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「お父様、いやです! クリフォード様とお会いするのも、まして婚約は絶対に嫌です」
「シェリル! あー、その、まだお会いしていないというのに、どうしてそのようなことを言うんだい? ……とっても立派な方かもしれないだろう?」
「だって……クリフォード様は第三王子ですが、玉座を狙っております」
「えっ、ちょ!?」
「王様が【死遊戯】というもので王位継承権を決めようとしたため、それぞれの王子陣営同士での殺し合いが苛烈になるからです。しかもその遊戯中に王様も死にますので、さらに継承争いは酷いものになりますの。その火の粉は我が国にも降りかかりますわ。戦力となる聖女を得るため候補者となる令嬢を誘拐。我が侯爵家もその煽りで没落。私は特殊な修道院に入れられて聖女になりますわ」
「え、没落。暗殺!? シェリル、そんな物騒な言葉何処で覚えたんだい!?」
「ゲー……夢で見聞きしました! ……聖女となった私はクリフォード様陣営の駒、婚約者として無理難題を課せられたのです。一つでも失敗したら即ゲームオーバーのバッドエンドが待っている。あげく私の魅力スキルが足りなかったら、殿下は余所の女を選んで、婚約破棄+罪を着せて処刑! これって悪役令嬢のポジションなのですよ。ヒロインからヴィランって酷いでしょう!? 暗殺、誘拐、戦場へ放り込む……。最悪なのは、クリフォード様の盾にされて殺されるエトセトラ……そんな未来のお嫁さんは嫌です」
「え、ちょ、シェリル? なんでそんなに夢が具体的なの!?」
「夢で何度も見たからですわ、お父様。……これは神様からのお告げ、つまり予知夢だと思うのです!」
「予知夢!?」
「だから私は、お兄様とずっと一緒に居ることにしたのです!」
私はお兄様の腕に引っ付いたまま、思いの丈を述べた。両親はオロオロするし、周りの大人たちの空気も何だか可笑しかったけれど、私はこの侯爵家を守るためにも婚約を受け入れるわけには行かなかった。
隣で喉を鳴らして笑うお兄様は、私の額にキスを落とした。くすぐったくて、お日様の匂いがする。ギュッと抱きしめたらお兄様は優しく抱きしめてくれた。
「シェリルはしょうが無い子だね。でも、いいよ。君がそれを望むのなら僕が全部叶えよう」
「本当ですか、お兄様?」
「うん、でも約束通り僕とずっと一緒にいてね」
「はい!」
古い記憶。八歳ぐらいだったかしら?
お兄様らしからぬ不思議な約束だった気がするけれど、その時の私は死亡フラグを回避することしか頭になかった。
だってこの乙女ゲームのヒロイン、チュートリアル前から詰んでいるのだものしょうがないわ。私は両親を守りたいし、侯爵家に仕えている使用人たちを助けたいし、没落なんてさせない!
何より聖女になんてなりたくないもの! そんなものになったら王族の権力争いの道具にされてしまう。そんなのは絶対に嫌!
何が何でも侯爵家を継続させたまま、お兄様を当主にさせる。それがチュートリアルの詰みの状態からの完全回避ルートなのだから。
そう信じてチュートリアルまでに死亡フラグを全て折りまくった結果。十六歳の春──つまりチュートリアルが始まる入学数日前に、死亡フラグがパワーアップして戻ってきたのだった。
「明日、お前の婚約者であるクリフォード殿とのお茶会がある」
「ふぁあ!?」
お父様の爆弾発言に朝の美味しいパンとバターの味が一瞬で消えて、素っ頓狂な声を上げた。侯爵令嬢としてはしたない声だと分かっていたが、こればかりはしょうがない!
なにせクリフォード殿下の名前は、侯爵家にとって鬼門以外の何者でもないのだ。というのも、乙女ゲーム【終焉の獣王と泡沫の聖女】の世界設定では、隣国アウロラには三人の王子がおり国王が王太子を決めるため、チェス盤に見立てた【死遊戯】で王の資質を試す予定だった。しかし術者の介入により、その遊戯で負けると死ぬという呪いが付与されていたため王位継承争いが激化。
王以外の王族は全員死ぬという最悪の呪いによって、双方の陣営が死ぬ気でぶつかり合う。より有能な手駒を求めた三勢力は、我がヴィリディス国の聖女に目を付けた。毒無効化、治癒、絶対防御などが扱える光魔法の使い手を陣営に加えようと考え──貴族の家を襲撃して、聖女候補の娘を攫った。
ヒロインは聖女候補筆頭だったため、屋敷にいた私と弟以外殺された。その後は弟を人質にされて、もっとも厳しい修道院に放り投げられる。この時、ヒロインは十歳。聖女の称号を得た後は、クリフォード殿下と交渉して婚約者となる。もっとも彼にとってヒロインは使い捨ての駒でしかなかったという裏設定付き。
好感度、任務達成度、魅力度もろもろのパラメーターが一つでも足りないと、ゲームオーバーとなる。この乙女ゲームのエンド数は過去最多の52種類もあるのだ。バッドエンド48、ノーマルエンド2、トゥルーエンド1、ハッピーエンド1という恐ろしい枝分かれ選択と判定がある。超ハードモード設定。馬鹿じゃないの?
公式が病気だと思う。
話が逸れてしまったけれど、クリフォード殿下が私の家の襲撃を命じたのだ。そういった設定もあって他の攻略キャラよりも、このクリフォードルートは複雑かつ難易度が高い。
ヒロインなのにチュートリアルまでの設定が重すぎる。こんなん実際に経験したらゲーム開始どころかチュートリアル前に心が壊れるわ。前世では平凡なOLだったものそんな波瀾万丈な人生はノーセンキューなのです。
隣国アウロラの王位継承争いを回避すべく、色々働きかけて遊戯そのものを阻止しようと色んな人を巻き込んだ。その甲斐もあって今では第一王子が王太子に、第二王子のラルフが補佐をする形で収まって、第三王子は辺境地に領地を持つ形で王都から離れる。そう発表があって喜んでいたのに!! シナリオの強制力! 嬉しくない!
「お父様。クリフォード様が婚約者になるなんて、私は承諾しておりませんわ! あの方は我が家を根絶やしにする気ですもの!」
「……外でそんなことを言ったら、首が飛ぶからやめなさい。アウロラ大国では王位継承争いも数年前に収まって平和そのものだろう。お前が昔、起こりうる災害や問題を箇条書きにして国王と、アウロラ国王に奏上したことで回避した実績があるのは認めるが、いつまでも過去に見た夢ばかりに目を向けるのではなく、現実の殿下を──」
「だとしても、勝手に婚約したのは許せません。貴族の娘として政略結婚は覚悟していますわ。でも決める前に一言あっても良かったでしょう」
「そ……それは……」
父と母は何故か視線を泳がせているばかりで、反論してこない。気まずそうに食事を続けているばかりだ。
可愛い弟はモグモグと一生懸命食べていて可愛いだけで、お兄様は席にいない。ここ最近は侯爵家を継ぐにあたって、隣国との共同事業などで忙しいとか。三日に一度は帰ってくるから寂しくないけれど、でもお兄様がこの話を知っているのかしら?
私は超が付くほどのブラコンだが、ブルーノ兄様も負けないぐらいシスコンで基本的に私にべったりなのだ。
もしかしてお兄様がいない間に、クリフォード様と会わせてしまう気?
そもそもお兄様は、このことをご存じなのかしら?
両親を凝視するが無言を貫き通している。どうあっても私を殿下に会わせる気ね。
「そ、それに今回のお茶会はブルーノが言い出したことだ。文句があるのなら、ブルーノに言いなさい」
「お兄様が!? それこそあり得ないわ」
「ブルーノにも考えがあるのだろう。何せ、隣国とも交渉や事業も広げている」
「むう……。分かりましたわ」
いざとなれば、ボイコットして会わないという手もある。婚約者にふさわしくないと思わせれば良いし、そもそも私は聖女にならなかったのだから利用価値はない。第三王子は臣籍降下して授爵し辺境地に移り住むのであって、手駒を集める必要もないので精々領地を潤すため名家の令嬢を迎えればいいのに、なぜわざわざ隣国から迎えるのか。
いやまあ、隣国の摩擦を減らすため両国の関係を良好にする目的だとしたら分かるけれど、でも、私じゃなくたっていいじゃない!
私は周りが引くぐらいのブラコンなのに!
もしかして仮面夫婦をお望み?
お兄様にしか興味が無いから都合が良いと思われた!?
それとも乙女ゲームの強制力なのかしら? いやだったら王位継承争いのほうが大きな軸なのだからそっちが変わって、ヒロインの運命を軌道修正するのは、やめて欲しいわ!
そんな気分で朝食を終えて、ムカムカしながら自室に戻った。
***
ふ、ふ、ふ! お父様、お母様。前日に明日の予定を言うなんて甘いですわ!
魔法学院の寮に入るため、荷物まとめも終わっている。でももし入学を取りやめて嫁げとか言い出したら、全力で他国に逃げよう。いざという時の軍資金もある。あとはトランク一つに荷物をまとめようとクローゼットを空けた瞬間、白いモフモフが飛び込んできた。
「くー」
「まあ、お兄様!」
白狐は私に飛びつき、頬にキスをする。真っ白なふわふわの毛並みに、三尾の白狐はブルーノ兄様だ。時々、呪いによって白狐の姿に変わってしまうらしい。
お兄様──ブルーノはゲーム本編には出てこない。ヒロインが幼い頃に亡くなった設定があるぐらいで、あとは……思い出せない。もしかしたら白狐の姿の呪いは、その時の副作用?
今は子狐サイズなので私が抱きかかえていられるが、本来は二メートルほどの巨体になる。添い寝をする時は、そのサイズだと抱き枕的に最高だったりするのだ。
「お兄様、聞いてください。明日、クリフォード様とのお茶会があるんです!」
「くぅ?」
ブルーノ兄様は「嫌なの?」とちょっと困った顔をしていた。まさかお兄様が他の異性に対して、そのような反応を見せるなんて予想外だった。社交界では私の傍にいて近寄る異性を威嚇していたというのに……。
「ハッ! まさかお兄様……。私を婚約者として差し出す代わりに、何か交渉しましたか?」
「くう!」
ブンブンと勢いよく首を横に振った。どうやら私を取引材料にはしていないらしい。とりあえずクローゼットを閉じて、ソファに座って白狐を膝の上に乗せる。専用のブラシでモフモフの毛並みを梳かすと、お兄様は「こぉんこぉん」と鳴き出すのだ。きっと気持ちが良いのね。
三尾も揺れているのだから間違いないわ。
「はあ、憂鬱です。最悪です……。どうあっても、あの方と婚約する運命なのでしょうか」
「くう……」
途端にお兄様の尻尾が床に垂れ下がった。もしかして隣国に滞在している間に、クリフォード様と親しくなって友誼を結んだのかしら。……会ってもいないのに自分の友人を毛嫌いされたら悲しくなるわよね。
そっとお兄様の頭を撫でたら「こぉん」とふにゃふにゃになって、お腹を差し出す。こちらも撫でろと言うのだろう。本当にこの姿のお兄様は甘えん坊になる。
「ブルーノ兄様、ごめんなさい。お兄様のご友人であるクリフォード様に対して少し配慮が欠けていましたわ」
「くー」
「でも私はあの方に嫁ぎたくないのです。昔、ずっとお兄様と一緒に居るって約束したでしょう。この屋敷の皆が大好きなんです。お父様もお母様も殺されずにすみましたし、キャロルと離れ離れにもならなかった今を、もっと大事に過ごしたいのです」
「こぉん」
甘い声だわ。
素早く起き上がると伸び上がって、私の唇にキスをする。「愛している」と言っているのか、頬にもキスをして「シェリルは?」と美しい紫色の瞳で見つめ返す。
「もちろん、ブルーノ兄様も大事ですし、愛していますわ」
「こぉん」
嬉しそうに尻尾を振って、私の腕の中で満足そうに丸くなって寝てしまう。はわわわっ、可愛らしい! でもこれじゃあ荷造りができないわ。
まったくもって私が何もできないと踏んで、眠ったわね!
結局、その日はブルーノ兄様が子狐のまま、私にべったりと引っ付いて離れなかった。おかげで明日の逃げる準備は頓挫することに。全くもって子狐効果は、絶大だわ。
その日はベッドに子狐を抱えたまま眠りにつく。
この姿のお兄様はとっても人見知りが激しいのだ。私以外に懐かないし、他の者が触れようとすると毛を逆立てて威嚇をする。それは両親や弟のキャロルも当てはまるのだ。
お風呂に入ってラベンダーの香りにウットリしながら、ベッドに入る。
「こぉんこぉん」
「ブルーノ兄様、今日はこのサイズですのね」
「くー」
子狐が跳躍して宙返りをした途端、二メートルほどの真っ白な狐さんに早変わりした。モフモフ度合いはこちらが上で、四尾に変わっている。
「もふもふですわ」
「こぉん、こぉんこん」
今日はいつにも増して私の体にすりついて、自分の匂いを押しつけてくる。もしかしてお兄様も本当はクリフォード様と会うのが嫌だから、いつも以上に甘えているとか?
