猫だけに吐く弱音 ~余命3か月を宣告された家族の軌跡~

瀬崎由美

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第六話・一時的な奇跡

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 隣の市にある病院での入院は3日だけで済んだ。後頭部の手術箇所の抜糸を待つ短い入院生活は体調が良くなった父にはとても退屈だったのだろう。仕事の合間にお見舞いに行けば、有希が聞く前から院内で見聞きしたことを得意げに語ってくれた。

「隣の人は夜中に肺炎起こして、個室に移りはったんや」

 転院してきてすぐには埋まっていた隣のベッドが空になっていることに気付くと、信一は寂しそうに説明する。歳の近いご夫婦だったので、夫婦共に仲良くなりかけていたところだったらしい。

 6人の大部屋だったが半分は空いていた為、ガランとした印象の病室だった。窓際にある父のベッドからは近所の家の屋根越しに新幹線の線路が見えた。遠く聞こえていた救急車のサイレンが、徐々にこちらへ近づいてくる。ここは救急病院に指定されているから、昼夜問わず救急車両が行き来していて、それも父が早く帰宅したがる理由の一つだった。こんなところでは夜もまともに眠れないと眉を寄せてぼやく。

「頭は触ったら痛いですね」

 巡回に来た木下医師に体調を聞かれると、父はガーゼの貼られた後頭部を顔を歪めながら撫でた。その頭の痛みは本当に傷口の痛みなのか、それとも大量にある腫瘍せいか、または脳内に残ったままの水が原因なのか、それに関する医師の説明が無かったので真相は分からない。ただ、本人が手術の縫い痕が痛むだけだと思っているのなら、誰も何も言おうとはしない。

 母が木下医師を見送って廊下に出てすぐ、入れ替わるように賑やかな声が病室内に響いた。由依が子供達を連れてお見舞いに来たのだ。

「おじいちゃんのお見舞いに行くよって言ってるのに、幼稚園終わっても園庭で遊び出して、なかなか帰ってくれなかったわ……」
「だって、みんなはまだ遊んでたしー」
「朝からちゃんと言っといたのに……」

 菜月の降園を待って急いで来た由依は、抱っこしていた次女をベッドに座らせる。自宅のベッドとは違う弾力だからか、不思議そうな顔の美鈴。真似して菜月も靴を脱いでから祖父のベッドによじ登った。
 二人の孫に囲まれて、信一はニコニコと嬉しそうに顔を綻ばせる。家に居てもここまで孫達が寄ってくることは滅多にない。

「あ、なっちゃん、おじいちゃんに渡す物あったでしょ?」
「えー、ママが渡してよぉ」

 ベッドの上で飛び跳ねようとして叱られた菜月は、不貞腐れ顔で掛け布団の上に寝転がっていた。仕方ないな、と鞄から一枚のピンク色の便箋を取り出して、由依が父に手渡す。

「昨日の夜、頑張って書いてはってん」
「お、何や? 手紙か?」

 初めて貰った孫からの手紙を父は嬉しそうに開いて、目を通していた。年中になってから友達とのお手紙のやり取りをよくするとは聞いていて、有希も何度か貰ったことはあった。不揃いな文字の並んだ手紙を、父は一文字一文字を解読していく。

「はやくげんきになってね、か。ありがとうな」

 大事そうにベッド脇の引き出しに手紙を仕舞うと、冷蔵庫に入っているジュースを孫達に勧める。退屈し始めていた菜月はベッドから飛び降りると、小さな簡易冷蔵庫の中を覗き込む。様々な種類のジュースが並んで冷やされているのを見て、目を輝かせる。

「わー、いっぱい!」
「おばあちゃんがいろいろ買って来てたし、好きなのを飲んだらいい」

 子供達が大人しく丸椅子に座ってパックジュースを飲み始めると、由依が鞄から小さな箱を取り出す。

「はい。チョコは食べても大丈夫?」
「あ、私も持って来てるよ」

 病院に来る途中のケーキ屋で購入した、トリュフチョコの詰め合わせ。服薬中だからとノンアルコールの物を選んできた。
 娘二人からラッピングされたチョコレートを受け取ると、信一は「ああ、今日はバレンタインデーか」と照れくさそうに笑う。

 父からお返しを貰ったことは一度も無かったが、何だかんだと姉妹二人は毎年忘れずに信一へバレンタインのチョコは送るようにしていた。市販のチョコだろうが、いつも照れながらも嬉しそうに受け取ってくれる。

 ――お父さんにチョコを渡せるのも、きっとこれが最後なんだろうな……。

 余命3か月ということは、来年のバレンタインデーには父はこの世には居ないのだ。父と共に過ごす夏や秋も、もうあり得ない。そう考えると、有希は胸がぐっと締め付けられて苦しかった。

 その翌日には退院して自宅に戻って来た父は、服薬しながら少しずつ仕事にも復帰し始めた。放射線治療の一種であるガンマナイフ治療を受けた影響か、頭髪が抜けて以前よりも薄くなったことは気にしていたが、それ以外は不思議なくらいに普段通りだった。

「腫瘍の数が3分の1まで減っていて、一番大きかったのも半分の大きさなってるって」

 退院後の診察で治療の成果を確認して貰うと、想像以上の効果が出ていたらしく「さすが大島先生だ、巧いなぁ」と木下医師は感慨深げに呟いていた。
 ガンマナイフが効かないかもと言われていた3センチを超える腫瘍もサイズが小さくなっていたと、母は嬉しそうに有希へと報告してきた。

 少しでも夫が夫である時間が伸びてくれればと受けた治療だったが、信一の病症を大きく巻き戻すことができたようだった。きっと一昔前なら、ただ病気の進行が遅れることを祈るしかできなかっただろう。医療の進歩には感謝してもしきれない。

 勿論、大本の根源である肺の癌は手付かずだから、時間が来ればまた新しい腫瘍が出来たり、さらに他の臓器への転移は必ず出て来る。今この時の父の苦痛を取り除くことだけの治療と服薬だったが、父に残されている3か月間を少しでも穏やかなまま送れることを母は望んでいた。

「おじいちゃんの病気が全部治ったら、何でも好きな物を買ってあげるぞ」

 心配して様子を見に由依が実家へ顔を出した際、一緒に連れられて来た菜月へと父が発した台詞に、キッチンで聞いていた母が涙ぐんでいた。気付いた有希がそっと駆け寄ると、母は泣くのを堪えた半笑いの顔のまま洗い物を続けた。

「近所の人にも、頭専門の病院で治療して貰ったから、だいぶ治って来てるって言ってはったのよ」

 身体が楽になったのは回復に向かっているからだと信じている夫が可哀そうで仕方がないと、その日の母はいろいろと理由を付けてはずっとキッチンから出てこなかった。
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