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第二十四話・最終宣告
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担当医からは奇跡的にもう一度退院ができるかもしれないと聞いていたけれど、たった一晩明けただけで話が変わってしまっていた。父の臓器の機能が低下しているために尿量が極端に少なくなり、薬で利尿を促してやっとという状態になってしまっていた。水分はお茶や点滴で十分に取れてるはずなのに、尿がほとんど出ていない。
奇跡的な退院の可能性は、完全に無くなってしまった。
食事量も期待通りには増えず、減る一方だった。
精神障害も日に日にひどくなり、昨晩は「南無阿弥陀仏」と繰り返して唱えることが何度もあった。夜中に無意識で唱えられたお経は正直言って怖い。父との会話も少しずつ意味が分からない物が混ざるようになってきた。
「波阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏って言ってはる」
「誰が言ってはるん?」
「お父さんや」
「誰のお父さん?」
「有希のお父さんや」
結局、その日の夜は父は一睡もしなかった。当然、付き添いの有希も眠るわけにもいかず、一晩中をぼーっと病室の天井を眺めているだけの父を気にしながら、パズル雑誌のクロスワードを解いて夜が明けるまでの時間を過ごす。母と交代して帰宅した後はお風呂にも入らず着替えることもせず、猫達のご飯の用意だけを終えると、そのままベッドに倒れ込んだ。
夕方に目を覚ましてから洗濯物を取り入れて、それから一人で夕ご飯を食べる。毎日何をしている訳でもないのにクタクタだったが、有希よりも長い時間を病院にいる母はもっと疲れが溜まっているはずだ。
次の付き添いの日、巡回に訪れてきた担当医から有希は廊下に出るように言われる。信一本人には聞かせないよう、病室の前で木下医師が声を潜めた。
「もう退院は難しいね。近くなってきたから……」
「そう、なんですね……」
死期が近い。そう言いながら、木下は申し訳なさそうに廊下の天井を見上げた。貴美子が相手なら、もう少し話し易かったのかもしれないが、まだ二十代の娘を相手に気軽に告げられることではない。
元々から今月中にはと言われていたが、それが具体的にはたった何日か後のことかと思うと有希は茫然とするしかできなかった。意外なことに、もう涙は出なかった。
「奥さんから延命はしないって聞いてるから、急変しても病院では特に何もしないよ」
「……はい」
誰よりも父に近い存在の母が決めたことだ、反対するつもりは全くない。有希は唇をぎゅっと閉じて頷き返す。
その日は仕事が休みだった雅人が父の顔を見に病院へ会いに来てくれた。連日の有希との電話で心配してくれて、自分も連勤明けで疲れてるはずだったにも関わらず。
父は簡単に挨拶だけすると、すぐにベッドに横になって眠ってしまった。
母と付き添いを交代してから、雅人と二人で久しぶりのランチへと出掛けた。たまに行くイタリアンレストランでチーズフォンデュとカルボナーラを食べた。ただ、徹夜明けだったので何を話したのかは、あまり覚えてはいない。
ここ最近は付き添い後は着替えもせずにそのまま爆睡してしまう生活だったけれど、その日はそれほど疲れも感じずに元気だった。たまには気晴らしも必要なのかもしれない。
日に日に、父の尿量と回数が減っていく。ついには利尿剤の力を借りても、一日にたった2度だけになってしまった。持ち込んでいたスマホでこっそりと「尿毒」と検索し、その危険性を知って愕然とする。
食事は何とか食べる意思は見せてくれるものの、一口を10分くらいかけて噛むだけで飲み込むことはできない。飲み込めないから、後で口の中からかき出してもらうしかない。固形の物を飲み込む力はもう残っていないのだろう。それでも、昨日の朝は牛乳を1パック飲んでくれたので少しホッとした。父はまだ生き続けることを望んでいるのだ。
