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第三十八話・さとり

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 食事メニューがオーダーストップとなるのは22時半。終了間際の駆け込み注文を捌き終えて、調理器具の片付けが済む頃には、ブースのあちらこちらから客の寝息が聞こえてくるようになる。五万冊を誇るコミックス棚も、映画見放題のネット環境も、一部の利用客にはそれほど魅力的なものでもないらしい。彼らにとって、ここはただの格安の宿泊施設でしかない。

 この時間帯からの来店は高確率で最寄り駅の終電を逃した客で、その大半がアルコールの匂いを漂わせている。そもそも、飲み屋の閉店よりも先に電車が無くなってしまうことが原因なのだと、千咲は夜勤に入るようになってから気付いた。
 終電の時刻が近付いてくるとアナウンスしてくれる居酒屋があったら、間違いなく感謝されるはず。でも実際問題、それをしてしまうと早い時間に客が居なくなってしまうというデメリットも出てくる。

 千咲だって、飲み会が盛り上がっている時に終電のことが頭から消えてしまって慌てたこともあった。運良くこれまでは徒歩圏内に住んでいる子がいたり、近くに始発の時刻まで営業しているカラオケBOXがあったりして、路頭に迷うようなことはなかったが。

 あいにく、この近辺には朝まで営業しているカラオケ店はなく、24時間営業というとコンビニかこのネットカフェくらいしかない。駅前にはビジネスホテルも数件あるが、始発までの時間を過ごすのなら『INARI』の方が半額以下の料金で済んでしまう。

 揃って酒の匂いをぷんぷんさせて入って来たスーツ姿の男性二人は、カウンターに並んで入会申込書へ必要事項を記入していた。二人分の免許証を預かってコピーを取らせてもらうと、千咲はフロントの端末で仮登録をしてから新しい会員カードの発行手続きを行っていた。

「お席のタイプのご希望はございますか?」
「寝るだけだし、フラットかリクライニングかなぁ? 課長はどちらにされます?」

 先にエントランスのベンチで座り込んでしまった上司らしき同伴者に向かって、三十手前といった若い方の男性客が確認する。課長と呼ばれていた年配の男性客は申込書の記入をし終えると、もう限界とばかりにカウンターから離れて項垂れている。彼の方がひどく酔っ払っているように見える。

「うーん……俺はどっちでもいい。高梨君に任せるわ」
「分かりました。んじゃあ、靴脱げる方が楽だと思うんで、フラットで空いてる?」

 言われて、千咲はすぐにブースマップへと画面を切り替えた。二人とも煙草は吸わないと話していたので、禁煙席で表示させる。店内は特に混み合っているという訳でもないが、ブースの一角だけが真っ黒に表示されていた。

 ――あ、今日もフラットシートに集中しちゃってる……。

「あー、一つしか空いてないんだ。じゃあ、俺はリクライニングでいいかな……」

 黒色で表示されたブース番号に、男は少し残念そうに呟いている。禁煙のお座敷席は寝るつもりで来る客に人気があり、他のシートよりも埋まっていることが多い。

 ――喫煙なら、空いてるんだけどなぁ。でも、煙草吸わない人に喫煙席は嫌がられるかもだし……。

 がら空きの喫煙ブースのマップを自分側のモニターで表示させて、千咲は提案していいものかどうかを悩んだ。今晩は喫煙客が少なく、ブースの空気は随分とマシな方だとは思う。ただ、受動喫煙を気にする人も多い世の中だし、安易に勧めるとお叱りを受けることがある。

「平気平気。俺達、煙草の匂いは慣れてるし、喫煙席でいいよ」
「え、あ、はい……」
「どこが空いてるの? 出来れば隣の席にしてくれる? あの人、酔っ払ってる時、いろいろと危ういから心配だし」

 男の注文に、「かしこまりました」と客側のモニターもエリアを切り替えて見せ、喫煙ブースでの入店手続きを始める。動揺を隠して平然と操作してはいたが、千咲は内心では首を思い切り傾げていた。

 ――今、喫煙席へのお勧めはまだしてなかったよね、私?

「今、喫煙席へのお勧めはまだしてなかったよね、私?」
「え?」

 ――今の、声に出してた?

「今の、声に出してた?」

 心の中だけで呟いたはずの台詞が、カウンターの向こうにいる男の口から発せられ、マウスを操作していた手が完全に止まってしまう。驚いて顔を上げると、男性客が少し意地悪な笑みを浮かべて千咲のことを見ていた。

 ――え、何どういうこと? 怖いんだけど……。

「え、何どういうこと? 怖いんだけど……」

 咄嗟に反応した心の声が、自分ではなくて他人の口を通して出てくる。驚きと共に、恐怖すら感じる。心の中で思ったことが、オウム返しのように男の声となって返ってくる。初対面の人間に考えていることが筒抜けになるというのは、精神的な逃げ場を塞がれ、追い詰められているようなもの。

 ――や、やだっ、何なの? この人。

「や、やだっ、何なの? この人」

 怯える気持ちは全て悟られ、見透かされ、動揺から平静を装うことすらままない。千咲はカウンターの中を後退った。

「しっ、白――」
「ああっ、やめてやめて! すいませんっ、もうしないから。頼むから、裏にいる人は呼ばないで……」

 白井を呼ぼうとした千咲に、男が両手をワタワタと振りながら必死で止めてくる。ちょっとした悪戯のつもりだったと頭を下げながら。

 心を読んで人を揶揄うあやかし――さとり。

 フロントの奥から溢れ出てくる強い怒りの思念を読み取ったらしく、さとりは目に見えて震え始める。姿が見えずとも、これ以上調子に乗れば己の身が無事では済まされないことくらいは分かる。

「せ、席は勝手に探しますんで、案内とかは結構ですっ。か、課長、行きますよ! ――え、そんなとこに寝てたら身体痛めますって。――違いますよ、駅じゃないです。――それは先方の都合でリスケしたばかりじゃないですか、明日じゃないですよ……」

 ベンチで座ったまま舟をこいでいた上司を叩き起こし、いそいそと防音扉の向こうへと逃げるように消えていく。かなり慌てているらしく、酔い潰れた相手の心の声と律儀に会話していた。

「さっきのは二人とも、あやかしですか?」
「いや、若い方だけだ。上司は違う」

 防犯モニターで様子見していた白井が、面白くないとでも言いたげな渋い表情でフロントへと出てくる。先日のろくろ首といい、千咲はどうもあやかし達から揶揄われ易いようだ。

「普通のサラリーマンかと思ったんですけどね……さとりかぁ。相手の心の中を読めるなら、営業とか商談に便利そうですね」
「ハン。他人の考えてることなんて、何が面白いんだか」
「まあ、確かに知らない方がいいことも多そうですしね」

 しみじみと納得して呟く千咲だったが、興味がないと白井は小さく鼻で笑い飛ばした。
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