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第三十七話・有希の入籍

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 近所にある神社の御神木から薄桃色の花が散り去り、新緑の葉桜へと完全に姿を変えた頃合い。上着を羽織らなくても良い日が増え、姉の花粉症も少しずつ落ち着いてくる季節。

「俺は一回やってるから、別にどっちでもいい。けど、有希がやりたいならやってもいいよ」

 挙式をやりたいとは一切言ってこない有希に、愛車のハンドルを握りながら雅人が申し訳なさそうに確認する。有希はウエディングに憧れるタイプではないけれど、もしかしたら自分に離婚歴があることを気にして言い出してこないだけなのかもと不安だった。

「二回目だから俺の方はご祝儀は受け取れないけど、呼べば友達は来てくれると思うし」

 学生時代から交際していた前妻は、ウエディングドレスを何着も着たいタイプだった。念入りに下見して散々こだわった挙式をした割に、2年もすれば家庭内別居状態になって、結局は別れることになったが。式をするかしないかはその後の結婚生活には何の影響も無いというのは身をもって知っている。だから、どちらでもいい。

 相手の希望に合わせるという雅人に、有希は眉を寄せて困惑の表情を浮かべる。拳一つ分だけ開いて風を感じていた窓を閉めると、外の音は遮断されて車のエンジン音がよく聞こえるようになった。

「えー、お父さんが居ないとバージンロードって私は誰と歩くの? 伯父さんとか? 伯父さんは全然関わりないし、ちょっと嫌かも……」
「そこは、お母さんだろ」
「じゃあ、お母さんの負担が大きくなることはしたくないし、挙式とかは無しで。フォトウエディングとか、そのくらいでいいよ」

 母からも、いつか子供に見せてあげれるように写真くらい残しておきなさい、とは言われていた。母も端から有希達が挙式はしないと思っているようで、それ以外は特に何も言われていない。父親が亡くなったばかりだし、相手はバツイチだし、有希は妊娠中だからと、挙式しなくても不自然じゃない言い訳は揃っている。
 しなくても文句言われないこの状況を、有希は何ならラッキーとさえ思っているくらいだった。世間体の為に、人前で花嫁のコスプレとかは勘弁だ。

 姉の時にはバージンロードを歩くのが恥ずかしいからと頑なに和式を主張した父。チャペルでの挙式を夢見ていた姉は随分と怒っていたが、父は最後まで譲らなかった。そして、披露宴では天井を見上げて何度も涙を堪えていた姿を思い出す。

 久しぶりに父のことを思い浮かべて涙ぐみ出した有希は、雅人が運転する車の助手席から窓の外に視線を移した。二人は今まさに婚姻届けを出しに市役所へと向かっているところだった。有希の住むK市での住民票の転出届などは既に終わっているので、このまま入籍と住民票の転入手続きをするつもりだ。新住所はとりあえず雅人が今住んでいるマンションに移すことにしたが、一緒に住むのはまだまだ先。

「心配だから、生まれるまでお母さんのとこに居てくれていいんだけど」
「さすがにそれは……とりあえず、ツワリが終わるまでは実家にいるつもりだし、臨月に入ったらまた里帰りさせてもらうよ」

 由依からは「有希はズルい」と言われた里帰り計画。体調の悪い時と産前産後を実家で甘え放題になるのを羨ましがられたが、実のところは母が一人暮らしになるのが心配だったし、姉も本心では賛成してくれていた。
 広い家に猫達と母だけになるのが気掛かりだった。姉妹のどちらかが一緒に住めるといいのだが、それは夫の理解が必要だ。

 ――きっと雅人もお義兄さんも、頼めばいいって言ってくれるとは思うけど……。

 嫁の実家での同居はいくら家賃負担が無くなると言っても、夫達には気疲れさせてしまうと思うとそう易々と口にできない。だからせめて、雅人と子供と一緒に住む部屋は実家から少しでも近いところで探そうとは思っていた。


「おめでとうございます」

 事前にネットで調べておいた必要な書類を全て提出し終えると、少し待つだけで入籍に関する手続きは終わった。話には聞いていたけれど、前準備をちゃんとしていれば籍を入れるのはとても呆気ない。
 市役所の職員からの事務的な祝福の言葉を受けたのを合図に、有希は広瀬有希から藤橋有希に名前が変わった。他の役所手続きと大差なく、戸籍が移動できてしまった。

 正直、何の実感も湧かない。まだ体調が安定しないから新婚旅行の予定もないし、生活拠点は実家のまま。少し早めの夕食を食べに行って、二人だけで入籍のお祝いをした後、いつも通りに家に送り届けてもらう。
 帰る家は別々で、これまでと少しも変わらない。ただ、出掛ける前とは戸籍上の苗字と住所が異なっているだけだ。入籍するだけなら、結婚なんて大した変化にもならない。だから皆、ちゃんと挙式をしてケジメをつけようとするんだなと改めて分かった気になる。

「ただいま。無事に籍入れてきたよ」
「あーあ。有希まで取られちゃったわ」

 帰宅して母に報告すると、冗談めかしてはいるが本気で寂しそうに言われた。もうこの家で広瀬の苗字を名乗っているのは母一人きりだ。曾祖父の代で始まったこの家は、母を最期に終わってしまう。少子化の今、こうやって代替わりせずに消えていく家はたくさんあるのだろう。

「まあ、私がまた広瀬に戻ることもあるかもしれないし、先のことは分かんないよ」
「こら、入籍したばかりで何言ってるの!」

 縁起でもないと貴美子はおかしそうに笑った。別にそこまで広瀬の家を守り抜くつもりもない。墓や仏壇のことは後の世代が上手いことやってくれればいいくらいにしか思っていないし、そういう家は近所でもたくさん見ている。

 ついに娘二人ともが嫁に行ってしまい、寂しいという気持ちは勿論本当だが、ホッとした気持ちも大きい。今後、自分も居なくなった後でも、娘達には傍で寄り添ってくれる相手がいて、それぞれが実家とは別の居場所が出来た。親として抱え続けていた心配事が、今日は一つ無くなったのだ。こんなに嬉しいことはない。
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