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第十七話・痴話喧嘩2
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優香からの問いかけに、葵は両手で包み込むように持つペットボトルをじっと見つめている。そして、またもう一度深い溜め息を吐いた。
「彼氏と結婚の話になったんだけどさ、向こうはまだ先でいいって言うんだよね。あれ絶対に、これまで結婚なんて考えたこと無かったんだよ」
「付き合って何年だっけ?」
「もうすぐ4年。一緒に住むようになってからは来月で2年になるかな。同棲する気があるなら結婚も考えてくれてると思うでしょ、普通は……」
葵も優香と同じで今年で28歳になる。周りに既婚者が増えて、結婚適齢期を強く意識し始める年齢。彼女が付き合っている男性のことはそこまでよくは知らないが、二つ上だから今年で30歳になるはずだ。夜勤もあって生活時間が不規則なSE職だと聞いた記憶がある。
「まだ先って、具体的にどのくらいで考えてるか確かめた?」
「うん。私が30過ぎてからでいいって言われた。高齢出産になるのは35歳からだから、それまでに籍入れて子供を作ったら平気だろって……」
彼は後3年は今の生活を続けていきたいのだという。この3年を葵は長いと感じたから家を出て来た。3年もあれば新しい出会いもあるかもしれないし、今の相手に固執する必要もない。
高齢出産と聞いて優香は真っ先に義姉の梨乃のことを頭に思い浮かべた。妊活を始めても思うように妊娠することが出来ず、焦りから平静を失いつつある義姉。望めば誰もが簡単に子供を授かる訳でもないことを、葵の彼氏に教えてあげたいくらいだ。
「別に式とか新婚旅行がしたいとかって訳じゃないんだよね。子供だって別にそこまで欲しいとは思ってないけど、産むなら少しでも若い内にって思っただけだし」
「葵はすぐにでも籍入れたいんだ?」
「……それがさ、実はそうでもないんだよね」
「え、違うの?」
葵の返答に優香は頭が混乱しそうになる。すぐに入籍したい葵と、そうじゃない彼氏とが揉めた結果の家出だと思っていたのだから。貰った麦茶のキャップを捻り、優香はごくごくと喉を鳴らして一気に半分近くを飲み干した。恋人同士の痴話喧嘩をいちいち理解しようとするのが間違ってるのかもという気がしてきた。基本的には感情論なんだから、一般論とか常識とかそういうものでは説明しようがないのだ。
「だってね、何年も付き合ってるのに一度も籍入れることを考えたことが無かったっていうのが腹立たない? 籍は入れなくても私が離れていかないっていう、その自惚れた考え方にイライラするっていうか――」
勿論、入籍しても後で離婚することになるかもしれない。でも、戸籍で繋ぎ止めたい、公に仲を認めさせたいという気持ちが相手に無かったのが、葵には不満だった。結婚願望うんぬんの話の前に、相手との気持ちに温度差があったことがショックだった。
「あー、下手に同棲なんかするからズルズルしちゃってるんだよね、きっと。優香達みたいに結婚するまで一緒に住まないのが正解だったのかなぁ。でもなぁ……」
少しでも長い時間を一緒に居たいからと、葵が少し広いマンションへ引っ越した時のことを思い出す。毎日、嬉しそうに帰宅していく同僚は、昼休みには夕ご飯用のレシピの検索に余念が無かった。あの幸せそうな日々を知っているからこそ、目の前で愚痴り続ける友人の姿がバカバカしく思えてくる。愚痴を聞かされているはずが、惚気られている気分になってくる。
久しぶりの夜更かしに、優香は漏れそうになった欠伸を噛み殺す。
「うちには、気が済むまで居てくれていいよ。二階の空いてる部屋にお布団用意しておくね。タオル類は洗面所の棚に入ってるから、勝手に使って。お風呂、入るでしょ?」
「ごめんねー」と申し訳なさそうに言ってから、葵は持って来たスーツケースを開いて着替えなどを探し始める。急いで出て来たという割には、スーツケースの中には余裕で連泊できる量の荷物がぎっしりと詰め込まれているのが見えた。
和室に敷いた布団の上に寝転んで、薄暗い中を優香は天井の壁紙を眺めていた。廊下の向こうからは葵がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。
大輝とは喧嘩らしい喧嘩はしたことが無かった。優香の機嫌が悪くなると、とりあえず何でも先に「ごめん、俺が悪い」と大輝がすぐに謝ってしまうからだ。本当に悪いと思ってない時でも、「優香と険悪になりたくないから、謝って済むなら」という理由で仲直りをしたがる。
根っからの平和主義者で、もめ事を極端に嫌う夫。仏壇に手を合わせに来てくれた人の中からは、大輝が建築現場で職人達と言い合いになった話などを聞かされたけれど、仕事上とはいえ、それすら信じられないくらいに夫はとても穏やかな人だった。
――まともに夫婦喧嘩もできなかったなぁ……。
もし、大輝が死ぬことが無かったら、夫婦としての生活が続いていく内に、大きな喧嘩をしてしまう可能性もあっただろう。子供の教育方針なんかで言い合うことがあったかもしれない。
葵から聞かされる彼氏への愚痴ですら、羨ましいと感じてしまう。腹を立てる相手がいるのは何て幸せなことだろうと。
翌朝、保育園の通園準備をしながら陽太へ朝ご飯を食べさせていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。たまに宏樹が車で迎えに来てくれることはあるが、それにしては時間が早過ぎるなと思いつつ、玄関へと向かう。
「朝早くからすいません。葵がこちらにお邪魔してるって聞いたのですが……」
葵から何度か写真を見せてもらったことがある顔が申し訳なさげに玄関の門扉前で立ち尽くしていた。夜勤明けでそのまま駆け付けて来たらしく、スーツにノーネクタイ姿。徹夜の後で朝日が眩しくて辛いのか、少し目をシバシバさせている。
「ああ、どうぞ入ってください――」
「もうっ、迎えには来なくていいって言ったでしょ!」
出迎えた優香が門扉を開いていると、葵が玄関の中から男性に向かって言う。その声はかなり嬉しそうで弾んでいて、優香は一瞬で彼らが夜のうちに仲直りしたことを知った。
「いや、一緒に帰ろうと思って。葵が居ない家に一人で帰っても仕方ないし」
「ちょっと待ってて。すぐに用意するから」
バタバタと急いで荷物を取りに戻る葵。その慌ただしい姿に、優香は小さく笑う。痴話げんかに巻き込まれるのはほどほどでお願いしたい。
「彼氏と結婚の話になったんだけどさ、向こうはまだ先でいいって言うんだよね。あれ絶対に、これまで結婚なんて考えたこと無かったんだよ」
「付き合って何年だっけ?」
「もうすぐ4年。一緒に住むようになってからは来月で2年になるかな。同棲する気があるなら結婚も考えてくれてると思うでしょ、普通は……」
葵も優香と同じで今年で28歳になる。周りに既婚者が増えて、結婚適齢期を強く意識し始める年齢。彼女が付き合っている男性のことはそこまでよくは知らないが、二つ上だから今年で30歳になるはずだ。夜勤もあって生活時間が不規則なSE職だと聞いた記憶がある。
「まだ先って、具体的にどのくらいで考えてるか確かめた?」
「うん。私が30過ぎてからでいいって言われた。高齢出産になるのは35歳からだから、それまでに籍入れて子供を作ったら平気だろって……」
彼は後3年は今の生活を続けていきたいのだという。この3年を葵は長いと感じたから家を出て来た。3年もあれば新しい出会いもあるかもしれないし、今の相手に固執する必要もない。
高齢出産と聞いて優香は真っ先に義姉の梨乃のことを頭に思い浮かべた。妊活を始めても思うように妊娠することが出来ず、焦りから平静を失いつつある義姉。望めば誰もが簡単に子供を授かる訳でもないことを、葵の彼氏に教えてあげたいくらいだ。
「別に式とか新婚旅行がしたいとかって訳じゃないんだよね。子供だって別にそこまで欲しいとは思ってないけど、産むなら少しでも若い内にって思っただけだし」
「葵はすぐにでも籍入れたいんだ?」
「……それがさ、実はそうでもないんだよね」
「え、違うの?」
葵の返答に優香は頭が混乱しそうになる。すぐに入籍したい葵と、そうじゃない彼氏とが揉めた結果の家出だと思っていたのだから。貰った麦茶のキャップを捻り、優香はごくごくと喉を鳴らして一気に半分近くを飲み干した。恋人同士の痴話喧嘩をいちいち理解しようとするのが間違ってるのかもという気がしてきた。基本的には感情論なんだから、一般論とか常識とかそういうものでは説明しようがないのだ。
「だってね、何年も付き合ってるのに一度も籍入れることを考えたことが無かったっていうのが腹立たない? 籍は入れなくても私が離れていかないっていう、その自惚れた考え方にイライラするっていうか――」
勿論、入籍しても後で離婚することになるかもしれない。でも、戸籍で繋ぎ止めたい、公に仲を認めさせたいという気持ちが相手に無かったのが、葵には不満だった。結婚願望うんぬんの話の前に、相手との気持ちに温度差があったことがショックだった。
「あー、下手に同棲なんかするからズルズルしちゃってるんだよね、きっと。優香達みたいに結婚するまで一緒に住まないのが正解だったのかなぁ。でもなぁ……」
少しでも長い時間を一緒に居たいからと、葵が少し広いマンションへ引っ越した時のことを思い出す。毎日、嬉しそうに帰宅していく同僚は、昼休みには夕ご飯用のレシピの検索に余念が無かった。あの幸せそうな日々を知っているからこそ、目の前で愚痴り続ける友人の姿がバカバカしく思えてくる。愚痴を聞かされているはずが、惚気られている気分になってくる。
久しぶりの夜更かしに、優香は漏れそうになった欠伸を噛み殺す。
「うちには、気が済むまで居てくれていいよ。二階の空いてる部屋にお布団用意しておくね。タオル類は洗面所の棚に入ってるから、勝手に使って。お風呂、入るでしょ?」
「ごめんねー」と申し訳なさそうに言ってから、葵は持って来たスーツケースを開いて着替えなどを探し始める。急いで出て来たという割には、スーツケースの中には余裕で連泊できる量の荷物がぎっしりと詰め込まれているのが見えた。
和室に敷いた布団の上に寝転んで、薄暗い中を優香は天井の壁紙を眺めていた。廊下の向こうからは葵がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。
大輝とは喧嘩らしい喧嘩はしたことが無かった。優香の機嫌が悪くなると、とりあえず何でも先に「ごめん、俺が悪い」と大輝がすぐに謝ってしまうからだ。本当に悪いと思ってない時でも、「優香と険悪になりたくないから、謝って済むなら」という理由で仲直りをしたがる。
根っからの平和主義者で、もめ事を極端に嫌う夫。仏壇に手を合わせに来てくれた人の中からは、大輝が建築現場で職人達と言い合いになった話などを聞かされたけれど、仕事上とはいえ、それすら信じられないくらいに夫はとても穏やかな人だった。
――まともに夫婦喧嘩もできなかったなぁ……。
もし、大輝が死ぬことが無かったら、夫婦としての生活が続いていく内に、大きな喧嘩をしてしまう可能性もあっただろう。子供の教育方針なんかで言い合うことがあったかもしれない。
葵から聞かされる彼氏への愚痴ですら、羨ましいと感じてしまう。腹を立てる相手がいるのは何て幸せなことだろうと。
翌朝、保育園の通園準備をしながら陽太へ朝ご飯を食べさせていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。たまに宏樹が車で迎えに来てくれることはあるが、それにしては時間が早過ぎるなと思いつつ、玄関へと向かう。
「朝早くからすいません。葵がこちらにお邪魔してるって聞いたのですが……」
葵から何度か写真を見せてもらったことがある顔が申し訳なさげに玄関の門扉前で立ち尽くしていた。夜勤明けでそのまま駆け付けて来たらしく、スーツにノーネクタイ姿。徹夜の後で朝日が眩しくて辛いのか、少し目をシバシバさせている。
「ああ、どうぞ入ってください――」
「もうっ、迎えには来なくていいって言ったでしょ!」
出迎えた優香が門扉を開いていると、葵が玄関の中から男性に向かって言う。その声はかなり嬉しそうで弾んでいて、優香は一瞬で彼らが夜のうちに仲直りしたことを知った。
「いや、一緒に帰ろうと思って。葵が居ない家に一人で帰っても仕方ないし」
「ちょっと待ってて。すぐに用意するから」
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