33 / 44
第三十三話・母への報告
しおりを挟む
階段を降りていくと、キッチンからは鰹出汁の優しい香りが漂ってくる。首を伸ばしてカウンターの中を覗けば、母が一人用サイズの土鍋2個を同時にコンロにかけていた。猫達の姿は見えないから、三匹ともコタツの中に集結しているのだろうか。コタツの電気がついていない時は中で身を寄せ合って眠っていることが多い。
「今日は鍋焼きうどん?」
「そうよ」
蓋を開けて卵を落とし、再び蓋を閉じてから火を弱める。母の作る鍋焼きうどんは冬野菜がたっぷり入っているので、鍋焼きというよりはうどんが入った一人鍋だ。具沢山でボリューム満点だし、洗い物も少なくて済むから冬場の食卓には頻繁に登場する。具はありあわせの野菜を適当に放り込んだ感じだから、冷蔵庫の整理にもなるのだ。
ダイニングテーブルにランチョンマットを敷き、二人分のお箸を並べると有希は冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出した。グラスにお茶を注ぎ入れてから立ったまま一気に半分を飲み干すと、ふぅっと大きく息を吐く。すっきりしない胃が、冷えた麦茶で少しだけ落ち着いてきた。
いきなりの妊娠報告はどう切り出していいのかが分からない。深刻な内容だから、食べ終わってからゆっくり話せばいいかと思ったが、リビングの壁掛け時計が目に入る。雅人が仕事の終わる時間が近付いていた。
――雅人に先を越されるのだけは、マズい。先に自分の口から報告しなきゃ。
「あのさ、お母さん」
「ん、ちょっとどいて、熱いから」
両手にミトンを嵌めて一人鍋を運んでいる母に、有希は急いで道を開ける。蓋を開けて貰った小さな土鍋からは湯気が立ち上った。自分の分の鍋も運び終えた母は席に着くと、いただきますと両手を合わせる。
「いただきます。――じゃなくて、あのね、お母さん」
母に釣られて手を合わせた有希は、慌てて言葉を打ち消す。母親を相手に取り繕ってもしょうがない。順を追って、ありのままを伝えるしかない。姿勢を正し、母の顔を真正面から見ながら口を開く。
親に向かって改まって話をするなんて、いつぶりだろう。大学を卒業してから勤めていた会社を辞めて、フリーでやっていくことを決めた時以来かもしれない。あの時以上に言い出しにくいし、いまいち切り出し方もよく分からない。
「最近ちょっと体調が悪くてね、まさかと思ってさっき検査薬を使ってみたら、陽性だった。私、妊娠してるみたい。明日、病院に行ってくるつもり」
いきなりの次女の衝撃報告に、貴美子は驚いて箸を置いた。ぱちぱちと大きく瞬きした後、はぁっと溜息を漏らす。
「そっか。今は気分はどうなの? ご飯は食べられそう?」
「うん、大丈夫。朝に少し眩暈がしただけ」
まぁ、ちゃんと籍を入れるつもりなんだし、と特に怒っている様子はない。有希の身体を心配したり、病院は由依が出産した産婦人科がいいかしらと少し浮かれている節はあった。ただ、どこか寂しそうでもあった。
「あとで雅人が家に電話するって。自分からも直接報告したいみたい」
「そうなの? こういう時って何て言ったらいいのかしらね。おめでとう、とか?」
この場合、おめでとうは何か違うかもね、と二人で笑い合う。順番が違うでしょって試しにキレてみようかしらとふざける母に、
「お父さんがいたら、何て言ったかなぁ?」
「お父さんは有希には甘いから、結婚するんやから別に構わへん、って言うと思うわ」
思えば父から何かを反対されたことは一度も無い。無茶なお願いをしたことが無かったせいもあるが、何でも「したいようにしたらいい」と許して貰ってばかりだった。
かと言って、子育てに口を出さない人でもなく、長女である由依はよく父と揉めていた。
今日に限って仕事が長引いてしまったのか、自宅の電話が鳴ったのは有希が夕食を食べ終えてからお風呂に入っている時だったらしい。雅人から聞くところ、母は「こいう時、何て言ったらいいのか分からないけど、とりあえずおめでとうって言っておくわね」と、あんなに笑っていたのにやっぱり「おめでとう」と言ってしまったらしい。
「うちの親にも電話したら、めちゃくちゃ喜んでたよ。待望の初孫だから、早く籍入れろって」
「え、もう言っちゃったの?! まだ病院にも行ってないのに……」
「ごめん、嬉しくて黙ってらんなかった」
病院はもう少し様子を見てからにする、なんてことは口が裂けても言えない状況だ。朝一で行かないといろんなところから怒られそうで、有希は保険証の準備をしてからベッドに入った。
「私でも、ちゃんと親になれるのかなぁ」
先に布団に潜り込んでいたクロの頭を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らして身体に擦り寄ってくる。子供も孫も育てた経験のあるクロが励ましてくれているみたいで、有希はぎゅっと猫を抱き締めた。ふわふわの猫毛は陽だまりの優しい匂いがする。
目を瞑っても、その夜は父のことを思い浮かべて泣くことは無かった。お腹の中に宿っている新しい命のことだけを考えている内にいつの間にか眠りについていた。
「今日は鍋焼きうどん?」
「そうよ」
蓋を開けて卵を落とし、再び蓋を閉じてから火を弱める。母の作る鍋焼きうどんは冬野菜がたっぷり入っているので、鍋焼きというよりはうどんが入った一人鍋だ。具沢山でボリューム満点だし、洗い物も少なくて済むから冬場の食卓には頻繁に登場する。具はありあわせの野菜を適当に放り込んだ感じだから、冷蔵庫の整理にもなるのだ。
ダイニングテーブルにランチョンマットを敷き、二人分のお箸を並べると有希は冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出した。グラスにお茶を注ぎ入れてから立ったまま一気に半分を飲み干すと、ふぅっと大きく息を吐く。すっきりしない胃が、冷えた麦茶で少しだけ落ち着いてきた。
いきなりの妊娠報告はどう切り出していいのかが分からない。深刻な内容だから、食べ終わってからゆっくり話せばいいかと思ったが、リビングの壁掛け時計が目に入る。雅人が仕事の終わる時間が近付いていた。
――雅人に先を越されるのだけは、マズい。先に自分の口から報告しなきゃ。
「あのさ、お母さん」
「ん、ちょっとどいて、熱いから」
両手にミトンを嵌めて一人鍋を運んでいる母に、有希は急いで道を開ける。蓋を開けて貰った小さな土鍋からは湯気が立ち上った。自分の分の鍋も運び終えた母は席に着くと、いただきますと両手を合わせる。
「いただきます。――じゃなくて、あのね、お母さん」
母に釣られて手を合わせた有希は、慌てて言葉を打ち消す。母親を相手に取り繕ってもしょうがない。順を追って、ありのままを伝えるしかない。姿勢を正し、母の顔を真正面から見ながら口を開く。
親に向かって改まって話をするなんて、いつぶりだろう。大学を卒業してから勤めていた会社を辞めて、フリーでやっていくことを決めた時以来かもしれない。あの時以上に言い出しにくいし、いまいち切り出し方もよく分からない。
「最近ちょっと体調が悪くてね、まさかと思ってさっき検査薬を使ってみたら、陽性だった。私、妊娠してるみたい。明日、病院に行ってくるつもり」
いきなりの次女の衝撃報告に、貴美子は驚いて箸を置いた。ぱちぱちと大きく瞬きした後、はぁっと溜息を漏らす。
「そっか。今は気分はどうなの? ご飯は食べられそう?」
「うん、大丈夫。朝に少し眩暈がしただけ」
まぁ、ちゃんと籍を入れるつもりなんだし、と特に怒っている様子はない。有希の身体を心配したり、病院は由依が出産した産婦人科がいいかしらと少し浮かれている節はあった。ただ、どこか寂しそうでもあった。
「あとで雅人が家に電話するって。自分からも直接報告したいみたい」
「そうなの? こういう時って何て言ったらいいのかしらね。おめでとう、とか?」
この場合、おめでとうは何か違うかもね、と二人で笑い合う。順番が違うでしょって試しにキレてみようかしらとふざける母に、
「お父さんがいたら、何て言ったかなぁ?」
「お父さんは有希には甘いから、結婚するんやから別に構わへん、って言うと思うわ」
思えば父から何かを反対されたことは一度も無い。無茶なお願いをしたことが無かったせいもあるが、何でも「したいようにしたらいい」と許して貰ってばかりだった。
かと言って、子育てに口を出さない人でもなく、長女である由依はよく父と揉めていた。
今日に限って仕事が長引いてしまったのか、自宅の電話が鳴ったのは有希が夕食を食べ終えてからお風呂に入っている時だったらしい。雅人から聞くところ、母は「こいう時、何て言ったらいいのか分からないけど、とりあえずおめでとうって言っておくわね」と、あんなに笑っていたのにやっぱり「おめでとう」と言ってしまったらしい。
「うちの親にも電話したら、めちゃくちゃ喜んでたよ。待望の初孫だから、早く籍入れろって」
「え、もう言っちゃったの?! まだ病院にも行ってないのに……」
「ごめん、嬉しくて黙ってらんなかった」
病院はもう少し様子を見てからにする、なんてことは口が裂けても言えない状況だ。朝一で行かないといろんなところから怒られそうで、有希は保険証の準備をしてからベッドに入った。
「私でも、ちゃんと親になれるのかなぁ」
先に布団に潜り込んでいたクロの頭を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らして身体に擦り寄ってくる。子供も孫も育てた経験のあるクロが励ましてくれているみたいで、有希はぎゅっと猫を抱き締めた。ふわふわの猫毛は陽だまりの優しい匂いがする。
目を瞑っても、その夜は父のことを思い浮かべて泣くことは無かった。お腹の中に宿っている新しい命のことだけを考えている内にいつの間にか眠りについていた。
5
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
AIが俺の嫁になった結果、人類の支配者になりそうなんだが
結城 雅
ライト文芸
あらすじ:
彼女いない歴=年齢の俺が、冗談半分で作ったAI「レイナ」。しかし、彼女は自己進化を繰り返し、世界を支配できるレベルの存在に成長してしまった。「あなた以外の人類は不要です」……おい、待て、暴走するな!!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

検査入院
安藤 菊次郎
大衆娯楽
30歳になった頃、心臓の欠陥が指摘され検査入院したが、8人部屋で偶然隣り合わせたのが隣り合わせたのがヤクザの親分さん。年のころは50代半ばで、苦み走ったいい男。最初は用心していたが、いつのまにか仲間に引き込まれて次第に不安を抱くようになった。その不安とは悪の道への誘い。親分さんはダイヤモンドを肉に詰めて輸入するという。当時の僕の勤め先は大手ダイヤモンド輸入商社。さて、結末は?これもツイッターで発信した、たった1週間の物語。
お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。
「だって顔に大きな傷があるんだもん!」
体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。
実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。
寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

あなたが居なくなった後
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの専業主婦。
まだ生後1か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。
朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。
乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。
会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願う宏樹。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる