あなたが居なくなった後

瀬崎由美

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第十六話・痴話喧嘩

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 陽太がインフルエンザから完全復活し、優香への家庭内感染も無事に回避でき、ようやく仕事に戻れたとホッとしていた頃。
 夜に息子をお風呂に入れた後、哺乳瓶で白湯を飲ませている時、ダイニングテーブルの上に置いていたスマホが静かに着信を告げる。ヴーヴーというバイブレーションだけだから聞き逃してしまうことも多いが、眠っている時に通知などが来て、ようやく眠りかけた子が起こされるという悲劇よりマシだ。鳴るのもメッセージが大半で、急ぎの通話は滅多にないから、産後はずっとマナーモードにしっぱなしだった。

 連続して鳴り響くバイブの音に、陽太を抱きかかえたまま立ち上がる。液晶に表示されているのは、独身時代に勤めていた会社の同僚の名前――福本葵だ。同期入社だった葵とは退職した後もちょくちょく連絡を取り合う仲。

「もしもし?」
「あ、優香? 今、最寄り駅まで来てるんだけど、お家ってここからどう行けばいいんだっけ? 前にお邪魔したことあったから行けると思ったんだけど、何か駅前の雰囲気が微妙に変わってて分かんなくなっちゃってさ」
「えっ、今から? 今日って何か約束してたっけ?」

 電話に出た優香は一瞬だけ自分の記憶を疑った。友人としていた約束をど忘れしていたのかと焦ってしまったが、乳飲み子がいるのにどう考えてもこんな時間帯に予定を入れている訳がない。

「ううん、ごめん。急で申し訳ないんだけど、今日泊めて貰えないかな。訳は着いたら話すから。――で、駅からはどう行けばいいの?」 

 思いついたら即行動に移すタイプの友人は、電話口から道案内を求めてくる。以前に来た時は昼間だったから、今は目印にしていたものが見当たらないのだと。
 少しだけ遠回りにはなるが一番説明しやすい道順で伝えると、「ほんと、ごめんね」と言ってから葵が電話を切る。迷わなければ15分もかからないはずなので、優香はいつでも子供を寝かしつけられるよう、その間に和室へと子供布団を敷き始める。

「ほんと、ごめん! 他に泊めて貰えそうなアテが思いつかなくって……」
「で、何があったの?」

 スーツケースを引きながらやって来た葵をリビングへ通して、優香が小声で聞き返す。待っている間に眠ってしまった陽太は襖を半分だけ閉めた和室で、スヤスヤと小さな寝息を立てている。

「えっと、彼氏と喧嘩して、家出して来たっていうか……」
「あー……」
「1LDKだとさ、家に居ても気まずいし。向こうが夜勤に出てった隙に荷物まとめてみたんだけど、意外と行くアテが無くって」

 ネカフェとかビジネスホテルも考えたんだけど、そこまで財布に余裕無くってと恥ずかしそうに笑う。一人暮らしの他の友達のところも考えたみたいだけれど、仕事が忙しいとか、布団が無いと断られてしまったらしい。

「ほら、優香ん家なら一軒家だし、うちの会社からも近いしね。あ、勿論、お世話になってる間は家事も手伝わせてもらうつもりでいるから」

 どうも話を聞いている限り、今晩一泊だけのつもりではなさそうだ。長く居候する気満々の葵に、優香は呆れを通り越して感心すらしてしまう。

「うちは別に構わないよ。陽太と二人だけだし」

 普段、家に居る間は陽太を相手に独り言のように喋るだけだ。こうやって葵を相手にしていると、なんだか久しぶりに人とまともに話している気分になる。特に、夫が亡くなってからは、気を使ってくれているのか友人知人の大半から距離を置かれてしまっているから。

 結婚後は独身の友達と会う機会は一気に減り、既婚の知り合いも子供の有無で連絡の頻度が変わった。どうしても同じ立場の者同士で会う方が楽だし、共通の話題も多いから。

 その、同じ主婦目線で話が出来ていた友人達も、優香が未亡人になった後には疎遠になりつつあった。優香の前では夫の愚痴を口にしづらいとでも思われているのだろうか。完全に腫れ物扱いだ。だから今、優香はどの友人グループにも属せないでいた。どこにいてもどこか浮いてしまい、居心地が悪い。

 その点、葵は独身の時も結婚後も変わらず連絡をくれる貴重な存在だ。結婚した後も、子供を産んだ後も、そして、夫を亡くして未亡人になってしまった後も。葵からの距離が変わることはなかった。今も昔もずっと元同僚の友人として接してくれる。

 その時、二人の話し声に起きかけたのか、陽太が短く泣き声を上げる。と、息子の元へそっと駆け寄って、優香は布団の上から優しくトントンと叩いて寝かしつける。その姿をソファーから眺めながら、葵が感心したように言う。

「へー、優香もしっかりママしてるんだねー」

 その言い方が少し寂しそうに思えて、優香は聞き返す。

「彼氏との喧嘩って、何が原因なの?」
「んー、何が原因なんだろ……今回はお互いにいろいろ言い合ったからねー」

 少し考えながら、来る時に買って来たというコンビニのビニール袋の中に手を突っ込んで、ペットボトルを二本取り出す。優香の分と差し出された麦茶を受け取りながら、葵の向かいに腰かけて、友人が話し始めるのを黙って待った。

 葵は自分用のジャスミン茶のキャップを捻って一口飲むと、ハァと大きな溜め息を吐く。一緒に働いている時も彼女はいつもジャスミン茶を好んで飲んでいた。優香はあの独特の癖のある香りは苦手だったが、それを言うと必ず「パクチーを食べれる人に言われたくないなー」と言い返された。パクチーとジャスミンの香りを比べるところがよく分からない。
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