびに、彼女は失ったものの大きさを痛感していた。
「……私……もう、元に戻れない……」
結衣は床に広がる自分の髪を見つめ、絶望の涙を止めることができなかった。
第3章:絵美の覚悟
夜の雨が窓を叩いていた。篠田絵美は、暗いリビングで一人座り、テーブルの上に置かれたバリカンを見つめていた。雨の音が、どこか遠くで鳴り響き、冷たい湿気が家の中にまで染み込んでくるようだった。
照明の薄い光が、部屋を不気味に照らし出している。普段なら心地よく感じる家の中が、今は異様に息苦しい。絵美はテーブルの角に肘をつき、目の前にある冷たい金属のバリカンから視線を離すことができなかった。それは彼女の運命を象徴するかのように、無機質で残酷な存在だった。
夫である篠田涼介は、目の前で無言のまま立っている。彼の目にはかつての優しさはなく、怒りともつかない無感情が浮かんでいた。その視線に、絵美は気圧されているのを感じた。涼介がこんな風になるなんて、数ヶ月前までは思いもしなかった。
「お前も、麻衣と同じように坊主にしろ。」
涼介が告げたその言葉が、絵美の頭の中で何度もリフレインする。「坊主にしろ」。その命令が、彼女の心を突き刺し続けていた。
絵美は、静かに夫を見上げた。
「本当に、それでいいの?」
彼女の声は、震えていた。涼介の目は彼女を見据えたまま、無言でうなずいた。その冷たさに、絵美は改めて心が締めつけられるのを感じた。かつては互いに愛し合い、支え合ったはずの夫。その彼が、今は自分をこうして突き放している。絵美は、その事実を認めるしかなかった。
全てが崩れ始めたのは、涼介の浮気が発覚した日からだった。絵美はその時のことを、今でもはっきりと覚えている。ある夜、涼介のスマートフォンに届いたメッセージを偶然目にしてしまった。送信者は「麻衣」という名前。涼介が職場で世話をしていた後輩だと知っていたが、そこに書かれていた親密な言葉の数々が、すぐにただならぬ関係を示していた。
「麻衣……」
その名前が頭にこびりついて離れなかった。絵美は信じられない思いで、メッセージを読み返した。涼介が自分を裏切っていたという事実に、心臓が押しつぶされるような感覚を覚えた。怒りと悲しみが胸に渦巻き、彼女の世界がその瞬間から壊れ始めた。
そして、今目の前にいる涼介は、以前の彼とはまるで別人だった。麻衣との関係が露呈して以来、彼は絵美に対して冷たくなり、家庭は静かに崩壊していった。彼の態度は、あたかも絵美に対する罰を求めているかのようだった。
「絵美、お前のせいだ。」
涼介はつぶやくように言った。その言葉が、絵美の心に鋭く突き刺さった。
「お前が、俺に何も与えてくれなかったから、麻衣に走ったんだ。だから、お前も責任を取れ。」
その言葉は、絵美を打ちのめした。自分が悪いのだと、涼介は言っている。彼女が夫を支えきれなかったせいで、彼は他の女性に心を奪われたというのだ。
「でも、私は……」
絵美は必死に何かを言おうとしたが、言葉が詰まった。何も言えない。自分の無力さが、ここまでの結果を招いたのかもしれないという思いが、彼女の胸を締め付けた。
涼介は冷たく続けた。
「坊主にすれば、俺たちはまたやり直せる。お前がそれを証明しろ。」
その言葉はあまりにも残酷だったが、絵美はどうすることもできなかった。やり直すために、彼女は何でもしなければならない――そう思い込んでいた。自分がここで反抗すれば、涼介はもう二度と自分を愛してくれないだろう。それが恐ろしくて仕方がなかった。
絵美は無言でバリカンを手に取った。冷たい金属の感触が彼女の指先に伝わり、その重さが彼女の心をさらに沈めた。雨はまだ止まない。窓の外では、どしゃ降りの雨音が絶え間なく続いていた。
「私が坊主になれば、本当に……また、元に戻れるの?」
絵美は小さな声で、最後の希望を込めて尋ねた。涼介の表情は変わらなかった。
リビングの照明が、絵美の頭上に淡く光を落としていた。暖かい光のはずなのに、その場にあるのは冷え切った空気だった。絵美は椅子に座り、視線を膝の上に落としたまま、じっとしていた。手は無意識に、膝の上で自分のワンピースの裾をつかんでいる。手のひらには汗が滲んでいて、緊張が全身を包み込んでいるのがわかった。
目の前には夫、涼介が立っている。彼の手にはバリカンが握られており、その冷たい金属の光沢が絵美に突き刺さるように感じられた。かつては夫に対して感じていた愛情や信頼は、今や薄れ、代わりに屈辱と恐怖が渦巻いていた。
「本当に……こうするしかないの?」
絵美の声は、かすれていた。彼女の問いかけは、すでに答えがわかっているにもかかわらず、わずかな希望を捨てきれずに口にした言葉だった。涼介が何か優しい言葉をかけてくれるのではないか――そんな期待がどこかにあったのかもしれない。
だが、涼介の表情は冷たく、感情のない瞳が彼女を見つめていた。
「これしかないんだ。お前も、坊主にして償え。」
その言葉が、絵美の心に鋭く突き刺さった。「償え」――彼がそう言うたびに、自分が何かを犯したかのように感じさせられる。彼女が何を償わなければならないのか、まだ心の中で整理できていない。だが、夫の心が自分に戻るためには、これを受け入れるしかないのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
「……わかったわ。」
絵美は小さくうなずき、目を閉じた。彼女の体は微かに震えていたが、それを悟られないように必死に平静を装っていた。だが、内心は恐怖でいっぱいだった。坊主にされるということは、ただ髪を失うだけではない。自分の尊厳や誇り、女性としての自信――それらすべてを剥ぎ取られる行為だった。
涼介がスイッチを入れると、バリカンの低い唸りが部屋中に響き渡った。ブーン…… その音が、絵美の胸を締めつけ、心臓が早鐘のように打ち始めた。彼女はギュッと目を閉じ、これから訪れる瞬間に耐えようと、無意識に歯を食いしばった。
「大人しくしていろ。すぐに終わる。」
涼介の冷たい言葉が、彼女をさらに深い絶望へと追いやる。彼の手が、絵美の頭に近づくのを感じた。その瞬間、絵美の体は反射的にこわばり、逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、もう逃げ場はなかった。自分が選んだ道――そう言い聞かせることで、彼女はようやくその場に留まった。
最初にバリカンが頭に当たった瞬間、絵美の体がびくっと震えた。冷たい刃が頭皮に触れる感覚が、彼女に強烈な恐怖を与えた。次の瞬間、バリカンが彼女の長い髪を無情に切り落としていく。
シャリ……シャリ……
乾いた音とともに、彼女の髪が一房、一房と刈り取られていく。そのたびに、ふわりと黒髪が床に舞い落ちた。絵美は目を閉じたまま、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。落ちていく髪の感覚が、自分の誇りや女性らしさが削られていくようで、心が締めつけられる。
「……こんなこと、しなくても……」
彼女は小さな声でつぶやいたが、涼介はその言葉を無視したかのように、バリカンを動かし続けた。彼の手は迷いなく、次々と髪を刈り取っていく。絵美の黒髪が、次第に床に広がり、その美しい束が無残に散らばっていく。
「……どうして……私が……」
絵美は涙を流しながら、自分に問いかけるしかなかった。涼介の不倫が明らかになり、彼を失いたくない一心で自分を押し殺し続けた。その結果がこれだ――自分が坊主にされるという屈辱を受け入れなければならない現実。それは、彼を取り戻すための唯一の手段だと信じていたが、心の奥ではその結果に対する恐怖が渦巻いていた。
髪が次々に剃られていく中、絵美は自分の頭皮に触れる冷たい空気を感じ始めた。これまで長い髪が覆っていたその部分が、次々に露わになっていく感覚が恐ろしく、彼女は両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「……涼介……」
絵美は涙混じりに夫の名前を呼んだ。だが、涼介は無言でバリカンを動かし続け、やがて最後の髪の束を剃り落とした。
すべてが終わったとき、涼介はバリカンのスイッチを切り、無言で立ち上がった。絵美はゆっくりと目を開け、鏡に映る自分の姿を見つめた。そこに映っていたのは、もう自分ではないように感じた。坊主頭になった自分――それはまるで別の存在のようだった。
髪を失ったこと以上に、鏡に映る自分の目には、深い虚無感と絶望が宿っていた。手で頭を触ると、ざらついた感触が指先に伝わり、それが自分の現実であることを改めて思い知らされた。
「……これで、許されるの……?」
絵美は虚ろな声でつぶやいたが、涼介は何も答えず、ただ彼女を見下ろしていた。彼の目には、まだ何かが足りないような、冷たい視線が残っていた。
絵美は自分の髪が床に広がっているのを見つめ、唇をかみしめた。すべてを失った――それが、彼女の中に残った唯一の現実だった。髪を失っても、心の傷は消えない。それどころか、さらに深い傷が刻まれたように感じられた。
「……もう、戻れない……」