「大丈夫ですわ。私の一番はブルーノ兄様ですから」
「くう……」
コテンとその場に倒れるように横になってしまった。うーん、いつもなら凄く喜んでくれるのに、お兄様の気持ちがよく分からないわ。もしかしてこれが反抗期?
そんなことを考えているうちに、お兄様の尾が私の腕に巻き付いて横になるように促してくる。
「おやすみなさい、お兄様」
「こぉん」
モフモフのお兄様をギュッとしながらの就寝。すぐに眠気が襲って意識が薄れていく。
ギシ、とお兄様が起き上がったのかベッドが少し軋む音がする。頬に触れる感触は前脚の肉球ではなく、お兄様の温かな指先だった。
呪いの効果が薄まったのかしら?
薄らと瞳を開けて榛色の髪と金茶色の瞳が見えると思っていたのに、なぜか白銀の長い髪に、バイオレットの瞳が私を見ている。
ブルーノ兄様……の色じゃない?
呪いの効果で白狐の影響が出てしまっているのかしら。それにしても、どこかで……見たことがあるような?
「シェリル、ようやく。ようやく、この日が来た。約束通りずっと傍にいるよ。……だからね、これ以上私を嫌わないでほしい」
お兄様の声なはずなのに、声変わりでもしたのか低くて耳に残る。
お兄様を嫌ったことなんて一度も無いのに、変なお兄様だわ。私を優しく抱きしめて、頭を撫でるのは間違いなくお兄様……。
温かくてホッとする。
「シェリル……愛している」
それは兄として妹を思うような声音とは違って聞こえた。きっと気のせいだと私は深く考えずに睡魔の誘惑に負けて意識を手放す。
もしこの時、ブルーノ兄様の言葉を聞き返していたら──あんな風にはならなかったのかしら?
***
翌日。
朝早く起きてお茶会をブッチしようと考えたのに、ブルーノ兄様のモフモフの誘惑に負けて二度寝。
目が覚めた時には十時前後だった。しかもブルーノ兄様の姿はなく、出かけた後だという。なんという策士なのかしら。
結局、お兄様にはクリフォード様とどのような関係なのか聞けずに、お茶会を迎えることになった。朝食を食べた後でも抜け出せると思っていたのだけれど、侍女たちに取り押さえられお風呂に直行。体中を磨き上げられる。
え、婚約者に会うだけなのに、なんでこんな気合いが入ることをするの? いやクリフォード様は他国の王族、出迎えるにあたってこのぐらいするのが当たり前なのかも?
そんな感じで私の榛色の髪も今日は艶のある仕上がりにして貰って、ドレスも白とウィスタリア色で体のラインが出るAラインドレス。金の刺繍まで入っているのが見えるけれど、コレ絶対にお兄様が特注で作った物だわ!
「とってもお似合いですよ」
「ありがとう」
侍女のミアはやりきった感満載で、嬉しそうだ。他の侍女たちも目をキラキラさせている。私はこの家に尽くしている人たちを大切にしたいし、死なせたくない。死亡フラグが何処に転がっているか分からない以上、クリフォード様の逆鱗に触れるようなことは控えるべきだわ。
昨日は感情的になって逃げだそうとしたけれど、そうなった時に家族やミアを含めた他の人たちが巻き込まれる可能性を考慮してなかったわ。もしかして……お兄様はそれが分かっていたから、私の傍にいた?
「いつにも増して素晴らしいバイオレット色のドレスですわ。シェリル様にぴったりですわ」
「ふふっ、そういえばお兄様からの贈物は紫と白が多かったような?」
「それはそうでしょう」
「?」
侍女たちの言葉に妙な引っかかりを覚えつつも、私は客間へと向かう。そういえば馬車が到着したという話は聞いてないわ。
奧の客間はシンプルだけど豪華な作りで気に入っている。執事に扉を開けてもらい、中に足を踏み入れた時、窓近くにアンティークの可愛らしいテーブルと椅子、そして様々な菓子とティポットの準備も完璧にしてあった。
その椅子に座っている男性に目を剥いた。
「お兄様?」
私と同じ榛色の髪に、金茶の瞳。ほっそりとして穏やかそうな眼差しを向けていた兄の姿が見えているのに、違和感が拭えない。
まず服装だ。お兄様が着ているのはアウロラ大国の王族だけが許された正装。白を基調とした軍服寄りの作りで、金の刺繍がふんだんに使われている。次に背丈だけれど、立ち上がったお兄様は、私よりもずっと高くて、目を合わせるのなら顔を上げなければならない。
「シェリル……」
甘い声。でもお兄様よりもずっと低くて、耳に響く。
違和感に気付くと、髪の色は白銀色に染まって、一房三つ編みにしているけれど、とても長い。瞳は宝石のようなアメジスト色、ううんバイオレットに近い鮮やかな青紫色だわ。
私を見つめるこの人は──お兄様じゃ、ない?
「シェリル、よく聞いて欲しい。……私の名前はクリフォード・アルノルト・バルテン・レルシュ。アウロラ大国の第三王子で、今度臣籍降下する公爵当主だ」
「クリフォード様……え、でも、……お兄様は」
呼吸がうまくできず、事態が上手く飲み込めない。
どうして急にお兄様がクリフォード様に?
ううん、それよりも挨拶を……。
ドレスの裾を掴んでカーテシーをしようとするも、体が硬直して動かない。
「大国の太陽……」
「シェリル。落ち着いて、ああ、手がこんなに冷たくなってしまっているじゃないか。ほら、ゆっくり息を吸って。大丈夫、これからどういうことなのかゆっくり話すから……」
「申し訳ありません……」
「謝らないでほしい。ほら、こちらに座ろう」
「はい」
クリフォード様は驚くほど優しくて、私の指先を両手で包んでくれた。温かくて、心地よい。初対面なはずなのに、ずっと前から知っているような不思議な感覚だった。
私を長椅子のソファに座らせると、その横にクリフォード様が座る。この距離感はとても近くてお兄様と同じ──。
眉尻が下がっていて今にも泣きそうな顔をしている。よく見れば陶器のように白い肌、目鼻立ちが整った美しい顔、お兄様とは違ってガッチリとした体つきだわ。どうしてこんなにも違う人を兄だと錯覚していたの?
「落ち着いて聞いてください」
「は、はい」
く、クリフォード様が喋っている! しかも乙女ゲームのキャラ設定と全然違う! もっとこう人を殺すような鋭い目をしていて、口調だって傲岸不遜を絵に描いたような暴君。笑顔なんて口角が少しだけ上がってニヒルな感じだった。つまり別人ってぐらい雰囲気が違う!
そんなのを間近かつ至近距離って無理!
落ち着くどころか心臓が飛び出しそう。しかもなんか良い匂いがするし。お日様?
うーん、フローラルとは違うような……。
「シェリル、私の匂いが気になりますか?」
「なんだか懐かしいような? ラベンダーとクマリンのハーブを混ぜた爽やかな香りがしたので……」
「その匂いは嫌いでしたか?」
「嫌いじゃないですわ。なんだか落ち着きます」
「それはよかった」
笑顔が眩しい!
そして王子に対して何を言い出しているの、私!? 侮辱罪とかで殺されない?
カタカタと体が震えてしまう。
「……シェリル。怖がらないで聞いて欲しい。……まず私は昨日までずっとブルーノ・エイズワースのフリをして君の傍にいた」
「え」
今まで信じていたものが音を立てて崩れていく。それは積み重ねてきた砂上の城が高波によって一瞬で崩れるような──喪失と絶望が私を襲う。
「お兄様が……クリフォード様……? じゃあ、お兄様は?」
「君の兄ブルーノは、ずっと昔に亡くなっている。君が予知夢を口にする前、私を殺しに来た暗殺者に……」
「──っ」
ブルーノ兄様は乙女ゲームの設定にも、幼い頃シェリルに兄がいたとしか書かれていなかった。いつ亡くなるとか明言されていなかったけれど、たしか病気ではなく事故で……。
「お兄様は……いつ、亡くなったのですか」
「アウロラ大国とヴィリディス国の合同主催による狩猟大会で……君はまだ八歳で、ブルーノは十二歳、私も彼と同じ年だった。彼はね、私を庇って撃たれたんだ」
「……その時なら、お兄様に治癒魔法の魔導具を渡していましたわ」
「うん。これだね」
クリフォード様は、胸の内ポケットから小さなペンダントを出した。私がお兄様に渡したペンダントだ。当時、魔導具は貴重で手に入るのは難しかったから、私の全魔力を込めて一度ならどんな深い傷でも助かるという【光の治癒】。
「どうして……クリフォード様が、それがあったのならお兄様は……死ぬはずないのです」
「うん。彼が庇ってくれたんだけれど魔弾はね、ブルーノと私の体を貫いたんだよ。だからどちらか一人しか助からなかった」
「お兄様から……奪ったのですか」
声が震えた。
今のクリフォード様の雰囲気からはわからないが、ゲーム設定上のクリフォード様なら目敏くペンダントの存在を見つけて、使っただろう。
血も涙もない人という設定だったもの。
「(そうだな。あれは第三王子のせいで彼は魔導具を差し出すしか選択肢がなかった。でなければ王子を見捨てて生き残った後、彼は社交界から追放、廃嫡、公爵家そのものが没落した可能性だってある)……君の兄から奪い取って使ったようなものだ。その場を立ち去ろうとした時に、ブルーノが言うんだ。『それを使った以上、君は侯爵家を、私の大切な妹を守らなければならない』ってね」
「お兄様……」
恨み言や怒りではなく、真っ先にそういうことが言える。それが兄だった。どこまでも優しくて俯瞰視していて……家族思いの大好きなお兄様。
ポロポロと涙が零れ落ちた。
「愚かだと思った」
「──っ」
「(あの時、魔導具を一人ではなく複数人に使う考えに至っていれば……、お互いに後遺症は残ったかもしれないが、二人とも生き残れた可能性はあったのではないか。そんなことを考えさせられる。もう遅すぎるけれど)自分が生き残るよりも、他者を優先しようなど生物として失格だと……。けれどあの金茶の真っ直ぐな瞳に射貫かれて、私は頷くまでその場を動けなかった。後にも先にも瞳だけで気圧されたのは彼だけだ」
「お兄様は……すごいのです」
「ああ。そして侯爵家は隣国の第三王子を救ったとして、両国の関係はより良好なものになった。これは彼の功績だ。……それから一ヵ月後、私は侯爵家に礼を言うため、この屋敷を訪れた。そこで君と出会った」
「私……殿下とお会いしていたのですか」
「そうだよ。君が八歳の時、八年も前のことだ。……ここで二つほど予期せぬことが起こった。一つ目は、君が兄の死を受け入れておらず、私を見て『ブルーノ兄様』と泣いて抱きついたことだ」
「え!?」
その時から私はクリフォード様をお兄様と……認識していた?
「君は光魔法の使い手だ。光を屈折させて自己暗示もかけていたのだろう。私をブルーノと呼び、泣きじゃくって抱きついて離れなかった」
「そ、それは……申し訳ありません……」
当時のクリフォード様に抱きついて泣くなんて……よく生きていたわ。自分の大胆さにゾッとしてしまう。再び指先の感覚が冷たくなっていく。
「二つ目の予期せぬことというのは……私がその時に君を番だと認識して、その場で番紋を刻んだことなんだ」
「つがいもん……番紋!? って、その場で!?」
番紋。
アウロラ大国の獣人に現れる特徴の一つで、感覚的に自分の伴侶がわかるというものだとか。そういえば乙女ゲーム内では、幾つか条件を満たすと攻略キャラと番になるシステムがあったような? クリフォード殿下は覚醒条件が厳しいので、公式サイトでチラッと見た程度なのよね。
それにしても私の体に番紋の痕なんてあった?
「番紋は仮なんだ。……いや正確には君が私をクリフォードではなく、ブルーノとして認識していたから番紋の効果が薄かったんだ。でもそのことを当時の君に、何度か話そうとしたのだけれど……」
「上手くいかなかったのですね」
「その通り。事実を告げようとすると君はその事実を受け入れられず、魔力暴走を起こし、君の体に相当の負荷が掛かってしまった。それに当時はアウロラ大国での継承争いが水面下にあったことも、君にとっては不安だったのだろう。継承問題が解決しなければ侯爵家が危ないと思っていたようだし……私を目の前にして『絶対に婚約しない』とハッキリと言った時は正直死にたくなった」
「ええ!?」
あの鋼のメンタルかつ冷血非道人間が?
