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番外編
小旅行に行きましょう①
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※茜が中学一年生の頃のお話。
カタカタ、と軽快にキーボードを叩いていた指がふいに止まる。
頭の片隅で思考を巡らせつつテキストエディタの画面を見つめていた夏癸は、数分ののちに軽く息をついた。
諦めて上書き保存をし、腰を上げる。筆が止まったときは無駄に頭を悩ませて時間を浪費するより気分転換をするに限る。
台所へ行きコーヒーを淹れる。糖分が欲しい気分だったので砂糖も入れ、マグカップを持ったまま仕事部屋には戻らず居間の座卓の前に腰を下ろした。
コーヒーを啜りながら手慰みにスマートフォンを触り、目についたネットニュースの見出しをタップし斜め読みする。間違っても自分の本の感想を検索するなどという愚かなことはしない。
ちなみに夏癸はSNSのアカウントを持っていない。
作品の宣伝は出版社や書店が行うもので足りているだろうし、自分に関する情報は必要最低限のことしか公開したくない。なにより余計な文章を書いている時間があればすべて作品の執筆に充てたいと考えている。
読者の反応を見たり交流を図ったりするためにSNSを利用している作家は知人の中にも少なからずいるが、自分には向いていないと思っているので今後も使うつもりはない。
それに、彼の作品に対してダイレクトな反応を見せてくれる読者ならば一番身近にいる。手元に届いたばかりの新刊を渡すたびに食い入るように読んでいる少女の姿を思い出す。
夢中になって読みふけり、ときには頬を緩めたり眉を寄せたり涙ぐんだり、ぼろぼろと涙を零すほどに泣いていることもある。そして読み終わると感想を聞かせてくれるのだ。
どのシーンがよかった、この台詞が好き、この話になにを思ったか。拙い言葉でも一生懸命に伝えてくれる少女のことが愛おしいしそれが嬉しくないわけがない。彼の本を何度も読み返していることも知っている。
彼女以上に感想をもらいたい相手など存在しない。もちろん、編集部を通して渡される以前よりも量の増えたファンレターも嬉しいし大切に読んでいるのだけれど。
そんなことを考えつつめぼしいニュースを読み終えた夏癸は、ふと目に入った「秋の観光地特集」という見出しに指を触れた。ページをスクロールしていくと、一枚の写真が目に留まる。
「まるで絵本の中に迷い込んだかのようなカフェ」と題された写真に惹かれた。
詳しい記事を読むと、店内の様子やデザートの写真も載っている。童話の世界に出てきそうな外観の建物に温かみのある優しい雰囲気の店内。ケーキやジェラートも美味しそうだ。
茜が好きそうだ。連れていったら喜ぶだろうか。中学生最初の夏休みにも遠出はしなかったので、軽い旅行を考えてみてもいいかもしれない。
所在地を確認すると山梨県の山中湖だった。山梨県。隣県だがいまいち馴染みは薄い。
そういえば付き合いの長いイラストレーターの実家(正確には祖父母の家らしい)が山梨にあったなと思い出したが彼自身は訪れたことのない県だ。
行き方を調べてみると車で一時間半程度だ。もっと時間がかかるものかと思いきや意外に近い。どうやら交通の便はあまりよくないようで、電車やバスを使うより自家用車で行くほうが自由に動けてよさそうだ。
実際に行くかどうかは茜の意思を確認してから決めるが、もし行くとしたらせっかく足を伸ばすのだからカフェ以外にも周辺によさそうな観光スポットはないだろうかと検索してみる。
茜も夏癸もインドア派なのでアウトドアレジャーや絶叫系のアトラクションが有名な遊園地は除外する。できれば屋内でゆったりと観光できる場所はないだろうかと調べていると、茜が好きな絵本や小説のシリーズに関係のある美術館を河口湖に見つけた。
作中に出てくる博物館を模した建物があり、館内では原画が展示されているようだ。ミュージアムショップもあり、ここでしか売っていない限定グッズもあるらしい。茜が持っている文房具や小物に描かれている猫のキャラクターを思い出す。ここは行きたがりそうだ。
その美術館の紹介を見ていると、ページの下部に近隣にある美術館の紹介も書かれていた。そのうちのひとつが気になったので詳しく見てみる。オルゴールの展示や演奏、自動演奏楽器とオペラ歌手のコンサート、薔薇の庭園などが楽しめる美術館のようだ。
ヨーロッパの町並みを模した館内も茜が好きそうな雰囲気だ。先ほど見つけた美術館のすぐ近くだし、ここにも立ち寄ってみてもいいかもしれない。
あまり何箇所も回ると疲れてしまうだろうから、行くとしたらこの三箇所くらいがちょうどいいだろう。
そう考えていると、ふと行き詰まっていた展開の続きが思い浮かんだ。この思考が消えないうちに、と夏癸は飲みかけのコーヒーを飲み干すと執筆を再開するために部屋へと戻っていった。
***
「来週の金曜日、学校が休みでしょう? よかったら、ここに行ってみませんか?」
夕食後、両手でマグカップを持ってほうじ茶を啜っていた茜にスマートフォンを差し出す。茜はぱちぱちと両目を瞬いた。
「急にどうしたんですか?」
「たまには少し遠出してもいいかと思って。夏休みもとくに出かけなかったでしょう?」
「うん……」
首を傾げつつカップを置いて画面を覗き込んだ茜は、ほどなくしてきらきらと目を輝かせた。
「この美術館、どこにあるんですか……!?」
「山梨県の河口湖ですよ。車で一時間ちょっとで行けると思います。あと、この美術館とカフェもどうですか?」
「わ……行きたい! ここ行きたいです! すごい、絵本の中みたい!」
美術館やカフェの写真を見て、茜は珍しくはしゃいだ様子で頬を紅潮させた。予想通りに食いついてきた彼女の姿に思わず頬が緩む。
「じゃあ来週、行きましょう。平日ならそれほど混んでいないでしょうし」
「うん! 楽しみにしてますね!」
大きく頷いて笑みを見せる茜に、夏癸も微笑みを返した。
カタカタ、と軽快にキーボードを叩いていた指がふいに止まる。
頭の片隅で思考を巡らせつつテキストエディタの画面を見つめていた夏癸は、数分ののちに軽く息をついた。
諦めて上書き保存をし、腰を上げる。筆が止まったときは無駄に頭を悩ませて時間を浪費するより気分転換をするに限る。
台所へ行きコーヒーを淹れる。糖分が欲しい気分だったので砂糖も入れ、マグカップを持ったまま仕事部屋には戻らず居間の座卓の前に腰を下ろした。
コーヒーを啜りながら手慰みにスマートフォンを触り、目についたネットニュースの見出しをタップし斜め読みする。間違っても自分の本の感想を検索するなどという愚かなことはしない。
ちなみに夏癸はSNSのアカウントを持っていない。
作品の宣伝は出版社や書店が行うもので足りているだろうし、自分に関する情報は必要最低限のことしか公開したくない。なにより余計な文章を書いている時間があればすべて作品の執筆に充てたいと考えている。
読者の反応を見たり交流を図ったりするためにSNSを利用している作家は知人の中にも少なからずいるが、自分には向いていないと思っているので今後も使うつもりはない。
それに、彼の作品に対してダイレクトな反応を見せてくれる読者ならば一番身近にいる。手元に届いたばかりの新刊を渡すたびに食い入るように読んでいる少女の姿を思い出す。
夢中になって読みふけり、ときには頬を緩めたり眉を寄せたり涙ぐんだり、ぼろぼろと涙を零すほどに泣いていることもある。そして読み終わると感想を聞かせてくれるのだ。
どのシーンがよかった、この台詞が好き、この話になにを思ったか。拙い言葉でも一生懸命に伝えてくれる少女のことが愛おしいしそれが嬉しくないわけがない。彼の本を何度も読み返していることも知っている。
彼女以上に感想をもらいたい相手など存在しない。もちろん、編集部を通して渡される以前よりも量の増えたファンレターも嬉しいし大切に読んでいるのだけれど。
そんなことを考えつつめぼしいニュースを読み終えた夏癸は、ふと目に入った「秋の観光地特集」という見出しに指を触れた。ページをスクロールしていくと、一枚の写真が目に留まる。
「まるで絵本の中に迷い込んだかのようなカフェ」と題された写真に惹かれた。
詳しい記事を読むと、店内の様子やデザートの写真も載っている。童話の世界に出てきそうな外観の建物に温かみのある優しい雰囲気の店内。ケーキやジェラートも美味しそうだ。
茜が好きそうだ。連れていったら喜ぶだろうか。中学生最初の夏休みにも遠出はしなかったので、軽い旅行を考えてみてもいいかもしれない。
所在地を確認すると山梨県の山中湖だった。山梨県。隣県だがいまいち馴染みは薄い。
そういえば付き合いの長いイラストレーターの実家(正確には祖父母の家らしい)が山梨にあったなと思い出したが彼自身は訪れたことのない県だ。
行き方を調べてみると車で一時間半程度だ。もっと時間がかかるものかと思いきや意外に近い。どうやら交通の便はあまりよくないようで、電車やバスを使うより自家用車で行くほうが自由に動けてよさそうだ。
実際に行くかどうかは茜の意思を確認してから決めるが、もし行くとしたらせっかく足を伸ばすのだからカフェ以外にも周辺によさそうな観光スポットはないだろうかと検索してみる。
茜も夏癸もインドア派なのでアウトドアレジャーや絶叫系のアトラクションが有名な遊園地は除外する。できれば屋内でゆったりと観光できる場所はないだろうかと調べていると、茜が好きな絵本や小説のシリーズに関係のある美術館を河口湖に見つけた。
作中に出てくる博物館を模した建物があり、館内では原画が展示されているようだ。ミュージアムショップもあり、ここでしか売っていない限定グッズもあるらしい。茜が持っている文房具や小物に描かれている猫のキャラクターを思い出す。ここは行きたがりそうだ。
その美術館の紹介を見ていると、ページの下部に近隣にある美術館の紹介も書かれていた。そのうちのひとつが気になったので詳しく見てみる。オルゴールの展示や演奏、自動演奏楽器とオペラ歌手のコンサート、薔薇の庭園などが楽しめる美術館のようだ。
ヨーロッパの町並みを模した館内も茜が好きそうな雰囲気だ。先ほど見つけた美術館のすぐ近くだし、ここにも立ち寄ってみてもいいかもしれない。
あまり何箇所も回ると疲れてしまうだろうから、行くとしたらこの三箇所くらいがちょうどいいだろう。
そう考えていると、ふと行き詰まっていた展開の続きが思い浮かんだ。この思考が消えないうちに、と夏癸は飲みかけのコーヒーを飲み干すと執筆を再開するために部屋へと戻っていった。
***
「来週の金曜日、学校が休みでしょう? よかったら、ここに行ってみませんか?」
夕食後、両手でマグカップを持ってほうじ茶を啜っていた茜にスマートフォンを差し出す。茜はぱちぱちと両目を瞬いた。
「急にどうしたんですか?」
「たまには少し遠出してもいいかと思って。夏休みもとくに出かけなかったでしょう?」
「うん……」
首を傾げつつカップを置いて画面を覗き込んだ茜は、ほどなくしてきらきらと目を輝かせた。
「この美術館、どこにあるんですか……!?」
「山梨県の河口湖ですよ。車で一時間ちょっとで行けると思います。あと、この美術館とカフェもどうですか?」
「わ……行きたい! ここ行きたいです! すごい、絵本の中みたい!」
美術館やカフェの写真を見て、茜は珍しくはしゃいだ様子で頬を紅潮させた。予想通りに食いついてきた彼女の姿に思わず頬が緩む。
「じゃあ来週、行きましょう。平日ならそれほど混んでいないでしょうし」
「うん! 楽しみにしてますね!」
大きく頷いて笑みを見せる茜に、夏癸も微笑みを返した。
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