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第四話・再就職
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宏樹は家に来ると必ず、一番初めに兄の仏壇の前に座る。リビングに隣接した和室の隅に設置された小さな仏壇。そこに飾られた遺影をじっと無言で見つめながら、仲が良かった亡き兄のことを心の中で偲んでいるようだった。兄弟の静かな対話を邪魔するのは無粋だと、優香は一人でキッチンへと向かう。
「ごめんね、珈琲も紅茶も切らしちゃってて……麦茶しかないけど」
「いいよ。お構いなく」
まだ授乳中だからと優香自身はカフェインレスの物しか飲まないようにしてたせいで、来客用のストックが切れているのをすっかり忘れていた。夫が亡くなった後、彼の友人や知人が悲報を聞きつけて訪問してくれることもあり、割と沢山用意していたつもりだったのに完全に在庫切れだ。
グラスに氷と一緒に注ぎ入れた麦茶を、宏樹はソファーに座ってから「いただきます」と一気に半分を飲み干していく。
そして、ソファーテーブルの隅に重ねられたフリーペーパーの束が視界に入ったらしく、手を伸ばしてパラパラと目を通し始める。優香が買い物ついでにスーパーで貰って来た求人情報紙や、新聞に折り込まれていた求人チラシだ。ネットよりも近所のローカルな案件が豊富だからと、見かける度にかき集めていた。
意外だという表情で、宏樹が義姉のことを見る。
「優香ちゃん、仕事探してるの?」
「うん、陽太を保育園に預けられるようになってからだから、まだ先にはなりそうだけどね」
「兄貴の保険金とかだけじゃ、生活は難しいとか?」
保険金や相続関連のことを一切任せていたから、当面はそれだけで十分困らないことは宏樹には分かっている。だからこそ、訝し気な顔をしてくるのだろう。
「ううん。宏樹君がいろいろ調べて手続きしてくれたおかげで、お金の心配はないと思う。だけど、大輝の保険金とかはできるだけ手を付けたくないんだよね。できれば、そういうお金は陽太の将来の為に残してあげたいっていうか――」
大輝が残してくれた物は、そのまま息子に渡してあげたい。父親の記憶のない陽太にはそれ以外に父という存在を証明し、受け継がせてあげることができないのだから。寂しいことだが、息子へと譲り渡してあげることができるものはお金と家だけ。
優香の思いを少し難しい顔で聞いていた宏樹だったが、分かったと頷いた後、持っていたグラスをテーブルへと置き直す。そして、もう一度求人ペーパーを見返し、優香が気になってチェックして丸付けていた案件を見比べていく。どれもこれも初心者歓迎のパートばかりで、職種にはあまりこだわりがないみたいだ。家から通い易くて特別な資格を必要としないもので探しているのだろう。
「この条件でいいんだったら、うちの事務所に来たら? って言っても、開業したばかりで不安かもしれないけど」
「え、宏樹君のって、会計事務所だよね? 私、事務経験も無いし簿記とかも全くできないし、何の役にも立たないと思うよ……」
「ちょうど事務補助してくれる人を探そうと思ってたとこ。専門的なことは追々覚えてくれればいいし、当面は電話応対とかの雑務を中心にしてもらえると助かる」
一年前に公認会計士として独立して一人で事務所を構えた宏樹は、前事務所から引き継いできた顧客だけでなく、新たな顧客も開拓して順調にいっているようだというのは、兄である大輝から弟自慢の一つとして聞かされていた。
「俺のところなら、陽太のことで気を使う必要もないだろうし、優香ちゃんさえ良ければって感じかな」
ちょっと考えといてよ、と軽く言いながら、宏樹は立ち上がってベビーベッドに近付くと小さな甥っ子の頬を人差し指で突く。肉付きの良い柔らかな頬の感触は、今の時期だけの特別仕様だ。
優香が義弟宛てにパート雇用のお願いの電話を掛けたのは、その翌日だった。どう考えてもこれ以上の就職先は見つかりそうもないと思ったからだ。駅からも近く、陽太の入園申し込みしている保育園ともそれほど離れてはいない。そして何より、子供の都合での急な休みが取りやすいのが一番だ。雇用主が子育てに理解あるのはありがたい。こんな恵まれた職場はきっと他にはない。
「とりあえず、陽太の入園後から頼むね」
電話口の宏樹の明るい声に、ただの同情から雇い入れてくれただけという風には感じない。ようやく自立への一歩を踏み出せた気がして、優香は少し気分が良かった。
陽太も生後半年を過ぎ、希望していた保育園への入園許可が下りて手続きが済んだ後、一週間をかけた慣らし保育も終わり、本格的に丸一日預ける日がやってきた。園から指示された枚数のオムツ全てに記名して、お昼寝布団の入った大きなバッグを抱えて登園する。入園グッズを全て揃えるだけでも相当な労力が必要で、世の中の子育てママはみんなこんな苦労をして子供を預けているのかと驚く。
乳児クラスの中でも一番月齢の小さい陽太は、保育室に入る前から聞こえてくる他の子達の泣き声に釣られて泣き始める。その泣いている状態のまま保育士に預けていくのが、優香には辛かった。せめて泣き止むまではと思うのだけれど「大丈夫ですから、お母さん」と先生から背を押されてしまっては、無暗に長居もできない。不安を吐露した連絡ノートの返信に対しての「その内にすぐ慣れてくれますから」という担当保育士の強気の言葉を信じるしかない。