クリフォード様の瞳は優しい。両手をギュッと掴んでいる手も温かい。婚約を拒絶されたことを思い出したのか、目が潤んでいて酷く傷ついた顔をしていた。その顔でしょんぼりするのって、なんだか狡い。
「君の未来予想図の私は悪逆非道、人を手駒としてしか見ていない暴君そのものだった」
「……私、そんなことまでクリフォード様に?」
「そうだよ。番紋が現れてしまった以上、君は私の婚約者となる……でも君は予知夢を公言した。それは王族の一部しか知られていない秘密まで知っていたので、その予知夢は信憑性が高いと判断され国王、父上に奏上した。元から王位継承争いについて悩んでいた現状の打破として、宮廷魔術師が考案した遊戯に目をつけたと話してくれた。調査が入った結果、その遊戯の危険性も発覚して、すぐさま【死遊戯】は凍結。予知夢の内容を知った第一王子、第二王子は最悪の未来を回避すべく第一王子を王太子にして、宰相という立ち位置を第二王子が得た。それらの功績を使って、私は王位継承争いから離れて臣籍降下を選んだ。君が私を冷酷非道な第三王子と恐れていたから、少しでも印象を良くしたくて言葉遣いや周りに気を配るようにしていった。そうしたら面白いことに周りの評価もガラリと変わったんだ」
ゲームに出てきたクリフォード様とは確かに違う。頭のケモ耳はしょんぼりしているのか垂れているし、尻尾は一つだったのに今は四つもある。刃のようなバイオレットの瞳は、キラキラした宝石のように輝いているし、頬が少し赤い。
うん、誰だ、コレ。
アレかな、童話の金の斧と銀の斧みたいに「貴方の落としたのは綺麗なクリフォード様?」みたいな全くの別物になってしまっている!?
これって私の責任? 私の責任だよね!
「シェリル?」
チュートリアル前の詰みの状態を回避しようとしたら、攻略キャラの性格まで変えてしまうなんて……。これはクリフォードファンに殺されない!? いやでも元の性格だとしたら、被害を受けるのは私だからいいかな……?
ううん、今その話はいいとして、もっと確認しないといけないことがあるわ。
「……八年間、兄のフリをしていたのに、どうしてこのタイミングで私に正体を明かそうとしたのですか?」
「君との最初の約束通り、兄として君を愛してずっと傍にいる。それでも良いと思ったんだ。君の兄を奪ったのは、半分は私なのだから……」
「クリフォード様……」
「でも……最初から今も、君を妹として一度も見ることはできなかった。いつだって君は私にとって愛おしい伴侶で、番だ……。愛おしくて、もっとシェリルの傍にいたい、もっと触れたいと、抑えられなくなった……」
クリフォード様は胸を押さえて、私に寄りかかるように体を傾ける。慌てて支えようとすると力強く抱きしめられてしまう。
「シェリル……私は、君が好きだ。私は傲慢で、君から大切な兄を奪った。……でも、私は……君に愛されたい……」
「──っ」
懊悩し、震えた声で告げる。
声が、言葉が、出てこない。
騙していたと怒ればいいのか、嘆けば良いのか、悲しめば良いのか頭の中がぐちゃぐちゃで気持ちが追いつかない。
「シェリル……ごめん」
ポツリと呟いたクリフォードは顔を歪めながら、その場に倒れてしまう。慌てて抱きしめようとしたがクリフォードの体を支えられるほどの力はなくて、一緒にソファから落ちてしまった。
「誰か! お医者様を呼んで! クリフォード様が!」
部屋の外で待機していた騎士たちがクリフォード様を抱き抱えて、寝室に運んでくれた。それから専属のお医者様が診察していて……私はぼんやりとした感覚で、ただただ目まぐるしい現状に対応することで精一杯だった。
何もかもが唐突で、私の認識がひっくり返る。自分の気持ちを整理したいのに、どうしてできないの?
***
「番紋を正式に刻んでいないことによる衰弱です」
「衰弱……」
熊の亜人である先生は穏やかだが、ハッキリと答えた。
「これは亜人族の習性でして、番に拒絶あるいは愛情を得られないと、心身共に弱体化して衰弱死します。……殿下はシェリル嬢を心から愛していましたが、貴女様が返す愛情はクリフォード殿下ではなくブルーノ様であり、予知夢で知ったクリフォード様を拒絶していた」
「……だから私がクリフォード様の話をした時に」
思えばモフモフ姿の時に、クリフォード様のことを話したら凹んでいた。きっと傷ついたんだわ。私はずっと殿下に酷いことを……。
「獣化している時は、その姿を受け入れていたからこそ、八年も保ったのでしょう。本来なら二年と耐えられず、衰弱死していました」
「──っ」
「……この八年でアウロラ大国は大きく変わりました。そしてクリフォード様も……。どうか、予知夢で見た殿下ではなく、今の殿下を見て頂けないでしょうか」
そういって先生は深々と頭を下げて、部屋を後にした。
部屋に残ったのは私と眠っているクリフォード様だけ。私はベッドの傍に腰掛けたまま、クリフォード様の手を握った。あまりにも苦しそうにしているので、触れてしまったのだ。
「クリフォード様」
私が名前を呼ぶと、少しだけ顔色がよくなる。
そっか。私に真実を告げたのは、クリフォード様の限界が間近だったからだわ。だから賭に出た。
前日に子狐の姿で私に接触してきたのも、私がクリフォード様に対してどう思っているのか気になったから。ここまでクリフォード様の読み通りだったのだろう。
策略関係はゲームの時と変わらず冴えている。でもゲーム時のクリフォード様だったとしたら、私のような小娘相手にどうにでもできたでしょうに。
洗脳、魅了、催眠どんな手段を使ってでも手に入れる。そうしなかったのは、心から好かれたいと思ったから?
どこか歪んでいて、拗らせているような気がしなくもなかったけれど、それが今の彼なのだろう。とはいえ、今までお兄様としてのフィルターがかかっていたので、彼自身がどんな性格なのか、何を考えているのか、何を思っているのか、まるでわからない。
それぐらい私の傍にいる時は、兄としての仮面を被っていた。
ブルーノ兄様……。
優しくて頭が良くて、俯瞰的で、理想のお兄様。妹に甘くて、いつだって相談に乗ってくれた自慢のお兄様で、有能で侯爵家の跡継ぎにふさわしい方だった。
「もうお会いできないのですね……」
口に出した瞬間、涙が止まらなくなってしまった。悲しくて、苦しくて……嗚咽が漏れる。
***
セピア色の世界。
両親とアウロラ大国の使者が何かを話していた。どうでもいい。そんなことよりも、狩猟大会からお兄様が戻らないほうが問題だわ。
どうして誰もお兄様が戻らないことに問題視しないのかしら。私が尋ねても両親は悲しそうな顔をするだけで、侍女に聞いても泣きそうな顔で首を横に振るだけ。
「シェリル、今日はお前に話があってね。アウロラ大国の第三王子が訪問なさってくれたんだ。ブルーノが……」
「お父様、いやです! クリフォード様とお会いするのも、まして婚約は絶対に嫌です」
「シェリル! あー、その、まだお会いしていないというのに、どうしてそのようなことを言うんだい? とっても立派な方かもしれないだろう?」
「王様が【死遊戯】というもので王位継承権を決めようとしたため、それぞれの王子陣営同士での殺し合いが苛烈になるからです。しかもその遊戯中に王様も死にますので、さらに継承争いは酷いものになりますの。その火の粉は我が国にも降りかかりますわ。戦力となる聖女を得るため候補者となる令嬢を誘拐。我が侯爵家もその煽りで没落。私は特殊な修道院に入れられて聖女になりますわ」
「え、没落。暗殺!? シェリル、そんな物騒な言葉何処で覚えたんだい!?」
「ゲー……夢で見聞きしました! ……聖女となった私はクリフォード様陣営の駒、婚約者として無理難題を課せられたのです。一つでも失敗したら即ゲームオーバーのバッドエンドが待っている。あげく私の魅力スキルが足りなかったら、殿下は余所の女を選んで、婚約破棄+罪を着せて処刑! これって悪役令嬢のポジションなのですよ。ヒロインからヴィランって酷いでしょう!? 暗殺、誘拐、戦場へ放り込む……。最悪なのは、クリフォード様の盾にされて殺されるエトセトラ……そんな未来のお嫁さんは嫌です」
「え、ちょ、シェリル? なんでそんなに夢が具体的なの!?」
「夢で何度も見たからですわ、お父様。……これは神様からのお告げ、つまり予知夢だと思うのです!」
「予知夢!?」
「だから私は、お兄様とずっと一緒に居ることにしたのです!」
その時、セピア色だった私の世界が色づいた。
榛色の髪に、ほっそりとした兄の姿に喜んで抱きついた。一瞬、お兄様と違う香りがしたけれど、ずっと離れていたから忘れてしまったのかもしれないわ。あれ? どうして離れていたのかしら?
お兄様、異国の服もすごくよく似合っているわ。
「私はお兄様と結婚するのです!」
「シェリル!?」
私はお兄様の腕に引っ付いたまま、思いの丈を述べた。両親はオロオロするし、周りの大人たちの空気も何だか可笑しかったけれど、私はこの侯爵家を守るためにも婚約を受け入れるわけには行かなかった。
「……シェリル」
隣で喉を鳴らして笑うお兄様は、私の額にキスを落とした。
くすぐったくて、お日様の匂いがする。ギュッと抱きしめたら、お兄様は優しく抱きしめてくれた。
「シェリルは私が好きかい?」
「うん、大好き。今日はいつもと雰囲気が違うけれど、良い匂いがするわ」
ラベンダーと他のハーブを混ぜたような良い匂い。
お兄様のキスもいつもと違って額だけじゃなくて、頬や鼻にもしてくる。唇は流石に恥ずかしかったけれど、嫌じゃなかった。一番擽ったかったのは、首だけれど。「印!」って、両親が騒いでいるけど、よくわ分からないわ。
「シェリルはしょうがない子だね。でも、いいよ。君がそれを望むのなら僕が全部叶えよう」
「本当、お兄様?」
「うん、でも約束通り僕とずっと一緒にいてね」
「はい!」
思えばこの時にお兄様が死んだことを受け入れていたら、クリフォード様がここまで苦しむことは無かったんじゃないかしら。
過去の記憶を振り返りながら私は思った。
八年も茶番を続けてくれるなんて……それはお兄様を見殺してしまったことへの贖罪?
それとも八年もあれば、私が振り向くと思った? だとしたら目算は甘かったのでしょうね。
クリフォード様と出会った過去が終わる。これは夢だけれど、私が忘れていた過去を思い出させてくれた。
すでにチュートリアル前から舞台は大きく変わった。この後、私はどうするべきか。
ううん、どうしたいか。
私からお兄様を奪ったクリフォード様を憎んで、復讐するか。全部を忘れてクリフォード様を受け入れるか。
答えが出ないまま、意識が浮上していく。どうするかは、クリフォード様と話をして決めたい。クリフォード様とお話をしてみないと。一度や二度で決まらなければ何度でも。
だって私にとってクリフォード様自身とお話をするのは、これが初めてのようなものなのですから。
***
うたた寝してしまった私は、目が覚めたらクリフォード様と話をしよう、そう決意していたのだけれど──。
「くー」
「──って、お話し合いをしようと思ったのに、起きたらモフモフですか」
「くう……」
目を潤ませてケモ耳は垂れているし、尻尾に至っては屍のようにピクリとも動かない。その上、ストレスで毛が抜けているじゃない。
窓の外はどっぷりと暗くなっていて、うたた寝どころか爆睡していたようね。しかも途中でベッドに寝かされていたし……。
とりあえず、お水を飲んで喉を潤した後、モフモフの子狐と向き合う。
「ああ、もう! まずは毛並みを整えますから、膝の上に来てください」
「こぉん」
甘えた声で素早く私の膝にやってくる子狐──クリフォード様は、絶対に確信犯だと思う。膝の上でホッコリしているクリフォード様だが、尻尾がまだ揺れ動いていない。内心、私が何を言い出すのかヒヤヒヤしているんだわ。
じゃあ、なんでこの姿なの……。
絶対に緩衝材として、あるいは私の怒りを和らげるための策に出たのでしょうね。ふふ、浅はかだわ。
いつものブラシで毛並みを整えながら、思っていることをぶちまける。そっちが先に話し合いを先延ばしにしようとしたのだから、私が言いたい放題言わせて貰うわ。
「……正直、お兄様大好きっ子の私として、今日の出来事は大変ショッキングでしたわ」
「くぅ!?」
「しかもずっとお兄様だと思っていた方が、あの冷徹で人を捨て駒にしか見ていない第三王子クリフォード様だったことも驚きでしたし、腹も立ちました」
「くゅうう!!」
ジタバタと弁明しようとしているのか、私の腹部にぐりぐりと頭を押しつけてくる。ふふふ、その姿では何を言っているのか、全く分からないですわよ。
「唐突に真実を告げて、私がクリフォード様を受け入れなかったら衰弱死するなんて……私が断れない雰囲気を作り出すのも上手ですわ。ずっと私を見ていただけあって、私が情に脆いのを熟知していますものね」
「くうう、くうううう」
「ふふ、何を言っているのか、その姿では分かりませんわ」
「くう!」
コテンとその場に倒れてしまう。本当にメンタルが激弱じゃないですか。尻尾なんてしおれてしまって……。
「最初に話し合いすることを選ばずに逃げたのは、クリフォード様ですわよ。それとも私と話し合いする気はないと? 頷くまではモフモフの姿で逃げ切る気なのかしら?」
「──っ、違う」
ぼふん、と人の姿になったクリフォード様は、既に涙目だった。私の前に傅いてドレスの裾をちょんと掴んだ。
「打算はあったのは認めるけれど、君と話がしたくない訳じゃないんだ……」
「そう。では隣に座ってください。この角度だと話しづらいわ」
「……隣に座ってもいいのかい?」
「ええ。隣に座らないと、お話ができないでしょう。それに番紋が仮の状態であまり離れるのは良くないはずですし」
「……ありがとう」
隣に座るかと思ったが、なぜか私を横抱きして、膝の上に乗せてしまった。わふぁっつ?