絵美は鏡を見つめ、涙をこぼした。
第4章:三人の対面
午後の日差しが薄くカーテン越しに部屋を照らしていた。暖かな光がリビングに差し込むにもかかわらず、空気は重苦しく、張り詰めていた。麻衣はそのリビングの一角で、落ち着かない様子で座っていた。視線は自分の手元に落ち、震える手を自分で握りしめることで、その震えを止めようとしていた。
この日は、麻衣にとって最も恐れていた日だった。不倫相手の妻である絵美と直接会うことになったのだ。すべてが明るみに出てから、何度も彼女と対面することを想像したが、その度に心臓が苦しくなるのを感じていた。どんな言葉をかけられるのだろうか? 絵美の怒りや悲しみの前で、麻衣は自分が何を言えるのか分からなかった。
そして、もう一つの心配が胸を締めつけた。それは、娘の結衣がこの場にいるという事実だった。結衣は無言のまま隣に座り、視線を床に落としていた。彼女の顔には疲れが滲んでいた。坊主頭になった自分の姿に慣れることができず、鏡を見るたびにため息をついている結衣は、心の底から屈辱と怒りを感じていた。
「お母さん、どうして……どうして私までこんなことに……」
何度も結衣に問い詰められたが、麻衣はただ「ごめんね」と謝ることしかできなかった。その言葉がいかに無力で、娘の心に何の慰めももたらさないことは、痛いほど分かっていた。それでも、麻衣にはそれ以上のことができなかった。
やがて、玄関のドアが静かに開き、絵美が現れた。彼女の姿が見えた瞬間、麻衣の心臓は跳ね上がり、呼吸が一瞬止まった。絵美の顔は硬く、その目には感情が押し殺されているように見えた。だが、彼女の坊主頭が光に反射しているのを見たとき、麻衣は深い悲しみと罪悪感に押し潰されそうになった。
絵美の美しい黒髪は、もうどこにもなかった。自分と同じように彼女も髪を失ったのだ。その事実が麻衣の心を刺し、痛みとなって広がった。
「こんにちは……」
麻衣は絞り出すように声をかけたが、絵美は何も返さず、ただ無言で部屋の中央に立った。沈黙が重く部屋を包み込み、誰も口を開くことができなかった。その沈黙は、互いに何を言えばいいのか分からない不安と怒りの混じった空気が漂っていたからだ。
絵美がゆっくりと椅子に座ると、彼女は麻衣を見据え、深い呼吸を一つついた。その一瞬の間に、麻衣は自分がどれほどの罪を犯してしまったのかを痛感した。彼女の視線に晒されるたび、麻衣は逃げ出したい気持ちに駆られたが、足は動かず、その場に釘付けにされていた。
「麻衣さん……あなたに何を言っていいのか分からないわ。」
絵美の声は静かで冷静だったが、その背後には抑えきれない感情が流れているのを麻衣は感じた。彼女が怒りや憎しみを押し殺して話していることは明白だった。麻衣は視線を絵美の顔に向けることができず、ただうつむいた。
「本当に……ごめんなさい……」
それが唯一、麻衣が言えることだった。だが、その謝罪の言葉は、絵美にとって何の意味も持たないことはわかっていた。どれほど謝っても、髪を失った絵美の心の傷を癒すことはできない。
「ごめんなさい、で済む話じゃないのは分かっているでしょう?」
絵美の声が冷たく響き渡る。彼女は目を細め、麻衣を鋭く見据えていた。何年も寄り添ってきた夫を奪われたという事実、それがどれほど深い傷を絵美に与えているのか、麻衣はその視線から感じ取っていた。
「涼介は……私のことを見なくなった。あなたに心を奪われて、私の存在が薄れていくのを、毎日感じていた。髪を剃ったからって、何も変わらないわ。でも、これがあの人の求める形なら、私も受け入れるしかないの。」
絵美の言葉に麻衣は痛みを感じた。髪を剃られたという屈辱を共有しているはずなのに、それが何も解決しないという現実を突きつけられていたのだ。
そのとき、結衣が絞り出すように声をあげた。
「私も……髪を剃られた……何も悪くないのに……」
結衣の声は震えていた。彼女の瞳には涙が浮かび、必死にそれを抑えようとしているのが見て取れた。絵美は一瞬驚いたように結衣を見つめたが、すぐにその視線は憐れみの色を帯びた。
「あなたも……?」
結衣はうなずき、言葉を続けた。
「お父さんが……お母さんが悪いんだから、私も坊主にしろって……でも、私は何も悪くないのに……」
結衣の言葉は次第に力を失い、彼女は俯いて涙をこぼした。自分が受けた屈辱と理不尽さに、彼女の心は押しつぶされそうになっていた。絵美はそれを聞きながら、しばらく黙っていたが、やがて静かにため息をついた。
「私たちは……女性として、母親として、妻として……多くのものを守ろうとしてきた。それなのに、すべてを失った。」
絵美の言葉は、結衣と麻衣の心に深く響いた。彼女たちはそれぞれの立場で何かを失い、そして苦しんでいた。
「でも、私たちが髪を剃ったところで、何も変わらない。私が坊主になっても、涼介は戻ってこない。あなたが坊主になっても、結衣ちゃん、あなたの屈辱は消えない。」
絵美の言葉に麻衣はただ泣き崩れた。自分の過ちが、どれほど多くの人を傷つけ、どれほど深い悲しみを生んだのか、その現実に向き合うことが辛すぎた。髪を失うという罰が、彼女にとってどれほどの意味を持つのか――それがこれからどう影響するのかさえ、まだ理解できていないのかもしれない。
時間が過ぎていく中、絵美はゆっくりと立ち上がった。
「今日のことは……これで終わりにしましょう。でも、私はあなたを許すつもりはない。それは、私の髪と一緒に消え去ることはないから。」
その言葉は冷たく響いたが、同時に重く、現実的だった。絵美はもう麻衣を責めることはしない。だが、許しも求めない。それが彼女の選んだ道だった。
絵美が玄関に向かう足音が静かに響き、ドアが閉まると、麻衣はその場に崩れ落ちた。結衣はそっと母親に寄り添い、無言のまま手を握った。
第5章:再生の兆し
雨が降りしきる朝、麻衣はキッチンの窓からぼんやりと外を眺めていた。ガラスに打ちつける雨粒が次々に流れ落ち、まるで彼女の心の中を映し出しているかのようだった。すべてが崩壊したあの日から、数週間が経っていたが、時間の流れはまるで止まってしまったかのように感じていた。
麻衣は一度深く息を吸い込み、立ち上がり、キッチンのシンクに置かれた朝食の皿を片付け始めた。手は動いているが、心はどこか遠くにあった。いつもならこの家事が、日常の一部として自分を落ち着かせてくれるはずだった。だが今は、その行動がただの作業に過ぎないものになっていた。心の中にはまだ、取り返しのつかない罪の意識が重くのしかかっている。
「これから、どうやって生きていけばいいんだろう……」
麻衣は自分に問いかけながら、そっと手を止めた。鏡を見れば、まだ短い髪の自分が映る。坊主頭から少しだけ伸びた髪が、鏡の中で無造作に立っていた。触れるとチクチクとした感触が指に伝わり、ふと、自分の髪が長かった頃を思い出す。あの頃は、髪を切ることがこんなにも重い意味を持つとは思わなかった。
「お母さん……」
背後から小さな声が聞こえた。振り返ると、そこには娘の結衣が立っていた。結衣もまた、短い髪がわずかに伸びてきていたが、かつての長くて美しい髪はもう見る影もなかった。結衣の坊主姿を目にするたび、麻衣の心は締めつけられるようだった。自分の過ちが、愛する娘にまで及んだこと――その事実を、麻衣は日々噛み締めていた。
結衣は、静かに麻衣の隣に座り、少しぼんやりとした表情で窓の外を見ていた。彼女の瞳には、未だ消えない屈辱と悲しみが宿っている。
「学校では……どう?」
麻衣はおそるおそる尋ねた。結衣の心の中にある傷がまだ癒えていないことは知っていたが、何か声をかけたかった。しかし、結衣は無言のまましばらく窓の外を見続けた後、小さな声で答えた。
「……ううん。みんな何も言わないけど、見てるのがわかる。坊主頭で学校に通う女の子なんて、私くらいだから……みんなの視線が痛いの。」
結衣は目を伏せ、肩を落とした。自分が母親の過ちによって理不尽な罰を受けたこと、そしてその事実が学校生活にも影響を及ぼしていることは、彼女にとって耐え難いものだった。
「ごめんね……本当に……」
麻衣はまた謝罪の言葉を口にした。もう何度も、何度も繰り返した言葉だ。しかし、結衣に対しても、夫に対しても、それ以外の言葉を見つけることができなかった。
結衣はその言葉を聞きながら、微かにうなずいた。しかし、母親に対してもう怒りをぶつけることはなかった。怒りは確かにまだ心の奥にくすぶっているが、それよりも今、彼女を支配しているのはただ虚しさだった。
「ねえ、お母さん……」
結衣がふいに口を開いた。彼女は少しうつむき加減で、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「これからどうするの……? 私たち、これからどうやって生きていけばいいの?」
その問いかけは、麻衣の心に深く突き刺さった。結衣の言葉には、絶望と不安、そして未来に対する不確実さが滲んでいた。麻衣自身もその答えを見つけられないままだった。
「どうしようね……本当に、どうしたらいいんだろう……」
麻衣は正直に答えた。自分でも先が見えない。夫の隆二とは、最低限の会話しかしていない。髪を剃ったことで、彼が少しでも怒りを鎮めてくれるかと思っていたが、それはただの幻想だった。隆二は依然として冷たく、麻衣に対する怒りと失望は消えていなかった。
「でも……私たち、きっと前に進むしかないのよね。」
麻衣はそうつぶやきながら、結衣の手をそっと握った。娘に対して、何か前向きな言葉をかけたかった。二人でこの状況をどうにか乗り越えなければならない。その思いだけが、今の麻衣を支えていた。
「そうだね……」
結衣もまた、母親の手を強く握り返した。彼女も同じ気持ちだった。髪を失い、学校での生活も以前のようにはいかない。それでも、自分の人生をこのままで終わらせることはできないという決意が、少しずつ結衣の中に芽生えていた。
その夜、麻衣はベッドに横たわりながら、静かに天井を見つめていた。外では雨がやんでおり、窓からは夜風がそよそよと入ってきていた。肌寒い風が心地よく、少しだけ心が軽くなったように感じられた。
目を閉じると、ふとあの日のことが頭をよぎった。涼介との一瞬の過ち。その瞬間にすべてを失うことになるなんて、当時の麻衣には想像もできなかった。髪を剃ることで、何かが元に戻るとどこかで信じていた自分が浅はかだったと、今は分かる。
だが、もう後悔しても仕方がない。麻衣は自分の罪を背負いながら、それでも前を向いて歩いていかなければならないことを理解していた。彼女は髪を剃り、屈辱を味わい、家族の絆は壊れかけている。それでも、生きていかなければならない。
翌朝、麻衣は少し早く目を覚ました。窓の外にはまだ薄暗さが残っているが、どこかすっきりとした気持ちだった。少しずつだが、髪は伸び始めている。それが、再生の象徴であるかのように感じられた。人生もまた、時間とともに少しずつ癒えていくのかもしれない――そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
キッチンに立ち、朝食の準備をしていると、結衣が眠そうな目でやってきた。彼女もまた、少しずつ日常を取り戻そうとしているように見える。坊主頭の彼女に笑顔はまだなかったが、その目には以前よりも力強さが感じられた。
「おはよう、お母さん。」
結衣が静かに挨拶をすると、麻衣は微笑んで返事をした。二人はまだ不安定な中にいたが、共に歩んでいこうという小さな希望が心の中に灯っていた。
「今日も、頑張ろうね。」
麻衣はそう言いながら、結衣の頭を優しく撫でた。
後日談:屈辱の連鎖
涼介が坊主にされた絵美を見下ろし、冷ややかに笑ったのは、それから数週間が経った頃だった。絵美の坊主頭からは、わずかに髪が伸び始めていた。触れると短い髪がざらざらとした感触を持って指に伝わり、彼女は鏡を見るたびに自分が失ったものを思い知らされていた。
絵美は家事を続けながら、いつもと変わらない日常を演じていた。だが、心の中では崩れ落ちる自分を感じていた。坊主にされたことで、涼介との関係が改善されるはずだと期待していた。しかし、彼の態度はさらに冷たくなり、毎日のように彼女を罵る言葉が飛び交うようになった。
「まだそんなに伸びたのか。」
ある夜、涼介は無造作に絵美の頭を撫でた。短くなった髪が彼の手に触れると、その表情に嘲笑が浮かんだ。絵美はその手を避けることもできず、ただじっと立ち尽くした。
「お前のせいで、俺はあの女に走ったんだよ。」
涼介は突然、冷たい声で言った。その声には憎しみが含まれていて、まるで絵美自身が罪を犯したかのように責め立てる。絵美はその言葉に胸が締めつけられるような痛みを感じ、言葉を失った。
「俺が不倫をしたのは、全部お前のせいだ。」
涼介は続けた。その言葉は、彼の罪悪感を消し去るための言い訳であることは明らかだった。それでも、絵美は反論することができなかった。彼女はすでに自分の中で、彼を失わないためにすべてを受け入れるしかないという思いに縛られていた。
「お前が女らしさを失ったせいで、俺は他の女を求めたんだ。わかってるか?」
涼介は絵美の頭を乱暴に撫でながら、嘲笑を浮かべていた。彼の言葉は容赦なく、絵美を深く傷つけた。髪を失っても、絵美はまだ彼に対して何かできると思っていた。だが、その期待は完全に打ち砕かれた。
「そんな中途半端な髪、見てるとムカつくんだよ。」
涼介は手に持っていたバリカンを無言で絵美の前に差し出した。
「また坊主に戻してやる。いや、今度はもっとスッキリさせてやるよ。スキンヘッドだ。」
その言葉に、絵美は心の奥から恐怖が込み上げてきた。前回の坊主にされた時の屈辱がまだ癒えていないのに、今度はそれ以上のことを――彼女は涼介の命令に従わなければならないという事実に、全身が震えた。
「……もう、やめて……」
絵美は小さな声で懇願した。だが、涼介はその言葉を聞くと、嘲笑を浮かべたまま彼女を無視した。バリカンのスイッチが入る音が、静かなリビングに響き渡る。ブーン…… その音が、彼女の心臓を貫くように響いた。
「立てよ。そこに座れ。」
涼介の命令に、絵美は力なく従った。彼女の体は、自分の意志ではないように動いていた。椅子に座ると、涼介がバリカンを持って、再び彼女の頭に手を伸ばした。
「こんな髪、俺の前に見せるな。」
涼介は冷たく言い放ち、バリカンを絵美の頭皮に押し当てた。
シャリ……シャリ……
前回のように、一房一房がまたも無慈悲に刈り取られていく。短く伸び始めた髪が、再び切り落とされ、床に舞い落ちた。絵美は目を閉じ、心の中で何度も自分に言い聞かせた――これも罰だ、仕方がないのだ、と。
だが、涼介は止まらなかった。彼は今度、絵美の髪を坊主にするだけでなく、スキンヘッドにするために剃刀を手に取った。
「全部、ツルツルにしてやるよ。お前にはそのほうが似合ってる。」
絵美の頭に剃刀が当てられるたびに、恐怖と屈辱が彼女を襲った。髪の感触はもうなく、冷たい刃が頭皮を滑る感覚が直接伝わってきた。そのたびに、彼女は自分がさらに深い地獄に堕ちていくような感覚を覚えた。
「スキンヘッドでいることがお前の罰だ。反省してろ。」
涼介はそう言い放ち、剃刀で最後の仕上げを終えた。鏡に映る自分の姿を見て、絵美はもう、何も言えなかった。完全に髪を失った自分の頭――そこには、かつての自分の面影はもうなかった。
翌日、涼介はさらに屈辱を与えるために、新たな命令を出した。
「そのスキンヘッドで外に出ろ。スーパーに行って、買い物をしてこい。誰に見られても、知らん顔して堂々としてこいよ。お前の罪を、世間に見せつけるんだ。」
絵美は、もはや抵抗する気力すらなかった。彼女は無言でうなずき、言われた通りにスキンヘッドのまま外出の準備をした。帽子をかぶりたかったが、涼介に「帽子をかぶるな。全部さらけ出せ」と命じられたため、その願いも叶わなかった。
絵美がスーパーに入った瞬間、人々の視線が一斉に彼女に向けられた。見知らぬ人々の目が、頭の先からつま先まで彼女を舐め回すように見つめているのを感じた。絵美はその視線に耐えながら、冷や汗をかき、足早に買い物を済ませようとした。
「これが……私の罰なのね……」
絵美は自分に言い聞かせながら、カゴに品物を入れていった。だが、スキンヘッドの彼女に向けられる好奇の視線が、彼女をさらに深く傷つけていく。すれ違う人々のひそひそ話が聞こえてくるたびに、胸が締めつけられる。
「これから、ずっとこのままなのかな……」
彼女はそんな考えを振り払おうとしたが、心の中ではすでにそれが現実となっていた。
麻衣は、夜のホテルの一室で不倫相手の篠田涼介の腕の中にいた。薄暗い部屋の中、涼介は彼女の手を握り、優しく指を絡ませてくる。その手の温もりが、彼女の心の隙間を一瞬だけ埋めてくれるような気がした。
「麻衣、ここにいる間だけは、何も考えなくていいんだよ」
そう囁く涼介の言葉に、麻衣は何も言えずにいた。罪悪感は確かにあった。だが、彼との関係に足を踏み入れた時から、その感情を封じ込めていた。家庭の中で感じる孤独と夫への不満が、いつの間にかこの関係を「必要悪」として受け入れさせていた。
夫の隆二とは、結婚して6年になる。最初の数年は幸せだった。しかし、次第に彼は仕事に追われ、帰りが遅くなり、会話も減っていった。麻衣が求める温かさや寄り添いは、いつしか彼の仕事と疲労に取って代わられていた。帰宅しても隆二はすぐに寝室へ行き、食事もそこそこに、麻衣との接触を避けるようになった。
「仕方ない」と自分に言い聞かせる日々が続いた。しかし、心の隙間は次第に大きくなり、涼介との出会いでそれが埋められるかのように感じた。彼もまた、家庭に疲れ果てていた。二人はお互いに寄り添い、慰め合うようにして逢瀬を重ねるようになった。
涼介との関係が始まったのは、ほんの一瞬の迷いからだった。 一度だけ。そう決めていたが、彼の優しさに救われるたび、心は徐々に彼に引き寄せられていった。ホテルの部屋で、彼の腕の中で眠る瞬間だけが、麻衣にとって現実から逃れられる時間だった。
その夜も、涼介は彼女に優しいキスをしながら、静かに言葉を交わしていた。
「家ではどうなんだ?まだ、冷たいのか?」
麻衣はため息をつきながら答えた。
「うん、帰ってきても何も話さないの。まるで私は家にいないみたい……」
涼介は眉をひそめ、彼女の肩を軽く抱いた。
「俺なら、君をそんな風には扱わないのに……」
その言葉に、麻衣は一瞬心が揺れたが、どこかでこれは間違っているという自覚もあった。だが、その後悔の感情も、次の瞬間には彼との肌の触れ合いの中で霧散していく。今だけは、この瞬間だけは、何も考えたくない――そう思いながら、麻衣は再び涼介に身を委ねた。
翌日、麻衣は自宅に帰ると、何事もなかったかのように過ごそうとした。リビングにはいつものように静寂が広がり、夫の隆二も仕事から戻ってきていた。だが、どこか様子がおかしかった。彼はいつもよりも無口で、無表情だった。
「ただ疲れているのかもしれない」――麻衣はそう自分に言い聞かせ、夕食の準備を始めた。
しかし、夕食後、事件は突然訪れた。
「麻衣、話がある。」
隆二の声が静かに、だがどこか冷たく響いた。彼はリビングのソファに腰を下ろし、麻衣を見つめていた。麻衣は何か嫌な予感がしたが、その理由が何であるかはまだ気づいていなかった。
「何?どうしたの?」麻衣が聞くと、隆二はゆっくりとスマートフォンを取り出し、無言で画面を麻衣の前に差し出した。
画面に映し出されていたのは、麻衣と涼介のLINEのメッセージ履歴だった。二人が密かにやり取りしていた甘い言葉の数々――それがすべてそこにあった。
「これ、何だ?」
隆二の声は冷静だったが、感情を押し殺しているのがはっきりとわかった。麻衣はその場で凍りついた。どうしてこれを隆二が知っているのか。昨日までの自分の行動が、一瞬にしてすべて無意味に感じられた。
「隆二……違うの、これは……」
言い訳をしようとしたが、言葉が出なかった。言い逃れなどできないことは自分でもわかっていた。涼介との関係を裏で続けていたことは、明白な裏切りだ。それが隆二に知られた今、すべてが終わった。
「お前、どうしてこんなことをしたんだ?」
隆二の声は静かだったが、その静けさが逆に恐ろしかった。怒鳴られるほうがまだましだった。彼の瞳には、深い怒りと失望、そして裏切られた悲しみが滲んでいた。
「……ごめんなさい……本当に……」
麻衣はただそれだけしか言えなかった。涼介との不倫を正当化できる理由など何もなかった。彼女はただ、自分の弱さに負け、寂しさを埋めるために罪を犯しただけだった。
隆二はしばらくの間、無言で麻衣を見つめていた。その視線に耐えられなくなった麻衣は、俯いて涙を流した。彼に何と言えば、許してもらえるのか、それさえもわからなかった。
「坊主にしろ。」
突然、隆二が冷たく言った。
「え……?」
麻衣は顔を上げた。隆二の表情は変わらなかった。彼の目は冷たく、感情を押し殺したままだった。
「坊主にしなければ、離婚だ。それが俺の条件だ。」
麻衣は自分の耳を疑った。隆二が何を言っているのか理解できなかった。髪を剃れ――それが彼の求める罰だというのか。
「どうして……?」
「お前の裏切りは、この髪と一緒に消えてしまえばいい。お前の髪を剃ることで、少しでも俺の屈辱が和らぐなら、それでいい。」
麻衣は震える手で自分の髪に触れた。長い黒髪は、かつて隆二が褒めてくれたものだった。だが、今やその髪は、彼にとって憎むべき裏切りの象徴となってしまったのだ。
第1章:髪を失うという罰
夜の静寂が、リビングの空気を重く沈めていた。麻衣は、ただソファに座っていた。足は冷たく、震えている。薄いカーディガンではこの冷え切った部屋の寒さを和らげることはできなかった。天井の電気は、いつもよりもどこか薄暗く感じられ、部屋全体が重苦しい雰囲気に包まれていた。
目の前に座る夫の隆二は、無表情のままじっと麻衣を見つめていた。彼の顔に感情はほとんど見えない。冷たく、抑えられた怒りがその瞳の奥に隠されているのが麻衣にはわかっていた。
「坊主にしろ。」
隆二の声が、静かに、そして容赦なく響いた。冷たく鋭いその一言は、まるで麻衣の胸に突き刺さるようだった。
「……え?」
麻衣は自分の耳を疑った。何かの冗談か、あるいは彼が感情の勢いで言っただけの言葉であることを願いたかった。しかし、隆二の表情は変わらなかった。そのまっすぐな目が、冗談でも感情の発露でもないことをはっきりと示していた。
「お前の髪を剃れ。それが俺の条件だ。そうしなければ、離婚だ。」
沈黙が重く部屋に降りた。麻衣は、隆二の顔をじっと見つめたが、彼の冷たい瞳は何も変わらず、彼女を見下ろしていた。
外からは時折、車の通り過ぎる音が聞こえてきた。夜遅いということもあり、その音は遠く、現実感のないものに感じられた。まるで麻衣の周りだけが異質な空間に切り取られているかのように、現実がどんどん遠のいていく。
「どうして……どうしてそんなことを……」
麻衣の声は震えていた。言葉がうまく出てこない。自分の罪はわかっていた。涼介との裏切りが隆二にどれほどの痛みを与えたのかも、今の彼の態度を見れば明らかだ。しかし、それが髪を剃るという罰に結びつくとは思ってもみなかった。
「お前があの男に触れたその瞬間から、お前の存在が俺にとって汚れたものになった。」
隆二の言葉は冷たく、鋭く、麻衣の胸に深く突き刺さった。彼の口から出た「汚れたもの」という表現が、麻衣を押しつぶすような感覚を与えた。涼介との関係は間違いだった。それは分かっている。だが、隆二が自分を「汚れたもの」と見なしている事実が、麻衣の心に重くのしかかった。
「坊主にしなければ、俺はお前を許すことはできない。お前の罪を、その髪と一緒に刈り取るしかないんだ。」
隆二は机の上に置かれたバリカンを手に取り、それを無言で麻衣の前に差し出した。麻衣は、その黒く光るバリカンを見つめ、しばらくの間、何も言えなかった。
これまでずっと大切にしてきた長い黒髪――その髪が、今や彼にとって憎しみの対象となっている。麻衣は無意識に自分の髪に触れた。手の中で滑らかにすべる髪の感触は、今までは彼に愛される象徴だった。だが、今はそれが憎悪の対象に変わってしまった。
「髪を剃るだけで……あなたは本当に許してくれるの?」
麻衣は小さな声で尋ねたが、隆二は答えなかった。ただ彼の目は、冷たく、そして静かに麻衣を見つめていた。その沈黙が何を意味するのかは、麻衣には分かっていた。髪を剃ることが、全てを解決するわけではない。それでも、彼が求める罰を受け入れるしかなかった。
麻衣は覚悟を決め、バリカンを手に取った。重く冷たい感触が、彼女の震える手の中で異様な存在感を持っていた。手が小刻みに震え、呼吸が浅くなっていくのが自分でも分かった。
「……分かったわ。」
そう言ったものの、麻衣の心は決して落ち着いていなかった。目の前にある運命に抗うことはできないと分かっていながらも、彼女はこれから自分が何を失うのか、その重みをまだ完全には理解できていなかった。
麻衣はリビングの中央にある鏡の前に座っていた。小さな手鏡に映る自分の顔を見つめながら、深く息を吸い込む。指先がかすかに震えているのが自分でもわかった。鏡の中の自分が、まるで他人のように感じられる。これから、自分の大切にしてきたものを、自らの手で切り落とさなければならない。
目の前に置かれたバリカンが、異様に大きく見える。冷たい金属の光沢が、これからの運命を無言で告げているかのようだった。背後に立つ夫の隆二が、無言で彼女の行動を見守っている。その無表情の顔には、もう愛情は微塵も感じられなかった。ただ、彼の中にある怒りと失望が、痛いほど彼女に伝わってくる。
「本当に、これで……許してもらえるの?」
麻衣は、隆二に問いかけるように小さくつぶやいた。だが、彼は何も言わず、ただ彼女を見つめているだけだった。隆二の沈黙が、さらに麻衣の心に重くのしかかる。彼が望むのは謝罪ではなく、彼女が屈辱を味わうその瞬間だったのかもしれない――そう思うと、麻衣の胸が締めつけられた。
「やらなければ、離婚だ。」
隆二の言葉は冷たく、彼の心の中にある怒りが今なお静かに燃えていることを感じさせた。麻衣は無言のままうなずき、手に取ったバリカンの重みを感じながら、ゆっくりとスイッチを入れた。
ブーン……
機械音が低く唸りを上げ、振動が彼女の手に伝わる。麻衣は目を閉じ、深呼吸をした。心臓が早鐘のように打ち続け、指先の震えは止まらなかった。
「どうして……こんなことに……」
声に出したところで、何も変わらない。今更後悔しても、すでにすべてが取り返しのつかないところまで来ている。涼介との関係が壊したものは、麻衣にとってあまりにも大きかった。それでも、少しでも隆二の怒りが和らぐなら――そう信じたくて、彼女はそのバリカンを自分の頭に当てた。
冷たい刃が頭皮に触れた瞬間、麻衣は思わず目を閉じた。恐怖と屈辱が押し寄せ、体が小さく震える。だが、もう引き返すことはできない。彼女はゆっくりと手を動かし、バリカンの刃が最初の一房を切り落としていく。
シャリ……シャリ……
軽い音とともに、彼女の黒髪が一房、無造作に床に落ちた。その瞬間、胸が締めつけられるような痛みが走った。麻衣の指先に伝わる感覚は、まるで自分自身の一部が切り離されていくようだった。
「これでいい……これでいいんだ……」
自分に言い聞かせるように、麻衣は再びバリカンを動かした。髪が次々と切り落とされ、長く艶やかな黒髪がどんどん床に散らばっていく。視界の端で、自分の髪がふわりと舞い落ちるのが見えた。その一房一房が、これまでの彼女の思い出や誇り、そして愛された自分を象徴しているように感じた。
サラサラ……
床に広がる髪の束が、まるで一枚の絵のように彼女を取り巻いていく。髪を失うたびに、自分が少しずつ「麻衣」ではなくなっていくような感覚があった。
鏡に映る自分の姿は、どんどん変わっていく。最初に切り落とされた部分が広がり、ついに前髪も失われた。額が露わになり、頭頂部の髪が剃られていくたびに、自分の顔がどんどん変わっていくのがわかる。今まで髪が隠していた部分が露出し、鏡に映る自分が誰なのか、一瞬わからなくなった。
「こんな私で……あなたは本当に満足するの?」
麻衣の目から涙がこぼれた。言葉が口をついて出たが、隆二は何も言わない。ただ彼女を見つめる冷たい視線だけが、彼女をその場に縛りつけていた。
再びバリカンを頭に当て、残りの髪をすべて剃り落とす。機械音が止まるたびに髪が落ち、麻衣の手はもう震えていなかった。ただ無心で、すべての髪を刈り終える瞬間を待っているかのように。
やがて、すべての髪が剃り落とされた。鏡に映る自分の姿は、まるで別人だった。坊主頭になった自分が、そこにいた。短い髪の感触が指先に残り、彼女はその異質な感覚にただ呆然とした。自分がこうなることを想像したことは一度もなかった――だが、今やそれが現実となっていた。
麻衣は鏡の前で、しばらく動けなかった。床には、かつて自分の誇りだった長い黒髪が散らばっている。それを見つめながら、彼女は唇を噛み締めた。涙が静かに頬を伝い、床に落ちる。これで、彼女はすべてを失ったのだ。
「……終わったわ……」
小さくつぶやくと、隆二がゆっくりと歩み寄ってきた。麻衣は顔を上げ、彼を見つめた。彼の目にはまだ冷たさが残っていたが、麻衣がすべての髪を剃ったことに対する満足感もどこかに感じられた。しかし、それでも彼の目には許しの色はなかった。
「これで、許してくれるの……?」
再び問いかける麻衣の声は、かすれていた。だが隆二は、彼女の問いには答えず、ただ「終わったな」とだけ言って部屋を出て行った。
麻衣はその背中を見送り、床に広がる自分の髪を見つめながら、涙を止めることができなかった。
第2章:結衣の犠牲
リビングに差し込む朝日が、冷たく感じられた。結衣はその光を見つめながら、自分の未来に何が起きるのかをぼんやりと考えていた。彼女の長い黒髪は、風になびくたびに絹のように滑らかに揺れる。それは、彼女にとって誇りであり、大切な存在だった。
「結衣、ちょっと来てくれるか。」
隆二の声が、リビングの奥から静かに響いた。その声には普段の父親らしい優しさはなかった。どこか冷たく、重苦しいものを含んでいるように感じられた。結衣は胸騒ぎを覚えながら、そっと立ち上がり、リビングへと向かった。
彼女がリビングに足を踏み入れると、目の前にいる母親の麻衣はうつむき、無言で座っていた。顔色は青白く、何かを言いたげだが、その声を発することができないように見えた。結衣はそんな母の姿を見て、さらに不安が募った。
「お父さん、どうしたの?」
結衣はおそるおそる父に尋ねた。彼女の心臓は早鐘のように鼓動し、全身が緊張で固まっていた。
「結衣、座れ。」
隆二は冷たく指示し、結衣は父の言葉に逆らうこともできず、無言で椅子に腰を下ろした。何が始まろうとしているのか、彼女はまだ理解できていなかったが、部屋に漂う重苦しい空気がただならぬことを予感させていた。
「お前の母さんが、俺を裏切った。」
隆二が告げたその言葉に、結衣は凍りついた。裏切った? 母が? 結衣は信じられない思いで母親の方を見つめた。麻衣は目を伏せ、何も言わず、ただ小さく震えていた。
「どういうこと……?」
結衣は小さな声でつぶやいた。まだ状況が飲み込めない。隆二は続けた。
「お前の母さんは、別の男と関係を持った。その結果として、俺たちの家族は壊れかけている。」
結衣の頭の中が真っ白になった。母が他の男と……? 信じたくなかった。しかし、母親の様子からして、それが事実であることは明白だった。心の中で何かが崩れていく感覚に、結衣は震えを覚えた。大切にしていた家族の絆が、今まさに目の前で崩壊しようとしている。
「だから、母さんは罰を受けた。お前も、だ。」
「えっ……?」
結衣は隆二の言葉に耳を疑った。自分も? 何も悪いことをしていないのに? 彼女は立ち上がり、動揺しながら父を見つめた。
「なんで……私が?」
隆二は冷たい目で結衣を見据えた。その視線は決して逃れることのできないものだった。
「お前も家族の一員だ。母親の罪は、家族全員で償う。お前の髪も剃れ。それが条件だ。」
「……どういうこと?私、何も悪いことなんてしてないじゃない!なんで、私がこんなことを……」
結衣の声は震え、絶望的な叫びへと変わっていった。自分は何も悪くない。母親が犯した罪のために、自分まで罰を受ける理由がわからない。髪を剃るという行為の意味すら理解できなかった。それでも、父の命令は重く、無情だった。
「結衣、これはお前のためでもある。俺が決めたことに従え。」
父の冷たい言葉に、結衣は怒りと恐怖が混じった感情に包まれた。自分が大切にしてきたものを奪われる。それは、何も関係のない自分が母の罪を償うために、屈辱的な罰を受けるということだった。
「そんなのおかしい!お母さんが悪いのに、どうして私が……!」
結衣は叫びながら立ち上がろうとしたが、麻衣が涙を浮かべながら手を伸ばし、彼女の腕をつかんだ。母親の手のひらは震え、冷たかった。
「ごめんね、結衣……本当にごめんね……」
麻衣の声は嗚咽に詰まっていた。結衣はその母親の言葉に、胸が締め付けられるような痛みを感じた。母親の泣き顔を見て、彼女は言葉を失った。自分の怒りや不満をぶつけたい気持ちはあったが、母の涙を前にして、それができなかった。
「お母さん……」
「結衣、お願い……座って。どうしてもやらなきゃいけないの……」
麻衣の声は震えていたが、切迫感が漂っていた。結衣は座る気配もなく、リビングの中央で立ち尽くしていた。彼女の長い黒髪が、今にもその場から逃げ出そうとする彼女の動きに合わせて、背中で揺れていた。
「いやだ!絶対に嫌!なんで私が坊主にされなきゃいけないの!お母さんが悪いんでしょ!」
結衣は叫び、母親を睨みつけた。恐怖と屈辱で心臓が爆発しそうだった。彼女は自分の頭に手をやり、髪を強く掴んだ。まるでその長い髪を守ろうとしているかのように。これまで何年もかけて伸ばし、大事にしてきたその髪は、彼女にとって誇りであり、自己表現そのものだった。
「結衣、やめなさい!」
隆二が怒りのこもった声で制した。冷たい怒声が、部屋の空気をさらに重くさせた。結衣はびくっと体を震わせたが、立ち止まる気配はなかった。恐怖が彼女を突き動かし、理性を超えた感情が爆発しようとしていた。
「私、やりたくない!お母さんが悪いんだから、お母さんだけ坊主になればいい!なんで私が……!」
言葉を詰まらせながらも、結衣は必死に叫んだ。もうこれ以上、家族に従うつもりはない――そう決意したかのように。だが、その瞬間、隆二が一歩前に出て、結衣の腕を無造作に掴んだ。
「やめろ、結衣。いい加減にしろ!」
力強い手が結衣の腕を締め付けた。彼女は思わず悲鳴を上げ、父親の手を振り払おうと必死に抵抗したが、隆二の力には勝てなかった。彼は無言のまま結衣を椅子に押し込むように座らせた。結衣は身体を激しく動かし、椅子から立ち上がろうと足を突っ張らせた。
「やめて!お願い、やめて……!」
結衣は叫び声を上げ、涙があふれ出た。自分を押さえつけられ、強制的に坊主にされるという現実が、絶望となって彼女を襲った。腕を引き寄せられ、身体を無理やり固定される感覚が、さらなる恐怖を生んだ。
「お前の母親の罪を、家族全員で償うんだ。お前も例外じゃない。」
隆二は冷たく言い放った。彼の声には感情が欠けており、そこにはかつての優しい父親の姿はもう見当たらなかった。彼はただ、麻衣の裏切りに対する罰を家族全体に課すことだけを考えているようだった。
麻衣は泣きながらバリカンを手に取り、結衣の背後に立った。彼女の手は震え、頭を下げている娘の姿に目をやった。結衣が必死に抵抗しようとしているのを感じながらも、止めるわけにはいかなかった。隆二の厳しい目が、自分を突き動かしていた。
「ごめんね……結衣、お願い……大人しくして……」
麻衣の声は涙に詰まっていた。だが、結衣は叫び続けた。
「やめて!お願い、やめて!」
結衣は体を激しくよじり、椅子から逃げ出そうと足を蹴り上げた。だが、隆二が彼女の肩を強く押さえつけたことで、結衣の体は再び椅子に固定された。
「結衣、じっとしていろ!」
隆二の言葉が無情に響き渡る。結衣はもう、逃げられないことを悟り、体全体が小さく震えた。
