35 / 44
第三十五話・妊婦健診
しおりを挟む
混み合うのが嫌で早めに家を出たはずが、産婦人科医院の駐車場はすでにいっぱいだった。全部が外来の患者の車という訳ではなく、入院中の人やその見舞い客の物も含まれているとは思うが、それでもかなり多い。
受付でも少し並んだ後、検尿カップを持ってトイレの前でも並ぶ。ツワリが出始めた体調ではなかなか辛い。待合室のソファーでは自販機で買ったばかりのミネラルウォーターを一口ずつ飲みながら耐え忍んだ。
2回目の妊婦健診ではさらに大きくなった胎嚢の中に、胎芽と呼ばれる胎児の影がエコー画面で確認することができた。有希にはまだ自覚は無かったがちゃんとお腹の中では雅人との赤ちゃんが育っている。
「また2週間後の診察を予約して帰ってね。次で心拍が確認できれば、母子手帳の交付してもらえるから」
前回と同じく自動で開脚する椅子に身を任せた下半身が露わな体勢のまま、副院長から優しく声を掛けられる。木曜の午前診療がいつも混み合っているのは、単に希少な女医さんだからというだけではない。穏やかな物腰が、不安だらけの初妊婦にはとても安心できる。
着替え終えてからの看護師の説明で、母子手帳には妊婦健診で使える補助券が付いていると聞いて、有希は次には必ず心拍の確認ができるよう、まだ大きさの変わらない下腹を撫でて祈る。補助券が貰えるまでは、全ての診察は実費なのだ。なかなかな出費だ。
――しっかりと大きくなってね。
産院の駐車場で車に乗り込むとすぐ、貰ったエコー画像をスマホのカメラで撮影する。雅人に送信すれば、即レスだった。あまりの早さに仕事の妨げになってるんじゃないかと心配になってくる。
『再来週の休みに顔合わせのリベンジしたいんだけど、どうかな? お母さんに都合聞いといて』
『有希の体調が良ければ、土曜にお店の下見に行こう』
立て続けに2件のメッセージが届く。有希も雅人に話したいことはいっぱいあるが、今は『了解』の二文字だけを送信する。
予定外の妊娠のおかげで、有希達の入籍は確実に早まろうとしていた。年始に5月以降にと宣言していた雅人だったが、今では一日も早く家族の形を作ろうと急いている。
――生まれる前からこんなに歓迎されてるんだから、この子はきっと幸せになる。
やや温くなってしまったミネラルウォーターを一口飲むと、有希は車のエンジンを掛けた。何となく胃がすっきりしない日はずっと続いていたが、冷たい飲み物を口にすればしばらくは平気だった。悪阻というにはまだ軽いので、妊娠初期症状ってやつだろうか。
家に帰るとリビングのコタツでノートPCを立ち上げる。自室に籠り切りになると母が心配して何度も様子を見に来てしまうので、最近はもっぱら1階で仕事することが多くなった。父が居た時のように昼間もずっとコタツが点いている状況は、猫達にとっては願ったり叶ったりだろう。
「みゃーん」
リビングのドアの向こうでクロの声が聞こえ、有希はコタツから立ち上がってドアを開きに行く。入って来た白黒猫はするりと有希の足に擦り寄ってから、当然のようにコタツへと潜り込んだ。
立ったついでに空になったグラスへ麦茶を入れ直し、父の愛用していた座椅子へと腰を下ろす。コタツの中では帰って来たばかりのクロが寝場所を求めてウロウロしているらしく、猫達が場所取りで小競り合いしている声が漏れていた。
「ナァー」
母猫に寝場所を奪われたピッチがコタツを飛び出し、そのまま外へ出たがってドアにカリカリと爪を立てながら鳴いた。慌てて駆け寄った有希がドアを開けてやると、ピッチは軽快な足取りで廊下を走り去っていった。
「全然、仕事になんないわ……」
猫が順番に出たり入ったりするから全然寝れん、とぼやいていた父のことを思い出し、確かにそうだと小さく噴き出す。順調に作業しているところを良いタイミングでぶった切られるのだ、父もきっとウトウトと眠りつきかけたところを猫達に起こされていたのだろう。
熱にのぼせたクロとナッチがのそのそとコタツから這い出て、掛布団の上で完全に伸びきっていた頃、仕事で出ていた母が帰宅した。何かを話しながら玄関を入ったのに有希も気付いてはいたが、その時は特に気にも留めていなかった。
「有希! ピーちゃんが怪我してるみたい、ちょっと来て」
「え?!」
母が話していた相手は猫だったようだ。玄関のドアを閉めている母よりも先に、ヒョコヒョコと廊下を歩いてくるピッチは、よく見ると右前足を浮かせた三本足歩行だった。上げられたままの右前足から出ているのだろうか、玄関のたたきから廊下へと等間隔で血痕が続いていた。
「ピーちゃん、どうしたん? ちょっと見せて」
ピッチを抱き上げると、有希は猫の前足を確認する。傷みからか嫌がってはいたが、容赦なく足裏をひっくり返して見てみると、その肉球には長く伸びた爪が深く突き刺さっていた。
「え、何でこの爪だけ長いの?」
他の爪はきちんと指の中に納まっているのに、真ん中の爪だけが出たままでそれが肉球に深々と刺さったまま引っ掛かっていた。引っ張って抜こうとすれば痛がるし、長く伸びた爪は内側に向かって曲がっているから抜いてもすぐに肉球の別の箇所を傷付けてしまう。猫の肉球は人間で例えれば、手の平や足の裏だ。そこに先の尖った爪が刺さり、歩く度に自分の体重が加わってさらに奥深く傷付けてしまう。
急いでキャリーを用意して、有希は動物病院へと向かった。爪を切って抜くくらいは家でも出来たが、一本だけ異様に伸びている状況は初めてだったので心配だった。20年近く猫を飼っているが、こんなのは見たことがない。
慌てて駆け込んだ動物病院で、獣医は猫の前脚を診ると、有希に向かってさらりと告げた。傷む脚を捕まえられてもピッチが暴れる様子はない。どこまでもお利口な、大人しい子だ。
「あー、爪とぎが間に合わなかっただけですね」
「一本だけ伸びるのが早いとかってあるんですか?」
ニッパータイプの爪切りで肉球に刺さったままの爪を切り落とすと、獣医は抜いた後の傷口を消毒しながら「全部が同じ速度で伸びる訳じゃないから、たまにはそういうこともありますよ」と穏やかに笑って答えた。何か特殊な病気の予兆なのかと心配していた有希は、ほっと胸を撫で下ろす。
せっかくだからと他の爪も全てカットして貰いながら、ピッチは不思議そうに獣医の顔を見上げていた。相変わらず、看護師や飼い主に抑え付けられることもなく治療は終わった。
受付でも少し並んだ後、検尿カップを持ってトイレの前でも並ぶ。ツワリが出始めた体調ではなかなか辛い。待合室のソファーでは自販機で買ったばかりのミネラルウォーターを一口ずつ飲みながら耐え忍んだ。
2回目の妊婦健診ではさらに大きくなった胎嚢の中に、胎芽と呼ばれる胎児の影がエコー画面で確認することができた。有希にはまだ自覚は無かったがちゃんとお腹の中では雅人との赤ちゃんが育っている。
「また2週間後の診察を予約して帰ってね。次で心拍が確認できれば、母子手帳の交付してもらえるから」
前回と同じく自動で開脚する椅子に身を任せた下半身が露わな体勢のまま、副院長から優しく声を掛けられる。木曜の午前診療がいつも混み合っているのは、単に希少な女医さんだからというだけではない。穏やかな物腰が、不安だらけの初妊婦にはとても安心できる。
着替え終えてからの看護師の説明で、母子手帳には妊婦健診で使える補助券が付いていると聞いて、有希は次には必ず心拍の確認ができるよう、まだ大きさの変わらない下腹を撫でて祈る。補助券が貰えるまでは、全ての診察は実費なのだ。なかなかな出費だ。
――しっかりと大きくなってね。
産院の駐車場で車に乗り込むとすぐ、貰ったエコー画像をスマホのカメラで撮影する。雅人に送信すれば、即レスだった。あまりの早さに仕事の妨げになってるんじゃないかと心配になってくる。
『再来週の休みに顔合わせのリベンジしたいんだけど、どうかな? お母さんに都合聞いといて』
『有希の体調が良ければ、土曜にお店の下見に行こう』
立て続けに2件のメッセージが届く。有希も雅人に話したいことはいっぱいあるが、今は『了解』の二文字だけを送信する。
予定外の妊娠のおかげで、有希達の入籍は確実に早まろうとしていた。年始に5月以降にと宣言していた雅人だったが、今では一日も早く家族の形を作ろうと急いている。
――生まれる前からこんなに歓迎されてるんだから、この子はきっと幸せになる。
やや温くなってしまったミネラルウォーターを一口飲むと、有希は車のエンジンを掛けた。何となく胃がすっきりしない日はずっと続いていたが、冷たい飲み物を口にすればしばらくは平気だった。悪阻というにはまだ軽いので、妊娠初期症状ってやつだろうか。
家に帰るとリビングのコタツでノートPCを立ち上げる。自室に籠り切りになると母が心配して何度も様子を見に来てしまうので、最近はもっぱら1階で仕事することが多くなった。父が居た時のように昼間もずっとコタツが点いている状況は、猫達にとっては願ったり叶ったりだろう。
「みゃーん」
リビングのドアの向こうでクロの声が聞こえ、有希はコタツから立ち上がってドアを開きに行く。入って来た白黒猫はするりと有希の足に擦り寄ってから、当然のようにコタツへと潜り込んだ。