夕方、母が主治医から「今週末でしょう」と宣告されてしまったことを知る。とは言っても、先日に有希が木下医師と直接話した時に「(死期は)近い」と言われた時点で、長くてもあと1週間くらいなんだろうと薄々は感づいてはいた。
なので、具体的な日数を言われても「やっぱりか……」という感じで、もう驚きもなかった。
父親の死というものを覚悟し始めてから13ヶ月。
今日、涙が出なかったのは、有希の覚悟は少しは出来てきたということなんだろうか。
玄関で父の靴を見る度に、もうお父さんはこれを履くことは無いんだな。椅子に掛かったままの上着を見る度に、もう着ることは無いんだな。考えるとキリがなかった。
でも、最後の入院をしたということのはそういうことだったのだ。もう猫に話し掛けることもないだろうし、食卓の椅子に座ることももうない。
いつ何が起こるか分からないので、スマホを片時も手放すことができないでいた。自分にとって、携帯ってそんなに大事なものだったのかなぁと考えると、少し笑えてくる。
今週もあと僅か。自分は何をしていれば良いのか、考えても思いつかない。母からは家の中を片付けておくように言われていたが、何もする気にもならない。無心になれるからと、猫のトイレの砂を入れ換えていると、早く使わせろとばかりにクロが背後をウロウロしていた。
ついこないだ、看護師から「”次女さんには弱い”って、奥さんが言ってはったよ」と言われ、照れ笑いをしてた父の顔が忘れられない。子供の頃から父にはとても可愛がって貰った記憶しかない。時には姉から「贔屓だ」と怒られるくらい、有希は父とはとても仲が良かった。
おそらく父が有希を特別可愛がってくれたのは、次女が信一似だからというのはあるだろう。長女の由依は母の貴美子似で、有希は誰が見ても父親似だった。
入院中、父の病室で泊まり込んで付き添う有希を見た看護師が、検温や点滴のチェックを終えて部屋を出た後、廊下で大きな声で同僚と話しているのが聞こえたことがあった。
「広瀬さんの娘さん、見たよ! めっちゃそっくり!」
「でしょう?」という同意する別の声まで聞こえてきて、有希はちょっとだけ恥ずかしかった。どうもナースステーション内で話題になっていたらしい。それくらい二人はよく似ていたし、信一がつい有希に甘くなってしまうのも仕方がないだろう。
奇跡的な退院の可能性は、完全に無くなってしまった。
食事量も期待通りには増えず、減る一方だった。
精神障害も日に日にひどくなり、昨晩は「南無阿弥陀仏」と繰り返して唱えることが何度もあった。夜中に無意識で唱えられたお経は正直言って怖い。父との会話も少しずつ意味が分からない物が混ざるようになってきた。
「波阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏って言ってはる」
「誰が言ってはるん?」
「お父さんや」
「誰のお父さん?」
「有希のお父さんや」
結局、その日の夜は父は一睡もしなかった。当然、付き添いの有希も眠るわけにもいかず、一晩中をぼーっと病室の天井を眺めているだけの父を気にしながら、パズル雑誌のクロスワードを解いて夜が明けるまでの時間を過ごす。母と交代して帰宅した後はお風呂にも入らず着替えることもせず、猫達のご飯の用意だけを終えると、そのままベッドに倒れ込んだ。
夕方に目を覚ましてから洗濯物を取り入れて、それから一人で夕ご飯を食べる。毎日何をしている訳でもないのにクタクタだったが、有希よりも長い時間を病院にいる母はもっと疲れが溜まっているはずだ。
次の付き添いの日、巡回に訪れてきた担当医から有希は廊下に出るように言われる。信一本人には聞かせないよう、病室の前で木下医師が声を潜めた。
「もう退院は難しいね。近くなってきたから……」
「そう、なんですね……」
死期が近い。そう言いながら、木下は申し訳なさそうに廊下の天井を見上げた。貴美子が相手なら、もう少し話し易かったのかもしれないが、まだ二十代の娘を相手に気軽に告げられることではない。
元々から今月中にはと言われていたが、それが具体的にはたった何日か後のことかと思うと有希は茫然とするしかできなかった。意外なことに、もう涙は出なかった。
「奥さんから延命はしないって聞いてるから、急変しても病院では特に何もしないよ」
「……はい」
誰よりも父に近い存在の母が決めたことだ、反対するつもりは全くない。有希は唇をぎゅっと閉じて頷き返す。
その日は仕事が休みだった雅人が父の顔を見に病院へ会いに来てくれた。連日の有希との電話で心配してくれて、自分も連勤明けで疲れてるはずだったにも関わらず。
父は簡単に挨拶だけすると、すぐにベッドに横になって眠ってしまった。
母と付き添いを交代してから、雅人と二人で久しぶりのランチへと出掛けた。たまに行くイタリアンレストランでチーズフォンデュとカルボナーラを食べた。ただ、徹夜明けだったので何を話したのかは、あまり覚えてはいない。
ここ最近は付き添い後は着替えもせずにそのまま爆睡してしまう生活だったけれど、その日はそれほど疲れも感じずに元気だった。たまには気晴らしも必要なのかもしれない。
日に日に、父の尿量と回数が減っていく。ついには利尿剤の力を借りても、一日にたった2度だけになってしまった。持ち込んでいたスマホでこっそりと「尿毒」と検索し、その危険性を知って愕然とする。
食事は何とか食べる意思は見せてくれるものの、一口を10分くらいかけて噛むだけで飲み込むことはできない。飲み込めないから、後で口の中からかき出してもらうしかない。固形の物を飲み込む力はもう残っていないのだろう。それでも、昨日の朝は牛乳を1パック飲んでくれたので少しホッとした。父はまだ生き続けることを望んでいるのだ。
夕方、母が主治医から「今週末でしょう」と宣告されてしまったことを知る。とは言っても、先日に有希が木下医師と直接話した時に「(死期は)近い」と言われた時点で、長くてもあと1週間くらいなんだろうと薄々は感づいてはいた。
なので、具体的な日数を言われても「やっぱりか……」という感じで、もう驚きもなかった。
父親の死というものを覚悟し始めてから13ヶ月。
今日、涙が出なかったのは、有希の覚悟は少しは出来てきたということなんだろうか。
玄関で父の靴を見る度に、もうお父さんはこれを履くことは無いんだな。椅子に掛かったままの上着を見る度に、もう着ることは無いんだな。考えるとキリがなかった。
でも、最後の入院をしたということのはそういうことだったのだ。もう猫に話し掛けることもないだろうし、食卓の椅子に座ることももうない。
いつ何が起こるか分からないので、スマホを片時も手放すことができないでいた。自分にとって、携帯ってそんなに大事なものだったのかなぁと考えると、少し笑えてくる。
今週もあと僅か。自分は何をしていれば良いのか、考えても思いつかない。母からは家の中を片付けておくように言われていたが、何もする気にもならない。無心になれるからと、猫のトイレの砂を入れ換えていると、早く使わせろとばかりにクロが背後をウロウロしていた。
ついこないだ、看護師から「”次女さんには弱い”って、奥さんが言ってはったよ」と言われ、照れ笑いをしてた父の顔が忘れられない。子供の頃から父にはとても可愛がって貰った記憶しかない。時には姉から「贔屓だ」と怒られるくらい、有希は父とはとても仲が良かった。
おそらく父が有希を特別可愛がってくれたのは、次女が信一似だからというのはあるだろう。長女の由依は母の貴美子似で、有希は誰が見ても父親似だった。
入院中、父の病室で泊まり込んで付き添う有希を見た看護師が、検温や点滴のチェックを終えて部屋を出た後、廊下で大きな声で同僚と話しているのが聞こえたことがあった。
「広瀬さんの娘さん、見たよ! めっちゃそっくり!」
「でしょう?」という同意する別の声まで聞こえてきて、有希はちょっとだけ恥ずかしかった。どうもナースステーション内で話題になっていたらしい。それくらい二人はよく似ていたし、信一がつい有希に甘くなってしまうのも仕方がないだろう。
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