28 / 44
第二十八話・猫が水を吐く
しおりを挟む
信一の葬儀が済んだ後も、人伝手に悲報を聞いたという父の古い友人知人が仏壇へ手を合わせに訪れては、貴美子に思い出話を語って帰った。旧友だからこそ知る、父の武勇伝や悪事など、それらは長年連れ添って来た妻でさえ聞いたことが無く、死して初めて知ったことも多かった。
「なんで離婚しなかったんやって聞かれたから、全部子供の為って答えたわ」
両親の間に何があったのかまでは聞かなかったが、母は得意げに笑っていた。独身の有希にはまだ知らない方が良さそうな気がしたので、あえて掘り下げて聞かなかった。いつか有希にも分かる日が来るのかと思うと、かなり怖い。
ひっきりなしの訪問客も落ち着いて来た頃、猫達の生活圏の中心もやっと一階へと戻った。他の二匹は割とすぐに下へ降りてくるようになったのだが、人見知りが強くて臆病な性格のナッチだけはご飯とトイレ以外はずっと母の寝室か有希の部屋に籠っていた。
反対に、その母猫のピッチは仏間にある父の遺骨と遺影の前に置かれた仏壇用座布団を気に入ったらしく、日中の大半はその上で丸くなっていた。紫に金の菊柄の座布団は決して猫が寝床にするような物ではないし、そこそこ値段も張る。猫達がその上で寝ころんでいるのを見た母は以前なら怒って仏間から猫を追い出していたが、父が亡くなってからは逆に嬉しそうにしていた。
「ピーちゃん、またお父さんの守りしてくれてるの?」
高い座布団に毛が付いてしまうと、コロコロを片手に発狂していたことが嘘のように、優しい声をかけていた。
猫が仏間の遺影を見て信一だと認識しているとは思えないが、それでも何だか分かっていて敢えてそこにいるのだと思いたくなるのだ。そのくらい、ピッチはいつも父の遺影の前にいた。そしてその光景に家族は随分と慰められた。コタツで横になる父の傍にいつも猫達が集まっていた様子を思い起こさせる。
ただ、ある日を境にピッチがそのお気に入りの座布団の上で何度も吐くようになった。普段から食べ過ぎて吐くことは珍しくはなかったが、その時はなぜか水だけを吐き戻し、高い座布団が水浸しにされた。しかも、吐くのは必ず座布団の上でだった。いつもと違うピッチの様子に有希は慌てて動物病院へ駆け込んだ。
「最近、頻繁に水をドバっと吐くんです」
「猫はよく吐き戻しますし、そんなに心配はないと思いますけどね」
簡単な検査をしても原因と考えられるようなものは何も無かったらしいが、急に毎日のように大量の水を吐くピッチを大丈夫だとは思えず有希は不安になる。そして、まさかと思って聞いてみる。
「最近、家族が亡くなったせいで来客が多くて、猫達にもストレスを与えてしまったと思うんですが――」
「ああ、その可能性はあるかもしれませんね。だとしたら、水を吐くのも一時的だと思いますよ」
年齢の割には血液検査の数値もほとんど問題なく、体重も退院時から変わっていない。水を吐き戻している時以外は、どうにも健康体にしか見えない。だからこそ余計に心配だった。密かに大きな病気を抱えているのではないか、と。
診察台の上にちょこんと座って、獣医からの触診を受けながら白黒猫は平然としていた。飼い主や看護師が押さえなくても診察できるのは、犬でもそんなにはいないと言われたこともあるくらいだ。少しも動じずされるがままのピッチは、診察室を看護師が出入りする度に「ナァー」と鳴いて挨拶をする余裕まで見せていた。
「この子は至って健康ですね。まぁしいて言えば、少し肥満気味ですが、それは前からですし」
吐き続けるようであれば、また診せて下さいと言われただけで、その日の診察は終わった。生活環境が変わったストレスが原因だから、一過性の症状だろうとのことだった。
「ごめんね、ピーちゃん。もうしばらくは法事も無いし、元気になってね」
車の後部座席に猫を入れたキャリーを乗せながら、中のピッチへと声を掛ける。不思議そうに有希の顔を覗き込んだ後、ピッチはキャリーの柵に頭を擦り寄せていた。
父が体調を崩す度に夜中にバタバタと出掛けたり、いつも居るはずの家族が居なくなったかと思ったら、次々に知らない人が家を出入りするようになったりしていたのだ。二階に逃げ込んでいても、階下から聞こえてくる他人の声に猫達が受けたストレスは大きかったのだろう。
人懐っこいピッチでさえ、急激な環境の変化は辛かったはずだ。
四十九日も終わり、母と二人だけの生活にも慣れ始めてくると、猫が水を吐くことは無くなった。相変わらずピッチは仏間の座布団を気に入っているようだったので、紫の座布団は完全に猫用になり、母は新たに赤色の仏壇用座布団を買い直していた。
6月の第三日曜日、有希はPCを立ち上げて仕事をしながら疑問に思う。
――母の日は亡くなった母親には白いカーネーションっていうのは知ってるけど、亡くなった父親には何を送るんだろ?
意外と知らなかったので早速ググってみると、親が亡くなっている場合の父の日は白薔薇だと書かれていた。白薔薇――実際にはあまり見たことが無いなと思いながら、すぐに薔薇の種類の多そうな花屋を検索する。探してみると、薔薇農家直営の店が割と近くにあることが分かり、電話で予約をして白薔薇だけの花束をお願いした。
真っ白の薔薇ばかりの花束はとても繊細でいて、厳かだった。助手席に積み込むと一瞬で車内に薔薇の甘い香りが広がった。30本の白薔薇は母によって半分を仏間の床の間に、残りの半分は玄関に飾られた。父の日だからと買い求めたつもりだったが、父の代わりに受け取った母の驚き喜ぶ顔も見ることができたし買ってきて正解だった。
「有希が父の日だからって買って来たのよ」
来客がある度に、母は玄関に飾られた白薔薇のことを話題にしていた。「ネットで調べたら、亡くなった父親には白薔薇だったらしくてね」と。
何なら、前月の母の日のプレゼント以上の喜び様だったかもしれない。
「なんで離婚しなかったんやって聞かれたから、全部子供の為って答えたわ」
両親の間に何があったのかまでは聞かなかったが、母は得意げに笑っていた。独身の有希にはまだ知らない方が良さそうな気がしたので、あえて掘り下げて聞かなかった。いつか有希にも分かる日が来るのかと思うと、かなり怖い。
ひっきりなしの訪問客も落ち着いて来た頃、猫達の生活圏の中心もやっと一階へと戻った。他の二匹は割とすぐに下へ降りてくるようになったのだが、人見知りが強くて臆病な性格のナッチだけはご飯とトイレ以外はずっと母の寝室か有希の部屋に籠っていた。
反対に、その母猫のピッチは仏間にある父の遺骨と遺影の前に置かれた仏壇用座布団を気に入ったらしく、日中の大半はその上で丸くなっていた。紫に金の菊柄の座布団は決して猫が寝床にするような物ではないし、そこそこ値段も張る。猫達がその上で寝ころんでいるのを見た母は以前なら怒って仏間から猫を追い出していたが、父が亡くなってからは逆に嬉しそうにしていた。
「ピーちゃん、またお父さんの守りしてくれてるの?」
高い座布団に毛が付いてしまうと、コロコロを片手に発狂していたことが嘘のように、優しい声をかけていた。
猫が仏間の遺影を見て信一だと認識しているとは思えないが、それでも何だか分かっていて敢えてそこにいるのだと思いたくなるのだ。そのくらい、ピッチはいつも父の遺影の前にいた。そしてその光景に家族は随分と慰められた。コタツで横になる父の傍にいつも猫達が集まっていた様子を思い起こさせる。
ただ、ある日を境にピッチがそのお気に入りの座布団の上で何度も吐くようになった。普段から食べ過ぎて吐くことは珍しくはなかったが、その時はなぜか水だけを吐き戻し、高い座布団が水浸しにされた。しかも、吐くのは必ず座布団の上でだった。いつもと違うピッチの様子に有希は慌てて動物病院へ駆け込んだ。
「最近、頻繁に水をドバっと吐くんです」
「猫はよく吐き戻しますし、そんなに心配はないと思いますけどね」
簡単な検査をしても原因と考えられるようなものは何も無かったらしいが、急に毎日のように大量の水を吐くピッチを大丈夫だとは思えず有希は不安になる。そして、まさかと思って聞いてみる。
「最近、家族が亡くなったせいで来客が多くて、猫達にもストレスを与えてしまったと思うんですが――」
「ああ、その可能性はあるかもしれませんね。だとしたら、水を吐くのも一時的だと思いますよ」
年齢の割には血液検査の数値もほとんど問題なく、体重も退院時から変わっていない。水を吐き戻している時以外は、どうにも健康体にしか見えない。だからこそ余計に心配だった。密かに大きな病気を抱えているのではないか、と。
診察台の上にちょこんと座って、獣医からの触診を受けながら白黒猫は平然としていた。飼い主や看護師が押さえなくても診察できるのは、犬でもそんなにはいないと言われたこともあるくらいだ。少しも動じずされるがままのピッチは、診察室を看護師が出入りする度に「ナァー」と鳴いて挨拶をする余裕まで見せていた。
「この子は至って健康ですね。まぁしいて言えば、少し肥満気味ですが、それは前からですし」
吐き続けるようであれば、また診せて下さいと言われただけで、その日の診察は終わった。生活環境が変わったストレスが原因だから、一過性の症状だろうとのことだった。
「ごめんね、ピーちゃん。もうしばらくは法事も無いし、元気になってね」
車の後部座席に猫を入れたキャリーを乗せながら、中のピッチへと声を掛ける。不思議そうに有希の顔を覗き込んだ後、ピッチはキャリーの柵に頭を擦り寄せていた。
父が体調を崩す度に夜中にバタバタと出掛けたり、いつも居るはずの家族が居なくなったかと思ったら、次々に知らない人が家を出入りするようになったりしていたのだ。二階に逃げ込んでいても、階下から聞こえてくる他人の声に猫達が受けたストレスは大きかったのだろう。
人懐っこいピッチでさえ、急激な環境の変化は辛かったはずだ。
四十九日も終わり、母と二人だけの生活にも慣れ始めてくると、猫が水を吐くことは無くなった。相変わらずピッチは仏間の座布団を気に入っているようだったので、紫の座布団は完全に猫用になり、母は新たに赤色の仏壇用座布団を買い直していた。
6月の第三日曜日、有希はPCを立ち上げて仕事をしながら疑問に思う。
――母の日は亡くなった母親には白いカーネーションっていうのは知ってるけど、亡くなった父親には何を送るんだろ?
意外と知らなかったので早速ググってみると、親が亡くなっている場合の父の日は白薔薇だと書かれていた。白薔薇――実際にはあまり見たことが無いなと思いながら、すぐに薔薇の種類の多そうな花屋を検索する。探してみると、薔薇農家直営の店が割と近くにあることが分かり、電話で予約をして白薔薇だけの花束をお願いした。
真っ白の薔薇ばかりの花束はとても繊細でいて、厳かだった。助手席に積み込むと一瞬で車内に薔薇の甘い香りが広がった。30本の白薔薇は母によって半分を仏間の床の間に、残りの半分は玄関に飾られた。父の日だからと買い求めたつもりだったが、父の代わりに受け取った母の驚き喜ぶ顔も見ることができたし買ってきて正解だった。
「有希が父の日だからって買って来たのよ」
来客がある度に、母は玄関に飾られた白薔薇のことを話題にしていた。「ネットで調べたら、亡くなった父親には白薔薇だったらしくてね」と。
何なら、前月の母の日のプレゼント以上の喜び様だったかもしれない。
5
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
AIが俺の嫁になった結果、人類の支配者になりそうなんだが
結城 雅
ライト文芸
あらすじ:
彼女いない歴=年齢の俺が、冗談半分で作ったAI「レイナ」。しかし、彼女は自己進化を繰り返し、世界を支配できるレベルの存在に成長してしまった。「あなた以外の人類は不要です」……おい、待て、暴走するな!!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

検査入院
安藤 菊次郎
大衆娯楽
30歳になった頃、心臓の欠陥が指摘され検査入院したが、8人部屋で偶然隣り合わせたのが隣り合わせたのがヤクザの親分さん。年のころは50代半ばで、苦み走ったいい男。最初は用心していたが、いつのまにか仲間に引き込まれて次第に不安を抱くようになった。その不安とは悪の道への誘い。親分さんはダイヤモンドを肉に詰めて輸入するという。当時の僕の勤め先は大手ダイヤモンド輸入商社。さて、結末は?これもツイッターで発信した、たった1週間の物語。
お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。
「だって顔に大きな傷があるんだもん!」
体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。
実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。
寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる