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第七話・引っ越し
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「しかし、すごいな……本当に何も無い」
1LDKのマンション内を見回しながら、川岸が驚愕の声を漏らす。穂香が借りている部屋の状況は、こちらへ向かう途中の車内である程度の説明はしていた。けれど実際に目にして、驚きを隠せないでいるようだった。
玄関扉を開くと広がる、ガランとした空間。テレビ台や冷蔵庫が置いてあった場所には薄っすらと積もる埃が型取っている。窓辺に吊るされたままのカーテンだけが、今もここが空き部屋じゃないことを示していた。
「帰ってきたら、この状態か。キツイな」
「残ってたのは、奥の部屋のクローゼットに少しと、洗面台に置いてた化粧品だけですね。後はこんな感じです」
開き直り気味に部屋の中を紹介して回りながら、穂香は自分の荷物を段ボール箱へと放り込んでいく。来る時に寄ったホームセンターで購入した箱には、衣類を中心に詰め込まれていた。というか、クローゼットには洋服くらいしか残されていない。
「これ、被害届を出すレベルじゃないのか?」
「いいんです、もう。変にまた関わらないといけなくなるんなら、荷物くらいくれてやります。――それより、問題はこれですよ。持ち出す時に家具を引き摺った後が……敷金、返って来ないですよね、絶対……ハァ、腹立つ」
フローリングに深い傷跡が何か所も出来てしまっているの見つけ、穂香が悔しげに言う。広範囲に渡って新しい傷があり、下手したら入居時に支払った敷金では足りず、追加料金を請求される可能性も覚悟しないといけない。
「これは、業者を使わずに運び出したみたいだな。仕事が雑過ぎる」
「おおかた、知り合いでも呼んだんだと思います。交友関係は広そうな感じだったし――すみません、オーナーにも手伝わせちゃって……」
荷物が詰め込まれた段ボールを川岸が順に部屋から運び出していく。結局、オーナーの家でお世話になるのが一番安全で経済的だと判断したけれど、休日の上司に引っ越し作業まで手伝わせて許されるんだろうか……。
完全に何も無くなった部屋の鍵を閉めると、穂香はマンション前に横付けされている川岸の車へと乗り込む。車まで出して貰って、上司と言えど二度と足を向けて眠れそうもない。今晩から布団を敷く向きには気を付けようと心に誓う。
帰りに立ち寄った不動産屋で栄悟に持ち逃げされたままの合鍵のことを話すと、鍵の交換料金が発生する可能性があると聞かされ、穂香はさらにキレた。
「いやー、鍵を持ってる人がいるとなると防犯上あれですしねぇ。入居時にお渡しした鍵は全て返却してもらうのが条件ですし」
ごもっとも、だ。不動産屋相手にぐうの音も出ない。知らない人が合鍵を持ったままの部屋なんか、誰が借りたいだろうか。逃げた元彼のことは、もう憎しみしか感じない。
車の中で待ってくれていた川岸は、憔悴しきった顔の穂香の様子に、どう慰めていいのか悩んでいるようだった。迷惑を掛けている上に気まで使わせてはと、穂香は少し強がって「これで清々しましたね」と明るく笑ってみせた。
「そうだな、家のことを多少はやってくれるくらいでいい。俺も家事はそこまで得意じゃないから」
居候させてもらうなら、せめて家賃を払わせて下さいと提案した穂香に、川岸は困惑した顔で答える。確かにキッチンに並んでいる充実した調理器具は、最近になって使われた形跡がない。冷蔵庫も野菜室はスカスカだし、調味料も必要最低限の物があるだけだ。
「普段、食事ってどうされてるんですか?」
「大抵は適当に駅前のコンビニで買ってくるとかかな。昼間は外に出てることが多いから外食が中心になるけど」
「分かりました。遅番の時は無理ですけど、休みと早番の日はご飯作ります。要らない日は連絡してください」
そういうつもりで同居を勧めた訳じゃないというオーナーに、家賃光熱費を受け取って貰えないなら、せめてそれくらいはとお願いする。二人分の食費を負担したとしても、大幅に黒字だ。どちらかというと家事は得意な方だし、これ以上ない好条件で逆にこちらが恐縮してしまう。
「別に無理強いするつもりはないから、適当でいい」
「適当なら、任せてください」
完璧主義者だと思っていた上司の口から適当という単語が出てくるとは思わなかった。もしかしたら、川岸オーナーは穂香が勝手に抱いていた印象とは全く違う人なのかもしれないと思い始める。
――入社して以来、オーナーとこんなに話したのは初めてだ。意外と普通だったっていうか……。
ただ、部屋着も私服もそれなりにお洒落だし、家にあったインテリアもなんだか高そうで、その辺りはイメージ通り。でもオーナー本人の人柄はその見た目とはまた別のような気がした。
川岸の自宅マンションの玄関の壁には大きな姿見が設置されている。背の高い彼でも余裕で全身を写し出すことができるサイズで、最初に見つけた時は「さすが、美意識の塊って感じ」と出掛ける前の最終チェックに余念のない男を心の中でナルシスト扱いしていた。
が、実際にオーナーの朝の出勤時に出くわして、穂香はそれは勘違いだったと気付かされる。
「お、オーナー! 右の襟が裏返ったままですっ」
「あ……」
「もうっ、ちゃんと鏡見てから出てくださいよー」
駅まで並んで歩きながら、隣で服を整えている上司へと注意する。
「あんな大きい鏡があるのに、なんで気付かないんですか……」
「ちゃんとしたつもりなんだけどなぁ」
照れ笑いを浮かべる上司に、穂香はクスクスと笑う。完璧な人間なんて、そう滅多にはいないみたいだ。
1LDKのマンション内を見回しながら、川岸が驚愕の声を漏らす。穂香が借りている部屋の状況は、こちらへ向かう途中の車内である程度の説明はしていた。けれど実際に目にして、驚きを隠せないでいるようだった。
玄関扉を開くと広がる、ガランとした空間。テレビ台や冷蔵庫が置いてあった場所には薄っすらと積もる埃が型取っている。窓辺に吊るされたままのカーテンだけが、今もここが空き部屋じゃないことを示していた。
「帰ってきたら、この状態か。キツイな」
「残ってたのは、奥の部屋のクローゼットに少しと、洗面台に置いてた化粧品だけですね。後はこんな感じです」
開き直り気味に部屋の中を紹介して回りながら、穂香は自分の荷物を段ボール箱へと放り込んでいく。来る時に寄ったホームセンターで購入した箱には、衣類を中心に詰め込まれていた。というか、クローゼットには洋服くらいしか残されていない。
「これ、被害届を出すレベルじゃないのか?」
「いいんです、もう。変にまた関わらないといけなくなるんなら、荷物くらいくれてやります。――それより、問題はこれですよ。持ち出す時に家具を引き摺った後が……敷金、返って来ないですよね、絶対……ハァ、腹立つ」
フローリングに深い傷跡が何か所も出来てしまっているの見つけ、穂香が悔しげに言う。広範囲に渡って新しい傷があり、下手したら入居時に支払った敷金では足りず、追加料金を請求される可能性も覚悟しないといけない。
「これは、業者を使わずに運び出したみたいだな。仕事が雑過ぎる」
「おおかた、知り合いでも呼んだんだと思います。交友関係は広そうな感じだったし――すみません、オーナーにも手伝わせちゃって……」
荷物が詰め込まれた段ボールを川岸が順に部屋から運び出していく。結局、オーナーの家でお世話になるのが一番安全で経済的だと判断したけれど、休日の上司に引っ越し作業まで手伝わせて許されるんだろうか……。
完全に何も無くなった部屋の鍵を閉めると、穂香はマンション前に横付けされている川岸の車へと乗り込む。車まで出して貰って、上司と言えど二度と足を向けて眠れそうもない。今晩から布団を敷く向きには気を付けようと心に誓う。
帰りに立ち寄った不動産屋で栄悟に持ち逃げされたままの合鍵のことを話すと、鍵の交換料金が発生する可能性があると聞かされ、穂香はさらにキレた。
「いやー、鍵を持ってる人がいるとなると防犯上あれですしねぇ。入居時にお渡しした鍵は全て返却してもらうのが条件ですし」
ごもっとも、だ。不動産屋相手にぐうの音も出ない。知らない人が合鍵を持ったままの部屋なんか、誰が借りたいだろうか。逃げた元彼のことは、もう憎しみしか感じない。
車の中で待ってくれていた川岸は、憔悴しきった顔の穂香の様子に、どう慰めていいのか悩んでいるようだった。迷惑を掛けている上に気まで使わせてはと、穂香は少し強がって「これで清々しましたね」と明るく笑ってみせた。
「そうだな、家のことを多少はやってくれるくらいでいい。俺も家事はそこまで得意じゃないから」
居候させてもらうなら、せめて家賃を払わせて下さいと提案した穂香に、川岸は困惑した顔で答える。確かにキッチンに並んでいる充実した調理器具は、最近になって使われた形跡がない。冷蔵庫も野菜室はスカスカだし、調味料も必要最低限の物があるだけだ。
「普段、食事ってどうされてるんですか?」
「大抵は適当に駅前のコンビニで買ってくるとかかな。昼間は外に出てることが多いから外食が中心になるけど」
「分かりました。遅番の時は無理ですけど、休みと早番の日はご飯作ります。要らない日は連絡してください」
そういうつもりで同居を勧めた訳じゃないというオーナーに、家賃光熱費を受け取って貰えないなら、せめてそれくらいはとお願いする。二人分の食費を負担したとしても、大幅に黒字だ。どちらかというと家事は得意な方だし、これ以上ない好条件で逆にこちらが恐縮してしまう。
「別に無理強いするつもりはないから、適当でいい」
「適当なら、任せてください」
完璧主義者だと思っていた上司の口から適当という単語が出てくるとは思わなかった。もしかしたら、川岸オーナーは穂香が勝手に抱いていた印象とは全く違う人なのかもしれないと思い始める。
――入社して以来、オーナーとこんなに話したのは初めてだ。意外と普通だったっていうか……。
ただ、部屋着も私服もそれなりにお洒落だし、家にあったインテリアもなんだか高そうで、その辺りはイメージ通り。でもオーナー本人の人柄はその見た目とはまた別のような気がした。
川岸の自宅マンションの玄関の壁には大きな姿見が設置されている。背の高い彼でも余裕で全身を写し出すことができるサイズで、最初に見つけた時は「さすが、美意識の塊って感じ」と出掛ける前の最終チェックに余念のない男を心の中でナルシスト扱いしていた。
が、実際にオーナーの朝の出勤時に出くわして、穂香はそれは勘違いだったと気付かされる。
「お、オーナー! 右の襟が裏返ったままですっ」
「あ……」
「もうっ、ちゃんと鏡見てから出てくださいよー」
駅まで並んで歩きながら、隣で服を整えている上司へと注意する。
「あんな大きい鏡があるのに、なんで気付かないんですか……」
「ちゃんとしたつもりなんだけどなぁ」
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