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16.修学旅行、初日

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 生まれて初めて乗る新幹線は定刻通りに走り、窓の外の景色はあっという間に移り変わっていく。きちんと酔い止めを飲んだので、乗り物酔いの心配もいまのところはなかった。

「茜ちゃん、風邪治ってよかったね」
「そうだよ! 修学旅行来れるか心配したんだよー!」

 並んで座っているなずなと柚香に口々に言われ、三列シートの通路側に座った茜は微かに口元を緩め頷いた。

「うん。心配かけてごめんね」

 今日から二泊三日の修学旅行だ。土日を挟んでしっかり休んだおかげで体調はすっかり良くなっていた。宿泊に対する不安感は完全には拭えていないけれど、当日になってみると心配よりも楽しみな気持ちが上回っていた。

「お土産なに買うか決めたー? お母さんに聞いたらなんでもいいって言うから逆に困る」
「私はあぶらとり紙頼まれたよ。あとやっぱり八ツ橋かなー。それと抹茶のお菓子は絶対買うでしょ」
「それは自分用じゃん! 茜は? 日向さんにお土産どうする?」
「わたしもちょっと悩んでて……やっぱり八ツ橋かな。夏癸さん甘いもの好きだし、なんでも喜んでくれると思うけど」

 一応出発前にお土産は何がいいか夏癸に尋ねてみたのだが、「茜が欲しいものを買ってきていいですよ」と予想通りの答えが返ってきた。小学校の修学旅行のときにも同じことを言われたし、一緒に食べたいと思って買ったお菓子をあげたら喜んでもらえたけれど。
 どうせなら本当に夏癸が喜んでくれるものをお土産にしたいなと思う茜だが、お小遣いで買えるものは限られているのでやはりお菓子が無難だろうか。

「でもさー、どうせ関西行くなら初日は奈良じゃなくて大阪がよかったなぁ。USJとかさぁ」
「わかるけど……でも京都奈良って定番じゃない?」
「定番すぎー!」
「わたしは奈良も結構楽しみだよ。春日大社とか綺麗だし……」

 他愛のないお喋りをしているうちに新幹線内での時間は過ぎていく。
 名古屋を通過する頃に少し早めの昼食としてお弁当と紙パックの緑茶が配られた。朝が早かったので食欲は普通にあるのだが、品数の多い幕の内弁当は全部食べ切ることができなくて柚香におかずをいくつか食べてもらった。

 食べ終えたお弁当のごみをまとめて捨ててきてから、茜はふと腕時計に目をやった。
 新大阪で降りる予定だが、まだ二十分くらい時間がある。駅に着いてからはすぐに移動することになるので、トイレは車内で済ませておくように言われている。そろそろ行っておいたほうがいいかもしれない。そう思っていると、ふいに柚香が腰を浮かせた。

「トイレ行ってくる。茜は?」
「あ……うん。わたしも行く」

 ちょうどいいタイミングで誘われたので、柚香と連れ立って席を立つ。なずなはお昼を食べる少し前にトイレに立っていたので、柚香と二人でデッキへ向かった。トイレの前には生徒が何人か並んでいたけれど幸いすぐに順番が回ってきたので、さほど待つことなく済ませることができて安心する茜だった。

***

 新大阪駅で新幹線を降りてからは、貸し切りバスで法隆寺まで移動した。集合写真を撮ってから有名な五重塔や金堂を見学し、ようやく修学旅行の実感が湧いてきた。

(夏癸さんも、奈良とか京都とか、修学旅行で行ったのかな……?)

