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第十八話・緊急入院

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 有希達が看護師から呼ばれて治療室へ入ると、父はストレッチャーに横になったままイビキをかいて眠っているように見えた。右側を向いて少し身体を丸めた体勢で、父の口から漏れるゴゥゴゥという大きな音が室内に響き渡る。普段から寝相もよく、イビキもかかずに静かに眠る父には珍しい光景だった。

「お父さん、イビキかいてる……」
「ああ、これはイビキじゃなくて、脳出血を起こした人の呼吸音ね」

 付き添っていた看護師長が、父は別に寝ている訳ではないと説明する。頭の腫瘍の一つが出血を起こしてしまったが、時間が経てば目を覚ますし今回は後遺症もないだろうと聞いてホッとした。

「極度に緊張したりとか、そいうことでも起こったりするのよね。何か緊張されることでもありました?」
「めちゃくちゃ、ありました……」

 身に覚えがありすぎて、有希は苦笑するしか無かった。娘を持つ父親の緊張する場面ベスト5には入りそうなことを、父にさせようとしていたところだったのだ。師長のピンポイントでの指摘に、横にいる由依も半笑いを浮かべている。

「何してたの?」

 不思議そうな顔の師長から聞かれて、有希は俯き加減で「両家の顔合わせに行こうとしてたんです」とバツが悪そうに答えた。

「あらぁ。お父さん、そんなに緊張してはったんやね」

 ケラケラと笑う師長から、しばらくは入院になると聞かされると、母は着替えなどを取りに戻りたいと有希達に帰宅を促した。よく見てみると、父は出掛ける時に着ていた服から病院の寝巻に着替えさせて貰っていた。ビニール袋に詰められた父の洗濯物を抱えた母は、

「お父さん、漏らしたみたいよ。今はオムツ履かせて貰ってるって」

 と幼い孫達には聞こえないよう、小さな声で有希だけに囁いた。意識が無くなったせいなので仕方ないことなのだが、子供達にはそんな事情は分からない。祖父の尊厳を守るべく、早々と治療室を後にする。

「雅人さんの実家には、また改めてお詫びに行っておいて」
「うん、そのつもり」
「お父さんがあの調子だから、顔合わせさせて貰うのは難しそうやわ」

 自宅へ帰る車の中で、母は気が抜けたようにふぅっと溜息をついた。もうダメかと思ったけれど、ギリギリのところで持ち堪えた、そんな気分だった。
 ホテルでの食事会への緊張が、父の脳出血を引き起こしてしまった。自分のせいだと責める有希に、「お父さんは気が弱いから、仕方ないわ」と笑って慰める。今日起きなかったとしても、すぐまた別のタイミングで脳出血は起こしていただろうし、と。早かれ遅かれ、同じようなことはいつか起こっていたはずだし、それがたまたま今日だっただけ。

 家に着くと、お腹を空かせたピッチにご飯が無いと鳴いて怒られた。猫皿に山盛りに入れて出たつもりだったが、他の二匹が多めに食べてしまったのだろうか、空になった皿を前に激しく鳴いて訴えてくる。何があっても猫達は通常営業なのが、今日の有希にはなぜだかホッとする。
 ピッチにカリカリと飲み水を用意していると、給仕している音に気付いたナッチもどこからか顔を出してきた。親子が並んで食べている様子を見ながら、雅人に電話を掛ける。

「今、帰ってきたよ。今日は本当にごめんね」
「いいよ、それよりお父さんは?」
「脳出血を起こしてたって。まだ意識も戻ってないし、しばらく入院だって」
「そっか……」
「雅人のご両親は? 一緒にご飯食べてきたの?」
「それがさぁ、有希達が来れないって分かったら、親父がいきなり酒を頼み出したわ」

 緊張が解けた反動でか、ホテルで飲み始めた父親の話を、雅人はわざと面白おかしく話してくれた。普段は飲まない母親までが「私もいただくわ」と晩酌をし出して驚いたらしい。

「親父も、料理はいいから先に酒持って来てくれとか言い出すし……」

 ドタキャンになった分の有希達の食事代は請求されなかったらしく、ホテル側もそういうケースに慣れていたのかもしれない。行けなくなった詳しい事情までは説明していなかったから、一方的に婚約破棄されたか、見合いをすっぽかされた人みたいに思われて同情された可能性はある。
 雅人達には恥ずかしい思いをさせてしまったなと気にする有希へ、カラカラと笑いながら宥める。

「でも、有希達が来なくて良かったかもしれない。うちのオカン、デカいヒョウの顔を描いた服着てたし、有希の親が見たら間違いなく引いてた」
「ヒョウ柄ではなくて? ヒョウそのもの?」
「うん、腹にヒョウが一匹いた。実家に迎えに行った時、さすがに俺もドン引きした」

 ええーっ、と驚いたものの、以前に会ったことがある雅人の母の顔を思い浮かべ、確かにアニマル柄が戦闘服なタイプだったと納得する。田舎育ちの物静かで地味な貴美子とは正反対だ。

 ホテルでの食事会は失敗に終わったし、信一も緊急入院してしまったが、雅人との電話はいつも通り笑いに溢れていて、ドタバタの一日だったのが嘘みたいだった。電話を切ってから自室に戻って着替えると、リビングでは母が入院用の荷物をまとめていた。

「じゃあ、また病院に行ってくるわ。洗濯だけ任せていい?」
「うん、分かった」

 着替えを詰め込んだボストンバッグと大きな紙袋を手に下げた母も、さっきまでのスーツ姿ではなく普段着に戻っていた。洗面所からは洗濯機が脱水している音が聞こえてくる。
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