麻衣は震える手でバリカンを持ち、スイッチを入れた。ブーン…… 低く唸るバリカンの音が、リビングの静寂を引き裂くように響いた。結衣の耳元でその音が鳴り響くと、心臓が早鐘のように鳴り、恐怖が全身を覆った。
「お願い、やめて……やめてよ……」
結衣は涙を流しながら、最後の懇願をした。だが、麻衣の手は止まらなかった。彼女は娘の頭にそっとバリカンを当てた。最初に刃が髪に触れる瞬間、結衣はびくっと体を震わせた。
シャリ……シャリ……
乾いた音とともに、長い黒髪がバリカンの刃に刈り取られ、音もなく床に落ちた。一房一房が切り落とされるたびに、結衣は自分の体が崩れていくかのような感覚を覚えた。髪が背中を滑り落ち、床にふわりと舞い降りる。その音すら、屈辱の重さとなって彼女を圧迫した。
「……いや……こんなの、嫌……」
結衣は涙を流し続け、体を小さく震わせながらつぶやいた。彼女の黒髪が次々と刈り取られ、床に広がっていく。バリカンが頭を動くたびに、彼女の誇りであった髪が切り落とされ、無残に散っていくのが見えた。
麻衣は涙を流しながら、無心でバリカンを動かしていた。娘をこれ以上傷つけたくないと願いながらも、手を止めることはできなかった。彼女は娘に屈辱を与え、自らも苦しむことを選ばざるを得なかった。
「これで……終わり……」
結衣は虚ろな声でつぶやき、目を閉じた。彼女の髪はすべて剃り落とされ、坊主頭になった自分が鏡に映っていた。そこには、かつての結衣ではない別人がいた。涙が頬を伝い、冷たい頭皮に触れるたびに、彼女は失ったものの大きさを痛感していた。
「……私……もう、元に戻れない……」
結衣は床に広がる自分の髪を見つめ、絶望の涙を止めることができなかった。
第3章:絵美の覚悟
夜の雨が窓を叩いていた。篠田絵美は、暗いリビングで一人座り、テーブルの上に置かれたバリカンを見つめていた。雨の音が、どこか遠くで鳴り響き、冷たい湿気が家の中にまで染み込んでくるようだった。
照明の薄い光が、部屋を不気味に照らし出している。普段なら心地よく感じる家の中が、今は異様に息苦しい。絵美はテーブルの角に肘をつき、目の前にある冷たい金属のバリカンから視線を離すことができなかった。それは彼女の運命を象徴するかのように、無機質で残酷な存在だった。
夫である篠田涼介は、目の前で無言のまま立っている。彼の目にはかつての優しさはなく、怒りともつかない無感情が浮かんでいた。その視線に、絵美は気圧されているのを感じた。涼介がこんな風になるなんて、数ヶ月前までは思いもしなかった。
「お前も、麻衣と同じように坊主にしろ。」
涼介が告げたその言葉が、絵美の頭の中で何度もリフレインする。「坊主にしろ」。その命令が、彼女の心を突き刺し続けていた。
絵美は、静かに夫を見上げた。
「本当に、それでいいの?」
彼女の声は、震えていた。涼介の目は彼女を見据えたまま、無言でうなずいた。その冷たさに、絵美は改めて心が締めつけられるのを感じた。かつては互いに愛し合い、支え合ったはずの夫。その彼が、今は自分をこうして突き放している。絵美は、その事実を認めるしかなかった。
全てが崩れ始めたのは、涼介の浮気が発覚した日からだった。絵美はその時のことを、今でもはっきりと覚えている。ある夜、涼介のスマートフォンに届いたメッセージを偶然目にしてしまった。送信者は「麻衣」という名前。涼介が職場で世話をしていた後輩だと知っていたが、そこに書かれていた親密な言葉の数々が、すぐにただならぬ関係を示していた。
「麻衣……」
その名前が頭にこびりついて離れなかった。絵美は信じられない思いで、メッセージを読み返した。涼介が自分を裏切っていたという事実に、心臓が押しつぶされるような感覚を覚えた。怒りと悲しみが胸に渦巻き、彼女の世界がその瞬間から壊れ始めた。
そして、今目の前にいる涼介は、以前の彼とはまるで別人だった。麻衣との関係が露呈して以来、彼は絵美に対して冷たくなり、家庭は静かに崩壊していった。彼の態度は、あたかも絵美に対する罰を求めているかのようだった。
「絵美、お前のせいだ。」
涼介はつぶやくように言った。その言葉が、絵美の心に鋭く突き刺さった。
「お前が、俺に何も与えてくれなかったから、麻衣に走ったんだ。だから、お前も責任を取れ。」
その言葉は、絵美を打ちのめした。自分が悪いのだと、涼介は言っている。彼女が夫を支えきれなかったせいで、彼は他の女性に心を奪われたというのだ。
「でも、私は……」
絵美は必死に何かを言おうとしたが、言葉が詰まった。何も言えない。自分の無力さが、ここまでの結果を招いたのかもしれないという思いが、彼女の胸を締め付けた。
涼介は冷たく続けた。
「坊主にすれば、俺たちはまたやり直せる。お前がそれを証明しろ。」
その言葉はあまりにも残酷だったが、絵美はどうすることもできなかった。やり直すために、彼女は何でもしなければならない――そう思い込んでいた。自分がここで反抗すれば、涼介はもう二度と自分を愛してくれないだろう。それが恐ろしくて仕方がなかった。
絵美は無言でバリカンを手に取った。冷たい金属の感触が彼女の指先に伝わり、その重さが彼女の心をさらに沈めた。雨はまだ止まない。窓の外では、どしゃ降りの雨音が絶え間なく続いていた。
「私が坊主になれば、本当に……また、元に戻れるの?」
絵美は小さな声で、最後の希望を込めて尋ねた。涼介の表情は変わらなかった。
リビングの照明が、絵美の頭上に淡く光を落としていた。暖かい光のはずなのに、その場にあるのは冷え切った空気だった。絵美は椅子に座り、視線を膝の上に落としたまま、じっとしていた。手は無意識に、膝の上で自分のワンピースの裾をつかんでいる。手のひらには汗が滲んでいて、緊張が全身を包み込んでいるのがわかった。
目の前には夫、涼介が立っている。彼の手にはバリカンが握られており、その冷たい金属の光沢が絵美に突き刺さるように感じられた。かつては夫に対して感じていた愛情や信頼は、今や薄れ、代わりに屈辱と恐怖が渦巻いていた。
「本当に……こうするしかないの?」
絵美の声は、かすれていた。彼女の問いかけは、すでに答えがわかっているにもかかわらず、わずかな希望を捨てきれずに口にした言葉だった。涼介が何か優しい言葉をかけてくれるのではないか――そんな期待がどこかにあったのかもしれない。
だが、涼介の表情は冷たく、感情のない瞳が彼女を見つめていた。
「これしかないんだ。お前も、坊主にして償え。」
その言葉が、絵美の心に鋭く突き刺さった。「償え」――彼がそう言うたびに、自分が何かを犯したかのように感じさせられる。彼女が何を償わなければならないのか、まだ心の中で整理できていない。だが、夫の心が自分に戻るためには、これを受け入れるしかないのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
「……わかったわ。」
絵美は小さくうなずき、目を閉じた。彼女の体は微かに震えていたが、それを悟られないように必死に平静を装っていた。だが、内心は恐怖でいっぱいだった。坊主にされるということは、ただ髪を失うだけではない。自分の尊厳や誇り、女性としての自信――それらすべてを剥ぎ取られる行為だった。
涼介がスイッチを入れると、バリカンの低い唸りが部屋中に響き渡った。ブーン…… その音が、絵美の胸を締めつけ、心臓が早鐘のように打ち始めた。彼女はギュッと目を閉じ、これから訪れる瞬間に耐えようと、無意識に歯を食いしばった。
「大人しくしていろ。すぐに終わる。」
涼介の冷たい言葉が、彼女をさらに深い絶望へと追いやる。彼の手が、絵美の頭に近づくのを感じた。その瞬間、絵美の体は反射的にこわばり、逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、もう逃げ場はなかった。自分が選んだ道――そう言い聞かせることで、彼女はようやくその場に留まった。
最初にバリカンが頭に当たった瞬間、絵美の体がびくっと震えた。冷たい刃が頭皮に触れる感覚が、彼女に強烈な恐怖を与えた。次の瞬間、バリカンが彼女の長い髪を無情に切り落としていく。
シャリ……シャリ……
乾いた音とともに、彼女の髪が一房、一房と刈り取られていく。そのたびに、ふわりと黒髪が床に舞い落ちた。絵美は目を閉じたまま、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。落ちていく髪の感覚が、自分の誇りや女性らしさが削られていくようで、心が締めつけられる。
「……こんなこと、しなくても……」
彼女は小さな声でつぶやいたが、涼介はその言葉を無視したかのように、バリカンを動かし続けた。彼の手は迷いなく、次々と髪を刈り取っていく。絵美の黒髪が、次第に床に広がり、その美しい束が無残に散らばっていく。
「……どうして……私が……」
絵美は涙を流しながら、自分に問いかけるしかなかった。涼介の不倫が明らかになり、彼を失いたくない一心で自分を押し殺し続けた。その結果がこれだ――自分が坊主にされるという屈辱を受け入れなければならない現実。それは、彼を取り戻すための唯一の手段だと信じていたが、心の奥ではその結果に対する恐怖が渦巻いていた。