何してくれているの!? 隣って言ったのに!
「クリフォード様!?」
「シェリルが好きなんだ……。どうしようもないぐらい、大好き」
私の肩に顔を埋めてぎゅうぎゅうに抱きしめて離さない。完全にホールドしているんですが。思った以上に執着されているのだと実感して、溜息が漏れた。ビクリと、頭の耳が垂れ下がり尻尾がしおれている。
「私はこの八年間、お兄様だと思っていました」
「うん」
「正直、お兄様を見殺しにしたクリフォード様を許すことは出来そうにないです」
「……うん」
「でも私を大事にしようと、強引な手に出ないで八年間我慢していた胆力は賞賛します。……私の心が壊れないように、私が不安にならないように王位継承争いの件でもたくさん動いてくださったのでしょう」
「…………うん」
「過去の……あの日の夢を見ましたわ。お兄様が屋敷に戻ってこなくて、私の世界はセピア色でした。それを終わらせてくれたのはクリフォード様、貴方だったのです」
「私……が?」
「ええ、まだお兄様が亡くなったことを全部受け入れるのは難しいですし、気持ちの整理が付きません」
「うん」
「ですが、それはそれとして、クリフォード様と今後どうしていきたいのか、どうしたいのか。まずはクリフォード様のことが知りたいのです」
「私を……?」
顔を上げてクリフォード様は私を見返す。今にも泣きそうな、なんとも情けない顔をしている。
「だってクリフォード様は私のことを熟知しておられるかもしれませんが、私はゲー……予知夢ではない今のクリフォード様のことを知りませんもの。知らなければ、クリフォード様と今後どうしたいのかを決めるための判断ができないでしょう?」
「それは……私のことを好きになってくれる可能性もあると?」
「ええ。嫌いになる可能性もありますけれど」
「うぐ……」
「そういうのはイヤですか?」
「……では……私のことを……クリフォードと呼んで、傍に置いてくれるのか?」
「そうですね。婚約者としての距離感なら」
「……私を婚約者として受け入れると?」
「はい」
嬉しそうに微笑む姿を見たら「ノー」と言えないじゃない。ゲームのクリフォード様とは違う道を選んだからこそ、今のクリフォード様になった。
優しくて、温かくて、人の痛みが分かる人に。
「私のことを大事にしてくださる貴方様なら、婚約者でもいいです」
「大事にするし、君から絶対に離れない」
うーん、「離れない」というワードがなんだか束縛系な感じがするけれど、気のせいだと思いたい。うん、気のせいよ。
クリフォード様にはヤンデレ気質も、束縛系もなかったわ。そもそも人の執着しない人だったもの。ゲームキャラと多少変わっても根っこの部分は変わらないと思う。思いたい。
「シェリル、愛している。大好き……」
「クリフォード様、……私はまだ愛しているという気持ちには到達はしておりませんが」
「……うん」
「好ましいとは思っていますわ」
「シェリル!」
ガバッと抱きしめるクリフォード様は、ご機嫌だった。破顔した姿の破壊力……!
両親はホッとした顔をして祝福してくれた。それからあっという間に私の婚約話が広まって、ヴィリディス国、アウロラ大国双方の国王への謁見と挨拶などでバタバタと忙しくなった。
その間に魔法学院の入学などもあり、クリフォード様は基礎から学びたいと同じ学年として入学してきた。しかも席は私の隣という。
これでもかと、ありとあらゆる権限を使ったのだというのが推測できた。というかこの方、ゲームシナリオ上、既に留学していて三年生なのだけれど……。ちなみに寮生活を希望したらクリフォード様が子狐姿になって『絶対に嫌』と泣きながら説得(という名の泣き落とし)で、屋敷から通うことになった。
「シェリルと並んで学院に通えるなんて……」
「クリフォード様、そのセリフ38回目ですからね。毎日言うつもりですか?」
「かもしれない。幸せなことは口にしなければ伝わらないからね」
手を繋いで学院内を歩く。
学院内ではケモ耳も尻尾も隠しているが、幻覚なのか私にはクリフォード様のケモ耳が見える時がある。なんとも可愛らしいのだ。ずるい。本当に狡いわ。
***
それから学院生活と婚約者としての挨拶回りを終わらせて、私とクリフォード様はブルーノ兄様の墓参りに訪れた。
お兄様の葬儀の記憶はない。だから墓地にお兄様の名前が書かれたのを見た瞬間、「ああ、本当にお兄様はもういないのね」と実感した。
私の中では、つい最近まで傍にいたのだ。気付けば傍にいて、何でも話を聞いてくれて、妹に甘くて……。
涙が止まらない。
胸が苦しくて、悲しくて、もっと傍にいたかった。
ブルーノお兄様。ずっとここで眠っていたのに、ごめんなさい。私がスペアの魔導具を持たせていたら……。あの狩猟大会は危ないと言って不参加していたら……。
『タラレバなんて言い出したら切りが無いだろう。怨むよ、幸せにならなかったらね』
風に乗ってお兄様の声が耳に届いた気がした。
それは幻聴だったのかもしれない。それでもお兄様なら言いそうだと涙が止まった。
「ブルーノ・エイズワース。あの時の約束を改めて誓う。この先、どんなことがあっても君の妹と、侯爵家を守る。そして大事にするよ」
「クリフォード様」
涙を拭って、クリフォードの指先に触れた。手を繋ごうとしたら、なぜか恋人繋ぎに……。さらっとするのだから凄いわ。
「ブルーノ兄様、また来ますわ」
風が頬を撫でる。
お兄様からの返事のようで、胸が温かくなった。クリフォード様のおかげで、お兄様との楽しかった日々が糧となっているからこそ、私は立っていられる。
「クリフォード様、ありがとうございます」
「いや。お礼をいうのは私のほうだよ。やっと……八年越しに彼との約束を誓えたのだから」
石畳を歩きながら私とクリフォード様は歩き出す。
八年の歳月をかけて、私とクリフォード様の関係も大きく変わった。でもそれは婚約者としてスタートラインに立ったというだけで、まだまだクリフォード様のことは分からないことも多い。
それにゲームシナリオもチュートリアルを終えて、本編に入るのはこれからだ。アウロラ大国での王位継承争いはなくなったけれど、それ以外にも学院内では、色々と問題が起こる。
私は聖女ではないけれど、光魔法の使いであることは間違いない。光魔法の使い手は貴重だからこそ、ヴィリディス国での勢力争いあるいは、問題に巻き込まれる可能性は大いにある。
「学院での生活も気を引き締めて行かなきゃ」
「そうだね。シェリルにちょっかいを出そうとする輩は、ちゃんと消すから安心してくれ」
「うん。……って、ちょ、え!?」
なに涼しい顔をして、とんでもないことを言い出すのだろうか。背筋に嫌な汗が流れ落ちる。
「えっと、パドゥン? ……クリフォード様、もう一度言ってもらえますか?」
「ン? ああ、ちゃんと選択肢を与えた上で対処しているから安心して」
「……死ぬ場所を山か海のどちらかを選ぶ……なんてことはないですよね?」
「…………モチロン」
「なんでカタコトなんですか?」
目を合わせないクリフォード様に私は詰め寄る。それはそれでなぜ嬉しそうなのだろうか。頬を染めないで欲しい。というかそういう雰囲気でもないのだけれど!
「だって、もしシェリルに心を奪われてアプローチをかけたら、殺したくなる」
「なにが、『だって』ですか。行方不明者を増やす気満々なんてダメです! そんな物騒なことをしなくても、……私の婚約者はクリフォード様じゃないですか」
「シェリル……!」
途中で恥ずかしくなってごにょごにょとなってしまったが、クリフォード様は嬉しかったのか、私をギュッと抱きしめる。どさくさに紛れて頬にキスをしてくるのを見るに、私がそう答える事を期待していた節があるわね。
「シェリル。大好き、愛している」
「クリフォード様、ここは外ですから!」
「うん、君は私の婚約者だからね!」
「クリフォード様!」
「もっと、私の名前を呼んで。罵詈雑言でも、なんでも嬉しい」
「その言い回しは、とんでもない誤解を生むので今後言わないでください」
「わかった。愛しているよ。シェリル」
「私は……まだ、言葉には難しいです」
「うん」
抱きしめていた私を離してくれたので、「でも」と背伸びして彼の頬にキスをした。目を見開いて固まっているクリフォード様に、悪戯っぽく微笑んだ。
「このぐらいには好きですよ」
「シェリルからの……キス……」
「ふふっ、ビックリしました……か、んんっ」
クリフォード様の驚いた顔に満足していた矢先、私からのキスは刺激的だったのか噛みつくようなキスの仕返しを受けた。
ちょっとからかおうとしたら、クリフォード様相手だと相当の覚悟が必要なのだと私は学んだ。ええ、学びましたとも!
外とはいえ人がいない場所で本当に良かった!
まだまだクリフォード様のことはわからない。
どのタイミングでキス魔になるのかとか。突然嫉妬全開暴君モード並になる所とか。
何が好きで何が嫌いなのか。いや、私が好きだというのは分かっているので、食べ物とか趣味とかなのだけれど、私の観察日記とか言い出した時は笑みを維持するのに苦労したわ。
趣味は武器の手入れ、拷問、洗脳や暗示の研究とか言い出したので、もっと健全な趣味として私とのお出かけ、日帰り旅行、花壇で一緒に花を育てるなどいろいろ試している。
クリフォード様は超天才なので、なんでもすぐにできてしまう。だからこそ執着らしいものもなかったのだわ。
馬車に乗って屋敷に戻ると、キャロルが出迎えてくれた。愛らしい弟に思わずギュッと抱きしめる。ああ、このモチモチ肌素晴らしいわ。
「お帰りなさいませ、姉様、お義兄様」
「ただいま、キャロル」
「ただいま」
「お義兄様、今度剣の扱いを教えてくださるんですよね」
「ああ、もちろん」
「わあい」
屋敷の中に入ると、執事長が出迎えてくれた。キャロルは私に引っ付いていたが、どうやら勉強の途中で飛び出してきたらしい。離れがたそうにしていたが、しょんぼりしながら部屋に戻っていった。なんとも微笑ましい。
「キャロルはクリフォード様のことを、未だにブルーノ兄様だと勘違いしているのかしら?」
だとしたら少し心配だわ。そう思っていたのだが、クリフォード様は「ああ」と嬉しそうに微笑んだ。
「私のことは、お義兄様と呼ぶことは元から許している」
「そうなんです?」
「ほら、私と君が結婚したら家族になるのだから、間違っていないだろう」
「……あ。……っ!」
侯爵家はキャロルが継ぐ形でお父様たちとは話が済んでいるらしい。キャロルは突然、ブルーノ兄様がいなくなって混乱しないか心配だったが、元から私以外の人はブルーノ兄様だと認識していなかったらしく、私だけがずっとクリフォード様をブルーノ兄様と呼んでいたとか。
それって私が心の病的な感じに周りから見られていたってことで……。もっとも領地からあまり出てなかったし、社交界ではずっとお兄様がいたから噂を聞くことなんてなかったのよね。……噂にならないようにクリフォード様が動いた気がしなくない。うん、私は気づかなかったことにしなしょう。
「私もお兄様ってよ──」
「それはダメ。絶対に」
「うん。そうね。……クリフォード様は、クリフォード様だもの」
「もし新しい呼び名をお望みなら、旦那様か、アナタの二択かな」
この方のそういうところは、何処までもブレない。ゆっくり、時間をかけて、私とクリフォード様の恋を紡いでいく。偽りの家族ではなく本当の家族となるために、今はその過程を楽しもう。
ゲームシナリオの本編は、私とクリフォード様の物語は始まったばかりなのだから。
「シェリル! あー、その、まだお会いしていないというのに、どうしてそのようなことを言うんだい? ……とっても立派な方かもしれないだろう?」
「だって……クリフォード様は第三王子ですが、玉座を狙っております」
「えっ、ちょ!?」
「王様が【死遊戯】というもので王位継承権を決めようとしたため、それぞれの王子陣営同士での殺し合いが苛烈になるからです。しかもその遊戯中に王様も死にますので、さらに継承争いは酷いものになりますの。その火の粉は我が国にも降りかかりますわ。戦力となる聖女を得るため候補者となる令嬢を誘拐。我が侯爵家もその煽りで没落。私は特殊な修道院に入れられて聖女になりますわ」
「え、没落。暗殺!? シェリル、そんな物騒な言葉何処で覚えたんだい!?」
「ゲー……夢で見聞きしました! ……聖女となった私はクリフォード様陣営の駒、婚約者として無理難題を課せられたのです。一つでも失敗したら即ゲームオーバーのバッドエンドが待っている。あげく私の魅力スキルが足りなかったら、殿下は余所の女を選んで、婚約破棄+罪を着せて処刑! これって悪役令嬢のポジションなのですよ。ヒロインからヴィランって酷いでしょう!? 暗殺、誘拐、戦場へ放り込む……。最悪なのは、クリフォード様の盾にされて殺されるエトセトラ……そんな未来のお嫁さんは嫌です」
「え、ちょ、シェリル? なんでそんなに夢が具体的なの!?」
「夢で何度も見たからですわ、お父様。……これは神様からのお告げ、つまり予知夢だと思うのです!」
「予知夢!?」
「だから私は、お兄様とずっと一緒に居ることにしたのです!」
私はお兄様の腕に引っ付いたまま、思いの丈を述べた。両親はオロオロするし、周りの大人たちの空気も何だか可笑しかったけれど、私はこの侯爵家を守るためにも婚約を受け入れるわけには行かなかった。
隣で喉を鳴らして笑うお兄様は、私の額にキスを落とした。くすぐったくて、お日様の匂いがする。ギュッと抱きしめたらお兄様は優しく抱きしめてくれた。
「シェリルはしょうが無い子だね。でも、いいよ。君がそれを望むのなら僕が全部叶えよう」
「本当ですか、お兄様?」
「うん、でも約束通り僕とずっと一緒にいてね」
「はい!」
古い記憶。八歳ぐらいだったかしら?
お兄様らしからぬ不思議な約束だった気がするけれど、その時の私は死亡フラグを回避することしか頭になかった。
だってこの乙女ゲームのヒロイン、チュートリアル前から詰んでいるのだものしょうがないわ。私は両親を守りたいし、侯爵家に仕えている使用人たちを助けたいし、没落なんてさせない!
何より聖女になんてなりたくないもの! そんなものになったら王族の権力争いの道具にされてしまう。そんなのは絶対に嫌!
何が何でも侯爵家を継続させたまま、お兄様を当主にさせる。それがチュートリアルの詰みの状態からの完全回避ルートなのだから。
そう信じてチュートリアルまでに死亡フラグを全て折りまくった結果。十六歳の春──つまりチュートリアルが始まる入学数日前に、死亡フラグがパワーアップして戻ってきたのだった。
「明日、お前の婚約者であるクリフォード殿とのお茶会がある」
「ふぁあ!?」
お父様の爆弾発言に朝の美味しいパンとバターの味が一瞬で消えて、素っ頓狂な声を上げた。侯爵令嬢としてはしたない声だと分かっていたが、こればかりはしょうがない!
なにせクリフォード殿下の名前は、侯爵家にとって鬼門以外の何者でもないのだ。というのも、乙女ゲーム【終焉の獣王と泡沫の聖女】の世界設定では、隣国アウロラには三人の王子がおり国王が王太子を決めるため、チェス盤に見立てた【死遊戯】で王の資質を試す予定だった。しかし術者の介入により、その遊戯で負けると死ぬという呪いが付与されていたため王位継承争いが激化。
王以外の王族は全員死ぬという最悪の呪いによって、双方の陣営が死ぬ気でぶつかり合う。より有能な手駒を求めた三勢力は、我がヴィリディス国の聖女に目を付けた。毒無効化、治癒、絶対防御などが扱える光魔法の使い手を陣営に加えようと考え──貴族の家を襲撃して、聖女候補の娘を攫った。
ヒロインは聖女候補筆頭だったため、屋敷にいた私と弟以外殺された。その後は弟を人質にされて、もっとも厳しい修道院に放り投げられる。この時、ヒロインは十歳。聖女の称号を得た後は、クリフォード殿下と交渉して婚約者となる。もっとも彼にとってヒロインは使い捨ての駒でしかなかったという裏設定付き。
好感度、任務達成度、魅力度もろもろのパラメーターが一つでも足りないと、ゲームオーバーとなる。この乙女ゲームのエンド数は過去最多の52種類もあるのだ。バッドエンド48、ノーマルエンド2、トゥルーエンド1、ハッピーエンド1という恐ろしい枝分かれ選択と判定がある。超ハードモード設定。馬鹿じゃないの?
公式が病気だと思う。
話が逸れてしまったけれど、クリフォード殿下が私の家の襲撃を命じたのだ。そういった設定もあって他の攻略キャラよりも、このクリフォードルートは複雑かつ難易度が高い。
ヒロインなのにチュートリアルまでの設定が重すぎる。こんなん実際に経験したらゲーム開始どころかチュートリアル前に心が壊れるわ。前世では平凡なOLだったものそんな波瀾万丈な人生はノーセンキューなのです。
隣国アウロラの王位継承争いを回避すべく、色々働きかけて遊戯そのものを阻止しようと色んな人を巻き込んだ。その甲斐もあって今では第一王子が王太子に、第二王子のラルフが補佐をする形で収まって、第三王子は辺境地に領地を持つ形で王都から離れる。そう発表があって喜んでいたのに!! シナリオの強制力! 嬉しくない!
「お父様。クリフォード様が婚約者になるなんて、私は承諾しておりませんわ! あの方は我が家を根絶やしにする気ですもの!」
「……外でそんなことを言ったら、首が飛ぶからやめなさい。アウロラ大国では王位継承争いも数年前に収まって平和そのものだろう。お前が昔、起こりうる災害や問題を箇条書きにして国王と、アウロラ国王に奏上したことで回避した実績があるのは認めるが、いつまでも過去に見た夢ばかりに目を向けるのではなく、現実の殿下を──」
「だとしても、勝手に婚約したのは許せません。貴族の娘として政略結婚は覚悟していますわ。でも決める前に一言あっても良かったでしょう」
「そ……それは……」
父と母は何故か視線を泳がせているばかりで、反論してこない。気まずそうに食事を続けているばかりだ。
可愛い弟はモグモグと一生懸命食べていて可愛いだけで、お兄様は席にいない。ここ最近は侯爵家を継ぐにあたって、隣国との共同事業などで忙しいとか。三日に一度は帰ってくるから寂しくないけれど、でもお兄様がこの話を知っているのかしら?
私は超が付くほどのブラコンだが、ブルーノ兄様も負けないぐらいシスコンで基本的に私にべったりなのだ。
もしかしてお兄様がいない間に、クリフォード様と会わせてしまう気?
そもそもお兄様は、このことをご存じなのかしら?
両親を凝視するが無言を貫き通している。どうあっても私を殿下に会わせる気ね。
「そ、それに今回のお茶会はブルーノが言い出したことだ。文句があるのなら、ブルーノに言いなさい」
「お兄様が!? それこそあり得ないわ」
「ブルーノにも考えがあるのだろう。何せ、隣国とも交渉や事業も広げている」
「むう……。分かりましたわ」
いざとなれば、ボイコットして会わないという手もある。婚約者にふさわしくないと思わせれば良いし、そもそも私は聖女にならなかったのだから利用価値はない。第三王子は臣籍降下して授爵し辺境地に移り住むのであって、手駒を集める必要もないので精々領地を潤すため名家の令嬢を迎えればいいのに、なぜわざわざ隣国から迎えるのか。
いやまあ、隣国の摩擦を減らすため両国の関係を良好にする目的だとしたら分かるけれど、でも、私じゃなくたっていいじゃない!
私は周りが引くぐらいのブラコンなのに!
もしかして仮面夫婦をお望み?
お兄様にしか興味が無いから都合が良いと思われた!?
それとも乙女ゲームの強制力なのかしら? いやだったら王位継承争いのほうが大きな軸なのだからそっちが変わって、ヒロインの運命を軌道修正するのは、やめて欲しいわ!
そんな気分で朝食を終えて、ムカムカしながら自室に戻った。
***
ふ、ふ、ふ! お父様、お母様。前日に明日の予定を言うなんて甘いですわ!
魔法学院の寮に入るため、荷物まとめも終わっている。でももし入学を取りやめて嫁げとか言い出したら、全力で他国に逃げよう。いざという時の軍資金もある。あとはトランク一つに荷物をまとめようとクローゼットを空けた瞬間、白いモフモフが飛び込んできた。
「くー」
「まあ、お兄様!」
白狐は私に飛びつき、頬にキスをする。真っ白なふわふわの毛並みに、三尾の白狐はブルーノ兄様だ。時々、呪いによって白狐の姿に変わってしまうらしい。
お兄様──ブルーノはゲーム本編には出てこない。ヒロインが幼い頃に亡くなった設定があるぐらいで、あとは……思い出せない。もしかしたら白狐の姿の呪いは、その時の副作用?
今は子狐サイズなので私が抱きかかえていられるが、本来は二メートルほどの巨体になる。添い寝をする時は、そのサイズだと抱き枕的に最高だったりするのだ。
「お兄様、聞いてください。明日、クリフォード様とのお茶会があるんです!」
「くぅ?」
ブルーノ兄様は「嫌なの?」とちょっと困った顔をしていた。まさかお兄様が他の異性に対して、そのような反応を見せるなんて予想外だった。社交界では私の傍にいて近寄る異性を威嚇していたというのに……。
「ハッ! まさかお兄様……。私を婚約者として差し出す代わりに、何か交渉しましたか?」
「くう!」
ブンブンと勢いよく首を横に振った。どうやら私を取引材料にはしていないらしい。とりあえずクローゼットを閉じて、ソファに座って白狐を膝の上に乗せる。専用のブラシでモフモフの毛並みを梳かすと、お兄様は「こぉんこぉん」と鳴き出すのだ。きっと気持ちが良いのね。
三尾も揺れているのだから間違いないわ。
「はあ、憂鬱です。最悪です……。どうあっても、あの方と婚約する運命なのでしょうか」
「くう……」
途端にお兄様の尻尾が床に垂れ下がった。もしかして隣国に滞在している間に、クリフォード様と親しくなって友誼を結んだのかしら。……会ってもいないのに自分の友人を毛嫌いされたら悲しくなるわよね。
そっとお兄様の頭を撫でたら「こぉん」とふにゃふにゃになって、お腹を差し出す。こちらも撫でろと言うのだろう。本当にこの姿のお兄様は甘えん坊になる。
「ブルーノ兄様、ごめんなさい。お兄様のご友人であるクリフォード様に対して少し配慮が欠けていましたわ」
「くー」
「でも私はあの方に嫁ぎたくないのです。昔、ずっとお兄様と一緒に居るって約束したでしょう。この屋敷の皆が大好きなんです。お父様もお母様も殺されずにすみましたし、キャロルと離れ離れにもならなかった今を、もっと大事に過ごしたいのです」
「こぉん」
甘い声だわ。
素早く起き上がると伸び上がって、私の唇にキスをする。「愛している」と言っているのか、頬にもキスをして「シェリルは?」と美しい紫色の瞳で見つめ返す。
「もちろん、ブルーノ兄様も大事ですし、愛していますわ」
「こぉん」
嬉しそうに尻尾を振って、私の腕の中で満足そうに丸くなって寝てしまう。はわわわっ、可愛らしい! でもこれじゃあ荷造りができないわ。
まったくもって私が何もできないと踏んで、眠ったわね!
結局、その日はブルーノ兄様が子狐のまま、私にべったりと引っ付いて離れなかった。おかげで明日の逃げる準備は頓挫することに。全くもって子狐効果は、絶大だわ。
その日はベッドに子狐を抱えたまま眠りにつく。
この姿のお兄様はとっても人見知りが激しいのだ。私以外に懐かないし、他の者が触れようとすると毛を逆立てて威嚇をする。それは両親や弟のキャロルも当てはまるのだ。
お風呂に入ってラベンダーの香りにウットリしながら、ベッドに入る。
「こぉんこぉん」
「ブルーノ兄様、今日はこのサイズですのね」
「くー」
子狐が跳躍して宙返りをした途端、二メートルほどの真っ白な狐さんに早変わりした。モフモフ度合いはこちらが上で、四尾に変わっている。
「もふもふですわ」
「こぉん、こぉんこん」
今日はいつにも増して私の体にすりついて、自分の匂いを押しつけてくる。もしかしてお兄様も本当はクリフォード様と会うのが嫌だから、いつも以上に甘えているとか?
「大丈夫ですわ。私の一番はブルーノ兄様ですから」
「くう……」
コテンとその場に倒れるように横になってしまった。うーん、いつもなら凄く喜んでくれるのに、お兄様の気持ちがよく分からないわ。もしかしてこれが反抗期?
そんなことを考えているうちに、お兄様の尾が私の腕に巻き付いて横になるように促してくる。
「おやすみなさい、お兄様」
「こぉん」
モフモフのお兄様をギュッとしながらの就寝。すぐに眠気が襲って意識が薄れていく。
ギシ、とお兄様が起き上がったのかベッドが少し軋む音がする。頬に触れる感触は前脚の肉球ではなく、お兄様の温かな指先だった。
呪いの効果が薄まったのかしら?
薄らと瞳を開けて榛色の髪と金茶色の瞳が見えると思っていたのに、なぜか白銀の長い髪に、バイオレットの瞳が私を見ている。
ブルーノ兄様……の色じゃない?
呪いの効果で白狐の影響が出てしまっているのかしら。それにしても、どこかで……見たことがあるような?
「シェリル、ようやく。ようやく、この日が来た。約束通りずっと傍にいるよ。……だからね、これ以上私を嫌わないでほしい」
お兄様の声なはずなのに、声変わりでもしたのか低くて耳に残る。
お兄様を嫌ったことなんて一度も無いのに、変なお兄様だわ。私を優しく抱きしめて、頭を撫でるのは間違いなくお兄様……。
温かくてホッとする。
「シェリル……愛している」
それは兄として妹を思うような声音とは違って聞こえた。きっと気のせいだと私は深く考えずに睡魔の誘惑に負けて意識を手放す。
もしこの時、ブルーノ兄様の言葉を聞き返していたら──あんな風にはならなかったのかしら?
***
翌日。
朝早く起きてお茶会をブッチしようと考えたのに、ブルーノ兄様のモフモフの誘惑に負けて二度寝。
目が覚めた時には十時前後だった。しかもブルーノ兄様の姿はなく、出かけた後だという。なんという策士なのかしら。
結局、お兄様にはクリフォード様とどのような関係なのか聞けずに、お茶会を迎えることになった。朝食を食べた後でも抜け出せると思っていたのだけれど、侍女たちに取り押さえられお風呂に直行。体中を磨き上げられる。
え、婚約者に会うだけなのに、なんでこんな気合いが入ることをするの? いやクリフォード様は他国の王族、出迎えるにあたってこのぐらいするのが当たり前なのかも?
そんな感じで私の榛色の髪も今日は艶のある仕上がりにして貰って、ドレスも白とウィスタリア色で体のラインが出るAラインドレス。金の刺繍まで入っているのが見えるけれど、コレ絶対にお兄様が特注で作った物だわ!
「とってもお似合いですよ」
「ありがとう」
侍女のミアはやりきった感満載で、嬉しそうだ。他の侍女たちも目をキラキラさせている。私はこの家に尽くしている人たちを大切にしたいし、死なせたくない。死亡フラグが何処に転がっているか分からない以上、クリフォード様の逆鱗に触れるようなことは控えるべきだわ。
昨日は感情的になって逃げだそうとしたけれど、そうなった時に家族やミアを含めた他の人たちが巻き込まれる可能性を考慮してなかったわ。もしかして……お兄様はそれが分かっていたから、私の傍にいた?
「いつにも増して素晴らしいバイオレット色のドレスですわ。シェリル様にぴったりですわ」
「ふふっ、そういえばお兄様からの贈物は紫と白が多かったような?」
「それはそうでしょう」
「?」
侍女たちの言葉に妙な引っかかりを覚えつつも、私は客間へと向かう。そういえば馬車が到着したという話は聞いてないわ。
奧の客間はシンプルだけど豪華な作りで気に入っている。執事に扉を開けてもらい、中に足を踏み入れた時、窓近くにアンティークの可愛らしいテーブルと椅子、そして様々な菓子とティポットの準備も完璧にしてあった。
その椅子に座っている男性に目を剥いた。
「お兄様?」
私と同じ榛色の髪に、金茶の瞳。ほっそりとして穏やかそうな眼差しを向けていた兄の姿が見えているのに、違和感が拭えない。
まず服装だ。お兄様が着ているのはアウロラ大国の王族だけが許された正装。白を基調とした軍服寄りの作りで、金の刺繍がふんだんに使われている。次に背丈だけれど、立ち上がったお兄様は、私よりもずっと高くて、目を合わせるのなら顔を上げなければならない。
「シェリル……」
甘い声。でもお兄様よりもずっと低くて、耳に響く。
違和感に気付くと、髪の色は白銀色に染まって、一房三つ編みにしているけれど、とても長い。瞳は宝石のようなアメジスト色、ううんバイオレットに近い鮮やかな青紫色だわ。
私を見つめるこの人は──お兄様じゃ、ない?
「シェリル、よく聞いて欲しい。……私の名前はクリフォード・アルノルト・バルテン・レルシュ。アウロラ大国の第三王子で、今度臣籍降下する公爵当主だ」
「クリフォード様……え、でも、……お兄様は」
呼吸がうまくできず、事態が上手く飲み込めない。
どうして急にお兄様がクリフォード様に?
ううん、それよりも挨拶を……。
ドレスの裾を掴んでカーテシーをしようとするも、体が硬直して動かない。
「大国の太陽……」
「シェリル。落ち着いて、ああ、手がこんなに冷たくなってしまっているじゃないか。ほら、ゆっくり息を吸って。大丈夫、これからどういうことなのかゆっくり話すから……」
「申し訳ありません……」
「謝らないでほしい。ほら、こちらに座ろう」
「はい」
クリフォード様は驚くほど優しくて、私の指先を両手で包んでくれた。温かくて、心地よい。初対面なはずなのに、ずっと前から知っているような不思議な感覚だった。
私を長椅子のソファに座らせると、その横にクリフォード様が座る。この距離感はとても近くてお兄様と同じ──。
眉尻が下がっていて今にも泣きそうな顔をしている。よく見れば陶器のように白い肌、目鼻立ちが整った美しい顔、お兄様とは違ってガッチリとした体つきだわ。どうしてこんなにも違う人を兄だと錯覚していたの?
「落ち着いて聞いてください」
「は、はい」
く、クリフォード様が喋っている! しかも乙女ゲームのキャラ設定と全然違う! もっとこう人を殺すような鋭い目をしていて、口調だって傲岸不遜を絵に描いたような暴君。笑顔なんて口角が少しだけ上がってニヒルな感じだった。つまり別人ってぐらい雰囲気が違う!
そんなのを間近かつ至近距離って無理!
落ち着くどころか心臓が飛び出しそう。しかもなんか良い匂いがするし。お日様?
うーん、フローラルとは違うような……。
「シェリル、私の匂いが気になりますか?」
「なんだか懐かしいような? ラベンダーとクマリンのハーブを混ぜた爽やかな香りがしたので……」
「その匂いは嫌いでしたか?」
「嫌いじゃないですわ。なんだか落ち着きます」
「それはよかった」
笑顔が眩しい!
そして王子に対して何を言い出しているの、私!? 侮辱罪とかで殺されない?
カタカタと体が震えてしまう。
「……シェリル。怖がらないで聞いて欲しい。……まず私は昨日までずっとブルーノ・エイズワースのフリをして君の傍にいた」
「え」
今まで信じていたものが音を立てて崩れていく。それは積み重ねてきた砂上の城が高波によって一瞬で崩れるような──喪失と絶望が私を襲う。
「お兄様が……クリフォード様……? じゃあ、お兄様は?」
「君の兄ブルーノは、ずっと昔に亡くなっている。君が予知夢を口にする前、私を殺しに来た暗殺者に……」
「──っ」
ブルーノ兄様は乙女ゲームの設定にも、幼い頃シェリルに兄がいたとしか書かれていなかった。いつ亡くなるとか明言されていなかったけれど、たしか病気ではなく事故で……。
「お兄様は……いつ、亡くなったのですか」
「アウロラ大国とヴィリディス国の合同主催による狩猟大会で……君はまだ八歳で、ブルーノは十二歳、私も彼と同じ年だった。彼はね、私を庇って撃たれたんだ」
「……その時なら、お兄様に治癒魔法の魔導具を渡していましたわ」
「うん。これだね」
クリフォード様は、胸の内ポケットから小さなペンダントを出した。私がお兄様に渡したペンダントだ。当時、魔導具は貴重で手に入るのは難しかったから、私の全魔力を込めて一度ならどんな深い傷でも助かるという【光の治癒】。
「どうして……クリフォード様が、それがあったのならお兄様は……死ぬはずないのです」
「うん。彼が庇ってくれたんだけれど魔弾はね、ブルーノと私の体を貫いたんだよ。だからどちらか一人しか助からなかった」
「お兄様から……奪ったのですか」
声が震えた。
今のクリフォード様の雰囲気からはわからないが、ゲーム設定上のクリフォード様なら目敏くペンダントの存在を見つけて、使っただろう。
血も涙もない人という設定だったもの。
「(そうだな。あれは第三王子のせいで彼は魔導具を差し出すしか選択肢がなかった。でなければ王子を見捨てて生き残った後、彼は社交界から追放、廃嫡、公爵家そのものが没落した可能性だってある)……君の兄から奪い取って使ったようなものだ。その場を立ち去ろうとした時に、ブルーノが言うんだ。『それを使った以上、君は侯爵家を、私の大切な妹を守らなければならない』ってね」
「お兄様……」
恨み言や怒りではなく、真っ先にそういうことが言える。それが兄だった。どこまでも優しくて俯瞰視していて……家族思いの大好きなお兄様。
ポロポロと涙が零れ落ちた。
「愚かだと思った」
「──っ」
「(あの時、魔導具を一人ではなく複数人に使う考えに至っていれば……、お互いに後遺症は残ったかもしれないが、二人とも生き残れた可能性はあったのではないか。そんなことを考えさせられる。もう遅すぎるけれど)自分が生き残るよりも、他者を優先しようなど生物として失格だと……。けれどあの金茶の真っ直ぐな瞳に射貫かれて、私は頷くまでその場を動けなかった。後にも先にも瞳だけで気圧されたのは彼だけだ」
「お兄様は……すごいのです」
「ああ。そして侯爵家は隣国の第三王子を救ったとして、両国の関係はより良好なものになった。これは彼の功績だ。……それから一ヵ月後、私は侯爵家に礼を言うため、この屋敷を訪れた。そこで君と出会った」
「私……殿下とお会いしていたのですか」
「そうだよ。君が八歳の時、八年も前のことだ。……ここで二つほど予期せぬことが起こった。一つ目は、君が兄の死を受け入れておらず、私を見て『ブルーノ兄様』と泣いて抱きついたことだ」
「え!?」
その時から私はクリフォード様をお兄様と……認識していた?
「君は光魔法の使い手だ。光を屈折させて自己暗示もかけていたのだろう。私をブルーノと呼び、泣きじゃくって抱きついて離れなかった」
「そ、それは……申し訳ありません……」
当時のクリフォード様に抱きついて泣くなんて……よく生きていたわ。自分の大胆さにゾッとしてしまう。再び指先の感覚が冷たくなっていく。
「二つ目の予期せぬことというのは……私がその時に君を番だと認識して、その場で番紋を刻んだことなんだ」
「つがいもん……番紋!? って、その場で!?」
番紋。
アウロラ大国の獣人に現れる特徴の一つで、感覚的に自分の伴侶がわかるというものだとか。そういえば乙女ゲーム内では、幾つか条件を満たすと攻略キャラと番になるシステムがあったような? クリフォード殿下は覚醒条件が厳しいので、公式サイトでチラッと見た程度なのよね。
それにしても私の体に番紋の痕なんてあった?
「番紋は仮なんだ。……いや正確には君が私をクリフォードではなく、ブルーノとして認識していたから番紋の効果が薄かったんだ。でもそのことを当時の君に、何度か話そうとしたのだけれど……」
「上手くいかなかったのですね」
「その通り。事実を告げようとすると君はその事実を受け入れられず、魔力暴走を起こし、君の体に相当の負荷が掛かってしまった。それに当時はアウロラ大国での継承争いが水面下にあったことも、君にとっては不安だったのだろう。継承問題が解決しなければ侯爵家が危ないと思っていたようだし……私を目の前にして『絶対に婚約しない』とハッキリと言った時は正直死にたくなった」
「ええ!?」
あの鋼のメンタルかつ冷血非道人間が?
