あなたが居なくなった後

瀬崎由美

文字の大きさ
上 下
30 / 38

第三十話・会計士見習い3

しおりを挟む
 普段と同じ時間にオフィスへと出勤してきた優香は、まず最初に簡易キッチンで電気ケトルへ水を入れることから始める。いつもそうしている内に、ほどなくして宏樹がやってくる。
 二人分のカップにインスタントの粉末を入れて、湧いたばかりのお湯を注げば、オフィス内にコーヒーの香りがふんわりと漂い始める。朝のコーヒーは始業の合図。特に好きな訳じゃないけど、一度は嗅が無いとどうも気合いが入りきらない。香ばしい匂いは子育てモードと仕事モードとの切り替えスイッチのようなものだ。

 しばらくの間、コーヒーカップ片手に宏樹と何とはなく雑談していると、入り口のインターフォンを鳴らして吉沢も出勤してくる。今日からは元のオフィスには顔を出さず、こちらへ直行してくることになっていた。

「おはようございます」

 カップを持ったまま立ち上がって開錠しに行った宏樹が、入り口前で少し驚いた表情を浮かべる。何だろうと首を伸ばして振り向いた優香も、「ん?」という顔になった。まだ昨日の今日だから、二人とも違和感は感じたものの吉沢の変化をすぐには見抜けない。人の記憶というものは意外とあてにならない。先に気付いたのは優香の方だった。

「あ、眼鏡が無い! 今日はコンタクトにしたんだ?」
「はい。普段はコンタクトなんですけど、昨日はストックが切れて取り寄せ中だったんで」
「ああ、こっちが通常なのか?」
「そうですね」

 分厚いレンズの眼鏡が無くなると、妙にあか抜けて見え別人のようだ。元々から童顔タイプなこともあり、真新しいスーツと相まって、ますます就活中の学生に見えてくる。

「コンタクトって割とすぐ買えるものじゃないのか?」
「一般的な度数ならそうみたいですけど、自分は視力悪すぎるんで、いつも取り寄せになるんです」

 そこまで悪いと眼鏡の方が楽なんじゃないかと思ったが、レンズに厚みが出る分いろいろと不便なのらしい。確かに昨日掛けていた眼鏡のレンズは相当ぶ厚くて重そうに見えた。ノンフレームタイプだったのは、あの厚みが収まるフレームが無いかららしい。優香も宏樹も視力だけは良いから「なんか大変なんだねぇ」と言うより他なかい。

 自分用の席に着くと、吉沢は鞄の中から取り出したスマホやペットボトルをデスクの上へ置いていく。前日には彼にも休憩の時に勧めてみたが、コーヒーは飲めないと断られてしまった。そう言えば昨日も同じ銘柄のエナジードリンクをビル1階の自販機へ買いに行っていた気がする。

 さらに鞄にゴソゴソと手を突っ込んでいた吉沢が、中からA5サイズの本を数冊取り出し、それを向かいにいる優香へとデスク越しに渡してきた。

「昨日言ってた参考書とかです。自分はもう要らないんで。あ、特に書き込みとかは無いとは思うんですけど――」
「え、ありがとう。本当に貰っちゃってもいいの?」

 彼が学生時代に簿記を勉強する際に使っていたという解説本と問題集などだ。検定3級用の入門書的な物ばかりで、今の優香のレベルには丁度良いらしい。吉沢は「ハイ」と頷くと、その後すぐになぜか顔を隠すようにデスクの上のノートPCを開いた。
 モニターの陰になって優香からは分からなかったが、向かい合う二人を真横で見る位置にある宏樹のデスクからは、新人のその照れた表情はよく確認できた。

 その日は午前中から顧客の訪問がやけに多かった。決算を控えての相談予約が重なったこともあり、宏樹の姿はパーテーションの向こうからなかなか出て来ない。午前最後の顧客をエレベーターホールまで見送り戻ってきた宏樹が、ようやくひと段落したとふぅっと長い息を吐く。そして、優香と分担しながら事務作業を続けていた吉沢に向かって声を掛ける。

「確か、吉沢君はコンサルを中心にやりたいんだよね? なら、次は同席してくれてもいいよ」
「はい。お願いします」

 前オフィスからの申し送りによれば、吉沢は税務処理ではなくコンサルタント業務がやりたいと会計士を目指しているということだ。だから、事業拡大の相談に来る予定の次の顧客は丁度いいと、宏樹が誘いかけた。ここでは一般的な事務仕事くらいしかさせて貰えないと思っていたから、吉沢はぱぁっと表情を明るくする。まだ無資格の内にコンサルの場に立ち会わせて貰えるとは思ってもみなかったのだ。

「……べったりと一緒に居られても困るからね」

 誰にも聞こえないよう、宏樹がぼそっと呟く。義姉には全く自覚が無いみたいだから、心配事が絶えることがない。たった半日一緒に居ただけなのに、どう見ても吉沢が優香に対して好意を持ち始めているのだから。

 ――参ったな……。

 パーテーションの向こうが気になって、どうにも仕事にならない。だから吉沢を自分の傍に置いておくのが安心だと考えた。先輩会計士からは特に何かを指導するよう頼まれてはいないけれど、吉沢本人は喜んでいるみたいだし丁度いい。宏樹は大人げないし姑息だなと自分自身のことを鼻先でふっと呆れ笑った。

 だからと言って、ようやくチャンスが訪れてきたと思ったら、横から別の誰かにかっさわれるなんて勘弁だ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

消えた記憶

詩織
恋愛
交通事故で一部の記憶がなくなった彩芽。大事な旦那さんの記憶が全くない。

ハイスペックでヤバい同期

衣更月
恋愛
イケメン御曹司が子会社に入社してきた。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

口は禍の元・・・後悔する王様は王妃様を口説く

ひとみん
恋愛
王命で王太子アルヴィンとの結婚が決まってしまった美しいフィオナ。 逃走すら許さない周囲の鉄壁の護りに諦めた彼女は、偶然王太子の会話を聞いてしまう。 「跡継ぎができれば離縁してもかまわないだろう」「互いの不貞でも理由にすればいい」 誰がこんな奴とやってけるかっ!と怒り炸裂のフィオナ。子供が出来たら即離婚を胸に王太子に言い放った。 「必要最低限の夫婦生活で済ませたいと思います」 だが一目見てフィオナに惚れてしまったアルヴィン。 妻が初恋で絶対に別れたくない夫と、こんなクズ夫とすぐに別れたい妻とのすれ違いラブストーリー。 ご都合主義満載です!

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈

玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳 大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。 でも、これはただのお見合いではないらしい。 初出はエブリスタ様にて。 また番外編を追加する予定です。 シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。 表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。

処理中です...