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「ユズ、聖女の力を失ったと言うのは本当か?」
「はい……」
見せしめと言わんばかりにヘルムート王子は社交パーティーの会場でそう尋ねた。
一瞬で和やかな空気は凍り付き、貴族たちの不躾な視線が私とヘルムート王子に向けられる。
私が頷くと彼は盛大な溜息を落とした。
「なぜ婚約者である私に相談しなかった?」
「それは……」
ヘルムート王子は鋭い視線を私に向けた。この国の第二王子であり王太子ヘルムート・フォン・フレーリッヒ・ヴォルケ殿下はさらさらの灰色の髪に、エメラルドグリーンの瞳、整った顔立ちは見る人を魅了させる。
彼の責める口調に、私は言葉を詰まらせる。そもそも聖女の力を失ったのは今日の出来事で相談しようにも彼は貴族たちと狩りに出ていて、手紙を送っても後回しにされたのだ。その事実を告げれば逆上あるいは、論点のすり替えをしてくる。
不用意な発言は火に油を注ぐと思いグッと言葉を呑み込み、どう答えるべきか逡巡していた。謝罪が無かったことが気に入らなかったのか彼は「もういい」と吐き捨てる。
異世界に聖女と呼び出されるだけでなく、「伝統だから」と王妃の椅子が用意されていた。この三年、聖女の責務を果たしつつ王妃教育を急ピッチで仕込まれたものだ。それはもう地獄と言っても差し障りないだろう。
ヘルムート王子は厳しい方で、何をしてもできて当たり前という反応しかしない。素っ気なく、会話もどこか見下していることもしばしば。
それでも異世界に飛ばされて後ろ盾も何もない私には彼の期待に応えるしか無かった。いつか殿下も認めて下さる。微笑んで下さると──そう思ってようやくこの世界に馴染んできた頃、聖女の力を失ったのだ。
「聖女の力が失ったことを未来の夫に相談もない。これは私の婚約者としての自覚が欠けていると思わないか?」
「相談なら手紙を──」
「このまま信頼関係が築けないのなら、これを機に婚約破棄をするのもいいだろう」
(婚約……を白紙に戻すってこと?)
唐突な宣言に周囲の貴族たちはどうよめいた。王妃候補だった私が居なくなれば自分たちの娘を嫁がせるチャンスが来るのだから。「得体が知れない娘」と何度誹謗中傷を言われたことか。治癒しても罵詈雑言を言い出す者も多かった。
そんな生活に嫌気がさしていたのも事実だ。それでもヘルムート殿下に喜んでもらいたいと思って頑張ってきた。
(私の努力は無駄だったのね……)
「ヘルムート殿下っ!」
颯爽と現れたのは真っ赤なドレスに身を包んだカロリーヌ公爵令嬢だった。気品のある令嬢は素早く殿下の傍に駆け寄った。
「……カロリーヌ」
「何を言い出しているのですか!」
次の瞬間、ヘルムート殿下は公爵令嬢にもたれかかるように肩に顔を埋めた。
その光景にざわめきが一層騒がしくなる。
『公爵家なら次の婚約者としてはなかなか』
『公爵令嬢とは、うちの娘にもチャンスがあると思っていたんだが』
『殿下と公爵令嬢は幼なじみですし、週に何度かお茶をするほどの中だとか』
(週に……そう。私とのお茶会は週に一度あるかないかって程度だったのに)
カロリーヌ公爵令嬢。お茶会でも私に気を遣って何かと話しかけてくれた一人だ。殿下とカロリーヌ令嬢の寄り添うその光景は物語の一幕のようで、最初から自分に入り込む隙などはなかったのだと知る。
お似合いな二人に対して私は不釣り合いな婚約者だっただろう。
「殿下、婚約破棄の申し出、謹んでお受けします」
「え、な」
なぜかヘルムート殿下が酷く困惑した顔で私を見返す。私がすんなり身を引くとは思っていなかったのだろうか。確かにこの世界に来たばかりだったら、今のような決断は出来なかったはずだ。
「今までお世話になりました」
ドレスの裾を摘まみ、深く腰を落として完璧な礼を取った。この三年、常に厳しい王妃教育で体に刻まれた技術。頭の角度から姿勢まで完璧に、黒髪が映えるように全身を使って自分を魅せる。
その場にいた貴族たちのざわめきが消え、誰もが私という存在に視線を向けてきた。先ほどの痛々しいものとは異なる。それが少しだけ誇らしい。
「それでは失礼します」
「な――」
ヘルムート殿下が何か言い出す前に、私は踵を返して足早に会場を去った。
殿下のことは嫌いになれなかった。一国の王子として自身が常に厳しく育てられた以上、夫婦となる伴侶にも同じことを望んでしまっただけ。そして私には王妃などと言う責務には不釣り合いだった。女子高生だった私が王妃なんてどだい無理な話なのだ。
聖女としての力を失った以上、このまま次期王妃の座に留まっていたら貴族たちに何を言われるか分かったものではない。
ヘルムート殿下が盾になってくれるかも不明だ。元々口数が少ない方だったので、何を訴えても右から左に流すだろう。今までのように。
(そう考えると婚約破棄はちょうどよかったのかも)
聖女でもなく王妃でもない。
自由を手に入れられたものの、この国は身分制度がはっきりしている。聖女でも未来の王妃でもない私は平民扱いに近いだろう。肩身の狭い思いをして生きていくのだけは嫌だ。
「ユズ様!」
「!」
私に声をかけてきたのは第一王子ハインツ様だった。
金色の長い髪に、サファイアのような瞳、白い肌に華奢な印象の第一王子。ヘルムート殿下の義兄君に当たる。常に笑顔で紳士的な態度は親しみやすい。
王城専用図書室で出会った方だ。ヘルムート殿下とは腹違いであり彼の母親の身分が低いのもあり、王位継承権を自ら放棄したという。
本人的には「好きなだけ本を読めるからいいんだけどね」と笑っていた。彼は現在魔法研究所と国立図書館の室長を務めている。