クリフォード様の瞳は優しい。両手をギュッと掴んでいる手も温かい。婚約を拒絶されたことを思い出したのか、目が潤んでいて酷く傷ついた顔をしていた。その顔でしょんぼりするのって、なんだか狡い。
「君の未来予想図の私は悪逆非道、人を手駒としてしか見ていない暴君そのものだった」
「……私、そんなことまでクリフォード様に?」
「そうだよ。番紋が現れてしまった以上、君は私の婚約者となる……でも君は予知夢を公言した。それは王族の一部しか知られていない秘密まで知っていたので、その予知夢は信憑性が高いと判断され国王、父上に奏上した。元から王位継承争いについて悩んでいた現状の打破として、宮廷魔術師が考案した遊戯に目をつけたと話してくれた。調査が入った結果、その遊戯の危険性も発覚して、すぐさま【死遊戯】は凍結。予知夢の内容を知った第一王子、第二王子は最悪の未来を回避すべく第一王子を王太子にして、宰相という立ち位置を第二王子が得た。それらの功績を使って、私は王位継承争いから離れて臣籍降下を選んだ。君が私を冷酷非道な第三王子と恐れていたから、少しでも印象を良くしたくて言葉遣いや周りに気を配るようにしていった。そうしたら面白いことに周りの評価もガラリと変わったんだ」
ゲームに出てきたクリフォード様とは確かに違う。頭のケモ耳はしょんぼりしているのか垂れているし、尻尾は一つだったのに今は四つもある。刃のようなバイオレットの瞳は、キラキラした宝石のように輝いているし、頬が少し赤い。
うん、誰だ、コレ。
アレかな、童話の金の斧と銀の斧みたいに「貴方の落としたのは綺麗なクリフォード様?」みたいな全くの別物になってしまっている!?
これって私の責任? 私の責任だよね!
「シェリル?」
チュートリアル前の詰みの状態を回避しようとしたら、攻略キャラの性格まで変えてしまうなんて……。これはクリフォードファンに殺されない!? いやでも元の性格だとしたら、被害を受けるのは私だからいいかな……?
ううん、今その話はいいとして、もっと確認しないといけないことがあるわ。
「……八年間、兄のフリをしていたのに、どうしてこのタイミングで私に正体を明かそうとしたのですか?」
「君との最初の約束通り、兄として君を愛してずっと傍にいる。それでも良いと思ったんだ。君の兄を奪ったのは、半分は私なのだから……」
「クリフォード様……」
「でも……最初から今も、君を妹として一度も見ることはできなかった。いつだって君は私にとって愛おしい伴侶で、番だ……。愛おしくて、もっとシェリルの傍にいたい、もっと触れたいと、抑えられなくなった……」
クリフォード様は胸を押さえて、私に寄りかかるように体を傾ける。慌てて支えようとすると力強く抱きしめられてしまう。
「シェリル……私は、君が好きだ。私は傲慢で、君から大切な兄を奪った。……でも、私は……君に愛されたい……」
「──っ」
懊悩し、震えた声で告げる。
声が、言葉が、出てこない。
騙していたと怒ればいいのか、嘆けば良いのか、悲しめば良いのか頭の中がぐちゃぐちゃで気持ちが追いつかない。
「シェリル……ごめん」
ポツリと呟いたクリフォードは顔を歪めながら、その場に倒れてしまう。慌てて抱きしめようとしたがクリフォードの体を支えられるほどの力はなくて、一緒にソファから落ちてしまった。
「誰か! お医者様を呼んで! クリフォード様が!」
部屋の外で待機していた騎士たちがクリフォード様を抱き抱えて、寝室に運んでくれた。それから専属のお医者様が診察していて……私はぼんやりとした感覚で、ただただ目まぐるしい現状に対応することで精一杯だった。
何もかもが唐突で、私の認識がひっくり返る。自分の気持ちを整理したいのに、どうしてできないの?
***
「番紋を正式に刻んでいないことによる衰弱です」
「衰弱……」
熊の亜人である先生は穏やかだが、ハッキリと答えた。
「これは亜人族の習性でして、番に拒絶あるいは愛情を得られないと、心身共に弱体化して衰弱死します。……殿下はシェリル嬢を心から愛していましたが、貴女様が返す愛情はクリフォード殿下ではなくブルーノ様であり、予知夢で知ったクリフォード様を拒絶していた」
「……だから私がクリフォード様の話をした時に」
思えばモフモフ姿の時に、クリフォード様のことを話したら凹んでいた。きっと傷ついたんだわ。私はずっと殿下に酷いことを……。
「獣化している時は、その姿を受け入れていたからこそ、八年も保ったのでしょう。本来なら二年と耐えられず、衰弱死していました」
「──っ」
「……この八年でアウロラ大国は大きく変わりました。そしてクリフォード様も……。どうか、予知夢で見た殿下ではなく、今の殿下を見て頂けないでしょうか」
そういって先生は深々と頭を下げて、部屋を後にした。
部屋に残ったのは私と眠っているクリフォード様だけ。私はベッドの傍に腰掛けたまま、クリフォード様の手を握った。あまりにも苦しそうにしているので、触れてしまったのだ。
「クリフォード様」
私が名前を呼ぶと、少しだけ顔色がよくなる。
そっか。私に真実を告げたのは、クリフォード様の限界が間近だったからだわ。だから賭に出た。
前日に子狐の姿で私に接触してきたのも、私がクリフォード様に対してどう思っているのか気になったから。ここまでクリフォード様の読み通りだったのだろう。
策略関係はゲームの時と変わらず冴えている。でもゲーム時のクリフォード様だったとしたら、私のような小娘相手にどうにでもできたでしょうに。
洗脳、魅了、催眠どんな手段を使ってでも手に入れる。そうしなかったのは、心から好かれたいと思ったから?
どこか歪んでいて、拗らせているような気がしなくもなかったけれど、それが今の彼なのだろう。とはいえ、今までお兄様としてのフィルターがかかっていたので、彼自身がどんな性格なのか、何を考えているのか、何を思っているのか、まるでわからない。
それぐらい私の傍にいる時は、兄としての仮面を被っていた。
ブルーノ兄様……。
優しくて頭が良くて、俯瞰的で、理想のお兄様。妹に甘くて、いつだって相談に乗ってくれた自慢のお兄様で、有能で侯爵家の跡継ぎにふさわしい方だった。
「もうお会いできないのですね……」
口に出した瞬間、涙が止まらなくなってしまった。悲しくて、苦しくて……嗚咽が漏れる。
***
セピア色の世界。
両親とアウロラ大国の使者が何かを話していた。どうでもいい。そんなことよりも、狩猟大会からお兄様が戻らないほうが問題だわ。
どうして誰もお兄様が戻らないことに問題視しないのかしら。私が尋ねても両親は悲しそうな顔をするだけで、侍女に聞いても泣きそうな顔で首を横に振るだけ。
「シェリル、今日はお前に話があってね。アウロラ大国の第三王子が訪問なさってくれたんだ。ブルーノが……」
「お父様、いやです! クリフォード様とお会いするのも、まして婚約は絶対に嫌です」
「シェリル! あー、その、まだお会いしていないというのに、どうしてそのようなことを言うんだい? とっても立派な方かもしれないだろう?」
「王様が【死遊戯】というもので王位継承権を決めようとしたため、それぞれの王子陣営同士での殺し合いが苛烈になるからです。しかもその遊戯中に王様も死にますので、さらに継承争いは酷いものになりますの。その火の粉は我が国にも降りかかりますわ。戦力となる聖女を得るため候補者となる令嬢を誘拐。我が侯爵家もその煽りで没落。私は特殊な修道院に入れられて聖女になりますわ」
「え、没落。暗殺!? シェリル、そんな物騒な言葉何処で覚えたんだい!?」
「ゲー……夢で見聞きしました! ……聖女となった私はクリフォード様陣営の駒、婚約者として無理難題を課せられたのです。一つでも失敗したら即ゲームオーバーのバッドエンドが待っている。あげく私の魅力スキルが足りなかったら、殿下は余所の女を選んで、婚約破棄+罪を着せて処刑! これって悪役令嬢のポジションなのですよ。ヒロインからヴィランって酷いでしょう!? 暗殺、誘拐、戦場へ放り込む……。最悪なのは、クリフォード様の盾にされて殺されるエトセトラ……そんな未来のお嫁さんは嫌です」
「え、ちょ、シェリル? なんでそんなに夢が具体的なの!?」
「夢で何度も見たからですわ、お父様。……これは神様からのお告げ、つまり予知夢だと思うのです!」
「予知夢!?」
「だから私は、お兄様とずっと一緒に居ることにしたのです!」
その時、セピア色だった私の世界が色づいた。
榛色の髪に、ほっそりとした兄の姿に喜んで抱きついた。一瞬、お兄様と違う香りがしたけれど、ずっと離れていたから忘れてしまったのかもしれないわ。あれ? どうして離れていたのかしら?
お兄様、異国の服もすごくよく似合っているわ。
「私はお兄様と結婚するのです!」
「シェリル!?」
私はお兄様の腕に引っ付いたまま、思いの丈を述べた。両親はオロオロするし、周りの大人たちの空気も何だか可笑しかったけれど、私はこの侯爵家を守るためにも婚約を受け入れるわけには行かなかった。
「……シェリル」
隣で喉を鳴らして笑うお兄様は、私の額にキスを落とした。
くすぐったくて、お日様の匂いがする。ギュッと抱きしめたら、お兄様は優しく抱きしめてくれた。
「シェリルは私が好きかい?」
「うん、大好き。今日はいつもと雰囲気が違うけれど、良い匂いがするわ」
ラベンダーと他のハーブを混ぜたような良い匂い。
お兄様のキスもいつもと違って額だけじゃなくて、頬や鼻にもしてくる。唇は流石に恥ずかしかったけれど、嫌じゃなかった。一番擽ったかったのは、首だけれど。「印!」って、両親が騒いでいるけど、よくわ分からないわ。
「シェリルはしょうがない子だね。でも、いいよ。君がそれを望むのなら僕が全部叶えよう」
「本当、お兄様?」
「うん、でも約束通り僕とずっと一緒にいてね」
「はい!」
思えばこの時にお兄様が死んだことを受け入れていたら、クリフォード様がここまで苦しむことは無かったんじゃないかしら。
過去の記憶を振り返りながら私は思った。
八年も茶番を続けてくれるなんて……それはお兄様を見殺してしまったことへの贖罪?
それとも八年もあれば、私が振り向くと思った? だとしたら目算は甘かったのでしょうね。
クリフォード様と出会った過去が終わる。これは夢だけれど、私が忘れていた過去を思い出させてくれた。
すでにチュートリアル前から舞台は大きく変わった。この後、私はどうするべきか。
ううん、どうしたいか。
私からお兄様を奪ったクリフォード様を憎んで、復讐するか。全部を忘れてクリフォード様を受け入れるか。
答えが出ないまま、意識が浮上していく。どうするかは、クリフォード様と話をして決めたい。クリフォード様とお話をしてみないと。一度や二度で決まらなければ何度でも。
だって私にとってクリフォード様自身とお話をするのは、これが初めてのようなものなのですから。
***
うたた寝してしまった私は、目が覚めたらクリフォード様と話をしよう、そう決意していたのだけれど──。
「くー」
「──って、お話し合いをしようと思ったのに、起きたらモフモフですか」
「くう……」
目を潤ませてケモ耳は垂れているし、尻尾に至っては屍のようにピクリとも動かない。その上、ストレスで毛が抜けているじゃない。
窓の外はどっぷりと暗くなっていて、うたた寝どころか爆睡していたようね。しかも途中でベッドに寝かされていたし……。
とりあえず、お水を飲んで喉を潤した後、モフモフの子狐と向き合う。
「ああ、もう! まずは毛並みを整えますから、膝の上に来てください」
「こぉん」
甘えた声で素早く私の膝にやってくる子狐──クリフォード様は、絶対に確信犯だと思う。膝の上でホッコリしているクリフォード様だが、尻尾がまだ揺れ動いていない。内心、私が何を言い出すのかヒヤヒヤしているんだわ。
じゃあ、なんでこの姿なの……。
絶対に緩衝材として、あるいは私の怒りを和らげるための策に出たのでしょうね。ふふ、浅はかだわ。
いつものブラシで毛並みを整えながら、思っていることをぶちまける。そっちが先に話し合いを先延ばしにしようとしたのだから、私が言いたい放題言わせて貰うわ。
「……正直、お兄様大好きっ子の私として、今日の出来事は大変ショッキングでしたわ」
「くぅ!?」
「しかもずっとお兄様だと思っていた方が、あの冷徹で人を捨て駒にしか見ていない第三王子クリフォード様だったことも驚きでしたし、腹も立ちました」
「くゅうう!!」
ジタバタと弁明しようとしているのか、私の腹部にぐりぐりと頭を押しつけてくる。ふふふ、その姿では何を言っているのか、全く分からないですわよ。
「唐突に真実を告げて、私がクリフォード様を受け入れなかったら衰弱死するなんて……私が断れない雰囲気を作り出すのも上手ですわ。ずっと私を見ていただけあって、私が情に脆いのを熟知していますものね」
「くうう、くうううう」
「ふふ、何を言っているのか、その姿では分かりませんわ」
「くう!」
コテンとその場に倒れてしまう。本当にメンタルが激弱じゃないですか。尻尾なんてしおれてしまって……。
「最初に話し合いすることを選ばずに逃げたのは、クリフォード様ですわよ。それとも私と話し合いする気はないと? 頷くまではモフモフの姿で逃げ切る気なのかしら?」
「──っ、違う」
ぼふん、と人の姿になったクリフォード様は、既に涙目だった。私の前に傅いてドレスの裾をちょんと掴んだ。
「打算はあったのは認めるけれど、君と話がしたくない訳じゃないんだ……」
「そう。では隣に座ってください。この角度だと話しづらいわ」
「……隣に座ってもいいのかい?」
「ええ。隣に座らないと、お話ができないでしょう。それに番紋が仮の状態であまり離れるのは良くないはずですし」
「……ありがとう」
隣に座るかと思ったが、なぜか私を横抱きして、膝の上に乗せてしまった。わふぁっつ?
