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第四十話・猫の癌
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たまたま実家に顔を出した姉から『ピッチがまた鼻血出してたわ』というメールを貰ったのは、次の妊婦健診まであと1週間という頃。
――お母さん、どうして連絡してくれないんだろ……。
猫を病院へ連れて行けそうも無いのなら、せめて有希に連絡をしてくれればいいのにと、諦めにも似た溜息が出る。ヨダレや血が出た時に力任せに古いタオルでゴシゴシと患部を拭いていたらしく、ピッチは母が近寄ると警戒するようになった。だから、また調子が悪くなったら有希が病院に連れて行くから連絡するように伝えていたのだけれど……。
――別に私、まだ全然動けるのに。
お腹は少し目立つようにはなってきてマタニティサイズの服の方が楽になっているが、それでもまだ外出は苦じゃないし、車だって普通に運転できる。だから猫を動物病院へ連れて行くことくらいは平気だ。
それを口を酸っぱくしながら伝えたつもりだったが、母にはちゃんと伝わっていなかったようだ。
「血流してる猫がウロウロしてるような家には、里帰りなんてできないから」
「だって、猫なんかのことで有希を呼び出したら、雅人さんに悪いじゃない……」
猫が可哀そう、は母には通じない。元々それほど動物が好きな人ではなかったので、目の前で犬や猫が弱っていっても「あら可哀そうね」と口では言うけれど、病院へ連れて行こうという発想は湧かないタイプだった。クロが入院した時も、有希が指示しなければそのまま放置されていたはずだ。
だから娘二人がマメに実家の様子を見に帰る必要があり、今回のことも猫の為ではなく、有希の里帰りの為にと論点をすり替えて説得するのが一番効果があった。
「分かったわ、次からはちゃんと連絡するから」
老猫達の世話をこのまま母に任せ続けていいのか不安は残るが、猫達にしてみても長年の住処を今さら変えられるのは辛いだろう。一日も早く、実家の近くに引っ越して来ないとと有希は大きく溜息を付いた。
かかりつけの動物病院は、入口の自動ドアを入って右が犬用、左が猫を含めた小動物用の待合スペースになっている。いつも通りに受付を済ませた後、有希は左側のベンチの足下にキャリーを置いてから腰を下ろした。ウサギやハムスターも診れるようだが、一度も遭遇したことはなかった。犬の診察の方が多いようで、猫を連れて来る人と会うこともたまにしかない。
「あら、まだ子猫?」
真っ白の長毛の猫が入ったキャリーを床に下ろしながら、上品そうなお婆さんが有希のキャリーの中を覗いて聞いてきた。広瀬家の猫達はメスばかりで、どちらかと言うと小柄だ。だから他所の子、特にオス猫を見るとあまりにも大きくてビックリする。奥で丸まっているピッチは身体は筋肉質だから体重はそこそこあるが、顔はとても小さい。オス猫飼いさんからすれば、成猫には見えないのだろう。
「いえ、もう16歳なんです」
「え、そんなに?! 長生きさんねぇ」
まだ5歳だという白猫はピッチの倍の大きさはあった。ピッチと似たようなサイズのキャリーがとても狭そうに見える。家にはまだ17歳の子もいると話すと、お婆さんは目を丸くして驚いていた。
「そんなに長生きするのなら、猫より私の方が先になるわね」
お婆さんの自虐的な台詞に、有希は半笑いを浮かべた。以前に父も、猫に向かって似たようなことを言っていたのを不意に思い出す。
病院慣れしていない白猫がキャリーの中で悲痛の声を上げているのを、ピッチは耳だけをピクピク動かして聞いているようだった。
入院の為にピッチを預けると、有希は空になったキャリーを抱えてそのまま自宅へと戻った。今回もまた大量の同意書にサインしたが、歯周病の治療と癌の腫瘍除去とでは同じ書類でも重みが違うように感じた。
「ピーちゃん、頑張ってね……」
「ナァー」
出血と鼻水とヨダレでべちゃべちゃになった顔で有希を見上げて、ピッチは掠れた声で返事してくれた。病院には慣れているはずだが、それでもやはり不安そうなピッチの顔が頭から離れない。
「お迎えに来てあげてください」そう電話が掛かって来たのは、術後1日が経過した夕方だった。
「少し貧血気味な子だったので、容態が落ち着くのに時間がかかりました」
有希が猫用の小狭い診察室へ入ると、診察台の上でピッチはちょこんと前足を揃えて座っていた。こちらを向いて「ナァー」と呼ぶ声はいつも通りで、嬉しそうにゴロゴロと喉まで鳴らしていた。
「ピーちゃん……」
血やヨダレで汚れてしまっていた顔や身体は拭いて貰ったのか、預けた時とは比べ物にならないほど綺麗になったピッチは、以前よりもかなり上向きで低い鼻先になっていた。
「腫瘍部分を取り除いたので、随分と顔が変わったと思います」
「何か、こういう顔の猫、いますよね」
「ああ、エキゾチックっぽいですね」
これはこれで可愛いです、と有希はよじ登ろうとしてくるピッチの背を撫でた。まだ見慣れないから違和感はあるが、ピッチが元気になったのならそれでいい。見た目が多少変わったとしても、この子の性格の良さが大好きなのだから。
元々からピッチは美猫という訳ではない。顎下の毛が黒かったせいで、生前の父からはヒゲさんと呼ばれ、いつも「ヒゲさん、今日も面白い顔してるなー」と揶揄われていた。だからもし、今のピッチを父が見たら「さらに面白い顔になったなー」と間違いなく大喜びしたことだろう。
