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4.雷雨の夜

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 ある日の真夜中、茜はふと目を覚ました。部屋の中はまだ薄暗い。豆電球の明かりだけが仄かに室内を照らしている。布団の中でぼんやりしていると激しい雨音が耳に入ってきた。夕方から降り始めた雨が勢いを増しているみたいだ。
 寝直そうと思い目を瞑るが、すぐに茜はもう一度目を開いてしまった。

 下腹部の重さに眉を寄せる。寝る前にきちんとトイレを済ませたはずなのに、このように夜中に尿意を覚えて起きてしまうことが時々ある。もちろん、目を覚まさずに布団を汚す羽目になるよりはずっと良いのだが、夜中にトイレに行くのは苦手だからできることなら朝まで目を覚ましたくない。
 しかし、このまま尿意を無視して眠ることなどできない。布団を濡らすような失敗はしたくない。
 仕方なく起き上がろうとすると、ふいにカーテンの隙間から白い光が見えた。次いで聞こえてきた雷鳴に、茜は布団の中で身体を縮めた。

「うぅ……なんで……っ」

 泣きそうな声が唇から零れる。ただでさえ夜中にトイレに行くのが嫌なのに、雷まで鳴っているなんて。茜は布団の中でもじもじと両膝を擦り合わせた。そうしている間にも再び雷鳴が響く。
 早くトイレに行かなきゃいけないとわかってはいる。だけど、怖い。
 せめてもう少し雷が弱くなってからトイレに向かおうと決めて、茜は身体を丸めた。もう少しくらいなら我慢できる、大丈夫だと自分に言い聞かせる。

 雷が鳴るたびに肩を震わせ、我慢しているものが決壊してしまわないように太腿をきつく寄せる。時折強い波に襲われると、パジャマのズボンをぎゅっと握り締めた。
 時間の経過とともに少しずつ下腹部が張り詰めていく。雨脚は弱まるどころか強くなっていき、雷は近付いてきているようだった。
 カーテンの僅かな隙間から青白く光ったかと思うと、数秒もせずに激しい音が轟く。恐怖に身を竦ませると同時に、ぞくりと嫌な寒気が背中を震わせた。

(だめ、もう我慢できない……!)

 限界が近いことを悟り、茜は意を決して布団から抜け出した。
 お腹に変な力を入れないように慎重に足を進める。向かうのは廊下に続く襖――ではなく、隣の部屋へ続く襖だ。
 そっと襖を開ける。小さな明かりがついてないと怖くて眠れない茜の部屋とは違い、隣の部屋の中は真っ暗だ。そろそろと布団に歩み寄り、傍らにぺたんと膝をつく。

「な、夏癸さん。夏癸さん、ごめんなさい、起きて」

 布団の上から身体を揺する。切羽詰っているせいか、声が震えてしまう。
 静かに眠っている夏癸を起こすのを申し訳なく思いながらも、もう一度、夏癸さん、と呼びかけると、彼は瞼を震わせてゆっくりと目を開いた。

「……茜?」

 夏癸はぼんやりとした目を茜に向けると、身体を起こしながら枕元に置いてある眼鏡をかけた。レンズ越しの双眸が、暗がりの中で泣きそうになっている茜の顔を覗き込む。

「トイレですか?」

 優しい声で問われて、茜はこくこくと頷いた。途端にぞわぞわと震えが走って、思わずズボンの前をぎゅっと押さえつけてしまう。お腹が張り詰めていて、苦しい。早くしないと、このままではパジャマを汚してしまうかもしれない。

「夏癸さん、ついて、きて」

 絞り出した声は情けないほどに震えていた。
 茜の声と仕草で限界が近いことを察したのか、夏癸はすぐに立ち上がり手を伸ばしてくれた。しかし茜はその手を取ることができず、じっと身体を丸めたまま動けなかった。
 じん、と膀胱が疼く。下手に動くと出てきてしまいそうで。

