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第三話・鬼オーナー
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リクライニングシートは寝返りが打てないと気付いて、翌日からはフラットシートのブースを選ぶようにした。でも眠り易いという意味でマシなだけで、どちらも熟睡なんてものとは縁遠い。眠りかけると鳴り出す隣ブースのスマホや、騒音レベルの誰かのイビキ。扉を開閉する音も利用者の数だけあるし、週末にはコントローラーのカチカチという操作音が朝まで鳴りやまなかった。
でも、シャワー上がりに食べるソフトクリームだけが楽しみで、ブースに戻る道すがらドリンクバーへと立ち寄るのが日課になっていた。
「ええーっ……」
セルフサービスのソフトクリームの機械に貼り付けられた『メンテナンス中』のポップに、穂香は愕然とする。ここで過ごす唯一の楽しみが絶たれたショックは筆舌に表し難い。一気に何もかもが嫌になる。こんな状況に置かれていることが腹立たしい。
疲れとストレスがそろそろ限界に近付いているのが分かる。家はあるのに帰れない、でも当然のように引き落としされていく家賃と光熱費。そう言えば、生活費と将来の結婚資金を貯めるという名目で、栄悟と共有していた銀行口座の通帳とカードはどうなったんだろう? 家賃も光熱費も穂香の口座を使っていたけれど、彼の分はもう何か月も受け取っていなかったし、あの同棲で得た物は何もない。
――鍵を新しくするより、引っ越しした方がいいかな……。
引っ越し業者を頼むほどの荷物も残っていない。車を持っている友達に頼んで、自分達で運ぶ方が手っ取り早いかもしれない。次の休みに不動産屋を回ってみようと決めたら、少しだけ気が楽になった。
遅番での出勤だった為、普段よりはゆっくり寝ているつもりだったのに、隣のブースで朝5時にスマホのアラームが大音量で鳴り出した。同じように強制的に起こされてしまった利用客達の、パーテーションを叩く音やクレームの咳払いが聞こえてくるしで、早朝からブースエリアはとてつもなくカオスな惨状。一刻も早く、この場から逃げ出したくなる。
――早めに出勤して、ストックルームで休んでる方がマシかも……。
ここに居るよりは仕事に行く方がよっぽど落ち着く。そう思って出勤したショップでストックルームのカーテンを潜り抜け、穂香は先に中に居た人物にギョッとする。
背の高いその人が身に付けているネイビーのスーツは、セミオーダーなのか身体のラインに合っていて無駄な皺が一つも見当たらない。ハイカウンターの前でPCを操作している姿は、まるでファッション誌から抜け出したモデルがポージングしているかのようだった。
「お、オーナー、おはようございます……」
「ああ、田村さん。おはよう」
中途半端な時間に来た穂香のことを遅刻かと思ったのか、オーナーの川岸隼人が腕時計とシフト表を見比べている。そして、穂香が遅番だと分かると納得したのか、再び店舗管理用PCで売上実績と在庫数をチェックし始めた。
――オーナーがいるなんて、気マズい。何で今日に限って……。
まだ30代だという川岸は、働く女性をターゲットにしたセレクトショップ『セラーデ』を系列店を含めて5店舗も展開している、所謂やり手の経営者だ。元々は親が営んでいた昔ながらの洋品店を引き継いだ二代目らしいが、どの店舗も先代の店の面影は全くない。
商店街の洋品店だった店を一代でここまで規模を大きくしただけあり、彼の仕事に対する意識はとてつもなく高い。数字に厳しく、店舗内では細かい指示も多い。
背も高くて整った顔立ちだから、彼が店に来ると近隣の女性店員達からの遠巻きな視線を感じることがある。でも、正直言って、穂香は苦手だ。
自分用のロッカーにバッグを突っ込みながら、スーツケースを駅前のコインロッカーに預けて来たことに安堵する。大荷物を持って出勤していたら、オーナーから何を言われるか分かったものじゃない。
「……田村さん、ちょっといいかな?」
まだ何の失態もしていないつもりなのに、オーナーから名前を呼ばれて穂香がビクつく。急いでネームプレートを胸元に付けると、穂香は川岸の方を振り返る。
「は、はい。何でしょう?」
「右のヒール、ちょっと汚れてるね」
「?! すみませんっ、すぐ拭いてきます!」
知らない内に泥でも跳ねたのか、パンプスのヒールが少し汚れているのを指摘されてしまった。ショップ店員は動くマネキンだ。制服として店の取り扱い商品を社割で安く購入したのを着るのが原則で、穂香達のコーディネートを参考にしてくれる客も少なくない。だから、彼の指摘は上司としては当然のことで、セクハラでも何でもない。
――やばっ。朝から怖すぎるんだけど……。
他にも何を注意されるかと、穂香はオーナーの眼から逃げるようストックルームを出て、ショッピングモール内のトイレへと走った。穂香がヒールの汚れを落とし終えて戻って来た時は、チーフである弥生がオーナー直々に指示を受けているところだった。
「ここの在庫数だと、ストックは全出しでもいい。カットソーは島什器だけじゃなく、アウターと合わせて壁面でも展開して、どちらからも手に取って貰えるように。あと、陳列に規則性が無いね。量を出していこうと思ったら全体に統一感が無ければ、ただごちゃつくだけだから――」
頷きながらメモを取る弥生の表情は真剣だ。洋服が好きでいずれはバイヤーになりたいと言っているだけあり、何となく働いているだけの穂香とは志の高さが違うのだ。
二人の横を通り過ぎようとして、川岸がまた穂香のことを呼び止めてくる。
「あ、田村さん。そこの棚下、かなり埃が溜まってるみたいだから拭いてくれるかな」
「は、はいっ」
オーナーが居ると全く気が抜けないと、穂香はモップを取りにストックルームへ駆け込みながら、ハァと小さく溜め息を吐いた。
でも、シャワー上がりに食べるソフトクリームだけが楽しみで、ブースに戻る道すがらドリンクバーへと立ち寄るのが日課になっていた。
「ええーっ……」
セルフサービスのソフトクリームの機械に貼り付けられた『メンテナンス中』のポップに、穂香は愕然とする。ここで過ごす唯一の楽しみが絶たれたショックは筆舌に表し難い。一気に何もかもが嫌になる。こんな状況に置かれていることが腹立たしい。
疲れとストレスがそろそろ限界に近付いているのが分かる。家はあるのに帰れない、でも当然のように引き落としされていく家賃と光熱費。そう言えば、生活費と将来の結婚資金を貯めるという名目で、栄悟と共有していた銀行口座の通帳とカードはどうなったんだろう? 家賃も光熱費も穂香の口座を使っていたけれど、彼の分はもう何か月も受け取っていなかったし、あの同棲で得た物は何もない。
――鍵を新しくするより、引っ越しした方がいいかな……。
引っ越し業者を頼むほどの荷物も残っていない。車を持っている友達に頼んで、自分達で運ぶ方が手っ取り早いかもしれない。次の休みに不動産屋を回ってみようと決めたら、少しだけ気が楽になった。
遅番での出勤だった為、普段よりはゆっくり寝ているつもりだったのに、隣のブースで朝5時にスマホのアラームが大音量で鳴り出した。同じように強制的に起こされてしまった利用客達の、パーテーションを叩く音やクレームの咳払いが聞こえてくるしで、早朝からブースエリアはとてつもなくカオスな惨状。一刻も早く、この場から逃げ出したくなる。
――早めに出勤して、ストックルームで休んでる方がマシかも……。
ここに居るよりは仕事に行く方がよっぽど落ち着く。そう思って出勤したショップでストックルームのカーテンを潜り抜け、穂香は先に中に居た人物にギョッとする。
背の高いその人が身に付けているネイビーのスーツは、セミオーダーなのか身体のラインに合っていて無駄な皺が一つも見当たらない。ハイカウンターの前でPCを操作している姿は、まるでファッション誌から抜け出したモデルがポージングしているかのようだった。
「お、オーナー、おはようございます……」
「ああ、田村さん。おはよう」
中途半端な時間に来た穂香のことを遅刻かと思ったのか、オーナーの川岸隼人が腕時計とシフト表を見比べている。そして、穂香が遅番だと分かると納得したのか、再び店舗管理用PCで売上実績と在庫数をチェックし始めた。
――オーナーがいるなんて、気マズい。何で今日に限って……。
まだ30代だという川岸は、働く女性をターゲットにしたセレクトショップ『セラーデ』を系列店を含めて5店舗も展開している、所謂やり手の経営者だ。元々は親が営んでいた昔ながらの洋品店を引き継いだ二代目らしいが、どの店舗も先代の店の面影は全くない。
商店街の洋品店だった店を一代でここまで規模を大きくしただけあり、彼の仕事に対する意識はとてつもなく高い。数字に厳しく、店舗内では細かい指示も多い。
背も高くて整った顔立ちだから、彼が店に来ると近隣の女性店員達からの遠巻きな視線を感じることがある。でも、正直言って、穂香は苦手だ。
自分用のロッカーにバッグを突っ込みながら、スーツケースを駅前のコインロッカーに預けて来たことに安堵する。大荷物を持って出勤していたら、オーナーから何を言われるか分かったものじゃない。
「……田村さん、ちょっといいかな?」
まだ何の失態もしていないつもりなのに、オーナーから名前を呼ばれて穂香がビクつく。急いでネームプレートを胸元に付けると、穂香は川岸の方を振り返る。
「は、はい。何でしょう?」
「右のヒール、ちょっと汚れてるね」
「?! すみませんっ、すぐ拭いてきます!」
知らない内に泥でも跳ねたのか、パンプスのヒールが少し汚れているのを指摘されてしまった。ショップ店員は動くマネキンだ。制服として店の取り扱い商品を社割で安く購入したのを着るのが原則で、穂香達のコーディネートを参考にしてくれる客も少なくない。だから、彼の指摘は上司としては当然のことで、セクハラでも何でもない。
――やばっ。朝から怖すぎるんだけど……。
他にも何を注意されるかと、穂香はオーナーの眼から逃げるようストックルームを出て、ショッピングモール内のトイレへと走った。穂香がヒールの汚れを落とし終えて戻って来た時は、チーフである弥生がオーナー直々に指示を受けているところだった。
「ここの在庫数だと、ストックは全出しでもいい。カットソーは島什器だけじゃなく、アウターと合わせて壁面でも展開して、どちらからも手に取って貰えるように。あと、陳列に規則性が無いね。量を出していこうと思ったら全体に統一感が無ければ、ただごちゃつくだけだから――」
頷きながらメモを取る弥生の表情は真剣だ。洋服が好きでいずれはバイヤーになりたいと言っているだけあり、何となく働いているだけの穂香とは志の高さが違うのだ。
二人の横を通り過ぎようとして、川岸がまた穂香のことを呼び止めてくる。
「あ、田村さん。そこの棚下、かなり埃が溜まってるみたいだから拭いてくれるかな」
「は、はいっ」
オーナーが居ると全く気が抜けないと、穂香はモップを取りにストックルームへ駆け込みながら、ハァと小さく溜め息を吐いた。
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