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5.死神の少女と死にたがりの少女

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「……ただいま」

 小さな声で言って、玄関のドアを閉める。家の中はしんとしていた。
 なるべく、足音を立てないように廊下を歩いていく。そっとリビングを覗くと、たった一日いなかっただけで室内はかなり散らかっていた。ビールの空き缶に、カップ麺の容器、タバコの吸い殻。

 ため息をつきながら一度部屋に戻る。制服から部屋着に着替えて、リビングを片付け始めた。父の姿がないことに少しだけほっとした。玄関に靴がなかったから、どこかに出かけているのかもしれない。いっそ帰ってこなければいいのに。

 昨日は、ユキちゃんの家に泊まって、楽しかったな。
 友達の家に泊まるのは初めてだった。ユキちゃんのお母さんは優しくて、誰かが作ってくれるご飯を食べるのも久しぶりで、すごくおいしかった。

「……春奈?」

 突然、低い声が聞こえてきて、びくりと肩が震えた。必死に平静を保ちながら、ゆっくり振り返る。

「お父さ――」

 振り返った瞬間、頬に強い衝撃が走って、気が付くと尻もちをついていた。じわじわと右のほっぺたが痛くなってきて、殴られたのだと少し遅れて気付いた。
 頬に手を当てて、呆然と父の姿を見上げる――手を上げられたのは、初めてだった。

「どこ行ってた」
「友達の家、だよ。泊まるってメールし、」
「口答えするな!」

 怒鳴られて、身体が竦んだ。ごめんなさい、と小さな声で謝る。二発目が来ることを恐れたけれど、それ以上殴られることはなかった。コンビニの袋を提げた父は、私の横を通り過ぎてリビングのソファーに腰を下ろした。
 まだ夕方なのに、父からはお酒のにおいがした。

***

 母は私が生まれてすぐに死んだ。
 私の世話をしてくれた父方の祖母は私が三歳の頃に病気で亡くなったらしい。
 仲良くしていた友達は小三のときに交通事故で死亡した。
 他にも、よく挨拶をする近所の人や、仲良しの子がよく病気になったり怪我をしたりすることが多かった。

 極めつけは小学校を卒業する直前のことだった。父が当時お付き合いしていた女の人と初めて顔を合わせた帰り道、駅の階段から落ちて大怪我をしたらしい。その後、父とは別れたみたいだ。

 それから、父はおかしくなった。
 毎晩お酒をたくさん飲むようになった。やめていたらしいタバコも吸い始めた。毎日、残業をしては遅くまでお酒を飲んでから帰ってくる。顔を合わせることが少なくなった。
 小学校の卒業式にも、中学校の入学式にも、一人で出席した。

 小学生のときは忙しい仕事の合間を縫って来てくれていた授業参観に来てくれなくなった。そもそも、通知を渡すことさえできなかった。
 酔った父と時々顔を合わせると、私のことを死神だ、疫病神だといつも蔑んだ。
 素面のときはそんなこと言わないけれど、私のことを見るといつも気まずそうに目を逸らす。話をすることはほとんどなかった。
 男手ひとつで苦労することもあっただろうけれど、昔の父は一生懸命働きながら、家のことも一緒にやってくれて、優しかった。でも、そんな父の面影はもうどこにもなかった。

 お前なんか生まれてこなければよかったと言われたこともある。
 そんなに私のことが嫌になったのなら、いっそのこと施設にでも入れてくれたらいいのにそうはしない。
 料理も掃除も洗濯も気が付けばひとりでやるようになっていた。めんどくさかったけど、でも、やらないと私が困るから。幸い、生活費は毎月箪笥の中に入れておいてくれたから、いまのところお金に困ってはいない。でも、いつお金をくれなくなるかわからないから、自分のことに使うお金はなかった。お小遣いがほしいなんて言い出せなかった。

 最低限の衣服に文房具、生理用品などどうしても必要なものしか買わなかった。
 子どもの頃から家の手伝いばかりしていたから、趣味もなかった。部活にも入らなかった。お金もないし、私と関わると不幸になるかもしれないから、学校で話す以外友達とも遊ばなくなった。時間があると勉強ばかりしていた。
 ご飯だけは毎日作った。どうせ父は食べないとわかっていながら、二人分のおかずを作ってしまう。余った分は朝食やお弁当に回していた。

 父は私の作ったご飯は食べないで、外食してくることもあれば、コンビニ弁当やらカップ麺やらを食べてはお酒ばかり飲んでいる。
 あんな生活をしていると、そう遠くない未来に父も死んでしまうかもしれない。
 そうなると、やっぱり私は死神なのかな、なんて。

 学校では優等生のいい子を演じていた。いい成績を取って、クラス委員もやって、評価されれば、もしかしたら父も優しくしてくれるんじゃないかと、少しだけ期待していた。でも、テストの結果にも通知表にも見向きもしないし、三者懇談にも来てくれない。仕事が忙しいみたいで、と先生にはいつも言い訳していた。
 毎日、なんのために生きているのかわからなかった。

 来年は受験生だけど、そんなこと考えられなかった。こんな父に進路相談なんてできるわけがないし、そもそも高校に行かせてもらえるかもわからない。
 中卒で働くことも考えてみたけれど、現実的ではないと思い直した。
 そんなこと、できるわけないよね。

 いっそ死んでしまえたら楽になるのかなって思ったけど、自殺するような勇気も行動力もない。交通事故とかに遭えたらいいのに、そう簡単に遭遇することもない。わざと飛び出すようなことはできなかった。あーあ。あんまり長生きしないで、早く死にたいな。
 それか、せめてどこか遠くに行きたい。こんな現実から逃げ出したい。

 誰かに話したら助けてもらえるかな。でも、誰に?
 友達? 先生? 他の大人の人?
 誰に、なんて言ったら、ここから抜け出せるの?
 全然、わからない。これから、どうしたらいいのかな。ずっとこのままなのかな。


 ぐちゃぐちゃな頭の中で放課後の校舎内を意味もなく歩いていた。
 そんなとき、――あの子を見つけた。
 誰もいない教室のベランダで、橙色の夕陽に照らされていた有村由貴さん。
 なんとなく、ピンと来た。この子、自殺しようとしているなって。
 だって私も、死ぬとしたらこんな日がいいなと思っていたところだったから。私には、そんな勇気はないけれど。仲間を見つけたようで、嬉しかった。

 この子なら、私の気持ち、わかってくれるかもしれない。
 そんな期待を込めながら声をかけた。私は私のために、あの子の自殺を止めたかった。
 だって、あなたひとりだけでこの苦しい世界から逃げ出すなんて、許せないから。
 私と一緒に、苦しみを分かち合って生きてほしい。
 それができないなら、一緒に死んでほしい。いますぐに、じゃなくていいから。

 結局、ユキちゃんは私ほどの事情を抱えてはいなかったけれど。
 些細な苦しみで、死にたくなるくらい悩んでいる子がいることを知って、なんだか、嬉しかった。
 私だけじゃなかったんだって。死にたがっている中学生は他にもいるんだって。
 嬉しくて、彼女と、友達になりたいと思った――。
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