あなたが居なくなった後

瀬崎由美

文字の大きさ
上 下
12 / 38

第十二話・義姉の梨乃

しおりを挟む
「そう言えば梨乃さんから、優香にまだ同居する気があるか聞いておいてって言われてたのよね」

 自宅建て替え中の仮住まいのアパートが落ち着かないと、頻繁に遊びに来るようになった母が、孫のオムツ替え中の娘へ、思い出したように言う。ソファーに腰かけながら飲んでいるコーヒーは、来て早々に自分で棚から粉を取り出して淹れていた。パッケージを見てカフェインレスの表記があるのを、ちょっとがっかりした顔をしていた。通い慣れた娘の家ともなると、セルフサービスが当たり前。「相変わらずだらしないわねぇ」という小言付きだったが、シンクに置きっ放しになっていた洗い物までついでに片付けてくれていたのはありがたい。

 兄嫁である梨乃は、シングルマザーになったばかりの優香が実家へと助けを求めた時に、同居するなら二世帯住宅の建て替え費の半分を出せと迫って来た。元々はそんなことを意地悪で言うような人ではなかったが、どうも不妊治療中の梨乃には陽太の存在は地雷になっているらしい。以来、お互いの為にもと顔を合わせないようにしていた。

「お義姉さん、あれって本気で言ってたんだ……」
「不妊治療って保険が効かないらしいのよね。市からの補助も少しはあるみたいだけど、上限も年齢制限もあるし。それなのに昭仁の会社が、次のボーナスは出るかどうか微妙だって嘆いてたわ」

 夫婦双方に明確な原因が見つかった訳でもないのに、何度試しても上手くいかない。それは跡継ぎを産まないといけないと思い込んでいる長男の嫁にとって、相当なプレッシャーになっているのだろう。梨乃は昭仁よりも年上だから、35歳の高齢出産のボーダーラインまでは残り数年しかない。若い嫁じゃないからと批難されるのを恐れ、必要以上に責任を感じているのだという。

 口コミで聞いたという不妊治療で有名なクリニックへは、電車を乗り継いで一時間半ほどかかる。時には注射一本を打つためだけにもその距離を通い続けているらしい。治療費、交通費ともに、家計にとっては膨大な負担になっている。なのに、毎月の生理周期に合わせて通院日が変動するから、それまで勤めていたパートの仕事は続けられなくなった。子供を授かりたい一心で、梨乃はいろんなものを犠牲にして頑張っているのだ。サプリメントや針治療など、妊活に良いを言われるものを片っ端から試して回り、妊活に関する体験ブログを読み漁る日々。心も体も限界寸前みたいだ。

 初めは基礎体温表を持ってタイミングを相談していただけだったのが、夫婦共にあらゆる検査を受けた上での人工受精、体外受精へとステップアップしていき、ついに先月には顕微授精の説明を受けたのだという。高度で精密な治療になればなるほど、その費用は大きくなり、家計を圧迫していく。金銭的な理由で治療を途中で断念してしまう夫婦も少なくないはずだ。お金と年齢のどちらかが限界になるまで、諦めるタイミングを決断するのは難しい。

 優香自身は結婚してすぐに息子を授かることができたが、通っていた産院でも基礎体温表を持って通ってくる不妊治療中の女性を沢山見かけた。大きくなっていく優香達妊婦のお腹を物悲しい眼で見ていた彼女らの姿が、義姉の梨乃と重なる。

「梨乃さんの独身時代の貯金は全部使い切っちゃったらしいわ。最初はね、その範囲内で止めようって言ってたらしいんだけど、もうここまで来たらって歯止めが効かなくなってるのよ」

 だから住宅ローンの肩代わりを提案してきたのかと、優香は納得する。プライドの高そうな梨乃が、義理の妹へ金銭をたかるような発言をすることに心底驚いていた。以前の彼女なら、そんなことは決して言わなかったはずだ。それほどに兄嫁は追い詰められているのだ。まさか、と思って優香は母に確認する。

「ねえ、お母さん達からは、余計なこと言ってない?」
「言わないわよ。薬の副作用で卵巣が腫れたとか、吐き気が酷くてしばらく寝込んでたとか、いろいろ聞かされてるもの。梨乃さんの身体のこともちゃんと心配して、無理強いはしてないわ」
「本当に?」
「だって可哀そうだもの。陽太がいるから、孫のことは気にしないでっていつも言ってあげてるわ」
「もうっ、それは一番言っちゃいけないやつ!!」
「えーっ、そうなの?」

 嫁に子供がいなくても娘の子供がいるから十分。そんなことを言われて、嬉しい訳がない。兄嫁の妊活にプレッシャーを一番与えているのは、姑からのデリカシーの無い発言なのは明らか。自分が掛けた言葉が嫁を追い詰めている自覚が無かったらしく、それを指摘されて母は少しむくれている。
 優香は呆れを含んだ大きな溜め息を吐く。梨乃が必要以上に優香と陽太のことを敵視してくる理由が分かった。こんな状況で同居なんて絶対にありえない。

 母には不妊で苦しんでいる嫁の気持ちは一生分からないのだろう。自分が安産で二人の子供を二歳違いで産んだからと、30時間近く陣痛で苦しんでやっと初産を終えたばかりの優香に対して「で、二人目はいつ頃の計画なの?」と産院で平然と聞いてくるような無神経な母親なのだから。
 何を言っても無駄だと、優香は苦笑いを浮かべながら伝えた。

「私の方はもう落ち着いたから、同居させて貰わなくても平気って言っておいて」

 替えたばかりのオムツを専用のゴミ箱に捨ててから、キッチンの流しでさっと手を洗い終えると、母が多めに淹れておいてくれたコーヒーを自分専用のマグカップに注ぎ入れる。
 母の失言で義姉がこれ以上傷つくことがないようにと願いながら、既に冷め切ってしまっているコーヒーに牛乳を多めに足してから口に含んだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

口は禍の元・・・後悔する王様は王妃様を口説く

ひとみん
恋愛
王命で王太子アルヴィンとの結婚が決まってしまった美しいフィオナ。 逃走すら許さない周囲の鉄壁の護りに諦めた彼女は、偶然王太子の会話を聞いてしまう。 「跡継ぎができれば離縁してもかまわないだろう」「互いの不貞でも理由にすればいい」 誰がこんな奴とやってけるかっ!と怒り炸裂のフィオナ。子供が出来たら即離婚を胸に王太子に言い放った。 「必要最低限の夫婦生活で済ませたいと思います」 だが一目見てフィオナに惚れてしまったアルヴィン。 妻が初恋で絶対に別れたくない夫と、こんなクズ夫とすぐに別れたい妻とのすれ違いラブストーリー。 ご都合主義満載です!

消えた記憶

詩織
恋愛
交通事故で一部の記憶がなくなった彩芽。大事な旦那さんの記憶が全くない。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

ハイスペックでヤバい同期

衣更月
恋愛
イケメン御曹司が子会社に入社してきた。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

逢いたくて逢えない先に...

詩織
恋愛
逢いたくて逢えない。 遠距離恋愛は覚悟してたけど、やっぱり寂しい。 そこ先に待ってたものは…

処理中です...