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一章
1.痛みと邂逅
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遠くで声がした。
《おや? こんなところに良い玩具が……。ん? ほぅ。これは興味深い》
それきり声は聞こえなくなり、俺は――――――――――――――。
×××××
目が覚めた。
先程までとは打って変わり、ぽかぽかとした暖かさが体を包む。
ときたま通り過ぎていく優しい風が、俺の顔をそっと撫でて遥かに消える。
草原に横たわる俺は、天に見える真っ青な空と流れる雲、昼なのに天に昇る歪な3つの月、無数の浮遊島をぼんやりと眺めていた。
どう考えても、もといた世界ではない。
頬や腕をつねってみたが、夢ではなさそうだ。
……死後の世界かな?
何気なく、つい先刻包丁を突き立てた左の胸元に触れる。
傷は無い。痛みも無い。
存在するはずの事実が跡形もなく無くなっているというのは、どうも不気味でむず痒い。
しかし、ここを死後の世界とするなら傷が無いのも頷ける。その一方で、根本的な疑問が脳裏によぎる。
それは、俺が今この瞬間にも自らに質量を感じ、この空間に確かな重力を覚えているということだ。
死んだなら、元の世界に肉体を置いてきているはずだ。霊体で質量や重力を感じるはずがない。
「どうなって……」
そう呟き、再び何気なく胸元に触れた時だった。
あ……。
俺は、触れた胸元に違和感があることに気づいた。
衣類に穴があいている。
恐る恐る穴から手を入れて、胸元の肌に触れる。
そこには、不自然なカサつきがあった。
慌てて起き上がった俺は、制服のシャツを開き自らの体を確認する。
「ふさがって……る。のか?」
俺の視界には、いつもどおりの色白い肌に一箇所だけ傷がふさがったような痣が見えている。
確認すると、着ていたカッターシャツには穴を中心に赤黒い染みがベッタリとこびり付いていた。
「つまり……」
やはりこの状況は、俺が死んだわけでも夢を見ているでも無く、何かしらの要因で別の場所に移動させられたというのが妥当な認識だろうと思う。
さらに言うならば、まだ水分の残った状態の血液からして、俺が自殺を試みてからさほど時間が経っていないということが分かる。
死んでいないとすると…………、ここはいったい。
怪訝な顔で内心そう呟いた俺は、立ち上がり周囲を見回してみる。
周囲は一面の草原で、小さな丘がいくつも点在していた。
ところどころには土の露出した道が走っており、その草原に走る僅かな大地は遥かに続いている。道がある以上、少なくとも人の通るエリアということだろう。
俺は、すぐ近くにあった道に出るとゆっくりした足取りで先を目指して歩き始めた。
帰ろうという選択肢は無い。帰るところなんてないし、帰っても辛いだけなのだから。
小さく息を吐いた俺は、トボトボと先へ先へと歩みを進めた。
無感情で進む大地の曲線はとても長く永遠的にも感じられ、さして時間も経っていないのに酷く長い年月を歩いた気分にさせられる。
時々、過行く心地の良い風がせめてもの救いであるかのように、優しく俺の頬を掠めてゆく。
どれほど歩いただろうか。
いや、実際にはほとんど歩いていないのかもしれない。
そう思えるほどに無の時間が過ぎ、己を忘れかけていた時だった。
不意に背後からガタリガタリという物音が響く。
そして、同時に複数人のざわついた気配が近づいてきた。
振り返ると、道の向こうから馬車による長い列が迫ってくる。
俺は、邪魔になっていけないと、道の脇に逸れると、一団が通り過ぎるのを待つ。
御者は、皆筋肉質な男性ばかりで酷くワイルドな服装をしていた。
何というのか、ファンタジーゲームに出てくる商人のオヤジか鍛冶屋のおやっさんといった感じだ。
一人一人差異はあるものの基本的にはその二択に当てはまりそうな格好の者が多い。馬車に檻のようなものが連結されているのを見るに、おそらく彼らは野生動物か何かの狩猟団体なのかもしれない。
一団は、割とゆっくりとしたペースで馬車を走らせており、俺の前で突然停車した。
先頭の馬車から御者の男が降りてくる。
「お嬢ちゃん。どうしたよ? こんなところで」
「いや、まって。俺男です」
すかさず訂正を入れる俺に、男は僅かに首をかしげる。
「は? 嘘抜かしてんじゃねーよ。それよか、どうしたよその血」
「あー、これですか? うーん。わかんないですけど、とりあえず大丈夫です。あと、男です」
確かに色白で華奢な上に、線が細く瞳の大きい俺は女子っぽい外見だと思う。しかしだな。制服見ればわかるだろ。穴空いてるけど、学ラン着てるじゃんか……。
内心でそうボヤく俺に、男は顎をかく。
「大丈夫ってなぁ。……つーか、どこから来たんだ? 見たことねぇ服装だが」
学ラン見たことないってレアすぎるだろ……。
その瞬間、俺はふと脳裏で恐ろしい発想に行き着き凍り付く。
見たことのない景色、三つの月、このご時世に馬車を使う、学ランを知らない、妙な服装。
まさか……。
俺は考え込むように視線を落とす。
しかし、その直後、男の手が勢いよく俺の腕を掴みグイと引っ張った。
ギョッとして視線を上げると、男はニンマリと笑みを浮かべる。
「お前、なかなか良い値で売れそうだな」
「え……」
×××××
で、どうしてこうなった。
俺は絶望を通り越して、その場に立っている気力すらない状態に陥っていた。
「おい! しっかり立て!!」
唾を吐き散らす売人の振るう鞭が、俺の背を打つ。
何度打たれたことだろうか。
いつしか痛みは鈍り、内部に響く衝撃だけが俺を震わせる。
俺は奴隷商人に売られていた。
あれから七日が経過しているわけだが、未だ俺は買い手も見つからずに商品としての扱いを受け続けている。
俺の腕を掴んだ男はこの商団のリーダーだったようで、俺はあのまま枷をはめられて街の市場で売られているだった。
抵抗しようと考えていたが、商団のメンバー複数人に取り押さえられてはさすがにどうしようもない。
「おいおい。あんまり商品は傷つけんなよ。そいつは見た目が売りなんだからよ」
「わーかってるよ」
商人たちは、そう言って俺を掴むと無造作に道に突き出した。
通行人は、俺を汚物でも見るかのような目で蔑み避けて通る。まるでゴミにでもなったような気分だ。
なぜこうも酷い扱いばかり受けるのか。
苦しみばかりが募るが、その一方でこれは自殺したことへの応報なのかもしれないという考えが脳裏をちらつく。
あと数時間で今日も終わりだ。
夜になれば、少なくとも鞭で打たれることは無い。
しかし、代わりに別の苦しみがあることを思い出した俺は、込み上げてくる吐き気を必死に抑える。
夜になると俺は販売時間が終わると乱暴に檻に押し込まれ、檻の中で待つ別の奴隷たちの欲望の道具にされるのであった。
男女で分けられている奴隷牢において、まるで女子のソレに等しい容姿を持つ俺は彼らの格好の餌食なのだ。
彼らの目は爛々とギラつき、俺は汚されていく。
凌辱されていく己の肉体をただ虚ろな瞳で見つめることしかできない。自身の容姿が憎い。
泣いても叫んでも、助けは来ない。
ただただ痛みの時間が続く。
欲望を満たした彼らは、俺を放り出し各々檻の隅へと戻っていき、間もなく寝息を立てる。
そんな七日間だった。
俺は道端に突き出されたまま、抜け殻の様にぼんやりと世界を眺める。
あれからわかったのは、とにかく今いる世界が俺の知っている地球ではないということ。
いわゆる異世界である。
世界観的には、ありがちなファンタジー世界で、中世ヨーロッパのような雰囲気が漂っている。通行人を観察していたところ、騎士もいれば魔法使いもいた。ちょくちょく魔法を使っている場面も目撃している。
……ラノベのようなことって無いんだなぁ。
ありがちな異世界モノでは、この時点で既に自分だけに与えられた特別な能力に目覚めていたりして、可愛いヒロインを連れて冒険の旅に出ている頃である。
一方俺は、どうだろう。
奴隷にされて痛めつけられて、男に喰われて……。特別な能力どころか、自由すらない。
どんだけ作者たちは、幻想見てたんだよ……。
というか、おかしいよな。
なんでニートとか引きこもりとか、前の世界ですらまともに生きていけなかった連中が、こんなに厳しい世界で一発逆転できちゃうの? ありえねぇだろ!
自分で言うのもなんだけど、俺って前の世界ではかなり頑張ってたからな?
親父が親父だから、人にとやかく言われないように学年トップの成績は維持していたし、地域でトップクラスのエリート高校にも入り、次の春には奨学金で国立大学に行くことが決まってる。定期的に地域ボランティアとか、学校推奨の課外活動だってやっていた。
自分の糧になることはなんだってやった。将来自分が親父の様にならないために、世間に見下されないために。なのに……。
焦点の定まらないぼやけた視界が、俺の世界を歪ませる。
「……これじゃぁ。ただの無力じゃないか」
軋む全身を引きずり、俺はゆっくりと振り返る。
俺の視線の先には、奴隷商の一団と、鞭を構えた売人。檻の周りには、男女様々な奴隷たち。
せめて……自由であれば。
そう思った時だった。
――――なら、覆せばいい――――
不意に脳内に、聞いたことのない。それでいてどこか懐かしい言葉が響く。
瞬間的な出来事に、考える間もなく俺の声にある声が飛び込んできた。
《うーん。予想以上に愉快なものよのぉ》
突然に世界から色が消え、人々がその場に静止する。
時間が止まっているのか?
俺は、突然のことに動揺し周囲をキョロキョロと見回した。
《時間を止めたわけではない。そなたの時間感覚を引き伸ばしただけよ》
再び響いた声に、俺は街道を行く人々の方を見る。
「どういうこと?」
俺の疑問に、声は答える。
《お主の感じる時間を極限まで伸ばした結果、今この0.1秒という時間が、お主の感覚で最大で五時間ほどの時間になっているということだ》
「……魔法か?」
《まぁ、魔法と言えば魔法だが、そうでもないとも言える》
「どこから、見ている? 何がしたい」
あくまで食えない物言いに俺はだんだん苛立ち始める。何故直接接触してこないのだろうか。
ここ一週間の過度なストレスもあり、俺は露骨なまでに声を荒げてしまう。
《そう苛立つな。我はお前に興味があるのだ。……しかし、以外にも落ち着いているのだな。まぁ、それくらいでなくては面白くない》
声は、そこまで言ってクスクスと笑い出す。
その直後、人ごみの中から霧のようなものが湧きだしたかと思うと、俺の目の前で収束し俺と同い年くらいの女の子が現れた。
黒と紫を織り交ぜた色彩のドレスを纏い、驚くほど透き通った白い肌に深紅の瞳、暗い赤色のロングヘア―は鮮やかでそれらの美しさを際立たせている。
「誰?」
俺の怪訝そうな表情に、彼女はズイと俺に詰め寄る。
舐めるような視線で俺を上目遣いで眺めた彼女は、小さく微笑む。
《我は、忌み畏れられる世界四大魔女が一人リフリア。異世界人と言うのは、珍しくてのぉ。お主を玩具にでもして愛でようと考えたわけだ》
彼女はそう言って俺の頬に手を添える。
すかさずその手を払った俺は、彼女から数歩後ずさり眉間にしわを寄せた。
「今更、魔女に驚いたりはしねーが、玩具になる気はないね。どう考えても危ない匂いがする。しかも、聞く限りお前ぶっちぎりでヤバい奴だろ」
俺の警戒した態度に、魔女は冷ややかな目を向けてくる。
《まぁ、その通りだな。危ない匂いがするというのも正しい。ただ、拒否したところでもう遅いのだがな》
刹那。
両手の甲が物凄い熱を帯びて痛み出す。
「なっ!? 何を!!?」
苦しむ俺を眺め、リフリアはとても満足そうな表情を浮かべる。
《それは呪い。あの草原で貴様を見つけた時に埋め込んでおいたのだが、ようやく動き出したか》
見ると、熱を帯びる両手の甲にそれぞれ模様の違う青い刻印が浮かび上がる。
「何をっ! …………仕込んだっ!?」
気が遠くなりそうな激痛の中で、俺はリフリアを睨みつける。
リフリアは、嬉しそうに解説を始めた。
《それは「不死の呪い」と「平穏無縁の呪い」。前者は貴様が自害できぬように施したもので、どんな傷も瞬く間に再生する。例えバラバラにされようとも再生し決して死ぬことはできぬ呪いだ。そして、後者だが、あらゆる不幸をその身に集める呪いだ。我は、他人の不幸を見るのがとても愉快でならぬ。まして、貴様のような美男子の不幸ともなると、それはそれは甘美なものよ》
「テメェ!!!」
痛みを必死でこらえた俺は、枷をはめられた両腕を振り上げる。
《無駄なこと。その二つの呪いにはあと二つの効果を付与してある》
そう言って楽しそうに笑う彼女に、俺は枷を振り下ろす。しかし、枷は彼女をすり抜けて空を切る。
《無駄なことだと言っただろう。この二つの呪いは特別でのぅ。呪いを付与した時点で貴様と私は二人で一つ。我が貴様に直接手を下せぬ代わりに、貴様もまた我に危害を加えることはできぬ》
「無茶苦茶な……」
すると、不意に熱を帯びていた両腕から黒い煙のようなものがあふれ出す。
「……な、なんだ?」
《あぁ。言い忘れておった。その痛みと熱が出ているときは、我が付与したもう一つの効果が表れている時なのだ。…………その効果は――――――》
次の瞬間、真黒な煙が一気にあふれ出し世界を包んだ。
「うぉああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
×××××
世界が色を取り戻す。
時間は元通り動き出した。
しかし、俺の目に映る世界は大きく変わっていた。
何もない。
文字通り何もない真黒な塵だけが存在する世界が、そこにはあった。
さきほどまで人であったそれらは、そよそよと吹く風に崩れ去り流されて遥かに。
俺は、目を見開き身震いした。
「こ、これは……」
《見ての通り。お前に与えられた力よ》
「……そんなことは、わかってる。これは……これは! なんだって聞いてんだよっ!!」
俺は叫び、自らの周囲に広がる浅いクレーターと、それを中心に灰となった奴隷商人や通行人たちの骸を見回した。
灰の中で服の裾一つ乱さぬリフリアは、己の唇に指を添えると薄く口角を吊り上げる。
《これは、貴様が内に抱く負の感情を一定量蓄積することで、死の風として発散する能力。いやぁ。それにしても予想以上の威力よのぅ。この一週間が、相当こたえたと見える》
俺は、その場に膝をつきうな垂れた。
ただ痛みを受け続け、堪えることもゆるされず、それでいて死すこともできない。
なんで……こんなことを。
俺は、渇く。
希望も絶望も無い。ただ、先の見えない闇の中に取り残された気分だ。
何も見えない。何もわからない。
俺は何もわからないまま、その闇に己を委ねようとした。
しかし、
――――なら、覆せばいい――――
俺は目を見開いた。
不意に立ち上がった俺に、リフリアがピクリと反応したのが分かる。
何故かはわからない。ただ、立ち止まってはならないと感じた。それは魂の奥にある何かが、反射したかのように。まるで、これまでくすぶっていただけの願いが、強い願望へと変わるような。そんな感覚だった。
《……どうした》
リフリアが、何か良からぬものを感じ取った様子で、俺に鋭い視線を向ける。
俺は、フゥと息を吐く。
「どうもしねぇよ。ただ、決めたんだ――――」
そう言った俺は、リフリアに向かい合うと真っすぐにその紅の瞳を見つめた。
「――今を覆すってな」
その言葉を聞いた途端、魔女の目が僅かに震えるのが分かる。
俺は続けた。
「誰かのためでも世界のためでもない。純粋に俺が生きていくために、今を覆す。お前がどんな呪いをかけようと、どんな不幸が降りかかろうと、覆してやる。それが、俺にとってのこの世界での冒険だ」
リフリアは俺の発言にしばしの沈黙を貫く。しかし、すぐさま酷く怒りの籠った暗い表情になると、低い声で言った。
《ほぅ……。精々我を興じさせるがいい》
こうして、俺の異世界での冒険がはじまった。
《おや? こんなところに良い玩具が……。ん? ほぅ。これは興味深い》
それきり声は聞こえなくなり、俺は――――――――――――――。
×××××
目が覚めた。
先程までとは打って変わり、ぽかぽかとした暖かさが体を包む。
ときたま通り過ぎていく優しい風が、俺の顔をそっと撫でて遥かに消える。
草原に横たわる俺は、天に見える真っ青な空と流れる雲、昼なのに天に昇る歪な3つの月、無数の浮遊島をぼんやりと眺めていた。
どう考えても、もといた世界ではない。
頬や腕をつねってみたが、夢ではなさそうだ。
……死後の世界かな?
何気なく、つい先刻包丁を突き立てた左の胸元に触れる。
傷は無い。痛みも無い。
存在するはずの事実が跡形もなく無くなっているというのは、どうも不気味でむず痒い。
しかし、ここを死後の世界とするなら傷が無いのも頷ける。その一方で、根本的な疑問が脳裏によぎる。
それは、俺が今この瞬間にも自らに質量を感じ、この空間に確かな重力を覚えているということだ。
死んだなら、元の世界に肉体を置いてきているはずだ。霊体で質量や重力を感じるはずがない。
「どうなって……」
そう呟き、再び何気なく胸元に触れた時だった。
あ……。
俺は、触れた胸元に違和感があることに気づいた。
衣類に穴があいている。
恐る恐る穴から手を入れて、胸元の肌に触れる。
そこには、不自然なカサつきがあった。
慌てて起き上がった俺は、制服のシャツを開き自らの体を確認する。
「ふさがって……る。のか?」
俺の視界には、いつもどおりの色白い肌に一箇所だけ傷がふさがったような痣が見えている。
確認すると、着ていたカッターシャツには穴を中心に赤黒い染みがベッタリとこびり付いていた。
「つまり……」
やはりこの状況は、俺が死んだわけでも夢を見ているでも無く、何かしらの要因で別の場所に移動させられたというのが妥当な認識だろうと思う。
さらに言うならば、まだ水分の残った状態の血液からして、俺が自殺を試みてからさほど時間が経っていないということが分かる。
死んでいないとすると…………、ここはいったい。
怪訝な顔で内心そう呟いた俺は、立ち上がり周囲を見回してみる。
周囲は一面の草原で、小さな丘がいくつも点在していた。
ところどころには土の露出した道が走っており、その草原に走る僅かな大地は遥かに続いている。道がある以上、少なくとも人の通るエリアということだろう。
俺は、すぐ近くにあった道に出るとゆっくりした足取りで先を目指して歩き始めた。
帰ろうという選択肢は無い。帰るところなんてないし、帰っても辛いだけなのだから。
小さく息を吐いた俺は、トボトボと先へ先へと歩みを進めた。
無感情で進む大地の曲線はとても長く永遠的にも感じられ、さして時間も経っていないのに酷く長い年月を歩いた気分にさせられる。
時々、過行く心地の良い風がせめてもの救いであるかのように、優しく俺の頬を掠めてゆく。
どれほど歩いただろうか。
いや、実際にはほとんど歩いていないのかもしれない。
そう思えるほどに無の時間が過ぎ、己を忘れかけていた時だった。
不意に背後からガタリガタリという物音が響く。
そして、同時に複数人のざわついた気配が近づいてきた。
振り返ると、道の向こうから馬車による長い列が迫ってくる。
俺は、邪魔になっていけないと、道の脇に逸れると、一団が通り過ぎるのを待つ。
御者は、皆筋肉質な男性ばかりで酷くワイルドな服装をしていた。
何というのか、ファンタジーゲームに出てくる商人のオヤジか鍛冶屋のおやっさんといった感じだ。
一人一人差異はあるものの基本的にはその二択に当てはまりそうな格好の者が多い。馬車に檻のようなものが連結されているのを見るに、おそらく彼らは野生動物か何かの狩猟団体なのかもしれない。
一団は、割とゆっくりとしたペースで馬車を走らせており、俺の前で突然停車した。
先頭の馬車から御者の男が降りてくる。
「お嬢ちゃん。どうしたよ? こんなところで」
「いや、まって。俺男です」
すかさず訂正を入れる俺に、男は僅かに首をかしげる。
「は? 嘘抜かしてんじゃねーよ。それよか、どうしたよその血」
「あー、これですか? うーん。わかんないですけど、とりあえず大丈夫です。あと、男です」
確かに色白で華奢な上に、線が細く瞳の大きい俺は女子っぽい外見だと思う。しかしだな。制服見ればわかるだろ。穴空いてるけど、学ラン着てるじゃんか……。
内心でそうボヤく俺に、男は顎をかく。
「大丈夫ってなぁ。……つーか、どこから来たんだ? 見たことねぇ服装だが」
学ラン見たことないってレアすぎるだろ……。
その瞬間、俺はふと脳裏で恐ろしい発想に行き着き凍り付く。
見たことのない景色、三つの月、このご時世に馬車を使う、学ランを知らない、妙な服装。
まさか……。
俺は考え込むように視線を落とす。
しかし、その直後、男の手が勢いよく俺の腕を掴みグイと引っ張った。
ギョッとして視線を上げると、男はニンマリと笑みを浮かべる。
「お前、なかなか良い値で売れそうだな」
「え……」
×××××
で、どうしてこうなった。
俺は絶望を通り越して、その場に立っている気力すらない状態に陥っていた。
「おい! しっかり立て!!」
唾を吐き散らす売人の振るう鞭が、俺の背を打つ。
何度打たれたことだろうか。
いつしか痛みは鈍り、内部に響く衝撃だけが俺を震わせる。
俺は奴隷商人に売られていた。
あれから七日が経過しているわけだが、未だ俺は買い手も見つからずに商品としての扱いを受け続けている。
俺の腕を掴んだ男はこの商団のリーダーだったようで、俺はあのまま枷をはめられて街の市場で売られているだった。
抵抗しようと考えていたが、商団のメンバー複数人に取り押さえられてはさすがにどうしようもない。
「おいおい。あんまり商品は傷つけんなよ。そいつは見た目が売りなんだからよ」
「わーかってるよ」
商人たちは、そう言って俺を掴むと無造作に道に突き出した。
通行人は、俺を汚物でも見るかのような目で蔑み避けて通る。まるでゴミにでもなったような気分だ。
なぜこうも酷い扱いばかり受けるのか。
苦しみばかりが募るが、その一方でこれは自殺したことへの応報なのかもしれないという考えが脳裏をちらつく。
あと数時間で今日も終わりだ。
夜になれば、少なくとも鞭で打たれることは無い。
しかし、代わりに別の苦しみがあることを思い出した俺は、込み上げてくる吐き気を必死に抑える。
夜になると俺は販売時間が終わると乱暴に檻に押し込まれ、檻の中で待つ別の奴隷たちの欲望の道具にされるのであった。
男女で分けられている奴隷牢において、まるで女子のソレに等しい容姿を持つ俺は彼らの格好の餌食なのだ。
彼らの目は爛々とギラつき、俺は汚されていく。
凌辱されていく己の肉体をただ虚ろな瞳で見つめることしかできない。自身の容姿が憎い。
泣いても叫んでも、助けは来ない。
ただただ痛みの時間が続く。
欲望を満たした彼らは、俺を放り出し各々檻の隅へと戻っていき、間もなく寝息を立てる。
そんな七日間だった。
俺は道端に突き出されたまま、抜け殻の様にぼんやりと世界を眺める。
あれからわかったのは、とにかく今いる世界が俺の知っている地球ではないということ。
いわゆる異世界である。
世界観的には、ありがちなファンタジー世界で、中世ヨーロッパのような雰囲気が漂っている。通行人を観察していたところ、騎士もいれば魔法使いもいた。ちょくちょく魔法を使っている場面も目撃している。
……ラノベのようなことって無いんだなぁ。
ありがちな異世界モノでは、この時点で既に自分だけに与えられた特別な能力に目覚めていたりして、可愛いヒロインを連れて冒険の旅に出ている頃である。
一方俺は、どうだろう。
奴隷にされて痛めつけられて、男に喰われて……。特別な能力どころか、自由すらない。
どんだけ作者たちは、幻想見てたんだよ……。
というか、おかしいよな。
なんでニートとか引きこもりとか、前の世界ですらまともに生きていけなかった連中が、こんなに厳しい世界で一発逆転できちゃうの? ありえねぇだろ!
自分で言うのもなんだけど、俺って前の世界ではかなり頑張ってたからな?
親父が親父だから、人にとやかく言われないように学年トップの成績は維持していたし、地域でトップクラスのエリート高校にも入り、次の春には奨学金で国立大学に行くことが決まってる。定期的に地域ボランティアとか、学校推奨の課外活動だってやっていた。
自分の糧になることはなんだってやった。将来自分が親父の様にならないために、世間に見下されないために。なのに……。
焦点の定まらないぼやけた視界が、俺の世界を歪ませる。
「……これじゃぁ。ただの無力じゃないか」
軋む全身を引きずり、俺はゆっくりと振り返る。
俺の視線の先には、奴隷商の一団と、鞭を構えた売人。檻の周りには、男女様々な奴隷たち。
せめて……自由であれば。
そう思った時だった。
――――なら、覆せばいい――――
不意に脳内に、聞いたことのない。それでいてどこか懐かしい言葉が響く。
瞬間的な出来事に、考える間もなく俺の声にある声が飛び込んできた。
《うーん。予想以上に愉快なものよのぉ》
突然に世界から色が消え、人々がその場に静止する。
時間が止まっているのか?
俺は、突然のことに動揺し周囲をキョロキョロと見回した。
《時間を止めたわけではない。そなたの時間感覚を引き伸ばしただけよ》
再び響いた声に、俺は街道を行く人々の方を見る。
「どういうこと?」
俺の疑問に、声は答える。
《お主の感じる時間を極限まで伸ばした結果、今この0.1秒という時間が、お主の感覚で最大で五時間ほどの時間になっているということだ》
「……魔法か?」
《まぁ、魔法と言えば魔法だが、そうでもないとも言える》
「どこから、見ている? 何がしたい」
あくまで食えない物言いに俺はだんだん苛立ち始める。何故直接接触してこないのだろうか。
ここ一週間の過度なストレスもあり、俺は露骨なまでに声を荒げてしまう。
《そう苛立つな。我はお前に興味があるのだ。……しかし、以外にも落ち着いているのだな。まぁ、それくらいでなくては面白くない》
声は、そこまで言ってクスクスと笑い出す。
その直後、人ごみの中から霧のようなものが湧きだしたかと思うと、俺の目の前で収束し俺と同い年くらいの女の子が現れた。
黒と紫を織り交ぜた色彩のドレスを纏い、驚くほど透き通った白い肌に深紅の瞳、暗い赤色のロングヘア―は鮮やかでそれらの美しさを際立たせている。
「誰?」
俺の怪訝そうな表情に、彼女はズイと俺に詰め寄る。
舐めるような視線で俺を上目遣いで眺めた彼女は、小さく微笑む。
《我は、忌み畏れられる世界四大魔女が一人リフリア。異世界人と言うのは、珍しくてのぉ。お主を玩具にでもして愛でようと考えたわけだ》
彼女はそう言って俺の頬に手を添える。
すかさずその手を払った俺は、彼女から数歩後ずさり眉間にしわを寄せた。
「今更、魔女に驚いたりはしねーが、玩具になる気はないね。どう考えても危ない匂いがする。しかも、聞く限りお前ぶっちぎりでヤバい奴だろ」
俺の警戒した態度に、魔女は冷ややかな目を向けてくる。
《まぁ、その通りだな。危ない匂いがするというのも正しい。ただ、拒否したところでもう遅いのだがな》
刹那。
両手の甲が物凄い熱を帯びて痛み出す。
「なっ!? 何を!!?」
苦しむ俺を眺め、リフリアはとても満足そうな表情を浮かべる。
《それは呪い。あの草原で貴様を見つけた時に埋め込んでおいたのだが、ようやく動き出したか》
見ると、熱を帯びる両手の甲にそれぞれ模様の違う青い刻印が浮かび上がる。
「何をっ! …………仕込んだっ!?」
気が遠くなりそうな激痛の中で、俺はリフリアを睨みつける。
リフリアは、嬉しそうに解説を始めた。