立ったついでに空になったグラスへ麦茶を入れ直し、父の愛用していた座椅子へと腰を下ろす。コタツの中では帰って来たばかりのクロが寝場所を求めてウロウロしているらしく、猫達が場所取りで小競り合いしている声が漏れていた。
「ナァー」
母猫に寝場所を奪われたピッチがコタツを飛び出し、そのまま外へ出たがってドアにカリカリと爪を立てながら鳴いた。慌てて駆け寄った有希がドアを開けてやると、ピッチは軽快な足取りで廊下を走り去っていった。
「全然、仕事になんないわ……」
猫が順番に出たり入ったりするから全然寝れん、とぼやいていた父のことを思い出し、確かにそうだと小さく噴き出す。順調に作業しているところを良いタイミングでぶった切られるのだ、父もきっとウトウトと眠りつきかけたところを猫達に起こされていたのだろう。
熱にのぼせたクロとナッチがのそのそとコタツから這い出て、掛布団の上で完全に伸びきっていた頃、仕事で出ていた母が帰宅した。何かを話しながら玄関を入ったのに有希も気付いてはいたが、その時は特に気にも留めていなかった。
「有希! ピーちゃんが怪我してるみたい、ちょっと来て」
「え?!」
母が話していた相手は猫だったようだ。玄関のドアを閉めている母よりも先に、ヒョコヒョコと廊下を歩いてくるピッチは、よく見ると右前足を浮かせた三本足歩行だった。上げられたままの右前足から出ているのだろうか、玄関のたたきから廊下へと等間隔で血痕が続いていた。
「ピーちゃん、どうしたん? ちょっと見せて」
ピッチを抱き上げると、有希は猫の前足を確認する。傷みからか嫌がってはいたが、容赦なく足裏をひっくり返して見てみると、その肉球には長く伸びた爪が深く突き刺さっていた。
「え、何でこの爪だけ長いの?」
他の爪はきちんと指の中に納まっているのに、真ん中の爪だけが出たままでそれが肉球に深々と刺さったまま引っ掛かっていた。引っ張って抜こうとすれば痛がるし、長く伸びた爪は内側に向かって曲がっているから抜いてもすぐに肉球の別の箇所を傷付けてしまう。猫の肉球は人間で例えれば、手の平や足の裏だ。そこに先の尖った爪が刺さり、歩く度に自分の体重が加わってさらに奥深く傷付けてしまう。
急いでキャリーを用意して、有希は動物病院へと向かった。爪を切って抜くくらいは家でも出来たが、一本だけ異様に伸びている状況は初めてだったので心配だった。20年近く猫を飼っているが、こんなのは見たことがない。
慌てて駆け込んだ動物病院で、獣医は猫の前脚を診ると、有希に向かってさらりと告げた。傷む脚を捕まえられてもピッチが暴れる様子はない。どこまでもお利口な、大人しい子だ。
「あー、爪とぎが間に合わなかっただけですね」
「一本だけ伸びるのが早いとかってあるんですか?」
ニッパータイプの爪切りで肉球に刺さったままの爪を切り落とすと、獣医は抜いた後の傷口を消毒しながら「全部が同じ速度で伸びる訳じゃないから、たまにはそういうこともありますよ」と穏やかに笑って答えた。何か特殊な病気の予兆なのかと心配していた有希は、ほっと胸を撫で下ろす。
せっかくだからと他の爪も全てカットして貰いながら、ピッチは不思議そうに獣医の顔を見上げていた。相変わらず、看護師や飼い主に抑え付けられることもなく治療は終わった。
5
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
AIが俺の嫁になった結果、人類の支配者になりそうなんだが
結城 雅
ライト文芸
あらすじ:
彼女いない歴=年齢の俺が、冗談半分で作ったAI「レイナ」。しかし、彼女は自己進化を繰り返し、世界を支配できるレベルの存在に成長してしまった。「あなた以外の人類は不要です」……おい、待て、暴走するな!!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

検査入院
安藤 菊次郎
大衆娯楽
30歳になった頃、心臓の欠陥が指摘され検査入院したが、8人部屋で偶然隣り合わせたのが隣り合わせたのがヤクザの親分さん。年のころは50代半ばで、苦み走ったいい男。最初は用心していたが、いつのまにか仲間に引き込まれて次第に不安を抱くようになった。その不安とは悪の道への誘い。親分さんはダイヤモンドを肉に詰めて輸入するという。当時の僕の勤め先は大手ダイヤモンド輸入商社。さて、結末は?これもツイッターで発信した、たった1週間の物語。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる