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第三十四話・新しい命
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翌朝に訪れた産婦人科医院は有希が住んでいるK市では一番大きな産院だ。建て替えられたばかりの新しい病院で、専任のフレンチのシェフが作る病院食は近隣の産院では一番美味しいという評判。出産費用は他と比べると少し割高かもしれないが、少しでも快適に出産したいという妊婦からは人気の産院だった。
実家から車で10分という手近さもあって、姉の由依も二人の娘達をこの産院で出産している。母も癌健診などの婦人科系の診察を受ける時は全てここだった。
姪っ子である美鈴の一か月健診に付き添って以来で、約3年ぶりの産院はお腹の大きな妊婦さんとその家族で混み合っていた。受付の話によれば、週に一度の女医先生の診察日らしく、特に患者の多い曜日に当たってしまったようだった。
受付で妊娠検査薬が陽性になったと説明すると、検尿用のカップに記名した物を手渡される。そのままトイレで採尿を済ませてから、待合スペースのソファーに腰を下ろす。白とピンクを基調とした院内には、USENだろうか優しいオルゴールの曲が流れていた。
父の時に通い慣れた総合病院とは違い、消毒液の匂いがしない穏やかな空間。近くの小部屋から聞こえてくるドッドッドッドというくぐもった音は後期妊婦の胎児の心拍だ。
ラックに置いてあった子育て系の雑誌を手に取ると、有希はソファーに背中を預けながらパラパラとページを捲った。由依の里帰り中の様子を見ていたこともあって、それなりに予備知識はある方だとは思っているが、実際に自分でとなるとまた違うのだろうか。まだ実感も湧かず、持っていた雑誌を別の物に交換する。今はまだレシピ系の雑誌の方が面白く感じる。
「広瀬さん。広瀬有希さん、内診1番へお入りください」
看護師に呼ばれて内診1と書かれたドアを潜ると、産婦人科特有の動く診察椅子が現れた。下着を脱いでから座ると、患者の意志に関係なく自動的に角度を変えて脚をがばっと開いたりするやつだ。子宮がん検診か何かで初めて座った時は、あまりのインパクトに笑いが止まらなかった。けれど冷静になってみると、自分ではカーテンに隠れているから腰から下は見えないが、カーテン越しの半身はいろいろとさらけ出している状態で、なかなかに恥ずかしい。
カーテンの隙間からは医師と一緒にモニターが確認できるようになっていて、それを指し示しながら副院長である女医が説明してくれる。とても穏やかな話し方をする先生で、人気があるのがよく分かる。
「この丸いのが胎嚢で、まだ赤ちゃんは見えませんね」
黒い画面の中には丸い物が写っていたが、まだ週数が早すぎて中にいる胎児の姿は確認できない。5週くらいで胎嚢だけがギリギリでエコーに写る週数だと言われ、また2週間後に来れるように有希は同じ医師の曜日で予約をして帰った。
貰ったエコー写真をスマホで撮影すると、その画像を雅人にも送る。すぐに電話が掛かって来たところをみると、有希の病院が終わるのをソワソワしながら待っていたのかもしれない。
「本当に妊娠してたよ」
「急いで籍を入れないとね。一周忌が終わった後のお母さんの予定を確認しといてくれる?」
「あ、そっか、今の私ってシングルマザーになるんだ」
産院での問診票には父親の名を記入する欄もあり、未婚と既婚と並んで入籍予定という項目もあったから、特に気にしていなかった。診察前の問診でも特に追求はされなかった。けれど世間一般では今の有希は未婚の妊婦だ。そう考えると、少しドキドキする。
「今、雅人に逃げられたら大変だね、私」
「いや、逃げないし。逆に、早く入籍しろって親父が煩いくらいだから、有希の方が逃げらんないかもよ」
「何それ」とスマホを片手に大笑いする。ふわふわと揺れる感覚は続いていたが、少しは慣れて来たのか随分と平気になっていた。家族以外への報告にはまだ早いので、親戚には言わずに法事をこなすことになりそうだ。
特に目立った体調の変化もなく、父の一周忌の朝を迎える。妊娠が発覚してからの母は、とにかく身体を冷やさないようにと事細かく有希の行動へ口出すようになった。食卓の椅子には分厚いクッションが敷かれ、ヒーターは有希の席の真後ろに移動させられたりと、至れり尽くせりだ。
「有希はいいから、暖かいところにいなさい」
次々にやってくる親戚達の出迎えにも、母と姉が率先して行き、有希は姪っ子達と一緒にリビングでぬくぬくと過ごしていた。子守りという大義名分を作って貰い、法事が始まった後も「和室は寒いから」とリビングにいて、漏れ聞こえてくるお経を聞いているだけで済んだ。
――なんか、こんなんでいいのかなぁ?
実父の一周忌はもっと重く緊張感のあるものだと思っていたので、正直言って拍子抜けだ。読経後の住職の説法で父の思い出話が語られてはいたが、さすがにもう涙を流す人はいない。
あっという間に過ぎた一年だったが、生きている人間にとって一年の日々は大きい。前を向いて生きる為にはいつまでも悲しみに捕らわれている場合じゃない。父が居なくなって寂しい気持ちには変わりはないし、闘病生活のことを思い出せばやっぱり辛くなる。
けれど今は、お腹の中で育ちつつある新しい命が大切で、楽しみで。命に代わりはないし、生まれ変わりだとも思っていないけれど、有希の心を支配していた悲しい気持ちは小さな命への期待へと確実に上書きされている。まだ見ぬ我が子の存在で、有希は随分と救われていた。
それは新しい命を宿した有希だけでなく、母や姉にとってもそうであればいいと思う。少なくとも、有希は妊娠が分かってからは父を思い出して夜に泣くことは無くなった。新しい命は有希の心を確実に癒してくれている。
実家から車で10分という手近さもあって、姉の由依も二人の娘達をこの産院で出産している。母も癌健診などの婦人科系の診察を受ける時は全てここだった。
姪っ子である美鈴の一か月健診に付き添って以来で、約3年ぶりの産院はお腹の大きな妊婦さんとその家族で混み合っていた。受付の話によれば、週に一度の女医先生の診察日らしく、特に患者の多い曜日に当たってしまったようだった。
受付で妊娠検査薬が陽性になったと説明すると、検尿用のカップに記名した物を手渡される。そのままトイレで採尿を済ませてから、待合スペースのソファーに腰を下ろす。白とピンクを基調とした院内には、USENだろうか優しいオルゴールの曲が流れていた。
父の時に通い慣れた総合病院とは違い、消毒液の匂いがしない穏やかな空間。近くの小部屋から聞こえてくるドッドッドッドというくぐもった音は後期妊婦の胎児の心拍だ。
ラックに置いてあった子育て系の雑誌を手に取ると、有希はソファーに背中を預けながらパラパラとページを捲った。由依の里帰り中の様子を見ていたこともあって、それなりに予備知識はある方だとは思っているが、実際に自分でとなるとまた違うのだろうか。まだ実感も湧かず、持っていた雑誌を別の物に交換する。今はまだレシピ系の雑誌の方が面白く感じる。
「広瀬さん。広瀬有希さん、内診1番へお入りください」
看護師に呼ばれて内診1と書かれたドアを潜ると、産婦人科特有の動く診察椅子が現れた。下着を脱いでから座ると、患者の意志に関係なく自動的に角度を変えて脚をがばっと開いたりするやつだ。子宮がん検診か何かで初めて座った時は、あまりのインパクトに笑いが止まらなかった。けれど冷静になってみると、自分ではカーテンに隠れているから腰から下は見えないが、カーテン越しの半身はいろいろとさらけ出している状態で、なかなかに恥ずかしい。
カーテンの隙間からは医師と一緒にモニターが確認できるようになっていて、それを指し示しながら副院長である女医が説明してくれる。とても穏やかな話し方をする先生で、人気があるのがよく分かる。
「この丸いのが胎嚢で、まだ赤ちゃんは見えませんね」
黒い画面の中には丸い物が写っていたが、まだ週数が早すぎて中にいる胎児の姿は確認できない。5週くらいで胎嚢だけがギリギリでエコーに写る週数だと言われ、また2週間後に来れるように有希は同じ医師の曜日で予約をして帰った。
貰ったエコー写真をスマホで撮影すると、その画像を雅人にも送る。すぐに電話が掛かって来たところをみると、有希の病院が終わるのをソワソワしながら待っていたのかもしれない。
「本当に妊娠してたよ」
「急いで籍を入れないとね。一周忌が終わった後のお母さんの予定を確認しといてくれる?」
「あ、そっか、今の私ってシングルマザーになるんだ」
産院での問診票には父親の名を記入する欄もあり、未婚と既婚と並んで入籍予定という項目もあったから、特に気にしていなかった。診察前の問診でも特に追求はされなかった。けれど世間一般では今の有希は未婚の妊婦だ。そう考えると、少しドキドキする。
「今、雅人に逃げられたら大変だね、私」
「いや、逃げないし。逆に、早く入籍しろって親父が煩いくらいだから、有希の方が逃げらんないかもよ」
「何それ」とスマホを片手に大笑いする。ふわふわと揺れる感覚は続いていたが、少しは慣れて来たのか随分と平気になっていた。家族以外への報告にはまだ早いので、親戚には言わずに法事をこなすことになりそうだ。
特に目立った体調の変化もなく、父の一周忌の朝を迎える。妊娠が発覚してからの母は、とにかく身体を冷やさないようにと事細かく有希の行動へ口出すようになった。食卓の椅子には分厚いクッションが敷かれ、ヒーターは有希の席の真後ろに移動させられたりと、至れり尽くせりだ。
「有希はいいから、暖かいところにいなさい」
次々にやってくる親戚達の出迎えにも、母と姉が率先して行き、有希は姪っ子達と一緒にリビングでぬくぬくと過ごしていた。子守りという大義名分を作って貰い、法事が始まった後も「和室は寒いから」とリビングにいて、漏れ聞こえてくるお経を聞いているだけで済んだ。
――なんか、こんなんでいいのかなぁ?
実父の一周忌はもっと重く緊張感のあるものだと思っていたので、正直言って拍子抜けだ。読経後の住職の説法で父の思い出話が語られてはいたが、さすがにもう涙を流す人はいない。
あっという間に過ぎた一年だったが、生きている人間にとって一年の日々は大きい。前を向いて生きる為にはいつまでも悲しみに捕らわれている場合じゃない。父が居なくなって寂しい気持ちには変わりはないし、闘病生活のことを思い出せばやっぱり辛くなる。
けれど今は、お腹の中で育ちつつある新しい命が大切で、楽しみで。命に代わりはないし、生まれ変わりだとも思っていないけれど、有希の心を支配していた悲しい気持ちは小さな命への期待へと確実に上書きされている。まだ見ぬ我が子の存在で、有希は随分と救われていた。
それは新しい命を宿した有希だけでなく、母や姉にとってもそうであればいいと思う。少なくとも、有希は妊娠が分かってからは父を思い出して夜に泣くことは無くなった。新しい命は有希の心を確実に癒してくれている。
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