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第九話・停電
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まだ幼い子供がいると、しんみりと悲しみに浸っている暇もない。大人は同じ毎日を単調に繰り返しているつもりでも、子供の時間は昨日より今日、今日より明日と驚くほどの速度でアップデートされていく。
ついこないだ寝返りを打てるようになったと思っていた孫が、久しぶり会いに来たら一人で座って赤ちゃん煎餅をかじっているのだから、驚くのも当然だ。
「あらあら、美味しそうな物を食べてるのねぇ」
ヨダレまみれの口元をガーゼで拭ってもらいながら、陽太は祖母の顔を不思議そうに見上げている。早くから保育園に入れているせいか、それとも大らかな性格だった父親似なのか、陽太は人見知りが少ない。好き勝手に抱き上げられても、されるがままだ。
窓の外を見れば、まだ昼過ぎなのに暗くなり始めている。不穏な灰色の空は心細さを感じさせる。耳を澄ませると遠くの方で雷が鳴っている音も聞こえてくる。雨もポツポツと振り始め、これからの本降りを予感させていた。
「外、結構ゴロゴロ言い出してるけど、平気?」
「本当ねぇ、真っ暗になってきたわね。お天気が崩れない内に、帰らせてもらおうかしら」
「夕方から台風並みの悪天候だって……大丈夫かなぁ」
スマホの天気予報アプリで確認してから、優香は冷蔵庫の中の在庫を頭に思い浮かべる。たった一晩で過ぎると分かっていても、十分なストックが無いと不安になるのが人間の心理。
「じゃあね、陽ちゃん。お婆ちゃん、またすぐに来るから、良い子にしてるのよ」
孫との別れを惜しみつつ、バタバタと忙しなく帰っていく母親を、優香は玄関先で見送った。「今日は家にいる?」と朝早くに電話が掛かってきて、昼前に手作り総菜を持参して様子を見に来てくれた母は、実家の建て直しの日が決まったことを伝えに来た。
「二階の部屋に置きっぱなしになってる荷物、処分しちゃってもいいかしら? 要る物があれば取りにいらっしゃい」
優香が独身の頃に使っていた部屋の押し入れに、まだ私物が残っていたのだという。そう言われても、必要な物は全て結婚する際に持ち出してきてるので、おそらくは捨てられなかったけど要らない物ばかりだ。今更そんなガラクタは必要ないと、「捨てておいて」とお願いしておいた。
母が出てすぐくらいだろうか、雨音が急に強くなり始めた。カーテンを閉めても聞こえてくる、地面を叩きつけるような豪雨。徐々に風もきつくなってきたのか、窓ガラスに雨がぶつかる音も響き始めていた。カーテンの隙間から稲光が走るのが見え、数秒後には家が揺れるほどの雷鳴。
カミナリのドーンという音と振動に、歯固めの玩具を口に入れて遊んでいた陽太が、せきを切ったように泣き始める。生まれて初めて聞く大きな音への驚きと、一瞬消えかけた照明に不安を感じたのだろう。手足をバタつかせて心細い気持ちを必死で訴えている。
「だーいじょうぶ。ママもいるから、怖くない。怖くない」
抱き上げてあげると、優香のブラウスを小さな手できゅっと握りしめてくる。涙と鼻水でぐじゅぐじゅになった顔を母親の胸に押し付けて、怖かったことを全身を使って伝えているようだった。
子供には大丈夫と言い聞かせながらも、繰り返し点滅し続けている電気が、いつ消えてしまうのかと優香も不安になっていた。子供を抱いたままリビングを出て廊下の収納を覗き込み、ちょっと使い古した黒色のリュックを取り出す。そのリュックの中身は用意周到な夫が常備してくれていた防災用品がいろいろ詰め込まれている。そこから懐中電灯を選ぶと、スイッチを入れてみて、まだ電池があるかを確かめる。
まさかこれを使う日が来るとはなぁと苦笑いしながら、優香は夫がこれらを買い集めて来た時のことを思い出していた。
「万が一、俺と連絡が取れなくなった時は、これ持って優香の実家に向かって。家に優香が居なかったら、俺もお義母さん達のところへ向かうから。必ず、それだけは約束してくれ」
家族共通の避難場所を優香の実家だと勝手に決めて、とにかく安全に避難してくれと言っていた。どこに居ようが、俺も後で必ず合流するからと。そんな彼の方が先に死んでしまうなんて、あの時は考えてもみなかったけれど……。
抱っこで幾分か落ち着いた陽太に、ストローマグに入った麦茶を飲ませていると、部屋の中を照らすくらいの強い稲光が走った。あまりの眩しさに反射的に目を細める。そして次の瞬間、雷鳴と共に建物が大きく揺れ、家中の電気がプツリと消えてしまう。
「あ、停電……」
真っ暗な中、先ほど掘り出してきたばかりの懐中電灯を点け、リビングを照らす。エアコンも冷蔵庫もしんと静まり返って、余計に外の雷鳴がよく聞こえるようになった。一瞬でがらりと雰囲気が変わってしまった室内に、陽太がまた泣き始める。大丈夫、と繰り返し声を掛けながら、汗ばんだ小さな背中を撫で続けた。
どれくらいそうしていたのだろうか。ソファーに腰かけて息子を抱き締めたまま、とても長い時間を過ごしていた気がする。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった陽太を、和室に敷いた布団の上に寝かせる。
――こういう時は、寝て過ごすのが一番かな。
息子の隣に自分用の布団も敷いて横になりかけた時、玄関の方で誰かが優香の名を呼んでいるのが聞こえてきた。
「……ちゃん……優香ちゃん?」
懐中電灯を持って、慌てて玄関に向かうと、鳴らないインターフォンの代わりに玄関扉を叩いて、優香のことを呼んでいる声。
「ど、どうしたの?!」
「この辺りが停電してるって聞いて、オフィスに置いてたランタンとか持って来た」
傘を差していたみたいだが、駐車場からの短い距離だけでもびしょ濡れになった宏樹が、ジャケットの中に隠して大事に運んで来た紙袋を渡してくる。
「とにかく上がって。すぐに拭かないと、風邪ひいちゃうよ」
ついこないだ寝返りを打てるようになったと思っていた孫が、久しぶり会いに来たら一人で座って赤ちゃん煎餅をかじっているのだから、驚くのも当然だ。
「あらあら、美味しそうな物を食べてるのねぇ」
ヨダレまみれの口元をガーゼで拭ってもらいながら、陽太は祖母の顔を不思議そうに見上げている。早くから保育園に入れているせいか、それとも大らかな性格だった父親似なのか、陽太は人見知りが少ない。好き勝手に抱き上げられても、されるがままだ。
窓の外を見れば、まだ昼過ぎなのに暗くなり始めている。不穏な灰色の空は心細さを感じさせる。耳を澄ませると遠くの方で雷が鳴っている音も聞こえてくる。雨もポツポツと振り始め、これからの本降りを予感させていた。
「外、結構ゴロゴロ言い出してるけど、平気?」
「本当ねぇ、真っ暗になってきたわね。お天気が崩れない内に、帰らせてもらおうかしら」
「夕方から台風並みの悪天候だって……大丈夫かなぁ」
スマホの天気予報アプリで確認してから、優香は冷蔵庫の中の在庫を頭に思い浮かべる。たった一晩で過ぎると分かっていても、十分なストックが無いと不安になるのが人間の心理。
「じゃあね、陽ちゃん。お婆ちゃん、またすぐに来るから、良い子にしてるのよ」
孫との別れを惜しみつつ、バタバタと忙しなく帰っていく母親を、優香は玄関先で見送った。「今日は家にいる?」と朝早くに電話が掛かってきて、昼前に手作り総菜を持参して様子を見に来てくれた母は、実家の建て直しの日が決まったことを伝えに来た。
「二階の部屋に置きっぱなしになってる荷物、処分しちゃってもいいかしら? 要る物があれば取りにいらっしゃい」
優香が独身の頃に使っていた部屋の押し入れに、まだ私物が残っていたのだという。そう言われても、必要な物は全て結婚する際に持ち出してきてるので、おそらくは捨てられなかったけど要らない物ばかりだ。今更そんなガラクタは必要ないと、「捨てておいて」とお願いしておいた。
母が出てすぐくらいだろうか、雨音が急に強くなり始めた。カーテンを閉めても聞こえてくる、地面を叩きつけるような豪雨。徐々に風もきつくなってきたのか、窓ガラスに雨がぶつかる音も響き始めていた。カーテンの隙間から稲光が走るのが見え、数秒後には家が揺れるほどの雷鳴。
カミナリのドーンという音と振動に、歯固めの玩具を口に入れて遊んでいた陽太が、せきを切ったように泣き始める。生まれて初めて聞く大きな音への驚きと、一瞬消えかけた照明に不安を感じたのだろう。手足をバタつかせて心細い気持ちを必死で訴えている。
「だーいじょうぶ。ママもいるから、怖くない。怖くない」
抱き上げてあげると、優香のブラウスを小さな手できゅっと握りしめてくる。涙と鼻水でぐじゅぐじゅになった顔を母親の胸に押し付けて、怖かったことを全身を使って伝えているようだった。
子供には大丈夫と言い聞かせながらも、繰り返し点滅し続けている電気が、いつ消えてしまうのかと優香も不安になっていた。子供を抱いたままリビングを出て廊下の収納を覗き込み、ちょっと使い古した黒色のリュックを取り出す。そのリュックの中身は用意周到な夫が常備してくれていた防災用品がいろいろ詰め込まれている。そこから懐中電灯を選ぶと、スイッチを入れてみて、まだ電池があるかを確かめる。
まさかこれを使う日が来るとはなぁと苦笑いしながら、優香は夫がこれらを買い集めて来た時のことを思い出していた。
「万が一、俺と連絡が取れなくなった時は、これ持って優香の実家に向かって。家に優香が居なかったら、俺もお義母さん達のところへ向かうから。必ず、それだけは約束してくれ」
家族共通の避難場所を優香の実家だと勝手に決めて、とにかく安全に避難してくれと言っていた。どこに居ようが、俺も後で必ず合流するからと。そんな彼の方が先に死んでしまうなんて、あの時は考えてもみなかったけれど……。
抱っこで幾分か落ち着いた陽太に、ストローマグに入った麦茶を飲ませていると、部屋の中を照らすくらいの強い稲光が走った。あまりの眩しさに反射的に目を細める。そして次の瞬間、雷鳴と共に建物が大きく揺れ、家中の電気がプツリと消えてしまう。
「あ、停電……」
真っ暗な中、先ほど掘り出してきたばかりの懐中電灯を点け、リビングを照らす。エアコンも冷蔵庫もしんと静まり返って、余計に外の雷鳴がよく聞こえるようになった。一瞬でがらりと雰囲気が変わってしまった室内に、陽太がまた泣き始める。大丈夫、と繰り返し声を掛けながら、汗ばんだ小さな背中を撫で続けた。
どれくらいそうしていたのだろうか。ソファーに腰かけて息子を抱き締めたまま、とても長い時間を過ごしていた気がする。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった陽太を、和室に敷いた布団の上に寝かせる。
――こういう時は、寝て過ごすのが一番かな。
息子の隣に自分用の布団も敷いて横になりかけた時、玄関の方で誰かが優香の名を呼んでいるのが聞こえてきた。
「……ちゃん……優香ちゃん?」
懐中電灯を持って、慌てて玄関に向かうと、鳴らないインターフォンの代わりに玄関扉を叩いて、優香のことを呼んでいる声。
「ど、どうしたの?!」
「この辺りが停電してるって聞いて、オフィスに置いてたランタンとか持って来た」
傘を差していたみたいだが、駐車場からの短い距離だけでもびしょ濡れになった宏樹が、ジャケットの中に隠して大事に運んで来た紙袋を渡してくる。
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