海道一の弓取り~昨日なし明日またしらぬ、人はただ今日のうちこそ命なりけれ~

海野 入鹿

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第六章 三つ巴

第七十三矢 狂気の涙

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一向宗の軍勢に勝利し、少しの間喜びに浸った俺たちは再び進軍を始めた。

「じゃあこの勢いのまま、一向一揆の大元を鎮圧しに行きましょう!」
「おおっ!!」

一向宗の軍勢を撃破した今川・松平軍は玄海のいる寺へと向かう。

その頃、玄海と実誓は庫裏《くり》―すなわち玄海の住居にたどり着いていた。
庫裏はとても豪勢な造りとなっており、一向宗の莫大な財力と玄海の自己顕示欲の強さが垣間見えた。
玄海はサッと庫裏の戸を開け、土間を通り、台所を抜けて、自身の部屋へと到着した。
玄海は部屋の隅まで歩いて行くと床板をまくった。すると、そこには下へと続く長い階段があった。
そう、玄海は寺の改築を行った際に万が一の時のために隠し階段を作らせておいたのだ。

「御院主様…もしや私たちだけで逃げるのですか…?」

ようやく玄海の思惑に気付いた実誓が玄海に聞いた。それに玄海はうなずく。

「ええ。」

これでここから逃れて、親交のあった遠江国の一向宗の寺の保護を受けるだけだ。
そして、ほとぼりが冷めた頃に再び門徒たちを煽動して、自身の野望を成し遂げるのだ。
玄海の野望。それは最初こそ真宗の力を三河に示すことだったが、欲が膨らみいつの間にか自身の国を創ることへと変化していったのだ。
とはいえ、その野望を成し遂げるのに一人では心許ない。
信頼できる駒が一人くらいはほしい。
そこでその駒に実誓を選んだのだ。
玄海はほくそ笑み、実誓に呼びかけた。

「さあ、実誓。早く行きますよ。このままでは戦に巻き込まれかねません。」
「……」

玄海は実誓の様子に少し違和感を持ったが、構うことなく実誓を連れて階段を下りようとする。しかし、実誓はその場から動こうとしない。

「早くなさい実…」

なかなか下りてこない実誓に少し苛立ちを覚え、玄海が実誓の方を振り返ったその時、実誓が隠し持っていた短刀で玄海の腹を突き刺した。

「え?」

突然のことに玄海は状況が理解できなかった。
いや、理解したくなかった。

「実…誓…?」
「…ない、お前は御院主様ではない!!!」

いつもの温和な実誓の声とはほど遠い怒鳴り声が部屋内に響き渡る。玄海は驚きヨロヨロと二、三歩下がった。
実誓は言葉を続ける。

「御院主様は慈悲深き方だった。常に民のことを考え、民のための国を創ろうと申し上げていた…しかし、そうですか。もう私の御院主様はいないのですね。」

実誓の目は悲しみに満ちていた。
が、玄海がまばたきした次の瞬間、その目は荒々しい獣の目となっていた。
玄海は本能で感じ取った。

(殺されるっ!)

咄嗟に玄海はバッと階段を下った。
ドタドタと階段を下っていく。

「ハアッハアッハアッハアッ!」

動悸で息が荒くなる。
いつも安全な場所から指示を出して一向一揆を主導していた玄海にとって、死を間近に感じるのは初めてのことだった。

「あっ!!!」

焦りからか玄海は足を滑らせ、階段から転がり落ちた。
急いで再び立ち上がろうとするが、足の手首から激痛が走った。

「ぐうっ!」

(足を痛めた…!)

そうこうしているうちに実誓は階段を下り終えて、玄海の前に立った。

(まずい…説得を、説得をしなければ…)

玄海は必死に笑顔を取りつくろった。

「実誓っ、話し合いましょう。何故、あなたが育て親である私を殺さなければならないのです。」

実誓は無表情のままだ。
玄海はさらに焦る。

「実誓っ、あなたは間違っています。そのようなことは阿弥陀様がお許しになりませんよ。」

実誓は短刀を高く振り上げた。

「実誓っ!!」

玄海が叫んだのと同時に、短刀は玄海の胸を深く刺さった。

その刹那せつな、玄海は後悔する。
早く気づくべきだった。
自身が信頼を置いた僧侶こそ、自身を死へといざなう男であったことに。

「こ…んな…ところ…で……」

玄海は無表情で見下す実誓を見ながら、まもなくして絶命した。絶命したのを見届けた実誓は一筋の涙を流し、絶叫した。

「ああッッッ、御院主様ッッッッ!!!」

そう言ったかと思えば、実誓は狂ったかのように何度も何度も玄海を刺した。

「おいたわしや御院主様、おいたわしや御院主様!!あなた様は汚れてしまった、だから私が清めねば!」

すると、実誓は突然ピタッと手を止めた。

「そこにいるのは誰ですか。」

実誓は気配を感じ取り、階段の入り口付近をギロリと睨みつけた。
すると、階段の入り口付近から行商人と岩松八弥がスッと姿を現した。

「ああ、あなた方でしたか。」
「貴殿は……御院主様を慕っていたはずでは…」

目の前で起こっているあまりにも衝撃的な光景に行商人が言葉を失っていると、実誓はフラフラと立ち上がった。

「御院主様は醜き俗物へと変わり果ててしまっておりました。だから、私が殺したのです。」

実誓は続ける。

「御院主様は幸せのはずです。だって愛しい私が殺したのですから―」

そう言って恍惚な表情を浮かべる実誓に、行商人はゾッと鳥肌が立った。

(こいつ…狂ってる…!)

「……それで、貴殿はこれからどうするおつもりにございますか。おそらく、ここ一帯の真宗の寺は今川・松平の手が入りまするが…」
「この騒ぎが落ち着くまで遠江で一旦身を潜めます。あなたたちもついてきますか?。」

実誓は玄海の笑みを真似て、ニコリと横たわる玄海に微笑みかけた。

「御院主様、安心してください。あなたの意志は私が継ぎます。真宗の国を必ずや創り上げて見せましょう!」

そして、実誓は隠し階段の奥へと姿を消した。
少しの沈黙の後、行商人が口を開いた。

「…どうする?」

それに八弥は行商人の方を見ずに答えた。

「決まっておる。今川を討つまでは我らは死ねぬ…」

行商人はうつむき、小さな声で言った。

「ああ、お前ならそう言うと思った。」

行商人たちは実誓の後をついていった。
それから少し時が経ち、ついに今川・松平軍が寺を包囲した。
しかし、寺に残っているのはほとんどが無力な僧侶たちである。

「さすがに無力な人と戦うのはちょっとな~」

そこで、俺は僧侶たちに降伏するように勧告した。
僧侶たちの腹はすでに決まっていた。

「我らは真宗。かのような畜生共には決して屈しぬ…!」

僧侶たちは降伏を拒み、徹底抗戦の構えを見せた。

「…とのことですが、どういたしましょう。」

吉田氏好から降伏拒否の報告を受けた俺は決断を下した。

「わかった、あくまでも最期まで戦うってことね。」

俺は全軍に号令をかけ、寺の制圧を始めた。
僧侶たちは最期まで抵抗した。しかし大軍の前に勝てるはずもなく、あっという間に寺は制圧された。

その後、これを機に三河国の一向一揆は鎮圧されていき、次第に収束していったのである。
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