髪が次々に剃られていく中、絵美は自分の頭皮に触れる冷たい空気を感じ始めた。これまで長い髪が覆っていたその部分が、次々に露わになっていく感覚が恐ろしく、彼女は両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「……涼介……」
絵美は涙混じりに夫の名前を呼んだ。だが、涼介は無言でバリカンを動かし続け、やがて最後の髪の束を剃り落とした。
すべてが終わったとき、涼介はバリカンのスイッチを切り、無言で立ち上がった。絵美はゆっくりと目を開け、鏡に映る自分の姿を見つめた。そこに映っていたのは、もう自分ではないように感じた。坊主頭になった自分――それはまるで別の存在のようだった。
髪を失ったこと以上に、鏡に映る自分の目には、深い虚無感と絶望が宿っていた。手で頭を触ると、ざらついた感触が指先に伝わり、それが自分の現実であることを改めて思い知らされた。
「……これで、許されるの……?」
絵美は虚ろな声でつぶやいたが、涼介は何も答えず、ただ彼女を見下ろしていた。彼の目には、まだ何かが足りないような、冷たい視線が残っていた。
絵美は自分の髪が床に広がっているのを見つめ、唇をかみしめた。すべてを失った――それが、彼女の中に残った唯一の現実だった。髪を失っても、心の傷は消えない。それどころか、さらに深い傷が刻まれたように感じられた。
「……もう、戻れない……」
絵美は鏡を見つめ、涙をこぼした。
第4章:三人の対面
午後の日差しが薄くカーテン越しに部屋を照らしていた。暖かな光がリビングに差し込むにもかかわらず、空気は重苦しく、張り詰めていた。麻衣はそのリビングの一角で、落ち着かない様子で座っていた。視線は自分の手元に落ち、震える手を自分で握りしめることで、その震えを止めようとしていた。
この日は、麻衣にとって最も恐れていた日だった。不倫相手の妻である絵美と直接会うことになったのだ。すべてが明るみに出てから、何度も彼女と対面することを想像したが、その度に心臓が苦しくなるのを感じていた。どんな言葉をかけられるのだろうか? 絵美の怒りや悲しみの前で、麻衣は自分が何を言えるのか分からなかった。
そして、もう一つの心配が胸を締めつけた。それは、娘の結衣がこの場にいるという事実だった。結衣は無言のまま隣に座り、視線を床に落としていた。彼女の顔には疲れが滲んでいた。坊主頭になった自分の姿に慣れることができず、鏡を見るたびにため息をついている結衣は、心の底から屈辱と怒りを感じていた。
「お母さん、どうして……どうして私までこんなことに……」
何度も結衣に問い詰められたが、麻衣はただ「ごめんね」と謝ることしかできなかった。その言葉がいかに無力で、娘の心に何の慰めももたらさないことは、痛いほど分かっていた。それでも、麻衣にはそれ以上のことができなかった。
やがて、玄関のドアが静かに開き、絵美が現れた。彼女の姿が見えた瞬間、麻衣の心臓は跳ね上がり、呼吸が一瞬止まった。絵美の顔は硬く、その目には感情が押し殺されているように見えた。だが、彼女の坊主頭が光に反射しているのを見たとき、麻衣は深い悲しみと罪悪感に押し潰されそうになった。
絵美の美しい黒髪は、もうどこにもなかった。自分と同じように彼女も髪を失ったのだ。その事実が麻衣の心を刺し、痛みとなって広がった。
「こんにちは……」
麻衣は絞り出すように声をかけたが、絵美は何も返さず、ただ無言で部屋の中央に立った。沈黙が重く部屋を包み込み、誰も口を開くことができなかった。その沈黙は、互いに何を言えばいいのか分からない不安と怒りの混じった空気が漂っていたからだ。
絵美がゆっくりと椅子に座ると、彼女は麻衣を見据え、深い呼吸を一つついた。その一瞬の間に、麻衣は自分がどれほどの罪を犯してしまったのかを痛感した。彼女の視線に晒されるたび、麻衣は逃げ出したい気持ちに駆られたが、足は動かず、その場に釘付けにされていた。
「麻衣さん……あなたに何を言っていいのか分からないわ。」
絵美の声は静かで冷静だったが、その背後には抑えきれない感情が流れているのを麻衣は感じた。彼女が怒りや憎しみを押し殺して話していることは明白だった。麻衣は視線を絵美の顔に向けることができず、ただうつむいた。
「本当に……ごめんなさい……」
それが唯一、麻衣が言えることだった。だが、その謝罪の言葉は、絵美にとって何の意味も持たないことはわかっていた。どれほど謝っても、髪を失った絵美の心の傷を癒すことはできない。
「ごめんなさい、で済む話じゃないのは分かっているでしょう?」
絵美の声が冷たく響き渡る。彼女は目を細め、麻衣を鋭く見据えていた。何年も寄り添ってきた夫を奪われたという事実、それがどれほど深い傷を絵美に与えているのか、麻衣はその視線から感じ取っていた。
「涼介は……私のことを見なくなった。あなたに心を奪われて、私の存在が薄れていくのを、毎日感じていた。髪を剃ったからって、何も変わらないわ。でも、これがあの人の求める形なら、私も受け入れるしかないの。」
絵美の言葉に麻衣は痛みを感じた。髪を剃られたという屈辱を共有しているはずなのに、それが何も解決しないという現実を突きつけられていたのだ。
そのとき、結衣が絞り出すように声をあげた。
「私も……髪を剃られた……何も悪くないのに……」
結衣の声は震えていた。彼女の瞳には涙が浮かび、必死にそれを抑えようとしているのが見て取れた。絵美は一瞬驚いたように結衣を見つめたが、すぐにその視線は憐れみの色を帯びた。
「あなたも……?」
結衣はうなずき、言葉を続けた。
「お父さんが……お母さんが悪いんだから、私も坊主にしろって……でも、私は何も悪くないのに……」
結衣の言葉は次第に力を失い、彼女は俯いて涙をこぼした。自分が受けた屈辱と理不尽さに、彼女の心は押しつぶされそうになっていた。絵美はそれを聞きながら、しばらく黙っていたが、やがて静かにため息をついた。
「私たちは……女性として、母親として、妻として……多くのものを守ろうとしてきた。それなのに、すべてを失った。」
絵美の言葉は、結衣と麻衣の心に深く響いた。彼女たちはそれぞれの立場で何かを失い、そして苦しんでいた。
「でも、私たちが髪を剃ったところで、何も変わらない。私が坊主になっても、涼介は戻ってこない。あなたが坊主になっても、結衣ちゃん、あなたの屈辱は消えない。」
絵美の言葉に麻衣はただ泣き崩れた。自分の過ちが、どれほど多くの人を傷つけ、どれほど深い悲しみを生んだのか、その現実に向き合うことが辛すぎた。髪を失うという罰が、彼女にとってどれほどの意味を持つのか――それがこれからどう影響するのかさえ、まだ理解できていないのかもしれない。
時間が過ぎていく中、絵美はゆっくりと立ち上がった。
「今日のことは……これで終わりにしましょう。でも、私はあなたを許すつもりはない。それは、私の髪と一緒に消え去ることはないから。」
その言葉は冷たく響いたが、同時に重く、現実的だった。絵美はもう麻衣を責めることはしない。だが、許しも求めない。それが彼女の選んだ道だった。
絵美が玄関に向かう足音が静かに響き、ドアが閉まると、麻衣はその場に崩れ落ちた。結衣はそっと母親に寄り添い、無言のまま手を握った。
第5章:再生の兆し
雨が降りしきる朝、麻衣はキッチンの窓からぼんやりと外を眺めていた。ガラスに打ちつける雨粒が次々に流れ落ち、まるで彼女の心の中を映し出しているかのようだった。すべてが崩壊したあの日から、数週間が経っていたが、時間の流れはまるで止まってしまったかのように感じていた。
麻衣は一度深く息を吸い込み、立ち上がり、キッチンのシンクに置かれた朝食の皿を片付け始めた。手は動いているが、心はどこか遠くにあった。いつもならこの家事が、日常の一部として自分を落ち着かせてくれるはずだった。だが今は、その行動がただの作業に過ぎないものになっていた。心の中にはまだ、取り返しのつかない罪の意識が重くのしかかっている。
「これから、どうやって生きていけばいいんだろう……」
麻衣は自分に問いかけながら、そっと手を止めた。鏡を見れば、まだ短い髪の自分が映る。坊主頭から少しだけ伸びた髪が、鏡の中で無造作に立っていた。触れるとチクチクとした感触が指に伝わり、ふと、自分の髪が長かった頃を思い出す。あの頃は、髪を切ることがこんなにも重い意味を持つとは思わなかった。
「お母さん……」
背後から小さな声が聞こえた。振り返ると、そこには娘の結衣が立っていた。結衣もまた、短い髪がわずかに伸びてきていたが、かつての長くて美しい髪はもう見る影もなかった。結衣の坊主姿を目にするたび、麻衣の心は締めつけられるようだった。自分の過ちが、愛する娘にまで及んだこと――その事実を、麻衣は日々噛み締めていた。
結衣は、静かに麻衣の隣に座り、少しぼんやりとした表情で窓の外を見ていた。彼女の瞳には、未だ消えない屈辱と悲しみが宿っている。
「学校では……どう?」
麻衣はおそるおそる尋ねた。結衣の心の中にある傷がまだ癒えていないことは知っていたが、何か声をかけたかった。しかし、結衣は無言のまましばらく窓の外を見続けた後、小さな声で答えた。
