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第三十六話・猫又の玉川
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この現世に紛れているあやかしは大きく分けて二種類存在する。力を持つモノと、持たないモノ、だ。
妖力で他のあやかしを撃退できる白井や、人に憑りついて操ることができる天狗は間違いなく力を持つモノで、反対にその外見で人を驚かすくらいしかない河童やキジムナー、コロポックルのようなのは持たないモノに分類される。
なら今、フロントで立ったまま居眠りしている猫又はどちらに属するのかと聞かれたら、それは勿論、持つモノの方になる。獣要素の一部を残してはいるが、人の姿に変幻する力を擁しているからだ。
「力を持つあやかしには、気を付けろ」
白井からはしつこいくらい、いつも言われる言葉。その力で人を害するつもりかどうかの見極めは難しい。この現世にいるからといって、人に対して友好的とは言いきれない。あの輪入道のように力で人の世を脅かそうとするものもいるからだ。
――まあ、玉川さんは同じ会社の人だし、大丈夫だろうけど。
『INARI』のオープン時にもヘルプで入っていたという話を聞いたことがあるくらい、彼は白井や中森との付き合いも長い。特に中森とは気が合うらしく、日勤の時には何度か玉川からの外線電話を取り継いだ経験がある。
ただ、白井の口から玉川の名前が出てきたことはこれまで一度もない。見た目の年齢は近そうだけど……。タイプ的にもあまり合わなそうではある。
急な欠員のフォローで来て貰っているだけだしと、フロント業務だけを玉川に任せて、千咲は店内を一人慌ただしく動き回っていた。これまで何度も入ったことがあると言っても、普段とは勝手の違う厨房は玉川にとっては使い辛いだろうし、千咲も慣れない相手の顔色を窺いながら話しをするよりは、調理や清掃といった裏方仕事でバタバタしている方が気が楽だった。
「そんなに張り切ってると、朝までもたないよ」
ブースの床が汚れているからとモップを取りに戻って来た千咲に、玉川は欠伸を噛み殺した緊張感の無い顔で声を掛ける。普段の店では夕勤メインで勤務しているから、この時間帯には眠気のピークがやってきたようだ。抑え切れずに漏れてしまった大きな欠伸に、少しばかり照れたように笑っている。
「最近は夜に入ってなかったからね、僕の方が全然だ」
「奥で休んでもらってても平気ですよ。もうすぐオーダーストップですし、お客様の出入りももうあまりないと思うんで」
「んー、そう? でもなー、サボってるとこを白井君に見られたら、何言われるか……」
眉を寄せて肩をすくめ、怖い怖いと首を横に振っておどけて見せる。
「白井さん、仕事には厳しいですからね」
「そうそう、真面目過ぎるんだよね……」
こんな仕事の何が楽しいんだか、という玉川の後の呟きは、鳴り始めた内線の呼び出し音に完全に搔き消された。身体ごと振り返って受話器を上げる猫又の真横を、千咲はモップ片手に通り過ぎていく。誰かが零したソフトクリームで、喫煙ブースの通路の一部がベタついていて、放っておけば被害の拡大間違いなしなのだ。
「大変申し訳ございません。すぐにスタッフが清掃に向かいますので――」
背後から聞こえてくる玉川の声。汚れた床を踏んでしまった客から早速クレームが入ったみたいだ。千咲は慌ててブースへと向かった。
「今の君は、稲荷の威を借りる狐と呼ばれても仕方ないよ」
防音扉を開けて戻って来た時、千咲の耳に飛び込んできたのは、苛立ちを含んだ玉川の台詞。フロントの端末を操作してブースの入り状況を確認している同僚の背に向かって、一方的にまくし立てているようだった。千咲がブースの床を拭いている間に出勤してきたらしい白井は、玉川の存在は完全スルーで黙々とモニター画面を見ている。
「いつまでこの現世にいるつもり? とっくに命は果たしているはずだろう? それとも何、あの鬼火の狐がこんな面白みのない場所で満足しているっての?」
「……何が言いたい?」
ようやく振り返って猫又に向き合うと、冷え切った低い声と瞳で睨みつける。その威圧的な視線に、玉川は背筋に冷たい物が走り全身の毛が逆立っていくのを感じた。ゆらゆら揺れていた二本の尻尾もその動きをぴたりと止める。顔には出していないつもりだったが、尻尾は正直だ。
「な、何って……さっさと隠り世に戻れって言ってるんだよ! いつまでここに――」
「鬼の祠が荒らされた形跡がある」
「え……?」
「まあ、そういう訳だ」と説明途中で厨房へ向かい、冷蔵庫の在庫をチェックし始めた白井に、玉川は顔を青褪めながらその背を追いかける。
