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第2章 思いは湯煙となり。
第1話 この世の地獄。
しおりを挟む 帝国の第五皇子、十九歳のエドゥアルトは本日、皇帝の名代として友好国ベイゼルンの王宮で開かれている、第三王子マシューの成人祝賀パーティーに出席している。
側用人ハンスと護衛役のラウルを伴い、薬師ティーナは王宮の豪華な客室にて悠々自適の待機中だ。
ラウルはそんなティーナがうらやましくてたまらない。彼女は貴人達が催すこういったパーティーでの警護任務が非常に苦手なのだった。
何故なら、出席者は老若男女問わず強い香りを身に付けていて、鋭い嗅覚を持つ狼犬族の彼女としてはまずそれが辛い。
パーティーは立食形式で会場には見た目にも華やかな最高級の料理が燦然と並べられるが、職務中は決してそれを口にすることが出来ないのがまた、食いしん坊のラウルとしては口惜しい。どうせ余るのだからといつもエドゥアルトがラウルの分を取り置いてくれるのだが、いただく頃にはどうしても冷めてしまっているので、せっかくの料理を一番美味しい状態で食べることが出来ないというジレンマがある。
ちなみに要人の警護役はパーティーが始まる前に握り飯やサンドイッチといった手軽に食せるもので小腹を満たし、水分も必要最小限だけを摂るようにする場合が多い。万が一に備え、俊敏に動ける状態を維持する為と、トイレで任務に支障をきたさないようにするためだ。
憂鬱なラウルの視線の先で、皇族の正装に身を包んだエドゥアルトはにこやかな表情を湛え、入れ替わり立ち替わりやってくる他国の要人達と挨拶を交わして、皇帝の名代としての役割をそつなくこなしていた。彼の傍らにはいつもより改まった装いのハンスが控えていて、必要に応じさり気なく主をサポートをしている。
普段は香水の類を身に付けないエドゥアルトもこういった場面ではたしなみ程度に香りを纏うので、それもあってラウルはパーティーの警護が嫌いだった。
ただでさえ会場には強い香りが溢れているというのに、エドゥアルトの匂いがいつもと違うことでやりにくくて仕方がないのだ。
あ~あ、早く終わらないかなぁ……。
会場ではダンスが始まり、贅を尽くした衣装を纏った高貴な身分の男女が何組も手を取り合って、きらびやかなシャンデリアの下で管弦楽団の音色に合わせ、くるくると華麗に舞っていた。
主役のマシュー王子のほど近くで、エドゥアルトもどこかの国の御息女と踊っている。運動神経抜群の彼はダンスも得意で、端整な容姿と帝国の皇子という身分も相まり、こういった席で彼にダンスを申し込みたがる相手は後を絶たなかった。今日この後もそれこそひっきりなしに声がかかり、踊り続けることになるのだろう。
それを延々見ていなければならない立場のラウルとしては溜め息をつきたくなる。身体を動かすのが大好きな彼女は踊り続けるのは得意だが、それを見ているだけという側はどうにも不得手だった。
そんなこんなで、退屈で窮屈でやたら拘束時間が長く、強い香りに満ち満ちた場で食事も娯楽も見せつけられるだけというパーティーの警護任務は、ラウルにとって敬遠したい仕事となってしまうのだ。
そんな不満をくすぶらせつつ、会場の片隅からそれとなくエドゥアルトの周辺に気を配っている彼女に、やおら声をかけてきた人物がいた。
「―――ラウル……か?」
そちらに視線をやった彼女は、意外な人物をそこに見出して青灰色の瞳を見開いた。
相手はラウルと同じ狼犬族の青年だった。日焼けした大柄な体格で背はラウルより頭半分ほど高い。銀色の短髪に深い青色の瞳をして、髪と同色の獣耳は片方の先が欠損していた。
記憶にある顔よりだいぶ年輪を重ねてはいるが、面影はそのままだ。
「ティーガ……?」
ラウルは久々に彼の名を呼んだ。彼は、彼女のほろ苦い初恋の相手だった。
「やっぱりラウル……久し振りだな。まさか、こんなところでお前に会うなんて」
ティーガはどこか遠慮がちにそう言った。
四つ年上の彼は当時十二歳のラウルに面前試合で敗れた後しばらくして、剣を片手に故郷を離れていた。武者修行をしながら世界を回るというような話を人づてに聞いたが、それっきり彼に会うこともなく、二人の仲はあの時のままで止まっている。
再会したティーガはきちんとした身なりをしていて、腰に立派な長剣を帯びていた。今は、どこかの貴人の下で仕えているのだろうか。
ラウルは思わぬ再会に驚きつつも、意識的に口角を上げて彼に応じた。
「それはこっちの台詞……驚いた。久し振りだね。ここへはどなたかの付き添いで?」
「ああ。オレは今、この国でアラン伯爵という方に仕えているんだ。護衛長の役を仰せつかっていて、ここへは伯の警護役として来ている」
ティーガは気持ち胸を張ってそう言った。
アラン伯爵という名は聞いた覚えがある。確かこの国でそこそこの要職に就いている人物だ。
「お前は? ラウル。オレと似たような立場でここへ来ているんだろう?」
彼女の身なりを眺めながら尋ねるティーガにラウルは頷いた。
あれからおそらく一度も里帰りしていない彼は、ラウルが現在帝国で第五皇子に仕えていることを知らないのだろう。もっともラウル自身も長らく里帰りをしていない身ではあるのだが。
「うん、そうなんだ。私は今、あそこにいる―――」
会場にいるエドゥアルトを示そうとしたラウルは、今しがたまでダンスを踊っていたはずの主の姿が消えているのに気が付いて、「あれ?」と瞳を瞬かせた。
先程までとは曲が変わり、会場では新しいペアによるダンスが始まっている。
てっきり次も相手を変えて踊るものだと思っていたのに、どこへ行ったんだろう? トイレ?
「ラウル」
会場を注視していたラウルは、探していたエドゥアルト自身に後ろから声をかけられ、慌てて背後を振り返った。
「エドゥアルト様! 急に見えなくなったと思ったら―――、どうしたんですか」
「人は急には消えない。それはお前の注意不足だ。油を売っていないできちんと職務を全うしろ」
不機嫌な面持ちでそう諫められ、言葉どおりで反論出来ないラウルはぐっと詰まった。
「うぐ……すみません」
「この男は?」
ティーガにじろりと視線をくれる主にラウルは昔馴染みを紹介した。
「同郷のティーガです。ここで偶然再会しまして……彼は今こちらの国のアラン伯爵という方に護衛長として仕えていて、本日は伯の警護役として来ているそうです」
「ほう……」
「ティーガと申します。どうぞ以後お見知り置きを。ラウルが貴方様に仕えているとは存じず、その務めを妨害してしまったこと、ここに深くお詫び申し上げます」
丁重に謝罪と礼を取るティーガにひとつ頷いて、エドゥアルトはラウルに向き直った。
「暇に再会を喜ぶも雑談をするも結構だが、職務に支障をきたさない程度にしろ。お前の一番はこの僕だ、そこを違えるな」
外では従者の顔を重んじるラウルは、自らの非を素直に主に詫びた。
「はい。以後、肝に銘じます。申し訳ありませんでした」
「分かればいい」
殊勝な態度を取るラウルに許しを与えるように彼女の二の腕辺りに軽く触れたエドゥアルトは、ティーガに鋭い視線を向けると、無言の圧をくれてからゆっくりとその手を引き上げた。
「エドゥアルト様、そろそろお戻りならないと―――次の曲が始まってしまいます。皆様がお待ちかねです」
「ああ。今戻る」
主の後を追ってきていたハンスに短くそう返すと、エドゥアルトは何事もなかったかのように会場へと戻っていった。
―――うん? ところであの人はいったい何をしにここへ来たワケ?
心の中で小首を傾げるラウルに、改まった態度を解いたティーガが憮然とした面持ちで吐き捨てた。
「ちっ、何を見せられてんだ、オレは」
「え?」
「ラウル、お前―――帝国の皇子に仕えていたんだな」
「そうだけど……」
「くそっ……またオレの上を行くのかよ、いけ好かねぇ……」
苛立たし気にそう独り言ちると、ティーガは背を翻した。
「ちょっ、ティーガ?」
「行くわ。帝国の皇子に目を付けられてもかなわねぇし」
戸惑うラウルにそう言い置いて、ティーガは足早に去っていった。彼を追うわけにもいかず、ラウルは伸ばしかけた手を握り込み、会場へと戻り再び皆に囲まれるエドゥアルトへ注意を戻した。
ティーガとの再会は気まずさも覚えたが、互いに大人になって、これをきっかけに表面上障りのない関係に戻れるのかと思いきや、何とも後味のよろしくない展開になってしまったものだ。
ラウルがティーガに勝利した、彼女にとっては当時の自分の全てを出し尽くして勝ち得た珠玉の成果が、彼の中では今も変わらず苦い思い出のままで、あのまま消化も昇華もなされず、彼自身に何の変化ももたらしていないのだと―――そう感じられてしまったことが何より、彼女の心に陰鬱な影を落としていた。
側用人ハンスと護衛役のラウルを伴い、薬師ティーナは王宮の豪華な客室にて悠々自適の待機中だ。
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何故なら、出席者は老若男女問わず強い香りを身に付けていて、鋭い嗅覚を持つ狼犬族の彼女としてはまずそれが辛い。
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普段は香水の類を身に付けないエドゥアルトもこういった場面ではたしなみ程度に香りを纏うので、それもあってラウルはパーティーの警護が嫌いだった。
ただでさえ会場には強い香りが溢れているというのに、エドゥアルトの匂いがいつもと違うことでやりにくくて仕方がないのだ。
あ~あ、早く終わらないかなぁ……。
会場ではダンスが始まり、贅を尽くした衣装を纏った高貴な身分の男女が何組も手を取り合って、きらびやかなシャンデリアの下で管弦楽団の音色に合わせ、くるくると華麗に舞っていた。
主役のマシュー王子のほど近くで、エドゥアルトもどこかの国の御息女と踊っている。運動神経抜群の彼はダンスも得意で、端整な容姿と帝国の皇子という身分も相まり、こういった席で彼にダンスを申し込みたがる相手は後を絶たなかった。今日この後もそれこそひっきりなしに声がかかり、踊り続けることになるのだろう。
それを延々見ていなければならない立場のラウルとしては溜め息をつきたくなる。身体を動かすのが大好きな彼女は踊り続けるのは得意だが、それを見ているだけという側はどうにも不得手だった。
そんなこんなで、退屈で窮屈でやたら拘束時間が長く、強い香りに満ち満ちた場で食事も娯楽も見せつけられるだけというパーティーの警護任務は、ラウルにとって敬遠したい仕事となってしまうのだ。
そんな不満をくすぶらせつつ、会場の片隅からそれとなくエドゥアルトの周辺に気を配っている彼女に、やおら声をかけてきた人物がいた。
「―――ラウル……か?」
そちらに視線をやった彼女は、意外な人物をそこに見出して青灰色の瞳を見開いた。
相手はラウルと同じ狼犬族の青年だった。日焼けした大柄な体格で背はラウルより頭半分ほど高い。銀色の短髪に深い青色の瞳をして、髪と同色の獣耳は片方の先が欠損していた。
記憶にある顔よりだいぶ年輪を重ねてはいるが、面影はそのままだ。
「ティーガ……?」
ラウルは久々に彼の名を呼んだ。彼は、彼女のほろ苦い初恋の相手だった。
「やっぱりラウル……久し振りだな。まさか、こんなところでお前に会うなんて」
ティーガはどこか遠慮がちにそう言った。
四つ年上の彼は当時十二歳のラウルに面前試合で敗れた後しばらくして、剣を片手に故郷を離れていた。武者修行をしながら世界を回るというような話を人づてに聞いたが、それっきり彼に会うこともなく、二人の仲はあの時のままで止まっている。
再会したティーガはきちんとした身なりをしていて、腰に立派な長剣を帯びていた。今は、どこかの貴人の下で仕えているのだろうか。
ラウルは思わぬ再会に驚きつつも、意識的に口角を上げて彼に応じた。
「それはこっちの台詞……驚いた。久し振りだね。ここへはどなたかの付き添いで?」
「ああ。オレは今、この国でアラン伯爵という方に仕えているんだ。護衛長の役を仰せつかっていて、ここへは伯の警護役として来ている」
ティーガは気持ち胸を張ってそう言った。
アラン伯爵という名は聞いた覚えがある。確かこの国でそこそこの要職に就いている人物だ。
「お前は? ラウル。オレと似たような立場でここへ来ているんだろう?」
彼女の身なりを眺めながら尋ねるティーガにラウルは頷いた。
あれからおそらく一度も里帰りしていない彼は、ラウルが現在帝国で第五皇子に仕えていることを知らないのだろう。もっともラウル自身も長らく里帰りをしていない身ではあるのだが。
「うん、そうなんだ。私は今、あそこにいる―――」
会場にいるエドゥアルトを示そうとしたラウルは、今しがたまでダンスを踊っていたはずの主の姿が消えているのに気が付いて、「あれ?」と瞳を瞬かせた。
先程までとは曲が変わり、会場では新しいペアによるダンスが始まっている。
てっきり次も相手を変えて踊るものだと思っていたのに、どこへ行ったんだろう? トイレ?
「ラウル」
会場を注視していたラウルは、探していたエドゥアルト自身に後ろから声をかけられ、慌てて背後を振り返った。
「エドゥアルト様! 急に見えなくなったと思ったら―――、どうしたんですか」
「人は急には消えない。それはお前の注意不足だ。油を売っていないできちんと職務を全うしろ」
不機嫌な面持ちでそう諫められ、言葉どおりで反論出来ないラウルはぐっと詰まった。
「うぐ……すみません」
「この男は?」
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「ほう……」
「ティーガと申します。どうぞ以後お見知り置きを。ラウルが貴方様に仕えているとは存じず、その務めを妨害してしまったこと、ここに深くお詫び申し上げます」
丁重に謝罪と礼を取るティーガにひとつ頷いて、エドゥアルトはラウルに向き直った。
「暇に再会を喜ぶも雑談をするも結構だが、職務に支障をきたさない程度にしろ。お前の一番はこの僕だ、そこを違えるな」
外では従者の顔を重んじるラウルは、自らの非を素直に主に詫びた。
「はい。以後、肝に銘じます。申し訳ありませんでした」
「分かればいい」
殊勝な態度を取るラウルに許しを与えるように彼女の二の腕辺りに軽く触れたエドゥアルトは、ティーガに鋭い視線を向けると、無言の圧をくれてからゆっくりとその手を引き上げた。
「エドゥアルト様、そろそろお戻りならないと―――次の曲が始まってしまいます。皆様がお待ちかねです」
「ああ。今戻る」
主の後を追ってきていたハンスに短くそう返すと、エドゥアルトは何事もなかったかのように会場へと戻っていった。
―――うん? ところであの人はいったい何をしにここへ来たワケ?
心の中で小首を傾げるラウルに、改まった態度を解いたティーガが憮然とした面持ちで吐き捨てた。
「ちっ、何を見せられてんだ、オレは」
「え?」
「ラウル、お前―――帝国の皇子に仕えていたんだな」
「そうだけど……」
「くそっ……またオレの上を行くのかよ、いけ好かねぇ……」
苛立たし気にそう独り言ちると、ティーガは背を翻した。
「ちょっ、ティーガ?」
「行くわ。帝国の皇子に目を付けられてもかなわねぇし」
戸惑うラウルにそう言い置いて、ティーガは足早に去っていった。彼を追うわけにもいかず、ラウルは伸ばしかけた手を握り込み、会場へと戻り再び皆に囲まれるエドゥアルトへ注意を戻した。
ティーガとの再会は気まずさも覚えたが、互いに大人になって、これをきっかけに表面上障りのない関係に戻れるのかと思いきや、何とも後味のよろしくない展開になってしまったものだ。
ラウルがティーガに勝利した、彼女にとっては当時の自分の全てを出し尽くして勝ち得た珠玉の成果が、彼の中では今も変わらず苦い思い出のままで、あのまま消化も昇華もなされず、彼自身に何の変化ももたらしていないのだと―――そう感じられてしまったことが何より、彼女の心に陰鬱な影を落としていた。
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