――お母さん、どうして連絡してくれないんだろ……。
猫を病院へ連れて行けそうも無いのなら、せめて有希に連絡をしてくれればいいのにと、諦めにも似た溜息が出る。ヨダレや血が出た時に力任せに古いタオルでゴシゴシと患部を拭いていたらしく、ピッチは母が近寄ると警戒するようになった。だから、また調子が悪くなったら有希が病院に連れて行くから連絡するように伝えていたのだけれど……。
――別に私、まだ全然動けるのに。
お腹は少し目立つようにはなってきてマタニティサイズの服の方が楽になっているが、それでもまだ外出は苦じゃないし、車だって普通に運転できる。だから猫を動物病院へ連れて行くことくらいは平気だ。
それを口を酸っぱくしながら伝えたつもりだったが、母にはちゃんと伝わっていなかったようだ。
「血流してる猫がウロウロしてるような家には、里帰りなんてできないから」
「だって、猫なんかのことで有希を呼び出したら、雅人さんに悪いじゃない……」
猫が可哀そう、は母には通じない。元々それほど動物が好きな人ではなかったので、目の前で犬や猫が弱っていっても「あら可哀そうね」と口では言うけれど、病院へ連れて行こうという発想は湧かないタイプだった。クロが入院した時も、有希が指示しなければそのまま放置されていたはずだ。
だから娘二人がマメに実家の様子を見に帰る必要があり、今回のことも猫の為ではなく、有希の里帰りの為にと論点をすり替えて説得するのが一番効果があった。
「分かったわ、次からはちゃんと連絡するから」
老猫達の世話をこのまま母に任せ続けていいのか不安は残るが、猫達にしてみても長年の住処を今さら変えられるのは辛いだろう。一日も早く、実家の近くに引っ越して来ないとと有希は大きく溜息を付いた。
かかりつけの動物病院は、入口の自動ドアを入って右が犬用、左が猫を含めた小動物用の待合スペースになっている。いつも通りに受付を済ませた後、有希は左側のベンチの足下にキャリーを置いてから腰を下ろした。ウサギやハムスターも診れるようだが、一度も遭遇したことはなかった。犬の診察の方が多いようで、猫を連れて来る人と会うこともたまにしかない。
「あら、まだ子猫?」
真っ白の長毛の猫が入ったキャリーを床に下ろしながら、上品そうなお婆さんが有希のキャリーの中を覗いて聞いてきた。広瀬家の猫達はメスばかりで、どちらかと言うと小柄だ。だから他所の子、特にオス猫を見るとあまりにも大きくてビックリする。奥で丸まっているピッチは身体は筋肉質だから体重はそこそこあるが、顔はとても小さい。オス猫飼いさんからすれば、成猫には見えないのだろう。
「いえ、もう16歳なんです」
「え、そんなに?! 長生きさんねぇ」
まだ5歳だという白猫はピッチの倍の大きさはあった。ピッチと似たようなサイズのキャリーがとても狭そうに見える。家にはまだ17歳の子もいると話すと、お婆さんは目を丸くして驚いていた。
「そんなに長生きするのなら、猫より私の方が先になるわね」
お婆さんの自虐的な台詞に、有希は半笑いを浮かべた。以前に父も、猫に向かって似たようなことを言っていたのを不意に思い出す。
病院慣れしていない白猫がキャリーの中で悲痛の声を上げているのを、ピッチは耳だけをピクピク動かして聞いているようだった。
入院の為にピッチを預けると、有希は空になったキャリーを抱えてそのまま自宅へと戻った。今回もまた大量の同意書にサインしたが、歯周病の治療と癌の腫瘍除去とでは同じ書類でも重みが違うように感じた。
「ピーちゃん、頑張ってね……」
「ナァー」
出血と鼻水とヨダレでべちゃべちゃになった顔で有希を見上げて、ピッチは掠れた声で返事してくれた。病院には慣れているはずだが、それでもやはり不安そうなピッチの顔が頭から離れない。
「お迎えに来てあげてください」そう電話が掛かって来たのは、術後1日が経過した夕方だった。
「少し貧血気味な子だったので、容態が落ち着くのに時間がかかりました」
有希が猫用の小狭い診察室へ入ると、診察台の上でピッチはちょこんと前足を揃えて座っていた。こちらを向いて「ナァー」と呼ぶ声はいつも通りで、嬉しそうにゴロゴロと喉まで鳴らしていた。
「ピーちゃん……」
血やヨダレで汚れてしまっていた顔や身体は拭いて貰ったのか、預けた時とは比べ物にならないほど綺麗になったピッチは、以前よりもかなり上向きで低い鼻先になっていた。
「腫瘍部分を取り除いたので、随分と顔が変わったと思います」
「何か、こういう顔の猫、いますよね」
「ああ、エキゾチックっぽいですね」
これはこれで可愛いです、と有希はよじ登ろうとしてくるピッチの背を撫でた。まだ見慣れないから違和感はあるが、ピッチが元気になったのならそれでいい。見た目が多少変わったとしても、この子の性格の良さが大好きなのだから。
元々からピッチは美猫という訳ではない。顎下の毛が黒かったせいで、生前の父からはヒゲさんと呼ばれ、いつも「ヒゲさん、今日も面白い顔してるなー」と揶揄われていた。だからもし、今のピッチを父が見たら「さらに面白い顔になったなー」と間違いなく大喜びしたことだろう。
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