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第二十九話・父の死後
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広瀬家のダイニングに置かれた四人掛けのテーブルは半分が空席になり、満席になることは稀だった。母と二人で向かい合って食べる夕食は静かで、テーブルが広すぎて落ち着かなかった。
ただ、たまに猫が丸まって眠っていることがあって、特にナッチがテーブルの下で隠れるように椅子に乗っていることは多かった。椅子を引いてみて重ければ誰かが乗っているから、そういう場合は諦めて別の椅子を使うことになる。たまに二連チャンで猫を引き当てしまうことがあり、そういう場合は笑えてきて一気に力が抜けてしまう。猫は人を脱力させる天才かもしれない。
――私が雅人のところへ行ってしまったら、お母さんは一人ぼっちになってしまうんだ……。
もう病院での付き添いの必要も無くなったから、週末には恋人の雅人のマンションに押しかける生活が戻っていた。母がこの家で一人きりになっている時、どう過ごしているのかは知らない。猫達がいるから話し相手には不自由してないだろうけど。
今のように週に数日だけのことなら平気だろうが、有希が雅人と結婚して実家を出てしまえば、母はずっと一人になってしまうのだ。姉の由依が週に何度かは家庭菜園を荒らしにくるけれど、それはまた話が違う。
「お父さんの一周忌が終わるまでは家にいてね」
何かの際に母から言われた。母自身も、次女がいずれは出て行くものだと思っているのだ。
家族はどんどん減っていく。有希が子供の頃は祖父母も元気で、大家族で毎日が賑やかだった。家に誰もいないなんてことは全く無く、玄関の鍵はいつでも開けっ放しだった。
六人掛けの大きなダイニングテーブルはいつの間にか四人掛けの物へと買い替えられ、そして今はその半分しか使われていない。二人で住むにはこの家は大きすぎる。それが今度は母一人になるのだ。
由依が嫁いだ後、母は一週間くらいは寂しくて泣いたと言っていた。父が亡くなった今、また母は夜寝る前にこっそり泣いているのだろうか。
外で夫婦で歩いている人を見かけると「ああ、あの人にはまだいはるんや、って思ってしまうわ」と漏らしていた貴美子。母はまだ50代だ、未亡人になるには早く、周りのほとんどが夫婦共に健在だった。夫婦揃っている人達を見かけると少し辛くなると嘆く。
父のことを思い出すと、有希だって涙が止まらなくなる。父の病気が発覚して木下医師から説明を受けた時のことや、庭先でぼーっと立ち尽くしている父の後ろ姿を見てしまった時のこと。元気だった父の姿ではなく、ショックだった瞬間の方が鮮明な記憶となって甦る。悲しい気持ちがフラッシュバックして、涙が溢れでてしまうのだ。
夜中に泣き出す有希のことを雅人はいつも何も聞かずに黙って抱き締めて慰めてくれた。
「神社の巫女をやってるおばさんいるでしょ、あの人の夢にお父さんが出て来たらしいのよ」
ある日の昼食時に母が突然言い出した。朝から家庭菜園の手入れをしていたら、近所の霊感があると有名なおばさんに声を掛けられたという。神社の祭事の時には先祖代々が巫女役を担うという女系の家の人で、歴代の巫女の中でも霊感が特に強いという噂だった。
「お父さんが夢に出て来て、『俺はもう遠いところに行ってしまったからなぁ』って言ってたらしいのよ」
確かに父なら言いそうなセリフだとは思ったが、有希はムッとした。母は「ああ、信ちゃんは貴美ちゃんの傍にちゃんといはるわ」って言われたと嬉しそうに笑っていたので特に何も言わなかったけれど。心の中には怒りが湧いていた。
――お父さんのことをそんな風に、お化け扱いして欲しくない。
父が傍にいると言われた時、母はその場で泣き崩れてしまったのだという。自分ではその姿を見れないけれど、夫はどこにも行かずにずっと一緒に居てくれていると言われてホッとしたのだと。
けれど有希はその話を聞いた時、無償に腹立たしかった。貴美子が喜んでいる気持ちも分からなくはないが、どうしても嫌だった。証明できない心霊ネタに父のことを気安く使われたことが許せなかった。
霊感はないけれど、父が亡くなった後に有希は家中で父の姿を探したことがあった。あの父のことだ、死んだことを理解していなくて、その辺りでぼーっと突っ立ってるんじゃないかと、本気で探した。何となく、父が自分の遺影を不思議そうに眺めている気がして、夜中に仏間を覗いてみたこともあった。
――でも、お父さんはどこにも居なかった。私が探しても居なかったのに、他人には見えるなんて、ありえない。
だから、父はもう存在しないし、幽霊なんていない。そう思って諦めていたところに他人が勝手なことを言い出して掘り返してきた、そんな気分だった。父からは愛されて可愛がられていた自覚があったからこそ、自分の前に姿を現さない父が他人には見えると言われたことが無性に悔しかったし、許せないのだ。
――お父さんの幽霊なら、私だって会いたいのに。
祖父母が亡くなった時にはそんな風には思わなかった。明るい昼間でだって仏間に入るのすら怖かった。祖父母を看取ったのは自宅だったから、しばらくはその部屋にもあまり近付かないようにしていたくらいだ。
肉親の死は有希の死生観も随分と変えた。死というか死後のことがあまり怖くなくなった。本当に身近な人の死は死に対する恐怖を薄れさせるのかもしれない。それは父の命が消えていく瞬間をその目に焼き付けたからだろうか。
ただ、たまに猫が丸まって眠っていることがあって、特にナッチがテーブルの下で隠れるように椅子に乗っていることは多かった。椅子を引いてみて重ければ誰かが乗っているから、そういう場合は諦めて別の椅子を使うことになる。たまに二連チャンで猫を引き当てしまうことがあり、そういう場合は笑えてきて一気に力が抜けてしまう。猫は人を脱力させる天才かもしれない。
――私が雅人のところへ行ってしまったら、お母さんは一人ぼっちになってしまうんだ……。
もう病院での付き添いの必要も無くなったから、週末には恋人の雅人のマンションに押しかける生活が戻っていた。母がこの家で一人きりになっている時、どう過ごしているのかは知らない。猫達がいるから話し相手には不自由してないだろうけど。
今のように週に数日だけのことなら平気だろうが、有希が雅人と結婚して実家を出てしまえば、母はずっと一人になってしまうのだ。姉の由依が週に何度かは家庭菜園を荒らしにくるけれど、それはまた話が違う。
「お父さんの一周忌が終わるまでは家にいてね」
何かの際に母から言われた。母自身も、次女がいずれは出て行くものだと思っているのだ。
家族はどんどん減っていく。有希が子供の頃は祖父母も元気で、大家族で毎日が賑やかだった。家に誰もいないなんてことは全く無く、玄関の鍵はいつでも開けっ放しだった。
六人掛けの大きなダイニングテーブルはいつの間にか四人掛けの物へと買い替えられ、そして今はその半分しか使われていない。二人で住むにはこの家は大きすぎる。それが今度は母一人になるのだ。
由依が嫁いだ後、母は一週間くらいは寂しくて泣いたと言っていた。父が亡くなった今、また母は夜寝る前にこっそり泣いているのだろうか。
外で夫婦で歩いている人を見かけると「ああ、あの人にはまだいはるんや、って思ってしまうわ」と漏らしていた貴美子。母はまだ50代だ、未亡人になるには早く、周りのほとんどが夫婦共に健在だった。夫婦揃っている人達を見かけると少し辛くなると嘆く。
父のことを思い出すと、有希だって涙が止まらなくなる。父の病気が発覚して木下医師から説明を受けた時のことや、庭先でぼーっと立ち尽くしている父の後ろ姿を見てしまった時のこと。元気だった父の姿ではなく、ショックだった瞬間の方が鮮明な記憶となって甦る。悲しい気持ちがフラッシュバックして、涙が溢れでてしまうのだ。
夜中に泣き出す有希のことを雅人はいつも何も聞かずに黙って抱き締めて慰めてくれた。
「神社の巫女をやってるおばさんいるでしょ、あの人の夢にお父さんが出て来たらしいのよ」
ある日の昼食時に母が突然言い出した。朝から家庭菜園の手入れをしていたら、近所の霊感があると有名なおばさんに声を掛けられたという。神社の祭事の時には先祖代々が巫女役を担うという女系の家の人で、歴代の巫女の中でも霊感が特に強いという噂だった。
「お父さんが夢に出て来て、『俺はもう遠いところに行ってしまったからなぁ』って言ってたらしいのよ」
確かに父なら言いそうなセリフだとは思ったが、有希はムッとした。母は「ああ、信ちゃんは貴美ちゃんの傍にちゃんといはるわ」って言われたと嬉しそうに笑っていたので特に何も言わなかったけれど。心の中には怒りが湧いていた。
――お父さんのことをそんな風に、お化け扱いして欲しくない。
父が傍にいると言われた時、母はその場で泣き崩れてしまったのだという。自分ではその姿を見れないけれど、夫はどこにも行かずにずっと一緒に居てくれていると言われてホッとしたのだと。
けれど有希はその話を聞いた時、無償に腹立たしかった。貴美子が喜んでいる気持ちも分からなくはないが、どうしても嫌だった。証明できない心霊ネタに父のことを気安く使われたことが許せなかった。
霊感はないけれど、父が亡くなった後に有希は家中で父の姿を探したことがあった。あの父のことだ、死んだことを理解していなくて、その辺りでぼーっと突っ立ってるんじゃないかと、本気で探した。何となく、父が自分の遺影を不思議そうに眺めている気がして、夜中に仏間を覗いてみたこともあった。
――でも、お父さんはどこにも居なかった。私が探しても居なかったのに、他人には見えるなんて、ありえない。
だから、父はもう存在しないし、幽霊なんていない。そう思って諦めていたところに他人が勝手なことを言い出して掘り返してきた、そんな気分だった。父からは愛されて可愛がられていた自覚があったからこそ、自分の前に姿を現さない父が他人には見えると言われたことが無性に悔しかったし、許せないのだ。
――お父さんの幽霊なら、私だって会いたいのに。
祖父母が亡くなった時にはそんな風には思わなかった。明るい昼間でだって仏間に入るのすら怖かった。祖父母を看取ったのは自宅だったから、しばらくはその部屋にもあまり近付かないようにしていたくらいだ。
肉親の死は有希の死生観も随分と変えた。死というか死後のことがあまり怖くなくなった。本当に身近な人の死は死に対する恐怖を薄れさせるのかもしれない。それは父の命が消えていく瞬間をその目に焼き付けたからだろうか。
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