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第十二話・名医への手紙
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病院ではケージの中で丸まったまま動かず食欲も無かったクロだったが、退院して自宅に戻ると、入院していたのが嘘のように以前と同じだった。季節は冬になり始めた11月中旬だったこともあり、リビングのコタツ周辺で寝ていることは多かったが、病院では嫌がっていたと聞いていたはずのシニア向けのカリカリも平気で食べていた。
迎えに行った有希の顔を見ても無反応で、診察台の上でも暴れもせずに立ち尽くしていただけのクロを、体調の悪化がキッカケでボケてしまったのかとさえ思っていた。それくらいに病院では別猫のような態度だったのだ。
それが、帰ってきて速攻で猫用トイレに駆け込んだ後、リビングで娘猫と孫猫からクンクンと匂いを嗅がれ、毛繕いがままならなかった猫毛を丁寧に舐め回されると、あっという間に空白の3日間が無かったかのように元に戻っていた。
「クロは家にいるのが一番だよな。入院なんて猫でも嫌に決まってる」
コタツに潜り込んでしまったクロを掛布団を捲って覗き込みながら、父がぽつりと呟いた。――入院なんて嫌。それは父自身の気持ちでもあるのだろう。
3匹がくっついて丸くなっているコタツの中に自分も頭まで潜って、そのまま静かに目を閉じる。
日中から父が猫達とコタツで眠っている光景も随分と見慣れてしまった。仕事が忙しくて繁忙期には職場で寝泊まりしていることもあったような人が、食事とトイレに行く時以外はほぼコタツで横になっている。最初はとても違和感のある光景に思えたものだ。
父が末期の肺ガンだと診断されてから、もうすぐ10か月。余命3か月と言われた時には不可能だと思っていた年越しも目の前に迫っていた。今この時は奇跡で保たれている時間だ。
けれど奇跡は何度も起こりはしない。父の身体は日増しに癌細胞に浸食されているはずだし、もし今、父の全身をくまなく検査して貰ったら数え切れないほどの転移が確認されることだろう。ただ、本人への告知がない信一には、頭部以外を調べてもらう理由がなかった。
たまに気分転換にと近所を散歩することはあったが、それも徐々に頻度は減っていた。体力が落ちたのもあるだろうし、身体のどこかが痛むのかもしれない。左足に力が入らないと言い出すようにもなり、歩行障害も少しずつ出始めていた。腕の力も弱くなったのか、20kgほどの荷物でさえも持ち上げるのに苦戦する。
庭先でぼーっとして立っている父の姿を見かけた近所の人達が、代わる代わるに様子を見に来るようになったのはこの頃からだった。
「信ちゃんが、おかしい」
誰か一人がそう言えば、近所に住む親せき達が心配してお見舞いに訪れる。田舎だからこそ、噂話はあっという間に広まっていく。だから母は父の本当の病名を親戚の誰にも漏らさなかった。広まった噂は簡単に父本人の元に返って来るのが目に見えている。
「せめて孫が成人するまでは生きたいなぁ」
本家のおばさんが見舞いに来た時、何かの会話の流れで父がそう言っていたのをキッチンでお茶の用意をしていた母が聞いていた。互いに幼い孫がいる者同士、特に深い意味もなく自然な流れでそういう話になったのだろう。
でも、初孫である菜月はまだ5歳だ。どう考えても叶わない願いだと思うと母は涙が止まらなくなり、二階で仕事をしていた有希にお茶出しを代わって欲しいと頼みに来た。
「あら、コタツに誰もいないと思ったら、やっぱりここに居たのね」
真っ赤に目を腫らしながらも、訪客から逃げて有希の部屋に集まっていた猫達を見つけて鼻声のまま笑う。有希のベッドの上で丸まっている白黒は3匹分あった。悲劇でさえ簡単に喜劇に変えてしまえる猫は偉大だ。こんな状態でも笑いの絶えない家族で居られるのは、猫達のおかげだ。
「何回も頭を触ったのがアカンかった……」
近所に住む遠縁のおじさんが来た時、父は悲しそうな顔で漏らしていた。今の体調不良は二度のガンマナイフ治療が原因で脳に余計な傷が付いてしまったからだと考えているらしかった。