「……ううん。みんな何も言わないけど、見てるのがわかる。坊主頭で学校に通う女の子なんて、私くらいだから……みんなの視線が痛いの。」
結衣は目を伏せ、肩を落とした。自分が母親の過ちによって理不尽な罰を受けたこと、そしてその事実が学校生活にも影響を及ぼしていることは、彼女にとって耐え難いものだった。
「ごめんね……本当に……」
麻衣はまた謝罪の言葉を口にした。もう何度も、何度も繰り返した言葉だ。しかし、結衣に対しても、夫に対しても、それ以外の言葉を見つけることができなかった。
結衣はその言葉を聞きながら、微かにうなずいた。しかし、母親に対してもう怒りをぶつけることはなかった。怒りは確かにまだ心の奥にくすぶっているが、それよりも今、彼女を支配しているのはただ虚しさだった。
「ねえ、お母さん……」
結衣がふいに口を開いた。彼女は少しうつむき加減で、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「これからどうするの……? 私たち、これからどうやって生きていけばいいの?」
その問いかけは、麻衣の心に深く突き刺さった。結衣の言葉には、絶望と不安、そして未来に対する不確実さが滲んでいた。麻衣自身もその答えを見つけられないままだった。
「どうしようね……本当に、どうしたらいいんだろう……」
麻衣は正直に答えた。自分でも先が見えない。夫の隆二とは、最低限の会話しかしていない。髪を剃ったことで、彼が少しでも怒りを鎮めてくれるかと思っていたが、それはただの幻想だった。隆二は依然として冷たく、麻衣に対する怒りと失望は消えていなかった。
「でも……私たち、きっと前に進むしかないのよね。」
麻衣はそうつぶやきながら、結衣の手をそっと握った。娘に対して、何か前向きな言葉をかけたかった。二人でこの状況をどうにか乗り越えなければならない。その思いだけが、今の麻衣を支えていた。
「そうだね……」
結衣もまた、母親の手を強く握り返した。彼女も同じ気持ちだった。髪を失い、学校での生活も以前のようにはいかない。それでも、自分の人生をこのままで終わらせることはできないという決意が、少しずつ結衣の中に芽生えていた。
その夜、麻衣はベッドに横たわりながら、静かに天井を見つめていた。外では雨がやんでおり、窓からは夜風がそよそよと入ってきていた。肌寒い風が心地よく、少しだけ心が軽くなったように感じられた。
目を閉じると、ふとあの日のことが頭をよぎった。涼介との一瞬の過ち。その瞬間にすべてを失うことになるなんて、当時の麻衣には想像もできなかった。髪を剃ることで、何かが元に戻るとどこかで信じていた自分が浅はかだったと、今は分かる。
だが、もう後悔しても仕方がない。麻衣は自分の罪を背負いながら、それでも前を向いて歩いていかなければならないことを理解していた。彼女は髪を剃り、屈辱を味わい、家族の絆は壊れかけている。それでも、生きていかなければならない。
翌朝、麻衣は少し早く目を覚ました。窓の外にはまだ薄暗さが残っているが、どこかすっきりとした気持ちだった。少しずつだが、髪は伸び始めている。それが、再生の象徴であるかのように感じられた。人生もまた、時間とともに少しずつ癒えていくのかもしれない――そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
キッチンに立ち、朝食の準備をしていると、結衣が眠そうな目でやってきた。彼女もまた、少しずつ日常を取り戻そうとしているように見える。坊主頭の彼女に笑顔はまだなかったが、その目には以前よりも力強さが感じられた。
「おはよう、お母さん。」
結衣が静かに挨拶をすると、麻衣は微笑んで返事をした。二人はまだ不安定な中にいたが、共に歩んでいこうという小さな希望が心の中に灯っていた。
「今日も、頑張ろうね。」
麻衣はそう言いながら、結衣の頭を優しく撫でた。
後日談:屈辱の連鎖
涼介が坊主にされた絵美を見下ろし、冷ややかに笑ったのは、それから数週間が経った頃だった。絵美の坊主頭からは、わずかに髪が伸び始めていた。触れると短い髪がざらざらとした感触を持って指に伝わり、彼女は鏡を見るたびに自分が失ったものを思い知らされていた。
絵美は家事を続けながら、いつもと変わらない日常を演じていた。だが、心の中では崩れ落ちる自分を感じていた。坊主にされたことで、涼介との関係が改善されるはずだと期待していた。しかし、彼の態度はさらに冷たくなり、毎日のように彼女を罵る言葉が飛び交うようになった。
「まだそんなに伸びたのか。」
ある夜、涼介は無造作に絵美の頭を撫でた。短くなった髪が彼の手に触れると、その表情に嘲笑が浮かんだ。絵美はその手を避けることもできず、ただじっと立ち尽くした。
「お前のせいで、俺はあの女に走ったんだよ。」
涼介は突然、冷たい声で言った。その声には憎しみが含まれていて、まるで絵美自身が罪を犯したかのように責め立てる。絵美はその言葉に胸が締めつけられるような痛みを感じ、言葉を失った。
「俺が不倫をしたのは、全部お前のせいだ。」
涼介は続けた。その言葉は、彼の罪悪感を消し去るための言い訳であることは明らかだった。それでも、絵美は反論することができなかった。彼女はすでに自分の中で、彼を失わないためにすべてを受け入れるしかないという思いに縛られていた。
「お前が女らしさを失ったせいで、俺は他の女を求めたんだ。わかってるか?」
涼介は絵美の頭を乱暴に撫でながら、嘲笑を浮かべていた。彼の言葉は容赦なく、絵美を深く傷つけた。髪を失っても、絵美はまだ彼に対して何かできると思っていた。だが、その期待は完全に打ち砕かれた。
「そんな中途半端な髪、見てるとムカつくんだよ。」
涼介は手に持っていたバリカンを無言で絵美の前に差し出した。
「また坊主に戻してやる。いや、今度はもっとスッキリさせてやるよ。スキンヘッドだ。」
その言葉に、絵美は心の奥から恐怖が込み上げてきた。前回の坊主にされた時の屈辱がまだ癒えていないのに、今度はそれ以上のことを――彼女は涼介の命令に従わなければならないという事実に、全身が震えた。
「……もう、やめて……」
絵美は小さな声で懇願した。だが、涼介はその言葉を聞くと、嘲笑を浮かべたまま彼女を無視した。バリカンのスイッチが入る音が、静かなリビングに響き渡る。ブーン…… その音が、彼女の心臓を貫くように響いた。
「立てよ。そこに座れ。」
涼介の命令に、絵美は力なく従った。彼女の体は、自分の意志ではないように動いていた。椅子に座ると、涼介がバリカンを持って、再び彼女の頭に手を伸ばした。
「こんな髪、俺の前に見せるな。」
涼介は冷たく言い放ち、バリカンを絵美の頭皮に押し当てた。
シャリ……シャリ……
前回のように、一房一房がまたも無慈悲に刈り取られていく。短く伸び始めた髪が、再び切り落とされ、床に舞い落ちた。絵美は目を閉じ、心の中で何度も自分に言い聞かせた――これも罰だ、仕方がないのだ、と。
だが、涼介は止まらなかった。彼は今度、絵美の髪を坊主にするだけでなく、スキンヘッドにするために剃刀を手に取った。
「全部、ツルツルにしてやるよ。お前にはそのほうが似合ってる。」
絵美の頭に剃刀が当てられるたびに、恐怖と屈辱が彼女を襲った。髪の感触はもうなく、冷たい刃が頭皮を滑る感覚が直接伝わってきた。そのたびに、彼女は自分がさらに深い地獄に堕ちていくような感覚を覚えた。
「スキンヘッドでいることがお前の罰だ。反省してろ。」
涼介はそう言い放ち、剃刀で最後の仕上げを終えた。鏡に映る自分の姿を見て、絵美はもう、何も言えなかった。完全に髪を失った自分の頭――そこには、かつての自分の面影はもうなかった。
翌日、涼介はさらに屈辱を与えるために、新たな命令を出した。
「そのスキンヘッドで外に出ろ。スーパーに行って、買い物をしてこい。誰に見られても、知らん顔して堂々としてこいよ。お前の罪を、世間に見せつけるんだ。」
絵美は、もはや抵抗する気力すらなかった。彼女は無言でうなずき、言われた通りにスキンヘッドのまま外出の準備をした。帽子をかぶりたかったが、涼介に「帽子をかぶるな。全部さらけ出せ」と命じられたため、その願いも叶わなかった。
絵美がスーパーに入った瞬間、人々の視線が一斉に彼女に向けられた。見知らぬ人々の目が、頭の先からつま先まで彼女を舐め回すように見つめているのを感じた。絵美はその視線に耐えながら、冷や汗をかき、足早に買い物を済ませようとした。
「これが……私の罰なのね……」
絵美は自分に言い聞かせながら、カゴに品物を入れていった。だが、スキンヘッドの彼女に向けられる好奇の視線が、彼女をさらに深く傷つけていく。すれ違う人々のひそひそ話が聞こえてくるたびに、胸が締めつけられる。
「これから、ずっとこのままなのかな……」
彼女はそんな考えを振り払おうとしたが、心の中ではすでにそれが現実となっていた。
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