「私はいつ慣れるのかなぁ……?」
下手したら、陽太の方が先かもしれない。ソワソワしながら保育室を出ていく優香の後ろで、随分と大きく泣けるようになった息子の声が響き渡っていた。
「ごめんね、珈琲も紅茶も切らしちゃってて……麦茶しかないけど」
「いいよ。お構いなく」
まだ授乳中だからと優香自身はカフェインレスの物しか飲まないようにしてたせいで、来客用のストックが切れているのをすっかり忘れていた。夫が亡くなった後、彼の友人や知人が悲報を聞きつけて訪問してくれることもあり、割と沢山用意していたつもりだったのに完全に在庫切れだ。
グラスに氷と一緒に注ぎ入れた麦茶を、宏樹はソファーに座ってから「いただきます」と一気に半分を飲み干していく。
そして、ソファーテーブルの隅に重ねられたフリーペーパーの束が視界に入ったらしく、手を伸ばしてパラパラと目を通し始める。優香が買い物ついでにスーパーで貰って来た求人情報紙や、新聞に折り込まれていた求人チラシだ。ネットよりも近所のローカルな案件が豊富だからと、見かける度にかき集めていた。
意外だという表情で、宏樹が義姉のことを見る。
「優香ちゃん、仕事探してるの?」
「うん、陽太を保育園に預けられるようになってからだから、まだ先にはなりそうだけどね」
「兄貴の保険金とかだけじゃ、生活は難しいとか?」
保険金や相続関連のことを一切任せていたから、当面はそれだけで十分困らないことは宏樹には分かっている。だからこそ、訝し気な顔をしてくるのだろう。
「ううん。宏樹君がいろいろ調べて手続きしてくれたおかげで、お金の心配はないと思う。だけど、大輝の保険金とかはできるだけ手を付けたくないんだよね。できれば、そういうお金は陽太の将来の為に残してあげたいっていうか――」
大輝が残してくれた物は、そのまま息子に渡してあげたい。父親の記憶のない陽太にはそれ以外に父という存在を証明し、受け継がせてあげることができないのだから。寂しいことだが、息子へと譲り渡してあげることができるものはお金と家だけ。
優香の思いを少し難しい顔で聞いていた宏樹だったが、分かったと頷いた後、持っていたグラスをテーブルへと置き直す。そして、もう一度求人ペーパーを見返し、優香が気になってチェックして丸付けていた案件を見比べていく。どれもこれも初心者歓迎のパートばかりで、職種にはあまりこだわりがないみたいだ。家から通い易くて特別な資格を必要としないもので探しているのだろう。
「この条件でいいんだったら、うちの事務所に来たら? って言っても、開業したばかりで不安かもしれないけど」
「え、宏樹君のって、会計事務所だよね? 私、事務経験も無いし簿記とかも全くできないし、何の役にも立たないと思うよ……」
「ちょうど事務補助してくれる人を探そうと思ってたとこ。専門的なことは追々覚えてくれればいいし、当面は電話応対とかの雑務を中心にしてもらえると助かる」
一年前に公認会計士として独立して一人で事務所を構えた宏樹は、前事務所から引き継いできた顧客だけでなく、新たな顧客も開拓して順調にいっているようだというのは、兄である大輝から弟自慢の一つとして聞かされていた。
「俺のところなら、陽太のことで気を使う必要もないだろうし、優香ちゃんさえ良ければって感じかな」
ちょっと考えといてよ、と軽く言いながら、宏樹は立ち上がってベビーベッドに近付くと小さな甥っ子の頬を人差し指で突く。肉付きの良い柔らかな頬の感触は、今の時期だけの特別仕様だ。
優香が義弟宛てにパート雇用のお願いの電話を掛けたのは、その翌日だった。どう考えてもこれ以上の就職先は見つかりそうもないと思ったからだ。駅からも近く、陽太の入園申し込みしている保育園ともそれほど離れてはいない。そして何より、子供の都合での急な休みが取りやすいのが一番だ。雇用主が子育てに理解あるのはありがたい。こんな恵まれた職場はきっと他にはない。
「とりあえず、陽太の入園後から頼むね」
電話口の宏樹の明るい声に、ただの同情から雇い入れてくれただけという風には感じない。ようやく自立への一歩を踏み出せた気がして、優香は少し気分が良かった。
陽太も生後半年を過ぎ、希望していた保育園への入園許可が下りて手続きが済んだ後、一週間をかけた慣らし保育も終わり、本格的に丸一日預ける日がやってきた。園から指示された枚数のオムツ全てに記名して、お昼寝布団の入った大きなバッグを抱えて登園する。入園グッズを全て揃えるだけでも相当な労力が必要で、世の中の子育てママはみんなこんな苦労をして子供を預けているのかと驚く。
乳児クラスの中でも一番月齢の小さい陽太は、保育室に入る前から聞こえてくる他の子達の泣き声に釣られて泣き始める。その泣いている状態のまま保育士に預けていくのが、優香には辛かった。せめて泣き止むまではと思うのだけれど「大丈夫ですから、お母さん」と先生から背を押されてしまっては、無暗に長居もできない。不安を吐露した連絡ノートの返信に対しての「その内にすぐ慣れてくれますから」という担当保育士の強気の言葉を信じるしかない。
「私はいつ慣れるのかなぁ……?」
下手したら、陽太の方が先かもしれない。ソワソワしながら保育室を出ていく優香の後ろで、随分と大きく泣けるようになった息子の声が響き渡っていた。
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