 いままで教科書やガイドブックの中でしか見たことのなかった景色を眺めながら、そんなことを考えてしまう。夏癸は高校生のときにあの家で一人暮らしを始めたということを聞いたことがあるから、中学生のときはほかの場所に住んでいたのだろう。自分と同じ年頃の夏癸はどのような男の子だったのか、全く想像がつかない。

「――茜? 移動するって」
「あ、うん」

 つい考え事をしてしまったせいで先生の話が聞こえていなかった。近くにいた柚香に呼ばれて、慌てて足を動かす。
 再びバスに乗り、次に向かったのは奈良公園だった。ここでは班ごとに行動することになっている。男女混合で、茜のほかには柚香となずな、そして椋と彼の友人らしい小森こもり大樹だいきが班のメンバーになっていた。班長は椋だ。最初の話し合いで班長を決めるときに彼が真っ先に立候補してくれた。

 班を決めるときに男女混じって五人か六人なら好きな人同士で組んでいいと言われたので、柚香たちと一緒の班になれて安心していた。大樹とは一年生のときも同じクラスだったのだがあまり話したことがない。だが、柚香やなずなと気さくに話しているし、苦手なタイプの男子ではないので茜もほとんど緊張してはいなかった。
 班行動では事前に決めた計画通りに動くことになっている。まずは興福寺に向かうのだが、皆のあとについて歩きながら茜は顔を曇らせた。膝頭をそっと擦り合わせる。

(どうしよう、トイレ行きたくなっちゃった……)

 新幹線でトイレを済ませてからすでに時間が経っている。水分を摂るのは控えてなるべく意識しないようにしていたけれど、そろそろ無視できないレベルの尿意を催していた。見学を始める前に済ませておきたいと思うけれど、班行動を始めていきなりトイレに行きたいと言い出すのは気後れしてしまう。男子も一緒にいるから尚更だ。
 もう少しだけ我慢してから、タイミングを見計らって柚香にこっそり言おうかなと考えていると、ふいになずなが小さく片手を挙げた。

「ねえ、ごめん。先にトイレ行ってもいい?」
「ん、いいよ。河野たちもいい?」
「いいよー」

 椋からの問いかけに軽い声で柚香が応える。茜も小さく頷いた。
 地図を見ている椋と大樹が「トイレはあっちじゃない?」と指差しつつ先に歩いていく。彼らの後ろをついていくと、ほどなくしてトイレの建物が見えてきたのでほっとした。
 歩きながらふと、なずなの様子が気になったのでそっと窺う。なずなは落ち着いた表情をしながらも両手でスカートの端を握っていた。もしかしたらかなり我慢しているのかもしれない。

(なずなちゃん、大丈夫かな……)

 心配になりながらも、トイレに行けるとなった途端に尿意が高まってきた気がして、茜も人を気遣う余裕はあまりなかった。下腹部がずんと重たい。ぎゅうと太腿に力を込めつつ、表情には出さないようになんとか平静を装う。
 トイレまであと少し、という距離になって突然なずなが小走りになった。ぱたぱた、と足音を立てながら女子トイレに駆け込んでいくのを思わず呆然と見送ってしまう。

「大丈夫かな……。茜は? トイレ平気?」
「えっ、えっと、行っておきたい」
「あたしも一応行っとこ。じゃあ、ちょっと待っててー」

 柚香が男子二人に声をかける。茜はなるべく平静を装いながらもそそくさと中に足を踏み入れた。幸い個室がいくつか空いていたので、手近なところに入って扉を閉める。

「は、ぁ……」

 便座に腰を下ろして音消しの擬音を流しながら、緊張していた身体から力を抜く。しょろろ……と微かな水音が擬音に混ざりながら水面を叩いた。お腹の中が軽くなっていき、ほっとする。水を流して個室から出ると、先に出ていたなずなが手を洗っていた。

「なずな、大丈夫?」

 茜とほぼ同時にトイレから出てきた柚香が心配そうに声をかける。なずなは少し恥ずかしそうに苦笑を浮かべた。

「大丈夫、ギリギリセーフ」
「もう、もっと早く言いなよー!」
「ごめん、我慢できるかと思って……」
「そんな茜みたいなこと言わないでさー」
「……っ」

 柚香の突っ込みに、手を洗いながら思わず顔が赤くなる。茜自身ももう少し我慢できるつもりでいたので反論することはできなかった。彼女が言い出してくれなければ危なかったかもしれないので、なずなちゃんありがとう、と心の中でひそかに感謝する。
 三人で女子トイレを出て、外で待っていた男子二人と合流する。改めて目的地へ向かって歩き出した。