私も本が好きだったのでよく時間を見つけて図書館に訪れていた。
「これはハインツ様、お久しぶりです」
「ええ、お久しぶりです。……愚弟が無礼を致しました。王家として本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げるハインツ様に、私はギョッとしてしまった。王族に頭を下げさせてしまい慌ててそれを止めようとするが、彼は頑なに頭を下げたままだ。
「は、ハインツ様、頭を上げて下さい」
「しかし……あのような場で浅慮な言動をとるなど次期国王としてはあるまじきことです」
「私としてはこのタイミングでよかったと思っています。結婚した後で聖女の力を失ったのであれば離縁はかなり面倒だったと思いますし、カロリーヌ公爵令嬢とヘルムート殿下のお姿を見て踏ん切りもつきました」
顔を上げたハインツ様の笑みには陰りがあった。
「……ユズ様、貴女はどこまでも清らかで、強く、そして心が広いのですね」
「そんなことはありません」
「しかし婚約破棄後はどうなさるつもりなのですか? 何かやりたいことでもあるとか?」
やりたいこと。
できるのなら本に関わる仕事をしたいのだが、この国で図書館職員に就職できるのは貴族のみだ。本屋なら平民でも可能だろうが、基本的に取引先は貴族が多くなる。
罵詈雑言あるいは嘲笑を受ける未来しかない。
そう考え、ふとハインツ様が以前教えて下さった聖王国フォルリーの存在を思い出した。かの国は世界のあらゆる本が集まるという『本の国』だ。身分など関係なく実力主義国家だったとか。
「聖王国フォルリーで再就職をしようかと思っています」
「そうですか」
ハインツ様はどこか納得したのか朗らかに微笑んだ。
その姿に大抵の女性は落ちるだろう。
「国を出る準備もありますので、これにして失礼します」
「それなら私も同行しましょう」
「…………え」
唐突な申し出に私は思考回路が停止した。
ハインツ様は私の手を取り、手の甲にキスを落とす。
あまりにも自然な動作に見惚れていたが、すぐに自分がされたことに気付いて頬に熱が集中する。
「な、え」
「貴女に出会い、会話を交わす度に惹かれていきました。しかし思い募ってもこの国の伝統を覆すことも、王位継承権を自ら降りた私には貴女を奪い取るだけの力はありませんでした。それが今、聖女でも次期王妃でもない――貴女の弱みにつけ込んだとしても、この機会を失いたくないのです」
「ハインツ様……」
その場で答えが出ず言葉に詰まらせていると、会場からこちらに近づく足音が近づいてきた。しかもかなり慌てているのか走り出しそうな勢いだ。
「ユズ!」
(ん? この声は……?)
**ハインツ視点**
初めてユズ様を見た時、後頭部に強い衝撃を受けた。
長い黒髪、菫色の瞳、すらりとした華奢で可憐な少女。気まぐれで召喚の儀に参加してよかったと心から思った。
聖女召喚。
この国では五十から百年に一度、国を覆う邪気が厄災を齎す。それを防ぐため異世界から少女を呼び出し、浄化の儀式を執り行う。
異世界から召喚した際に奔走するエネルギーが吹き荒れ邪気を一層した。この段階で聖女としての役割は半分以上終わっている。しかし特別な存在である少女の血筋を取り込みたいと思うのはよくあることで、代々王族あるいは貴族によって婚姻を結ぶことが決まりとなっている。
自分にも可能性があるかもしれない。そう思っていたがその期待はすぐに打ち砕かれた。
腹違いの弟、ヘルムートとの婚約が決まってしまった。
(身分が低くても第一王子として王位継承権を放棄すべきでは無かったか)
地位や名誉に興味は無かったものの、聖女ユズ・イチノハへの興味は薄れるどころか増していった。
そんなある日、王族図書室の整理をしようと部屋を訪れてみたら彼女がいたのだ。梯子を使っても一番の上の棚に届かなかったのか背伸びをして手を伸ばす姿は、とても可愛らしくて声をかけた。
代わりに本を取るとこの国の歴史や伝承関係のものだとわかった。しかも古代文字で書かれているので翻訳するのがとても難しいものだ。
異世界のしかも年端もいかない少女が読めるものなのか声をかけたら、「私にはすべて自国の言葉に変換されているのか普通に読めますよ」と言い出した。
衝撃だった。
(聖女の治癒能力なんかよりも希有で素晴らしいものじゃ?)
思わず解読が難しい古代文字の一節を翻訳してもらった。彼女はサラサラと見たままの文章を用意した紙に書き出してくれた。古代文字とは異なる見たことのない文字だったが、全文を書き終えると文字は母国語に変わったのだ。
異世界転移者による祝福の一つなのかもしれない。以前の聖女も言語や語学など全て精通していたと聞いたことがあった。
おそらくこの世界に訪れることによって文字や言葉が通じないと、聖女自身が不利になるからなのだろう。教会という後ろ盾はあるが、あくまでも聖女という存在であり彼女自身をよく思っているか別だ。
「素晴らしいよ。何かお礼がしたいのだけれど君は何を贈ったら喜んでくれるだろうか」
「え。私に、ですか?」
キョトンとした顔で驚く彼女に私はますます惹かれた。この国の貴族令嬢であれば、男性からの贈り物などはもらって当然という節がある。しかし彼女は「いいのですか?」と嬉しそうだ。
婚約者であるヘルムートから何も貰っていないことがすぐにわかった。こんな愛らしい彼女に何も贈らず、愛情を向けないなど目が腐っているのではないだろうか。
「ユズ様、貴女の本を読む力はとても素晴らしいことです。もしよろしければ時々文章の解読をして頂けないでしょうか?」
「聖女と王妃教育があるので、あまり時間がとれないとは思いますが、それでもよければ」
「ありがとうございます。それともし本が好きなのなら、私の国立図書館にも是非お越し下さい」
「え……。あ、そういえば貴方は?」
「申し遅れました。私はハインツ・フォン・フレーリッヒ。ヘルムートの義兄で、現在は国立図書館の室長をしております」
それから彼女との交流が始まった。
ユズ様との時間は夢のようで、僅かな時間であっても私にとって癒やしそのものだといえる。
国立図書館には彼女がいつ来てもいいように特別貴賓室を用意し「好きに使ってください」と告げた。最初彼女は「申し訳ない」と遠慮していたので慎ましい姿も愛らしい。
「閲覧制限のある解読を少し頼みたいので、どうかその場所を使ってくれないかな」と話したら折れてくれた。彼女としても一般席で本を読むには目立つと思っていたのだろう。どこか安堵していた。
「気遣って下さってありがとうございます」
「いえいえ。本が好きな方に快適に読む場所を提供するのも私の仕事ですから」
本を読む時間が多かったので会話はさほどない。
それでも私にとって僅かな時間がとても貴くて心地よいものだった。
教会には読解不可能な文章の解読する依頼と同時に貢ぎ物も渡したし、貴族たちにもユズ様が不利にならないよう根回しを行った。本来はヘルムートが行う作業だが彼女を守るためならなんでもいい。
そんなある日、義弟が声をかけてきた。恐らくユズ様の図書館通いが耳に入ったのだろう。一応婚約者に関心はあるのだとぼんやりと思っていた。
「兄上、ユズが解読した原本を全て出してくれ」
「(相変わらず既に貰うこと前提で話をする奴だな)……魔法研究所と国立図書館解読班からの教会に正式な依頼として頼んでいるものです。控えは渡しても原本を渡すことはできないし、君に渡す理由もないのだけれど」
「……ユズは私の婚約者だ。婚約者なら彼女の関わった物は全て私の物になるだろう」
「(なるわけない、頭大丈夫だろうか)……その理屈はよくわからないのだけれど。それに君は聖女様に関心がなかった訳じゃないのかな?」
「誰がそんなことを? ユズとは良好な関係を築いている」
真顔で答えるこの男に、とりあえず話を続けるため適当に相槌を打つ。
「良好ねぇ。どんなことをしてそう言い切れるのか教えてくれないか?」
「週一日にお茶会をしている。ユズが私に刺繍で作ったハンカチなどを持ってきてくれた。手紙もよく届く」
「(それは全部社交辞令だ)……他には?」
「……十分ではないのか。彼女はよく笑ってくれている」
そう言ってほんの少し口元を綻ばせた姿を見て、「ああ、彼もユズ様が好きなのか」と察した。もし形だけの婚約なら手を回して白紙に戻そうと画策しかけていたので、彼の発言には少し驚いたものだ。
「どんな会話をしているんだい?」
「王妃教育の進捗、聖女の活動報告などで話が弾んでいる」
「(……うん、それは会話ではなく確実に業務連絡だ。ユズ様が不憫でならない。一応、第三者から情報を得た方が良いな)なるほど、なら贈り物などは毎日欠かさずにしているのだろう?」
「なぜ?」
「(質問を質問で返すな!)……んん、あー、好いている子に対してもっと着飾ってほしいとか喜んでほしいとか普通に思うだろう」
「ユズはそのままでも充分美しい」
「(そうじゃない! 美しいことは認めるが!)……贈り物はしていないと?」
「どうせ王妃となれば、その時に必要な衣服や部屋、調度品一式揃えるのだから問題ないだろう」
完全にずれていた。ユズを思う気持ちはあるようだが、あまりにも考え方や対応が杜撰すぎる。誰も苦言を呈さないのか。
いろいろ調べた結果、どうやら宰相と貴族派は聖女が次期王妃になることをよく思っていないらしい。それもあり王子の側近にも息のかかった者が聖女と不仲になるように動いているようだ。
情報屋から届いた手紙を読み終えた後、暖炉に報告書を放り投げた。
赤々と燃えさかる炎によって報告書は一瞬で灰と化す。
(まあヘルムートが王位継承権を得たのは宰相や貴族派の後押しがあったからで、彼ら的には貴族派から次期王妃を排出したかったのだろう。その野心もあった。それが聖女召喚をせざるをえなくなったことで、風向きが変わったのか)
ヘルムートには悪いがユズ様の身の安全を考えると婚約破棄するほうがいいだろう。伝統に従って聖女と王族が婚姻を結べばいいのだから、その権利は私にもある。
手始めにユズ様と仕事関係で合う回数を増やしつつ、聖王国フォルリーの話題を出した。
彼女が興味を持つように期間をおいて話をして、それから水面下で諸々の準備を整えていく。
(ああ、王位継承権争いをしてきたよりも楽しそうだ)
あの時は生きるか死ぬかで毎夜、刺客がやってきた。そのたびに全て返り討ちにしてきたのだけれど、今回はできるだけ殺さずにことを進めるという縛りも中々に面白みがある。
ユズ様の御心を傾けることができるか、タイムリミットは婚儀が決まるまでだろう。
そう思っていた矢先、まさかヘルムートの失言と自爆。
パーティー会場での発言は完全に失言だった。見かねたカロリーヌ公爵令嬢が王子の暴走を止めるために腹に一撃を入れていたときは面白かったが。
もっともカロリーヌ公爵令嬢は私の手駒でもあった。ユズ様を守るためにも女性の友人は必要と思っての配慮として手を結んだ。彼女は王族派の人間で公爵家としても次期王妃として虎視眈々とその座を狙っていたので、都合がよかった。
さて――彼女はどちらを選んでくれるのだろう。
先の見えない賭というのも案外悪くない。
***
イノシシの如く廊下を闊歩していたのはヘルムート殿下で、後ろにはカロリーヌ公爵令嬢がいた。
(カロリーヌ公爵令嬢ヒールの高い靴を履いているのによく転ばないな。……にしても何の用だろう?)
ハインツ様は私を庇うように、ヘルムート殿下とカロリーヌ公爵令嬢の前に立ってくれた。
「ヘルムート、王太子として何をしているだい?」
ハインツ様は穏やかだが声音には怒りがあった。息を整えたヘルムート殿下はハインツ様を見ずに、その背後にいる私に睨んだ。
「義兄上には関係の無いことです。私はユズと話がある」
「私も彼女に話が合ってね。……まあ、せっかくだ貴賓室で話そうじゃないか」
ハインツ様の言葉の通り、廊下の真ん中で話すことではないだろう。私は彼の提案を受け入れ、ヘルムート殿下とカロリーヌ公爵令嬢も従ってくれた。
(ヘルムート殿下とのお話、あ。婚約破棄をする書簡などの手続きなのかもしれない)
そう暢気に考えていた私は浅はかだった。
貴賓室に通されて私とハインツ様が隣に座り、対面する形でヘルムート殿下とカロリーヌ公爵令嬢が並んで座る。
重苦しい空気の中ヘルムート殿下が口を開いた。
「ユズ、先ほどの婚約破棄の件だが、アレはお前を思って発言したまでのことだ。もっとお前に次期王妃としての気構えを理解して貰うためあえて」
「分かっています」
その言葉にヘルムート殿下は安堵の表情を見せた。きっと私が途中退出したので念を押したかったのだろう。
「国王陛下にもお伝えすることですから、婚約破棄に関する同意書のサインが必要でしょう。お手数をおかけしますが、契約内容を見せて頂いても?(変なこと書かれたらたまったものではない。勝手に身売りだとか一文無しで国外追放なんてゴメンだもの)」
「な――なぜ、そのようなことを。……わかった。あの場で恥を掻いたことを根に持っているのだろう。だから私を困惑させ引っかき回そうとしているのだな」
なぜか狼狽する殿下に私は眉をひそめる。
自分で婚約破棄を言い出したのに、何を言っているのだろう。睨み付ける眼光がいつになく鋭くて怖い。
今までのお茶会や顔を合わせるときも言葉数は少なく、上から目線ばかりだった。王族ならそうなのかもしれないが、聖女としての地位を失った今、教会からの後ろ盾も何もない状態で彼の元に嫁ぐことが恐ろしいとあの会場で改めて感じたというのに、殿下は何も気付かなかったのだろう。
「この三年、右も左もわからなかったからこそ殿下の婚約者という立ち位置にいましたが、聖女の力を失った今、次期王妃としての役割は荷が重いと思っております。ですから殿下の言葉通り、婚約破棄を受け入れたのです」
「――っ、婚約破棄などはしない! ユズ、お前は私の婚約者で王妃になる。これは決定事項だ!」
声を荒げる殿下はそれだけ告げると部屋を出て行ってしまった。婚約破棄を言い出しながら途端に婚約破棄をしないと言い出す。二転三転する彼の主張に私は困惑するしかない。
カロリーヌ公爵令嬢は申し訳なさそうに一礼した後、殿下の後を追いかけていった。
二人が退出したことで私は強ばっていた体が弛緩する。
「お疲れ様。あのヘルムート相手によく言い切ったね」
「ありがとうございます。……でも、これから私はどうなるのでしょう。殿下の言葉が二転三転してしまって何が本心なのか何を考えているのか分からなくなりました」
「……弟なりに君を慕ってはいたんだと思う。ただそれをよく思わない人間が弟の傍に多かったと言うだけだよ」
(殿下をいいように操ろうと近づく貴族たちが沢山いるのね。だからこそ私と殿下は上手くいかなかった――部分もあったのかもしれない。今後のことを考えると早めに婚約破棄をして国を出たほうが……)
「ユズ様。一つ私に提案があるのだけれど」
「ハインツ様?」
微笑むハインツ様の真後ろに、黒服の男たちが音もなく姿を見せる。
「――っ!」
振り上げる鈍色の刃が煌めき――次の瞬間、私の意識は途切れた。
***
「『――こうして兄王子と聖女は悪い悪魔と戦い奮闘するも殺されてしまいました。完』って、ハインツ様、この終わり方はどうしても納得がいきません。やっぱり物語はハッピーエンドがいいかと思うのです」
「そうかな? たまには悲哀って言うのも悪くないと思うけれど?」
自分たちの経験談をさらっとバッドエンドにするのは酷くないだろうか。そう不満を言いながら彼の仕事机に淹れ立てのお茶を出した。
「ありがとう、ユズのお茶は美味しいよね」
「お褒め頂き光栄です……ふふっ」
私とハインツ様はグランツ王国から亡命して聖王国フォルリーで暮らしている。あの日、現れた黒服は私を狙った刺客で、すぐさまハインツ様が魔法で返り討ちにして大事に至らなかったらしい。このまま悠長に婚約破棄を引き延ばすのは危険とハインツ様は判断して一緒に亡命した。
というか私が意識を取り戻したら聖王国フォルリーに居たのだから驚いたものだ。貴重な転移魔法を使ったらしく、王族の緊急避難用だとか。
現在は一軒家を借りて私は家のことを、ハインツ様は本の出版やら、本の手入れなどの仕事を請け負っているので、時々古文書などの解読などは手伝ったりしている。
私が考えていたものと少し違うが悪くない。
半年過ぎた頃には生活も落ち着いてきて、驚くほど穏やかで充実した日々が続いている。
「……それにしても本当に国に戻らなくていいのですか?」
「もちろん。ユズと一緒にいることが私の願いだったから、今とても幸せだよ」
「うっ……」
私とハインツ様との関係は同居人であり、友人以上恋人未満と言ったところだ。ヘルムート殿下との一件もあり恋愛に気持ちが向かず、ハインツ様に告げたところ「ではユズがその気になるまで口説くとしましょう」と言い返した。
あまりにもサラッと言うので、そのイケメンぶりに即落ちしそうだ。
「ユズが少しでも私を受け入れてくれたら、もっと幸せだけれど」
そう言って髪を一房触れて、キスを落とす。
恋愛経験の免疫がない私には後どのくらい耐えられるか不明だ。それでもヘルムート殿下の時の反省を生かして自分の気持ちは少しずつでも良いので伝えていこう、そう心に誓った。
「それに私たちは物語の通り死んだってことになっているだろうから、戻る必要もないのだけれどね」
「え?」
「ううん、なんでもない」
「……ハインツ様、もう少しだけ待って下さい」
「もちろん、急がないよ」
ハインツ様は柔らかな眼差しで私を見返す。
最初に出会った頃よりも笑顔が柔らかくなったのは気のせいじゃないと思いたい。
「や、やっぱりちょっと好きに――にはなっています」
「本当かい!?」
ハインツ様は喜びのあまり私を抱き寄せた。
男の人としては華奢な方だと思っていたがすっぽりと腕の中に収まる。
もしかしたら自分は惚れやすいのかもしれない。
私が恋に落ちるまで、あと――秒だろうか?
「はい……」
見せしめと言わんばかりにヘルムート王子は社交パーティーの会場でそう尋ねた。
一瞬で和やかな空気は凍り付き、貴族たちの不躾な視線が私とヘルムート王子に向けられる。
私が頷くと彼は盛大な溜息を落とした。
「なぜ婚約者である私に相談しなかった?」
「それは……」
ヘルムート王子は鋭い視線を私に向けた。この国の第二王子であり王太子ヘルムート・フォン・フレーリッヒ・ヴォルケ殿下はさらさらの灰色の髪に、エメラルドグリーンの瞳、整った顔立ちは見る人を魅了させる。
彼の責める口調に、私は言葉を詰まらせる。そもそも聖女の力を失ったのは今日の出来事で相談しようにも彼は貴族たちと狩りに出ていて、手紙を送っても後回しにされたのだ。その事実を告げれば逆上あるいは、論点のすり替えをしてくる。
不用意な発言は火に油を注ぐと思いグッと言葉を呑み込み、どう答えるべきか逡巡していた。謝罪が無かったことが気に入らなかったのか彼は「もういい」と吐き捨てる。
異世界に聖女と呼び出されるだけでなく、「伝統だから」と王妃の椅子が用意されていた。この三年、聖女の責務を果たしつつ王妃教育を急ピッチで仕込まれたものだ。それはもう地獄と言っても差し障りないだろう。
ヘルムート王子は厳しい方で、何をしてもできて当たり前という反応しかしない。素っ気なく、会話もどこか見下していることもしばしば。
それでも異世界に飛ばされて後ろ盾も何もない私には彼の期待に応えるしか無かった。いつか殿下も認めて下さる。微笑んで下さると──そう思ってようやくこの世界に馴染んできた頃、聖女の力を失ったのだ。
「聖女の力が失ったことを未来の夫に相談もない。これは私の婚約者としての自覚が欠けていると思わないか?」
「相談なら手紙を──」
「このまま信頼関係が築けないのなら、これを機に婚約破棄をするのもいいだろう」
(婚約……を白紙に戻すってこと?)
唐突な宣言に周囲の貴族たちはどうよめいた。王妃候補だった私が居なくなれば自分たちの娘を嫁がせるチャンスが来るのだから。「得体が知れない娘」と何度誹謗中傷を言われたことか。治癒しても罵詈雑言を言い出す者も多かった。
そんな生活に嫌気がさしていたのも事実だ。それでもヘルムート殿下に喜んでもらいたいと思って頑張ってきた。
(私の努力は無駄だったのね……)
「ヘルムート殿下っ!」
颯爽と現れたのは真っ赤なドレスに身を包んだカロリーヌ公爵令嬢だった。気品のある令嬢は素早く殿下の傍に駆け寄った。
「……カロリーヌ」
「何を言い出しているのですか!」
次の瞬間、ヘルムート殿下は公爵令嬢にもたれかかるように肩に顔を埋めた。
その光景にざわめきが一層騒がしくなる。
『公爵家なら次の婚約者としてはなかなか』
『公爵令嬢とは、うちの娘にもチャンスがあると思っていたんだが』
『殿下と公爵令嬢は幼なじみですし、週に何度かお茶をするほどの中だとか』
(週に……そう。私とのお茶会は週に一度あるかないかって程度だったのに)
カロリーヌ公爵令嬢。お茶会でも私に気を遣って何かと話しかけてくれた一人だ。殿下とカロリーヌ令嬢の寄り添うその光景は物語の一幕のようで、最初から自分に入り込む隙などはなかったのだと知る。
お似合いな二人に対して私は不釣り合いな婚約者だっただろう。
「殿下、婚約破棄の申し出、謹んでお受けします」
「え、な」
なぜかヘルムート殿下が酷く困惑した顔で私を見返す。私がすんなり身を引くとは思っていなかったのだろうか。確かにこの世界に来たばかりだったら、今のような決断は出来なかったはずだ。
「今までお世話になりました」
ドレスの裾を摘まみ、深く腰を落として完璧な礼を取った。この三年、常に厳しい王妃教育で体に刻まれた技術。頭の角度から姿勢まで完璧に、黒髪が映えるように全身を使って自分を魅せる。
その場にいた貴族たちのざわめきが消え、誰もが私という存在に視線を向けてきた。先ほどの痛々しいものとは異なる。それが少しだけ誇らしい。
「それでは失礼します」
「な――」
ヘルムート殿下が何か言い出す前に、私は踵を返して足早に会場を去った。
殿下のことは嫌いになれなかった。一国の王子として自身が常に厳しく育てられた以上、夫婦となる伴侶にも同じことを望んでしまっただけ。そして私には王妃などと言う責務には不釣り合いだった。女子高生だった私が王妃なんてどだい無理な話なのだ。
聖女としての力を失った以上、このまま次期王妃の座に留まっていたら貴族たちに何を言われるか分かったものではない。
ヘルムート殿下が盾になってくれるかも不明だ。元々口数が少ない方だったので、何を訴えても右から左に流すだろう。今までのように。
(そう考えると婚約破棄はちょうどよかったのかも)
聖女でもなく王妃でもない。
自由を手に入れられたものの、この国は身分制度がはっきりしている。聖女でも未来の王妃でもない私は平民扱いに近いだろう。肩身の狭い思いをして生きていくのだけは嫌だ。
「ユズ様!」
「!」
私に声をかけてきたのは第一王子ハインツ様だった。
金色の長い髪に、サファイアのような瞳、白い肌に華奢な印象の第一王子。ヘルムート殿下の義兄君に当たる。常に笑顔で紳士的な態度は親しみやすい。
王城専用図書室で出会った方だ。ヘルムート殿下とは腹違いであり彼の母親の身分が低いのもあり、王位継承権を自ら放棄したという。
本人的には「好きなだけ本を読めるからいいんだけどね」と笑っていた。彼は現在魔法研究所と国立図書館の室長を務めている。
私も本が好きだったのでよく時間を見つけて図書館に訪れていた。
「これはハインツ様、お久しぶりです」
「ええ、お久しぶりです。……愚弟が無礼を致しました。王家として本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げるハインツ様に、私はギョッとしてしまった。王族に頭を下げさせてしまい慌ててそれを止めようとするが、彼は頑なに頭を下げたままだ。
「は、ハインツ様、頭を上げて下さい」
「しかし……あのような場で浅慮な言動をとるなど次期国王としてはあるまじきことです」
「私としてはこのタイミングでよかったと思っています。結婚した後で聖女の力を失ったのであれば離縁はかなり面倒だったと思いますし、カロリーヌ公爵令嬢とヘルムート殿下のお姿を見て踏ん切りもつきました」
顔を上げたハインツ様の笑みには陰りがあった。
「……ユズ様、貴女はどこまでも清らかで、強く、そして心が広いのですね」
「そんなことはありません」
「しかし婚約破棄後はどうなさるつもりなのですか? 何かやりたいことでもあるとか?」
やりたいこと。
できるのなら本に関わる仕事をしたいのだが、この国で図書館職員に就職できるのは貴族のみだ。本屋なら平民でも可能だろうが、基本的に取引先は貴族が多くなる。
罵詈雑言あるいは嘲笑を受ける未来しかない。
そう考え、ふとハインツ様が以前教えて下さった聖王国フォルリーの存在を思い出した。かの国は世界のあらゆる本が集まるという『本の国』だ。身分など関係なく実力主義国家だったとか。
「聖王国フォルリーで再就職をしようかと思っています」
「そうですか」
ハインツ様はどこか納得したのか朗らかに微笑んだ。
その姿に大抵の女性は落ちるだろう。
「国を出る準備もありますので、これにして失礼します」
「それなら私も同行しましょう」
「…………え」
唐突な申し出に私は思考回路が停止した。
ハインツ様は私の手を取り、手の甲にキスを落とす。
あまりにも自然な動作に見惚れていたが、すぐに自分がされたことに気付いて頬に熱が集中する。
「な、え」
「貴女に出会い、会話を交わす度に惹かれていきました。しかし思い募ってもこの国の伝統を覆すことも、王位継承権を自ら降りた私には貴女を奪い取るだけの力はありませんでした。それが今、聖女でも次期王妃でもない――貴女の弱みにつけ込んだとしても、この機会を失いたくないのです」
「ハインツ様……」
その場で答えが出ず言葉に詰まらせていると、会場からこちらに近づく足音が近づいてきた。しかもかなり慌てているのか走り出しそうな勢いだ。
「ユズ!」
(ん? この声は……?)
**ハインツ視点**
初めてユズ様を見た時、後頭部に強い衝撃を受けた。
長い黒髪、菫色の瞳、すらりとした華奢で可憐な少女。気まぐれで召喚の儀に参加してよかったと心から思った。
聖女召喚。
この国では五十から百年に一度、国を覆う邪気が厄災を齎す。それを防ぐため異世界から少女を呼び出し、浄化の儀式を執り行う。
異世界から召喚した際に奔走するエネルギーが吹き荒れ邪気を一層した。この段階で聖女としての役割は半分以上終わっている。しかし特別な存在である少女の血筋を取り込みたいと思うのはよくあることで、代々王族あるいは貴族によって婚姻を結ぶことが決まりとなっている。
自分にも可能性があるかもしれない。そう思っていたがその期待はすぐに打ち砕かれた。
腹違いの弟、ヘルムートとの婚約が決まってしまった。
(身分が低くても第一王子として王位継承権を放棄すべきでは無かったか)
地位や名誉に興味は無かったものの、聖女ユズ・イチノハへの興味は薄れるどころか増していった。
そんなある日、王族図書室の整理をしようと部屋を訪れてみたら彼女がいたのだ。梯子を使っても一番の上の棚に届かなかったのか背伸びをして手を伸ばす姿は、とても可愛らしくて声をかけた。
代わりに本を取るとこの国の歴史や伝承関係のものだとわかった。しかも古代文字で書かれているので翻訳するのがとても難しいものだ。
異世界のしかも年端もいかない少女が読めるものなのか声をかけたら、「私にはすべて自国の言葉に変換されているのか普通に読めますよ」と言い出した。
衝撃だった。
(聖女の治癒能力なんかよりも希有で素晴らしいものじゃ?)
思わず解読が難しい古代文字の一節を翻訳してもらった。彼女はサラサラと見たままの文章を用意した紙に書き出してくれた。古代文字とは異なる見たことのない文字だったが、全文を書き終えると文字は母国語に変わったのだ。
異世界転移者による祝福の一つなのかもしれない。以前の聖女も言語や語学など全て精通していたと聞いたことがあった。
おそらくこの世界に訪れることによって文字や言葉が通じないと、聖女自身が不利になるからなのだろう。教会という後ろ盾はあるが、あくまでも聖女という存在であり彼女自身をよく思っているか別だ。
「素晴らしいよ。何かお礼がしたいのだけれど君は何を贈ったら喜んでくれるだろうか」
「え。私に、ですか?」
キョトンとした顔で驚く彼女に私はますます惹かれた。この国の貴族令嬢であれば、男性からの贈り物などはもらって当然という節がある。しかし彼女は「いいのですか?」と嬉しそうだ。
婚約者であるヘルムートから何も貰っていないことがすぐにわかった。こんな愛らしい彼女に何も贈らず、愛情を向けないなど目が腐っているのではないだろうか。
「ユズ様、貴女の本を読む力はとても素晴らしいことです。もしよろしければ時々文章の解読をして頂けないでしょうか?」
「聖女と王妃教育があるので、あまり時間がとれないとは思いますが、それでもよければ」
「ありがとうございます。それともし本が好きなのなら、私の国立図書館にも是非お越し下さい」
「え……。あ、そういえば貴方は?」
「申し遅れました。私はハインツ・フォン・フレーリッヒ。ヘルムートの義兄で、現在は国立図書館の室長をしております」
それから彼女との交流が始まった。
ユズ様との時間は夢のようで、僅かな時間であっても私にとって癒やしそのものだといえる。
国立図書館には彼女がいつ来てもいいように特別貴賓室を用意し「好きに使ってください」と告げた。最初彼女は「申し訳ない」と遠慮していたので慎ましい姿も愛らしい。
「閲覧制限のある解読を少し頼みたいので、どうかその場所を使ってくれないかな」と話したら折れてくれた。彼女としても一般席で本を読むには目立つと思っていたのだろう。どこか安堵していた。
「気遣って下さってありがとうございます」
「いえいえ。本が好きな方に快適に読む場所を提供するのも私の仕事ですから」
本を読む時間が多かったので会話はさほどない。
それでも私にとって僅かな時間がとても貴くて心地よいものだった。
教会には読解不可能な文章の解読する依頼と同時に貢ぎ物も渡したし、貴族たちにもユズ様が不利にならないよう根回しを行った。本来はヘルムートが行う作業だが彼女を守るためならなんでもいい。
そんなある日、義弟が声をかけてきた。恐らくユズ様の図書館通いが耳に入ったのだろう。一応婚約者に関心はあるのだとぼんやりと思っていた。
「兄上、ユズが解読した原本を全て出してくれ」
「(相変わらず既に貰うこと前提で話をする奴だな)……魔法研究所と国立図書館解読班からの教会に正式な依頼として頼んでいるものです。控えは渡しても原本を渡すことはできないし、君に渡す理由もないのだけれど」
「……ユズは私の婚約者だ。婚約者なら彼女の関わった物は全て私の物になるだろう」
「(なるわけない、頭大丈夫だろうか)……その理屈はよくわからないのだけれど。それに君は聖女様に関心がなかった訳じゃないのかな?」
「誰がそんなことを? ユズとは良好な関係を築いている」
真顔で答えるこの男に、とりあえず話を続けるため適当に相槌を打つ。
「良好ねぇ。どんなことをしてそう言い切れるのか教えてくれないか?」
「週一日にお茶会をしている。ユズが私に刺繍で作ったハンカチなどを持ってきてくれた。手紙もよく届く」
「(それは全部社交辞令だ)……他には?」
「……十分ではないのか。彼女はよく笑ってくれている」
そう言ってほんの少し口元を綻ばせた姿を見て、「ああ、彼もユズ様が好きなのか」と察した。もし形だけの婚約なら手を回して白紙に戻そうと画策しかけていたので、彼の発言には少し驚いたものだ。
「どんな会話をしているんだい?」
「王妃教育の進捗、聖女の活動報告などで話が弾んでいる」
「(……うん、それは会話ではなく確実に業務連絡だ。ユズ様が不憫でならない。一応、第三者から情報を得た方が良いな)なるほど、なら贈り物などは毎日欠かさずにしているのだろう?」
「なぜ?」
「(質問を質問で返すな!)……んん、あー、好いている子に対してもっと着飾ってほしいとか喜んでほしいとか普通に思うだろう」
「ユズはそのままでも充分美しい」
「(そうじゃない! 美しいことは認めるが!)……贈り物はしていないと?」
「どうせ王妃となれば、その時に必要な衣服や部屋、調度品一式揃えるのだから問題ないだろう」
完全にずれていた。ユズを思う気持ちはあるようだが、あまりにも考え方や対応が杜撰すぎる。誰も苦言を呈さないのか。
いろいろ調べた結果、どうやら宰相と貴族派は聖女が次期王妃になることをよく思っていないらしい。それもあり王子の側近にも息のかかった者が聖女と不仲になるように動いているようだ。
情報屋から届いた手紙を読み終えた後、暖炉に報告書を放り投げた。
赤々と燃えさかる炎によって報告書は一瞬で灰と化す。
(まあヘルムートが王位継承権を得たのは宰相や貴族派の後押しがあったからで、彼ら的には貴族派から次期王妃を排出したかったのだろう。その野心もあった。それが聖女召喚をせざるをえなくなったことで、風向きが変わったのか)
ヘルムートには悪いがユズ様の身の安全を考えると婚約破棄するほうがいいだろう。伝統に従って聖女と王族が婚姻を結べばいいのだから、その権利は私にもある。
手始めにユズ様と仕事関係で合う回数を増やしつつ、聖王国フォルリーの話題を出した。
彼女が興味を持つように期間をおいて話をして、それから水面下で諸々の準備を整えていく。
(ああ、王位継承権争いをしてきたよりも楽しそうだ)
あの時は生きるか死ぬかで毎夜、刺客がやってきた。そのたびに全て返り討ちにしてきたのだけれど、今回はできるだけ殺さずにことを進めるという縛りも中々に面白みがある。
ユズ様の御心を傾けることができるか、タイムリミットは婚儀が決まるまでだろう。
そう思っていた矢先、まさかヘルムートの失言と自爆。
パーティー会場での発言は完全に失言だった。見かねたカロリーヌ公爵令嬢が王子の暴走を止めるために腹に一撃を入れていたときは面白かったが。
もっともカロリーヌ公爵令嬢は私の手駒でもあった。ユズ様を守るためにも女性の友人は必要と思っての配慮として手を結んだ。彼女は王族派の人間で公爵家としても次期王妃として虎視眈々とその座を狙っていたので、都合がよかった。
さて――彼女はどちらを選んでくれるのだろう。
先の見えない賭というのも案外悪くない。
***
イノシシの如く廊下を闊歩していたのはヘルムート殿下で、後ろにはカロリーヌ公爵令嬢がいた。
(カロリーヌ公爵令嬢ヒールの高い靴を履いているのによく転ばないな。……にしても何の用だろう?)
ハインツ様は私を庇うように、ヘルムート殿下とカロリーヌ公爵令嬢の前に立ってくれた。
「ヘルムート、王太子として何をしているだい?」
ハインツ様は穏やかだが声音には怒りがあった。息を整えたヘルムート殿下はハインツ様を見ずに、その背後にいる私に睨んだ。
「義兄上には関係の無いことです。私はユズと話がある」
「私も彼女に話が合ってね。……まあ、せっかくだ貴賓室で話そうじゃないか」
ハインツ様の言葉の通り、廊下の真ん中で話すことではないだろう。私は彼の提案を受け入れ、ヘルムート殿下とカロリーヌ公爵令嬢も従ってくれた。
(ヘルムート殿下とのお話、あ。婚約破棄をする書簡などの手続きなのかもしれない)
そう暢気に考えていた私は浅はかだった。
貴賓室に通されて私とハインツ様が隣に座り、対面する形でヘルムート殿下とカロリーヌ公爵令嬢が並んで座る。
重苦しい空気の中ヘルムート殿下が口を開いた。
「ユズ、先ほどの婚約破棄の件だが、アレはお前を思って発言したまでのことだ。もっとお前に次期王妃としての気構えを理解して貰うためあえて」
「分かっています」
その言葉にヘルムート殿下は安堵の表情を見せた。きっと私が途中退出したので念を押したかったのだろう。
「国王陛下にもお伝えすることですから、婚約破棄に関する同意書のサインが必要でしょう。お手数をおかけしますが、契約内容を見せて頂いても?(変なこと書かれたらたまったものではない。勝手に身売りだとか一文無しで国外追放なんてゴメンだもの)」
「な――なぜ、そのようなことを。……わかった。あの場で恥を掻いたことを根に持っているのだろう。だから私を困惑させ引っかき回そうとしているのだな」
なぜか狼狽する殿下に私は眉をひそめる。
自分で婚約破棄を言い出したのに、何を言っているのだろう。睨み付ける眼光がいつになく鋭くて怖い。
今までのお茶会や顔を合わせるときも言葉数は少なく、上から目線ばかりだった。王族ならそうなのかもしれないが、聖女としての地位を失った今、教会からの後ろ盾も何もない状態で彼の元に嫁ぐことが恐ろしいとあの会場で改めて感じたというのに、殿下は何も気付かなかったのだろう。
「この三年、右も左もわからなかったからこそ殿下の婚約者という立ち位置にいましたが、聖女の力を失った今、次期王妃としての役割は荷が重いと思っております。ですから殿下の言葉通り、婚約破棄を受け入れたのです」
「――っ、婚約破棄などはしない! ユズ、お前は私の婚約者で王妃になる。これは決定事項だ!」
声を荒げる殿下はそれだけ告げると部屋を出て行ってしまった。婚約破棄を言い出しながら途端に婚約破棄をしないと言い出す。二転三転する彼の主張に私は困惑するしかない。
カロリーヌ公爵令嬢は申し訳なさそうに一礼した後、殿下の後を追いかけていった。
二人が退出したことで私は強ばっていた体が弛緩する。
「お疲れ様。あのヘルムート相手によく言い切ったね」
「ありがとうございます。……でも、これから私はどうなるのでしょう。殿下の言葉が二転三転してしまって何が本心なのか何を考えているのか分からなくなりました」
「……弟なりに君を慕ってはいたんだと思う。ただそれをよく思わない人間が弟の傍に多かったと言うだけだよ」
(殿下をいいように操ろうと近づく貴族たちが沢山いるのね。だからこそ私と殿下は上手くいかなかった――部分もあったのかもしれない。今後のことを考えると早めに婚約破棄をして国を出たほうが……)
「ユズ様。一つ私に提案があるのだけれど」
「ハインツ様?」
微笑むハインツ様の真後ろに、黒服の男たちが音もなく姿を見せる。
「――っ!」
振り上げる鈍色の刃が煌めき――次の瞬間、私の意識は途切れた。
***
「『――こうして兄王子と聖女は悪い悪魔と戦い奮闘するも殺されてしまいました。完』って、ハインツ様、この終わり方はどうしても納得がいきません。やっぱり物語はハッピーエンドがいいかと思うのです」
「そうかな? たまには悲哀って言うのも悪くないと思うけれど?」
自分たちの経験談をさらっとバッドエンドにするのは酷くないだろうか。そう不満を言いながら彼の仕事机に淹れ立てのお茶を出した。
「ありがとう、ユズのお茶は美味しいよね」
「お褒め頂き光栄です……ふふっ」
私とハインツ様はグランツ王国から亡命して聖王国フォルリーで暮らしている。あの日、現れた黒服は私を狙った刺客で、すぐさまハインツ様が魔法で返り討ちにして大事に至らなかったらしい。このまま悠長に婚約破棄を引き延ばすのは危険とハインツ様は判断して一緒に亡命した。
というか私が意識を取り戻したら聖王国フォルリーに居たのだから驚いたものだ。貴重な転移魔法を使ったらしく、王族の緊急避難用だとか。
現在は一軒家を借りて私は家のことを、ハインツ様は本の出版やら、本の手入れなどの仕事を請け負っているので、時々古文書などの解読などは手伝ったりしている。
私が考えていたものと少し違うが悪くない。
半年過ぎた頃には生活も落ち着いてきて、驚くほど穏やかで充実した日々が続いている。
「……それにしても本当に国に戻らなくていいのですか?」
「もちろん。ユズと一緒にいることが私の願いだったから、今とても幸せだよ」
「うっ……」
私とハインツ様との関係は同居人であり、友人以上恋人未満と言ったところだ。ヘルムート殿下との一件もあり恋愛に気持ちが向かず、ハインツ様に告げたところ「ではユズがその気になるまで口説くとしましょう」と言い返した。
あまりにもサラッと言うので、そのイケメンぶりに即落ちしそうだ。
「ユズが少しでも私を受け入れてくれたら、もっと幸せだけれど」
そう言って髪を一房触れて、キスを落とす。
恋愛経験の免疫がない私には後どのくらい耐えられるか不明だ。それでもヘルムート殿下の時の反省を生かして自分の気持ちは少しずつでも良いので伝えていこう、そう心に誓った。
「それに私たちは物語の通り死んだってことになっているだろうから、戻る必要もないのだけれどね」
「え?」
「ううん、なんでもない」
「……ハインツ様、もう少しだけ待って下さい」
「もちろん、急がないよ」
ハインツ様は柔らかな眼差しで私を見返す。
最初に出会った頃よりも笑顔が柔らかくなったのは気のせいじゃないと思いたい。
「や、やっぱりちょっと好きに――にはなっています」
「本当かい!?」
ハインツ様は喜びのあまり私を抱き寄せた。
男の人としては華奢な方だと思っていたがすっぽりと腕の中に収まる。
もしかしたら自分は惚れやすいのかもしれない。
私が恋に落ちるまで、あと――秒だろうか?
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