何してくれているの!? 隣って言ったのに!
「クリフォード様!?」
「シェリルが好きなんだ……。どうしようもないぐらい、大好き」
私の肩に顔を埋めてぎゅうぎゅうに抱きしめて離さない。完全にホールドしているんですが。思った以上に執着されているのだと実感して、溜息が漏れた。ビクリと、頭の耳が垂れ下がり尻尾がしおれている。
「私はこの八年間、お兄様だと思っていました」
「うん」
「正直、お兄様を見殺しにしたクリフォード様を許すことは出来そうにないです」
「……うん」
「でも私を大事にしようと、強引な手に出ないで八年間我慢していた胆力は賞賛します。……私の心が壊れないように、私が不安にならないように王位継承争いの件でもたくさん動いてくださったのでしょう」
「…………うん」
「過去の……あの日の夢を見ましたわ。お兄様が屋敷に戻ってこなくて、私の世界はセピア色でした。それを終わらせてくれたのはクリフォード様、貴方だったのです」
「私……が?」
「ええ、まだお兄様が亡くなったことを全部受け入れるのは難しいですし、気持ちの整理が付きません」
「うん」
「ですが、それはそれとして、クリフォード様と今後どうしていきたいのか、どうしたいのか。まずはクリフォード様のことが知りたいのです」
「私を……?」
顔を上げてクリフォード様は私を見返す。今にも泣きそうな、なんとも情けない顔をしている。
「だってクリフォード様は私のことを熟知しておられるかもしれませんが、私はゲー……予知夢ではない今のクリフォード様のことを知りませんもの。知らなければ、クリフォード様と今後どうしたいのかを決めるための判断ができないでしょう?」
「それは……私のことを好きになってくれる可能性もあると?」
「ええ。嫌いになる可能性もありますけれど」
「うぐ……」
「そういうのはイヤですか?」
「……では……私のことを……クリフォードと呼んで、傍に置いてくれるのか?」
「そうですね。婚約者としての距離感なら」
「……私を婚約者として受け入れると?」
「はい」
嬉しそうに微笑む姿を見たら「ノー」と言えないじゃない。ゲームのクリフォード様とは違う道を選んだからこそ、今のクリフォード様になった。
優しくて、温かくて、人の痛みが分かる人に。
「私のことを大事にしてくださる貴方様なら、婚約者でもいいです」
「大事にするし、君から絶対に離れない」
うーん、「離れない」というワードがなんだか束縛系な感じがするけれど、気のせいだと思いたい。うん、気のせいよ。
クリフォード様にはヤンデレ気質も、束縛系もなかったわ。そもそも人の執着しない人だったもの。ゲームキャラと多少変わっても根っこの部分は変わらないと思う。思いたい。
「シェリル、愛している。大好き……」
「クリフォード様、……私はまだ愛しているという気持ちには到達はしておりませんが」
「……うん」
「好ましいとは思っていますわ」
「シェリル!」
ガバッと抱きしめるクリフォード様は、ご機嫌だった。破顔した姿の破壊力……!
両親はホッとした顔をして祝福してくれた。それからあっという間に私の婚約話が広まって、ヴィリディス国、アウロラ大国双方の国王への謁見と挨拶などでバタバタと忙しくなった。
その間に魔法学院の入学などもあり、クリフォード様は基礎から学びたいと同じ学年として入学してきた。しかも席は私の隣という。
これでもかと、ありとあらゆる権限を使ったのだというのが推測できた。というかこの方、ゲームシナリオ上、既に留学していて三年生なのだけれど……。ちなみに寮生活を希望したらクリフォード様が子狐姿になって『絶対に嫌』と泣きながら説得(という名の泣き落とし)で、屋敷から通うことになった。
「シェリルと並んで学院に通えるなんて……」
「クリフォード様、そのセリフ38回目ですからね。毎日言うつもりですか?」
「かもしれない。幸せなことは口にしなければ伝わらないからね」
手を繋いで学院内を歩く。
学院内ではケモ耳も尻尾も隠しているが、幻覚なのか私にはクリフォード様のケモ耳が見える時がある。なんとも可愛らしいのだ。ずるい。本当に狡いわ。
***
それから学院生活と婚約者としての挨拶回りを終わらせて、私とクリフォード様はブルーノ兄様の墓参りに訪れた。
お兄様の葬儀の記憶はない。だから墓地にお兄様の名前が書かれたのを見た瞬間、「ああ、本当にお兄様はもういないのね」と実感した。
私の中では、つい最近まで傍にいたのだ。気付けば傍にいて、何でも話を聞いてくれて、妹に甘くて……。
涙が止まらない。
胸が苦しくて、悲しくて、もっと傍にいたかった。
ブルーノお兄様。ずっとここで眠っていたのに、ごめんなさい。私がスペアの魔導具を持たせていたら……。あの狩猟大会は危ないと言って不参加していたら……。
『タラレバなんて言い出したら切りが無いだろう。怨むよ、幸せにならなかったらね』
風に乗ってお兄様の声が耳に届いた気がした。
それは幻聴だったのかもしれない。それでもお兄様なら言いそうだと涙が止まった。
「ブルーノ・エイズワース。あの時の約束を改めて誓う。この先、どんなことがあっても君の妹と、侯爵家を守る。そして大事にするよ」
「クリフォード様」
涙を拭って、クリフォードの指先に触れた。手を繋ごうとしたら、なぜか恋人繋ぎに……。さらっとするのだから凄いわ。
「ブルーノ兄様、また来ますわ」
風が頬を撫でる。
お兄様からの返事のようで、胸が温かくなった。クリフォード様のおかげで、お兄様との楽しかった日々が糧となっているからこそ、私は立っていられる。
「クリフォード様、ありがとうございます」
「いや。お礼をいうのは私のほうだよ。やっと……八年越しに彼との約束を誓えたのだから」
石畳を歩きながら私とクリフォード様は歩き出す。
八年の歳月をかけて、私とクリフォード様の関係も大きく変わった。でもそれは婚約者としてスタートラインに立ったというだけで、まだまだクリフォード様のことは分からないことも多い。
それにゲームシナリオもチュートリアルを終えて、本編に入るのはこれからだ。アウロラ大国での王位継承争いはなくなったけれど、それ以外にも学院内では、色々と問題が起こる。
私は聖女ではないけれど、光魔法の使いであることは間違いない。光魔法の使い手は貴重だからこそ、ヴィリディス国での勢力争いあるいは、問題に巻き込まれる可能性は大いにある。
「学院での生活も気を引き締めて行かなきゃ」
「そうだね。シェリルにちょっかいを出そうとする輩は、ちゃんと消すから安心してくれ」
「うん。……って、ちょ、え!?」
なに涼しい顔をして、とんでもないことを言い出すのだろうか。背筋に嫌な汗が流れ落ちる。
「えっと、パドゥン? ……クリフォード様、もう一度言ってもらえますか?」
「ン? ああ、ちゃんと選択肢を与えた上で対処しているから安心して」
「……死ぬ場所を山か海のどちらかを選ぶ……なんてことはないですよね?」
「…………モチロン」
「なんでカタコトなんですか?」
目を合わせないクリフォード様に私は詰め寄る。それはそれでなぜ嬉しそうなのだろうか。頬を染めないで欲しい。というかそういう雰囲気でもないのだけれど!
「だって、もしシェリルに心を奪われてアプローチをかけたら、殺したくなる」
「なにが、『だって』ですか。行方不明者を増やす気満々なんてダメです! そんな物騒なことをしなくても、……私の婚約者はクリフォード様じゃないですか」
「シェリル……!」
途中で恥ずかしくなってごにょごにょとなってしまったが、クリフォード様は嬉しかったのか、私をギュッと抱きしめる。どさくさに紛れて頬にキスをしてくるのを見るに、私がそう答える事を期待していた節があるわね。
「シェリル。大好き、愛している」
「クリフォード様、ここは外ですから!」
「うん、君は私の婚約者だからね!」
「クリフォード様!」
「もっと、私の名前を呼んで。罵詈雑言でも、なんでも嬉しい」
「その言い回しは、とんでもない誤解を生むので今後言わないでください」
「わかった。愛しているよ。シェリル」
「私は……まだ、言葉には難しいです」
「うん」
抱きしめていた私を離してくれたので、「でも」と背伸びして彼の頬にキスをした。目を見開いて固まっているクリフォード様に、悪戯っぽく微笑んだ。
「このぐらいには好きですよ」
「シェリルからの……キス……」
「ふふっ、ビックリしました……か、んんっ」
クリフォード様の驚いた顔に満足していた矢先、私からのキスは刺激的だったのか噛みつくようなキスの仕返しを受けた。
ちょっとからかおうとしたら、クリフォード様相手だと相当の覚悟が必要なのだと私は学んだ。ええ、学びましたとも!
外とはいえ人がいない場所で本当に良かった!
まだまだクリフォード様のことはわからない。
どのタイミングでキス魔になるのかとか。突然嫉妬全開暴君モード並になる所とか。
何が好きで何が嫌いなのか。いや、私が好きだというのは分かっているので、食べ物とか趣味とかなのだけれど、私の観察日記とか言い出した時は笑みを維持するのに苦労したわ。
趣味は武器の手入れ、拷問、洗脳や暗示の研究とか言い出したので、もっと健全な趣味として私とのお出かけ、日帰り旅行、花壇で一緒に花を育てるなどいろいろ試している。
クリフォード様は超天才なので、なんでもすぐにできてしまう。だからこそ執着らしいものもなかったのだわ。
馬車に乗って屋敷に戻ると、キャロルが出迎えてくれた。愛らしい弟に思わずギュッと抱きしめる。ああ、このモチモチ肌素晴らしいわ。
「お帰りなさいませ、姉様、お義兄様」
「ただいま、キャロル」
「ただいま」
「お義兄様、今度剣の扱いを教えてくださるんですよね」
「ああ、もちろん」
「わあい」
屋敷の中に入ると、執事長が出迎えてくれた。キャロルは私に引っ付いていたが、どうやら勉強の途中で飛び出してきたらしい。離れがたそうにしていたが、しょんぼりしながら部屋に戻っていった。なんとも微笑ましい。
「キャロルはクリフォード様のことを、未だにブルーノ兄様だと勘違いしているのかしら?」
だとしたら少し心配だわ。そう思っていたのだが、クリフォード様は「ああ」と嬉しそうに微笑んだ。
「私のことは、お義兄様と呼ぶことは元から許している」
「そうなんです?」
「ほら、私と君が結婚したら家族になるのだから、間違っていないだろう」
「……あ。……っ!」
侯爵家はキャロルが継ぐ形でお父様たちとは話が済んでいるらしい。キャロルは突然、ブルーノ兄様がいなくなって混乱しないか心配だったが、元から私以外の人はブルーノ兄様だと認識していなかったらしく、私だけがずっとクリフォード様をブルーノ兄様と呼んでいたとか。
それって私が心の病的な感じに周りから見られていたってことで……。もっとも領地からあまり出てなかったし、社交界ではずっとお兄様がいたから噂を聞くことなんてなかったのよね。……噂にならないようにクリフォード様が動いた気がしなくない。うん、私は気づかなかったことにしなしょう。
「私もお兄様ってよ──」
「それはダメ。絶対に」
「うん。そうね。……クリフォード様は、クリフォード様だもの」
「もし新しい呼び名をお望みなら、旦那様か、アナタの二択かな」
この方のそういうところは、何処までもブレない。ゆっくり、時間をかけて、私とクリフォード様の恋を紡いでいく。偽りの家族ではなく本当の家族となるために、今はその過程を楽しもう。
ゲームシナリオの本編は、私とクリフォード様の物語は始まったばかりなのだから。
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