「こないだテレビで脳外科の名医の特集やってたぞ。定期購読してる雑誌でも紹介されてたから、今度持って来たるわ」
「おう、頼むわ」
おじさんは紛れもなく親切心と、父を気遣って言ってくれたのは勿論分かっている。亡き祖母の従兄弟であるおじさんは血縁関係こそ薄いが、父とはとても仲が良かった。けれど、傍で一緒に聞いていた母は露骨に嫌な顔をしていた。最後まで父には癌であることを悟られたくないのだ。
かと言って、「余計なことはしないで」と無下に断る訳にもいかず、翌日におじさんが持って来たその雑誌を食い入るように読んでいた父のことを黙って見守るだけしかできない。
自室で仕事をしていた有希の部屋に母が困った顔で入って来たのは、その日の夕方だった。チラシの裏に細かい字で書かれた物と一緒に、薄い医療雑誌を有希に手渡すと、はぁっと溜息を付く。
「お父さんが、これをパソコンで打ち直して、この先生宛に送って欲しいんだって」
印が付けられたページで紹介されている脳外科医を指し示す。テレビでも取り上げられたという名医に、自分の病状を相談する手紙を送って欲しがっているらしかった。
父は自分は原因不明の病だと思っているから、名医なら解明してくれるかもしれないと、まさに藁にも縋る気持ちで見知らぬ医師を頼ろうとしている。
頭痛、目眩、ふらつき、浮腫み、手足に力が入らない、便秘。チラシの裏には現在の父が感じる症状が書き並べられ、助けを求める言葉が綴られていた。ボールペンで走り書きされた父の字は以前のよりもかなり乱雑で、上手く手を動かすのもままならなくなっているのかもしれない。
「こんなの送れる訳ないよね……」
「そうだけど、有希に頼んでくれって昼からずっと言い続けてるのよ。無視してたら、お前は俺の気持ちが分からんのかって怒ってるの」
父の気持ちも、母の想いもよく分かる。有希は立ち上がって部屋を出ると、リビングで横になっている父の元に向かった。
「あれはワードで打ち直してから出しておいたらいいの?」
「おう、出しといてくれ」
頼みを聞いて貰えたと嬉しそうに笑う父へ少しだけ罪悪感を覚えたが、有希はそのまま部屋に戻る。打ち直す気もないし、出すつもりも無かったが、娘のことを信じてくれている父だからこそ通じた、優しい嘘だった。
迎えに行った有希の顔を見ても無反応で、診察台の上でも暴れもせずに立ち尽くしていただけのクロを、体調の悪化がキッカケでボケてしまったのかとさえ思っていた。それくらいに病院では別猫のような態度だったのだ。
それが、帰ってきて速攻で猫用トイレに駆け込んだ後、リビングで娘猫と孫猫からクンクンと匂いを嗅がれ、毛繕いがままならなかった猫毛を丁寧に舐め回されると、あっという間に空白の3日間が無かったかのように元に戻っていた。
「クロは家にいるのが一番だよな。入院なんて猫でも嫌に決まってる」
コタツに潜り込んでしまったクロを掛布団を捲って覗き込みながら、父がぽつりと呟いた。――入院なんて嫌。それは父自身の気持ちでもあるのだろう。
3匹がくっついて丸くなっているコタツの中に自分も頭まで潜って、そのまま静かに目を閉じる。
日中から父が猫達とコタツで眠っている光景も随分と見慣れてしまった。仕事が忙しくて繁忙期には職場で寝泊まりしていることもあったような人が、食事とトイレに行く時以外はほぼコタツで横になっている。最初はとても違和感のある光景に思えたものだ。
父が末期の肺ガンだと診断されてから、もうすぐ10か月。余命3か月と言われた時には不可能だと思っていた年越しも目の前に迫っていた。今この時は奇跡で保たれている時間だ。
けれど奇跡は何度も起こりはしない。父の身体は日増しに癌細胞に浸食されているはずだし、もし今、父の全身をくまなく検査して貰ったら数え切れないほどの転移が確認されることだろう。ただ、本人への告知がない信一には、頭部以外を調べてもらう理由がなかった。
たまに気分転換にと近所を散歩することはあったが、それも徐々に頻度は減っていた。体力が落ちたのもあるだろうし、身体のどこかが痛むのかもしれない。左足に力が入らないと言い出すようにもなり、歩行障害も少しずつ出始めていた。腕の力も弱くなったのか、20kgほどの荷物でさえも持ち上げるのに苦戦する。
