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7 手をさわられた!
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日が完全に昇り切る前に、イリヤは自宅のマンションに帰って来た。彼女の勤務時間は、午後6時から休憩3時間を挟んで午前4時までとなっている。
これは、夜が明ける前に家に帰ることができるよう病院が配慮したイリヤだけの勤務形態だ。
帰宅したイリヤは、玄関のドアを閉めると同時に靴を脱ぎ捨てる。普段の彼女ではありえない感情的な行動だったが、イリヤ本人は気付いていない。
そして、リビングに入るなり持っていた鞄を放り出すように床へと置いて座り込む。
「どうしよう。人間の、お、男の人に手を触られちゃった……!」
ドアを閉めるまで表情ひとつ変えていなかったイリヤの顔が、今ではトマトのように赤くなっている。純粋培養そのものの言葉を発した彼女は、その場から動けずにいた。
それもそのはずで、実はイリヤは異世界では名家の生まれであった。イリヤが生を享けたセルヴォワーズ家は、吸血鬼の一族の中でも支配層にあたる貴族に位置しており、現当主の一人娘であるイリヤはとても大事に育てられたのである。
異世界にいた頃のイリヤが手を繋いだことがあるのは、父親か親族の男性のみで、他家の男性はもちろん、人間の男に至っては指先すら触られたことはなかった。
故郷を出て人間の世界に来てからは、異性を含めて人間との接触は格段に増えたが、あのようにしっかりと手を掴まれたことは、今まで一度も経験が無かったのだ。
「家泉さんの手って、大きくてあたたかい手だった。人間の男性ってみんなこうなの?」
言葉にすると、より実感が出てきてイリヤは落ち着きつつあった自分の心臓が、またばくばくと音を立てるのがわかった。
家泉が、流水で手を冷やしてくれた時のことを思い出す。迷いなく給湯室に連れて行ってくれて、手当の間はずっとイリヤの手を握っていた。冷たい水の中にも関わらず、家泉の体温が温かく感じられたのが不思議で仕方ない。
異世界の住人である彼女にとって人間とは、特殊な存在だった。
なぜなら、異世界では人間自体の数が少ないのだ。昔は多かったらしいが、イリヤが生まれた頃から人間は減り始め、20年前には500人もいるかどうかになっていた。
人間の人口減少は、そのまま吸血鬼の食料事情に直結し、吸血鬼の社会に大きな影響をもたらした。つまり、異世界に住む人間の減少が吸血鬼たちとこの世界の人間の間に協定を結ばせた原因だったのだ。
そんな環境で育ったイリヤにしてみれば、人間とは貴重な血を分けてくれる守るべき弱い存在だと思い込んでいた。その価値観を覆すほど、家泉に手当をしてもらった経験は大きな衝撃であった。
どうしていいかわからないまま、部屋の真ん中で座っているだけで30分が過ぎようとしていた時、別の部屋のドアが開いて中から1人の女性が出てきた。
「一体、朝から何を騒いでいるのかしら」
入ってきたのは、金髪碧眼の背が高い吸血鬼だった。絵画から抜け出たような美女だが、Tシャツに短パンというラフな服装に、長い髪をポニーテールでまとめた姿は彼女が人間社会に馴染みきっていることを示していた。
「リシェ!帰ってたの?」
イリヤが驚くと、リシェと呼ばれた女性は腕組みをした。彼女はイリヤの幼馴染であり、ルームメイトでもある。
リシェが話しかけた。
「仕事が落ち着いてきたから定時で上がったの。今日は休み。それよりも、あなたが帰るなりブツブツ言ってるのに驚いたわ。どうしたの?」
「それが、リシェ。人間の男の人にはじめて手を掴まれたのよ!」
「初めてのわけないでしょう。大体、あなたはトラブル対策で採用された事務員なのだから、異性との接触なんて山ほどあるんじゃなくて?」
「トラブル解決するのにいちいち手なんて触る必要無いわ。びっくりしたのは、やけどした私の手を握って水で冷やしてくれたからなの。今までそんなふうに人間に手を触られたことがなかったし、すごくパニックになっちゃった」
「別にそんなに動揺しなくていいじゃない」
「だって、その男の人……家泉さんがとても頼もしく感じて。そして、そんなこと考えた自分にもびっくりしたわ。なんだか、もうどうしていいかわからない」
イリヤは左手を見つめて話し続ける。
やけどの痕はもう無かったが、手には家泉の温かさが残っているような気がして、彼が触った部分をずっと眺めていたいと思った。
これは、夜が明ける前に家に帰ることができるよう病院が配慮したイリヤだけの勤務形態だ。
帰宅したイリヤは、玄関のドアを閉めると同時に靴を脱ぎ捨てる。普段の彼女ではありえない感情的な行動だったが、イリヤ本人は気付いていない。
そして、リビングに入るなり持っていた鞄を放り出すように床へと置いて座り込む。
「どうしよう。人間の、お、男の人に手を触られちゃった……!」
ドアを閉めるまで表情ひとつ変えていなかったイリヤの顔が、今ではトマトのように赤くなっている。純粋培養そのものの言葉を発した彼女は、その場から動けずにいた。
それもそのはずで、実はイリヤは異世界では名家の生まれであった。イリヤが生を享けたセルヴォワーズ家は、吸血鬼の一族の中でも支配層にあたる貴族に位置しており、現当主の一人娘であるイリヤはとても大事に育てられたのである。
異世界にいた頃のイリヤが手を繋いだことがあるのは、父親か親族の男性のみで、他家の男性はもちろん、人間の男に至っては指先すら触られたことはなかった。
故郷を出て人間の世界に来てからは、異性を含めて人間との接触は格段に増えたが、あのようにしっかりと手を掴まれたことは、今まで一度も経験が無かったのだ。
「家泉さんの手って、大きくてあたたかい手だった。人間の男性ってみんなこうなの?」
言葉にすると、より実感が出てきてイリヤは落ち着きつつあった自分の心臓が、またばくばくと音を立てるのがわかった。
家泉が、流水で手を冷やしてくれた時のことを思い出す。迷いなく給湯室に連れて行ってくれて、手当の間はずっとイリヤの手を握っていた。冷たい水の中にも関わらず、家泉の体温が温かく感じられたのが不思議で仕方ない。
異世界の住人である彼女にとって人間とは、特殊な存在だった。
なぜなら、異世界では人間自体の数が少ないのだ。昔は多かったらしいが、イリヤが生まれた頃から人間は減り始め、20年前には500人もいるかどうかになっていた。
人間の人口減少は、そのまま吸血鬼の食料事情に直結し、吸血鬼の社会に大きな影響をもたらした。つまり、異世界に住む人間の減少が吸血鬼たちとこの世界の人間の間に協定を結ばせた原因だったのだ。
そんな環境で育ったイリヤにしてみれば、人間とは貴重な血を分けてくれる守るべき弱い存在だと思い込んでいた。その価値観を覆すほど、家泉に手当をしてもらった経験は大きな衝撃であった。
どうしていいかわからないまま、部屋の真ん中で座っているだけで30分が過ぎようとしていた時、別の部屋のドアが開いて中から1人の女性が出てきた。
「一体、朝から何を騒いでいるのかしら」
入ってきたのは、金髪碧眼の背が高い吸血鬼だった。絵画から抜け出たような美女だが、Tシャツに短パンというラフな服装に、長い髪をポニーテールでまとめた姿は彼女が人間社会に馴染みきっていることを示していた。
「リシェ!帰ってたの?」
イリヤが驚くと、リシェと呼ばれた女性は腕組みをした。彼女はイリヤの幼馴染であり、ルームメイトでもある。
リシェが話しかけた。
「仕事が落ち着いてきたから定時で上がったの。今日は休み。それよりも、あなたが帰るなりブツブツ言ってるのに驚いたわ。どうしたの?」
「それが、リシェ。人間の男の人にはじめて手を掴まれたのよ!」
「初めてのわけないでしょう。大体、あなたはトラブル対策で採用された事務員なのだから、異性との接触なんて山ほどあるんじゃなくて?」
「トラブル解決するのにいちいち手なんて触る必要無いわ。びっくりしたのは、やけどした私の手を握って水で冷やしてくれたからなの。今までそんなふうに人間に手を触られたことがなかったし、すごくパニックになっちゃった」
「別にそんなに動揺しなくていいじゃない」
「だって、その男の人……家泉さんがとても頼もしく感じて。そして、そんなこと考えた自分にもびっくりしたわ。なんだか、もうどうしていいかわからない」
イリヤは左手を見つめて話し続ける。
やけどの痕はもう無かったが、手には家泉の温かさが残っているような気がして、彼が触った部分をずっと眺めていたいと思った。
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