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37.夏癸の誕生日

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「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「よかったぁ……」
「茜、料理上手になりましたね」
「えへへ……今日はとくに頑張りましたっ」

 七月二十三日、夏癸の誕生日当日。
 茜が張り切って一人で用意した夕飯を彼は喜んで完食してくれた。桃とトマトと生ハムの冷製パスタ(桃が余っているのでパスタにも使ってみた)、温泉卵をトッピングしてパルメザンチーズをたっぷりかけたシーザーサラダ、滑らかな舌触りになるよう気を付けて丁寧に作ったヴィシソワーズ。
 しっかり味見をして出来栄えには満足していたけれど、実際に喜んでもらえるとやっぱり嬉しい。思わず照れ笑いを浮かべてしまう茜だったが、大事なものの存在を思い出して慌てて声を上げた。
 
「あっ、ケーキ! ケーキ持ってきますね!」
 
 夕飯を食べ終えたら満足してしまい、せっかく作ったケーキのことを危うく忘れてしまうところだった。お腹は満たされているが甘いものは別腹なので、ケーキ一切れ分くらいは余裕が残っている。
 
「ムースケーキ作ってみたんです」
 
 ヨーグルトムースと桃のゼリーを作って二層になったホールケーキ。切った桃を花びらのように並べて飾り付けるのは苦労したけれど、頑張った甲斐あって見た目も綺麗に仕上がった。味ももちろん美味しくできた、はずだ。
 いままで誕生日ケーキは買ってくることばかりだったので、作るのは初めてだった。
 少し緊張しながらケーキを運ぶと座卓に置かれたケーキを見るなり夏癸は顔を綻ばせた。
 
「すごい、お店で売っているものみたいですね。美味しそうです」
「あ、ありがとうございます……! いま切りますね」
 
 包丁と皿とフォークを持ってきて、形を崩さないように慎重にケーキを切り分ける。先に夏癸の分を切って彼の前に皿を置いてから、自分の分は少し小さめに切り分けた。
 
「あ、あと、もうひとつ、渡したいものがあって! 持ってきますね……!」
 
 先にケーキ食べててください、と言ってから茜は急いで二階の自室に向かった。
 夏癸が誕生日を祝ってくれるときはいつももっとスマートなのに、自分でやるとばたばたしてしまう。昨日書いた手紙を机の引き出しに入れたままだった。本当に渡していいものか一瞬躊躇したけれど、頭を振って躊躇いを吹き飛ばした。封をした手紙をそっと持って部屋を出る。
 居間に戻ると、夏癸はケーキに手をつけずに待っていてくれた。
 
「食べててよかったのに……」
「せっかくですから、一緒に食べようかと」
 
 にこやかに言う夏癸の向かいに座り直した茜は、少しだけ緊張した面持ちを浮かべていた。
 
「夏癸さん、二十八歳のお誕生日おめでとうございます。あの、これ、プレゼントというほどのものでもないんですけど……」
 
 持ってきた手紙を、思い切って差し出す。顔はつい俯きがちになっていた。
 
「ファンレター、書いてみました。前に、欲しいって、夏癸さん言ってたから……」
 
 夏癸からの反応は、なかった。
 おずおずと顔を上げると、彼は眼鏡のレンズ越しに目を丸くしていた。
 
「もらって、いいんですか?」
「は、はい」
「ありがとうございます。……すごく、嬉しいです」
 
 夏癸の声がなんだか震えているような気がした。気のせいかも、しれないけれど。
 とりあえず手紙を受け取ってもらえたことにほっとする。
 
「いま読んでもいいですか?」
「だ、だめ! 恥ずかしいからだめです!」
「……わかりました。あとでゆっくり読みますね」
 
 手紙を開けようとした夏癸を慌てて止めると、彼は軽く苦笑しつつ手紙を置いてくれた。
 
「ケーキ、いただきますね」
「ど、どうぞ!」

 再び緊張して固唾を呑む。ムースケーキにフォークを差し入れて一口分を口に運んだ夏癸は頬を緩めた。
 
「うん、美味しいですよ。さっぱりしていていいですね」
「よかったぁ……」
 
 美味しいと言ってくれたことに安堵して、茜も自分の分のケーキを口に入れる。
 桃の甘さとヨーグルトムースの爽やかな味わいが調和している。作っている途中でもちろん味見はしたけれど、完成したものがきちんと美味しく仕上がっていて改めて安心する茜だった。
 
 ***
 
『夏癸さんへ
 
 こんにちは。茜です。初めてお手紙を書かせていただきます。
 こんな風に夏癸さんに手紙を書くのは初めてなのでなんだか緊張しています。
 まずはお誕生日おめでとうございます。今年のプレゼントは何にしようかな、何をあげたら喜んでもらえるかなとたくさん考えましたが、何かを買うのも作るのもしっくりこなかったのでこうしてファンレターを書くことに決めました。読んでもらえたら嬉しいです。
  
 私が初めて夏癸さんの小説を読んだのは小学三年生のときです。母との会話の中で夏癸さんが小説を書くお仕事をしていると知り、家の本棚に並んでいる本の背表紙に書かれた日向夏癸という名前が、近所の夏癸おにいちゃんと結びついてびっくりしたことを覚えています。
 
 初めて読んだ作品はデビュー作の『月の贈り物』でした。当時は児童書ばかり読んでいた私には少し難しい内容でしたが、わからない漢字や言葉の意味は母に聞きながら、少しずつ読み進めていきました。主人公の優月くんの家族を亡くした寂しい気持ちに共感して泣いてしまう場面もありましたが、読み終わった後は心が温かくなったことを今でも覚えています。夏癸さんの本をもっと読みたいと思って、すぐに二作目も読み始めました。次の本からは自分で辞書を引きながら読んでいました。
 
 夏癸さんが書く小説はどの作品も最後は優しくて温かい終わり方なのが大好きです。どんなときに読んでも心に寄り添ってくれる物語だと思います。つらいことがあったときにはいつも私の心を救ってくれます。全部の作品が大好きなのですが、とくに好きなのは『優しい午後』です。主人公の里香ちゃんが中学生の女の子だということもあり、とくに感情移入して読みました。里香ちゃんは内気な私とは違って明るく元気な女の子ですが、本当は寂しがり屋で幼い頃のトラウマを抱えているところに共通点を感じて――』
 
 就寝前、布団の中で茜からの手紙を読み終えた夏癸は、眦に思わず浮かんだ涙を指先でそっと拭った。
 茜の気持ちが籠った八枚の便箋は、『それでは、暑い日が続きますがお身体にお気を付けてお過ごしください。これからも応援しています。茜より』という定番の文章で締めくくられていた。
 ファンレターはこれまでもたくさんもらってきたが、いままでにもらったどの手紙よりも嬉しい。まさか、一番身近な読者である茜からこうして形にした感想を贈ってもらえるとは思っていなかった。間違いなく、今日が人生で一番の誕生日だ。
 
 夏癸の小説に救われたと茜は書いてくれたが、夏癸自身も間違いなく彼女の存在に救われている。いまの夏癸が小説を書き続けられる理由は、茜が傍にいてくれるからに他ならない。
 もう一度頭から読み返そうとして、ふと、頭の中に浮かぶ情景があった。続けて、相応しい文章が思い浮かぶ。
 書きかけの長編小説のいまだ書けずにいるラストシーン。どうすればいいのか、ようやく思いついた。
 
 ノートパソコンを立ち上げる僅かな時間さえ惜しい。脳裏に浮かんだ断片的な文章が消えてしまわないうちに、スマホのメモ帳に打ち込んでいく。狭い画面に無心で文章を入力し続けているうちに気付けば一時間近くが経っていた。ずっと同じ姿勢でいたために肩が凝っている。――書けた。ようやく、物語に相応しい終わりを見つけることができた。
 思わず笑みを浮かべる。微かな疲労感とともに晴れやかな気持ちだった。
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