庭先でぼーっとして立っている父の姿を見かけた近所の人達が、代わる代わるに様子を見に来るようになったのはこの頃からだった。
「信ちゃんが、おかしい」
誰か一人がそう言えば、近所に住む親せき達が心配してお見舞いに訪れる。田舎だからこそ、噂話はあっという間に広まっていく。だから母は父の本当の病名を親戚の誰にも漏らさなかった。広まった噂は簡単に父本人の元に返って来るのが目に見えている。
「せめて孫が成人するまでは生きたいなぁ」
本家のおばさんが見舞いに来た時、何かの会話の流れで父がそう言っていたのをキッチンでお茶の用意をしていた母が聞いていた。互いに幼い孫がいる者同士、特に深い意味もなく自然な流れでそういう話になったのだろう。
でも、初孫である菜月はまだ5歳だ。どう考えても叶わない願いだと思うと母は涙が止まらなくなり、二階で仕事をしていた有希にお茶出しを代わって欲しいと頼みに来た。
「あら、コタツに誰もいないと思ったら、やっぱりここに居たのね」
真っ赤に目を腫らしながらも、訪客から逃げて有希の部屋に集まっていた猫達を見つけて鼻声のまま笑う。有希のベッドの上で丸まっている白黒は3匹分あった。悲劇でさえ簡単に喜劇に変えてしまえる猫は偉大だ。こんな状態でも笑いの絶えない家族で居られるのは、猫達のおかげだ。
「何回も頭を触ったのがアカンかった……」
近所に住む遠縁のおじさんが来た時、父は悲しそうな顔で漏らしていた。今の体調不良は二度のガンマナイフ治療が原因で脳に余計な傷が付いてしまったからだと考えているらしかった。
「こないだテレビで脳外科の名医の特集やってたぞ。定期購読してる雑誌でも紹介されてたから、今度持って来たるわ」
「おう、頼むわ」
おじさんは紛れもなく親切心と、父を気遣って言ってくれたのは勿論分かっている。亡き祖母の従兄弟であるおじさんは血縁関係こそ薄いが、父とはとても仲が良かった。けれど、傍で一緒に聞いていた母は露骨に嫌な顔をしていた。最後まで父には癌であることを悟られたくないのだ。
かと言って、「余計なことはしないで」と無下に断る訳にもいかず、翌日におじさんが持って来たその雑誌を食い入るように読んでいた父のことを黙って見守るだけしかできない。
自室で仕事をしていた有希の部屋に母が困った顔で入って来たのは、その日の夕方だった。チラシの裏に細かい字で書かれた物と一緒に、薄い医療雑誌を有希に手渡すと、はぁっと溜息を付く。
「お父さんが、これをパソコンで打ち直して、この先生宛に送って欲しいんだって」
印が付けられたページで紹介されている脳外科医を指し示す。テレビでも取り上げられたという名医に、自分の病状を相談する手紙を送って欲しがっているらしかった。
父は自分は原因不明の病だと思っているから、名医なら解明してくれるかもしれないと、まさに藁にも縋る気持ちで見知らぬ医師を頼ろうとしている。
頭痛、目眩、ふらつき、浮腫み、手足に力が入らない、便秘。チラシの裏には現在の父が感じる症状が書き並べられ、助けを求める言葉が綴られていた。ボールペンで走り書きされた父の字は以前のよりもかなり乱雑で、上手く手を動かすのもままならなくなっているのかもしれない。
「こんなの送れる訳ないよね……」
「そうだけど、有希に頼んでくれって昼からずっと言い続けてるのよ。無視してたら、お前は俺の気持ちが分からんのかって怒ってるの」
父の気持ちも、母の想いもよく分かる。有希は立ち上がって部屋を出ると、リビングで横になっている父の元に向かった。
「あれはワードで打ち直してから出しておいたらいいの?」
「おう、出しといてくれ」
頼みを聞いて貰えたと嬉しそうに笑う父へ少しだけ罪悪感を覚えたが、有希はそのまま部屋に戻る。打ち直す気もないし、出すつもりも無かったが、娘のことを信じてくれている父だからこそ通じた、優しい嘘だった。
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