《それは「不死の呪い」と「平穏無縁の呪い」。前者は貴様が自害できぬように施したもので、どんな傷も瞬く間に再生する。例えバラバラにされようとも再生し決して死ぬことはできぬ呪いだ。そして、後者だが、あらゆる不幸をその身に集める呪いだ。我は、他人の不幸を見るのがとても愉快でならぬ。まして、貴様のような美男子の不幸ともなると、それはそれは甘美なものよ》
「テメェ!!!」
痛みを必死でこらえた俺は、枷をはめられた両腕を振り上げる。
《無駄なこと。その二つの呪いにはあと二つの効果を付与してある》
そう言って楽しそうに笑う彼女に、俺は枷を振り下ろす。しかし、枷は彼女をすり抜けて空を切る。
《無駄なことだと言っただろう。この二つの呪いは特別でのぅ。呪いを付与した時点で貴様と私は二人で一つ。我が貴様に直接手を下せぬ代わりに、貴様もまた我に危害を加えることはできぬ》
「無茶苦茶な……」
すると、不意に熱を帯びていた両腕から黒い煙のようなものがあふれ出す。
「……な、なんだ?」
《あぁ。言い忘れておった。その痛みと熱が出ているときは、我が付与したもう一つの効果が表れている時なのだ。…………その効果は――――――》
次の瞬間、真黒な煙が一気にあふれ出し世界を包んだ。
「うぉああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
×××××
世界が色を取り戻す。
時間は元通り動き出した。
しかし、俺の目に映る世界は大きく変わっていた。
何もない。
文字通り何もない真黒な塵だけが存在する世界が、そこにはあった。
さきほどまで人であったそれらは、そよそよと吹く風に崩れ去り流されて遥かに。
俺は、目を見開き身震いした。
「こ、これは……」
《見ての通り。お前に与えられた力よ》
「……そんなことは、わかってる。これは……これは! なんだって聞いてんだよっ!!」
俺は叫び、自らの周囲に広がる浅いクレーターと、それを中心に灰となった奴隷商人や通行人たちの骸を見回した。
灰の中で服の裾一つ乱さぬリフリアは、己の唇に指を添えると薄く口角を吊り上げる。
《これは、貴様が内に抱く負の感情を一定量蓄積することで、死の風として発散する能力。いやぁ。それにしても予想以上の威力よのぅ。この一週間が、相当こたえたと見える》
俺は、その場に膝をつきうな垂れた。
ただ痛みを受け続け、堪えることもゆるされず、それでいて死すこともできない。
なんで……こんなことを。
俺は、渇く。
希望も絶望も無い。ただ、先の見えない闇の中に取り残された気分だ。
何も見えない。何もわからない。
俺は何もわからないまま、その闇に己を委ねようとした。
しかし、
――――なら、覆せばいい――――
俺は目を見開いた。
不意に立ち上がった俺に、リフリアがピクリと反応したのが分かる。
何故かはわからない。ただ、立ち止まってはならないと感じた。それは魂の奥にある何かが、反射したかのように。まるで、これまでくすぶっていただけの願いが、強い願望へと変わるような。そんな感覚だった。
《……どうした》
リフリアが、何か良からぬものを感じ取った様子で、俺に鋭い視線を向ける。
俺は、フゥと息を吐く。
「どうもしねぇよ。ただ、決めたんだ――――」
そう言った俺は、リフリアに向かい合うと真っすぐにその紅の瞳を見つめた。
「――今を覆すってな」
その言葉を聞いた途端、魔女の目が僅かに震えるのが分かる。
俺は続けた。
「誰かのためでも世界のためでもない。純粋に俺が生きていくために、今を覆す。お前がどんな呪いをかけようと、どんな不幸が降りかかろうと、覆してやる。それが、俺にとってのこの世界での冒険だ」
リフリアは俺の発言にしばしの沈黙を貫く。しかし、すぐさま酷く怒りの籠った暗い表情になると、低い声で言った。
《ほぅ……。精々我を興じさせるがいい》
こうして、俺の異世界での冒険がはじまった。
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