「立てませんか?」
「ご、ごめ、なさっ」
「大丈夫ですから、落ち着きなさい」

 夏癸は膝を折ると、そっと肩に手を載せた。焦らなくていいし、万が一このまま限界を迎えてしまっても怒ったりはしないと、優しい手が伝えてくれる。
 茜はぎゅっと目を瞑って強い波に耐えた。
 手のひらにじっとりと汗が滲んでくる。その間にも何度も大きな雷鳴が聞こえ、その度に茜は身を竦ませていた。

「……っ」

 波をやり過ごすとほんの少しだけ余裕が生まれ、茜は短い息を吐くとよろよろと立ち上がった。いくらなんでも、夏癸の部屋で粗相をしてしまうことだけは絶対に避けたい。
 立ち上がった夏癸に、縋りつくように片手を伸ばす。もう片方の手はパジャマの真ん中をしっかりと押さえて離すことができなかった。
 茜の手をそっと引いて、夏癸は暗い廊下へと足を進めた。
 恐怖と尿意に震えている茜を勇気づけるように手を握ってくれるが、それに応える力は彼女にはもうなく、ただ前を歩く夏癸の後について必死に足を進めるしかなかった。

「だ、めぇ、もう、だめ、もれちゃう……」
「大丈夫ですよ。あと少しですから」

 うわ言のように呟く茜に返す夏癸の声はどこまでも優しい。
 怖いなんて言っていないでもっと早くトイレに行こうとすればよかった。きっと夏癸はいまと同じようについてきてくれたのに。後悔ばかりがぐるぐると頭の中で渦巻く。
 雷が鳴るたびに止まりそうになる足をなんとか動かし、階段を一歩一歩下りてあと少しでトイレに着く、というその時だった。
 廊下にある窓の外が一面青白く光った。間髪を入れずに轟音が鳴り響く。

「ゃっ……!」

 声にならない悲鳴が唇から漏れた。びくっと身体が竦み、足が動かなくなる。さすがに夏癸も驚いたのか、息を呑むのがわかった。
 身体から力が抜けて、しょろ、と温かい感触が下着を濡らした。茜は慌てて押さえる手に力を込めたが、それ以上の決壊を食い止めることはできず、水流が下着を突き抜けて手のひらにもじわじわと熱を広げていく。押さえた指の間から溢れ出したおしっこが太腿を伝い落ちて、水音が床を叩いた。

 しぃぃ、ぴちゃぴちゃ。廊下に響く小さな水音が外の雷雨よりもやけに耳につく。
 その場から動くことは叶わず、水音が止むまで茜はじっと身を固くしていることしかできなかった。
 永遠にも等しく感じられた数十秒が過ぎ、ぴちゃん、と雫が落ちて水音が止まった。
 再び激しい雨音が耳につく。あれほど重たくて苦しかったお腹はすっかり軽くなっていたが、茜は解放感よりも恥ずかしさに襲われていた。足元には大きな水溜まりが広がっている。濡れた下肢に纏わりつく液体が冷えて気持ち悪い。

「……ぅっ」

 口を開くと嗚咽が漏れた。泣いたってどうしようもないのに、ぼろぼろと涙が零れ落ちてきて止まらない。俯いてぐすぐすと泣きじゃくっていると、ふいに優しい手が髪を撫でた。

「さっきのはさすがにびっくりしましたね」
「……ごめん、なさ……我慢できなくて……っ」
「大丈夫ですよ。怖くて布団から出られなかったんでしょう?」

 茜はうっと言葉に詰まって、やがて小さく頷いた。雷が怖くてギリギリまで我慢してしまったことはすっかり見透かされている。その結果、我慢できずにおしっこを漏らしてしまったことに対しても、夏癸は怒ることもなければ呆れている様子もなかった。
 ごめんなさい、ともう一度か細い声で呟く。夏癸は僅かに微笑みを浮かべて、ぽんぽんと茜の頭を軽く叩いた。

「謝ることはないですよ。それより、そのままだと気持ち悪いでしょう?」

 着替えに行きましょうと促され、足を踏み出す。先ほどよりは遠ざかってきたものの変わらず雷の音が聞こえてくる。けれど一人で布団に包まっていたときに感じていたほどの恐怖感は薄れていた。
 夏癸の温かな手に引かれて、茜は濡れた足でぺたぺたと廊下を歩いていった。


 電気をつけてもらったもののどことなく薄暗い廊下をびくびくしながら歩いて洗面所へ向かう。夜中の廊下なんて一人だったら怖くてとても歩けない。

「廊下、片付けてきますね。茜は着替えて――」
「ゃっ、ま、待って!」

 夏癸はバケツと雑巾だけを持ってすぐに洗面所を出て行こうとしたが、茜はとっさに引き留めてしまった。
 深夜の風呂場は明るくてもなんとなくひんやりとした空気が漂っていて、外から聞こえてくる雨音がさらに不気味さを強調させている。そんな中に一人で入って身体を洗うなんて怖くて仕方ない。

「こ、怖いから、夏癸さんここにいてください……!」
「……ここにですか?」

 夏癸は少し困ったように首を傾げた。

「構いませんけど、嫌じゃありませんか?」
「ちょっと、恥ずかしい、けど……えっと、あの、じゃあ後ろ向いててくださいっ」
「わかりました。わかりましたから、早くシャワー使ってきなさい」

 かなりわがままなお願いをしていると自覚しながらも言う茜に苦笑しつつ、夏癸は従ってくれた。
 洗面所のドアの方を向いてくれた夏癸の背中を横目でちらっと眺めながら、茜は濡れたズボンと下着を脱いで浴室に入った。密室のようになるのが怖いので、浴室のドアは半分だけ開けておいて夏癸の姿が視界に入るようにしておく。
 汚れた下肢を手早くシャワーで洗い流して、汚してしまったパジャマと下着も軽くすすいで絞っておく。
 タオルで素早く身体を拭いて洗面所へ戻ると、汚れものをすべて洗濯機へ入れて、洗面台脇の収納から出した新しい下着とパジャマのズボンを身に着けた。

「着替え、終わりましたっ」

 数分で着替えを終え、夏癸に声をかける。夏癸は相変わらずの苦笑を浮かべたままこちらを振り向いた。

「あとは私がやっておきますから、茜は先に寝なさい。明日も学校でしょう?」
「い、いやです、ちゃんと自分で片付けるからっ」

 いくらなんでも、自分が汚してしまった床を夏癸だけに片付けさせるわけにはいかない。
茜は半ば強引に彼の手からバケツと雑巾を奪った。
 水を汲んで廊下に出ようとしたが、薄暗さにやはり足が竦んでしまう。
 電気がついているから真っ暗ではないのに、古い照明器具は明かりがぼんやりとしていて廊下の隅の暗さなどが逆に気になってしまう。あの暗がりの中には何か恐ろしいものが潜んでいるのではないかと、そんなことはないはずなのに、幼い頃からどうしても悪い想像ばかりしてしまうのだ。
 子どもの頃から変わらず怖がりな茜を笑うことなどなく、夏癸はそっと彼女の手からバケツを取った。もう片方の手には新しく出してきた雑巾を持っている。

「早く片付けてしまって、一緒に寝ましょうか。こんな時間に起きてしまったら、一人じゃ眠れないでしょう?」

 図星を突かれて、茜はうぅっと小さく呻いた。
 トイレに起きたり、怖い夢を見て目を覚ましてしまったりと、夜中に一度目を覚ましてしまうと一人の部屋ではどうしても寝付けなくなってしまうのだ。そういうときはいつも夏癸の部屋に布団を持っていってしまう。彼が隣にいてくれると、不思議と安心して眠ることができるから。
 ――もっと小さい頃には勝手に夏癸の布団に潜りこんでしまうこともあったが、さすがにもうそんなことはしないし、いくら怖がりとはいえそこまで子どもではない。

「雷もまだ鳴っていますし、怖かったら添い寝してあげましょうか?」
「そこまではしなくて大丈夫ですっ。もう、早く片付けますね!」

 真面目に言っているのか冗談なのかわからない夏癸の言葉に頬を赤く染めて、茜は急いで廊下に出ると濡れた床を拭き始めた。
 恥ずかしさに圧倒されて、廊下の暗がりや雷に対する恐怖心はいつの間にか気にならなくなっていた。
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