 興福寺の国宝館や東大寺の大仏殿など、事前に立てた計画通りに見学していく。あとで旅行記を作らなければいけないので周りの人の邪魔にならないようにして時々写真を撮る。
 茜たちが通う中学校はわりと校則が緩いので修学旅行に携帯やスマホの持ち込みは許可されていた。消灯後の使用は禁止されているが、見学中にカメラ代わりに使用するのは問題ない。

「茜、なずな、写真撮ろー」
「俺が撮ろうか?」
「いいの? ありがとー」

 三人で自撮りをしようとする柚香に、椋が声をかけて彼のスマホで撮影してくれる。撮った写真はその場ですぐに共有してくれた。

「そろそろ次行こうぜ。見学する時間なくなっちゃうだろ」
「はーい」

 大樹に促されて、最後の見学場所である春日大社に向かって歩き出す。なずなと柚香と並んで歩いていた茜だが、ふと、背負っているリュックに何かが当たっているような気がして何気なく後ろを振り返った。

「ひゃっ」

 思わず声を上げてしまう。すぐ真後ろに鹿がいたのだ。

「どうしたの!?」
「ご、ごめん、鹿が……近くに来たから……」
「鹿せんべい欲しいのかな? ごめんねー持ってないよ」

 あまりに間近にいたので少し恐怖心を覚えてしまう。両手を広げて何も持ってないことを示す柚香に茜も倣うと、近寄ってきた鹿はすぐに身を翻していった。
 奈良公園に鹿がたくさんいることは知っていたけれど、思っていた以上に公園内のあちこちにいる。

「椎名さん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ごめんね、ちょっとびっくりしただけ」

 足を止めて心配してくれた椋に頷いてみせる。驚いて変な声を上げてしまったので少し恥ずかしい。近くを歩いている鹿に気を付けつつ、気を取り直して春日大社へと向かった。
 周囲を木々に囲まれた参道は静謐な雰囲気が漂っている。時折優しく吹く風が心地良い。歩き通しで少し疲れを感じているが、都内とは異なる清浄な空気の中を歩くのは気持ちが良かった。
 しばらく参道を歩いていると、やがて大きな楼門が目に飛び込んできた。鮮やかな朱色が美しい。重要文化財にもなっている南門だ。

「わぁ、綺麗……っ!」

 思わず声が出てしまう。写真で見たときから綺麗だなと思っていたけれど、実物を目にすると圧巻だった。
 南門をくぐって境内に入り、せっかく来たのだから特別参拝をしようということになり、初穂料を納めて回廊内へ足を踏み入れる。歩きながら、朱塗りの回廊やたくさんの釣燈籠に目を奪われた。神秘的な雰囲気に圧倒されてしまったせいか、茜だけでなくみんな自然と口数が減っていた。
 中門前での参拝を終えてから、社務所の前でふと柚香が足を止めた。

「鹿みくじだって! かわいいー!」

 鹿の形をした小さな置物が口におみくじを咥えている。その可愛らしさについ目を引かれてしまった。

「ね、引こう?」
「うん」
「二人はどうする?」
「俺たちはいいや。あっちで待ってるから」

 女子三人はすぐに財布を取り出したが、椋と大樹は興味がないようで少し離れたところで待っていることになった。

「やった、大吉!」
「私は中吉だー」

 開いたおみくじを見て、柚香となずなははしゃいだ声を上げる。茜はというと、書かれていた文字を見て思わず眉をひそめた。

「茜はどうだった?」
「えーと、末吉、みたい」

 凶ではないけれど、あまり良くもないような気がしてつい落ち込んでしまいそうになる。

「でも、末吉って末広がりって意味だからそんなに悪くないみたいだよ」
「そうなの?」
「うん。前、なにかで読んだよ」

 なずなにそう言われて、改めておみくじに書かれている内容を読んでみる。確かに、願望や待人などの項目に書かれていることは決して悪くはない。概ね、焦らずに時を待てというようなことが書いてあった。落ち込む必要はないのかもしれない。

「そろそろ行こうか。遅れるといけないし」

 二人に声をかけて足を踏み出す。修学旅行は幕を開けたばかりだ。
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