「ちょ、ちょっと待ってよ。鬼の祠って言っても、実際は何も入ってないんじゃなかったっけ? それを壊した奴がいるっての?」
「ああ。偽物だったとはいえ、鬼の力を手に入れようと考えた奴がいたことを稲荷神は問題視されている。それに、本物が突き止められるのも時間の問題だろう」
「その本物の祠って、確か――」
言いかけた玉川を、白井はじろりと睨んで黙らせる。無暗に口にするなという圧に、猫又の尻尾が怯えるように垂れ下がった。
自動ドアの上部にいた女郎蜘蛛が、カサカサと足音を立てて天井間際へ上っていく。
妖力で他のあやかしを撃退できる白井や、人に憑りついて操ることができる天狗は間違いなく力を持つモノで、反対にその外見で人を驚かすくらいしかない河童やキジムナー、コロポックルのようなのは持たないモノに分類される。
なら今、フロントで立ったまま居眠りしている猫又はどちらに属するのかと聞かれたら、それは勿論、持つモノの方になる。獣要素の一部を残してはいるが、人の姿に変幻する力を擁しているからだ。
「力を持つあやかしには、気を付けろ」
白井からはしつこいくらい、いつも言われる言葉。その力で人を害するつもりかどうかの見極めは難しい。この現世にいるからといって、人に対して友好的とは言いきれない。あの輪入道のように力で人の世を脅かそうとするものもいるからだ。
――まあ、玉川さんは同じ会社の人だし、大丈夫だろうけど。
『INARI』のオープン時にもヘルプで入っていたという話を聞いたことがあるくらい、彼は白井や中森との付き合いも長い。特に中森とは気が合うらしく、日勤の時には何度か玉川からの外線電話を取り継いだ経験がある。
ただ、白井の口から玉川の名前が出てきたことはこれまで一度もない。見た目の年齢は近そうだけど……。タイプ的にもあまり合わなそうではある。
急な欠員のフォローで来て貰っているだけだしと、フロント業務だけを玉川に任せて、千咲は店内を一人慌ただしく動き回っていた。これまで何度も入ったことがあると言っても、普段とは勝手の違う厨房は玉川にとっては使い辛いだろうし、千咲も慣れない相手の顔色を窺いながら話しをするよりは、調理や清掃といった裏方仕事でバタバタしている方が気が楽だった。
「そんなに張り切ってると、朝までもたないよ」
ブースの床が汚れているからとモップを取りに戻って来た千咲に、玉川は欠伸を噛み殺した緊張感の無い顔で声を掛ける。普段の店では夕勤メインで勤務しているから、この時間帯には眠気のピークがやってきたようだ。抑え切れずに漏れてしまった大きな欠伸に、少しばかり照れたように笑っている。
「最近は夜に入ってなかったからね、僕の方が全然だ」
「奥で休んでもらってても平気ですよ。もうすぐオーダーストップですし、お客様の出入りももうあまりないと思うんで」
「んー、そう? でもなー、サボってるとこを白井君に見られたら、何言われるか……」
眉を寄せて肩をすくめ、怖い怖いと首を横に振っておどけて見せる。
「白井さん、仕事には厳しいですからね」
「そうそう、真面目過ぎるんだよね……」
こんな仕事の何が楽しいんだか、という玉川の後の呟きは、鳴り始めた内線の呼び出し音に完全に搔き消された。身体ごと振り返って受話器を上げる猫又の真横を、千咲はモップ片手に通り過ぎていく。誰かが零したソフトクリームで、喫煙ブースの通路の一部がベタついていて、放っておけば被害の拡大間違いなしなのだ。
「大変申し訳ございません。すぐにスタッフが清掃に向かいますので――」
背後から聞こえてくる玉川の声。汚れた床を踏んでしまった客から早速クレームが入ったみたいだ。千咲は慌ててブースへと向かった。
「今の君は、稲荷の威を借りる狐と呼ばれても仕方ないよ」
防音扉を開けて戻って来た時、千咲の耳に飛び込んできたのは、苛立ちを含んだ玉川の台詞。フロントの端末を操作してブースの入り状況を確認している同僚の背に向かって、一方的にまくし立てているようだった。千咲がブースの床を拭いている間に出勤してきたらしい白井は、玉川の存在は完全スルーで黙々とモニター画面を見ている。
「いつまでこの現世にいるつもり? とっくに命は果たしているはずだろう? それとも何、あの鬼火の狐がこんな面白みのない場所で満足しているっての?」
「……何が言いたい?」
ようやく振り返って猫又に向き合うと、冷え切った低い声と瞳で睨みつける。その威圧的な視線に、玉川は背筋に冷たい物が走り全身の毛が逆立っていくのを感じた。ゆらゆら揺れていた二本の尻尾もその動きをぴたりと止める。顔には出していないつもりだったが、尻尾は正直だ。
「な、何って……さっさと隠り世に戻れって言ってるんだよ! いつまでここに――」
「鬼の祠が荒らされた形跡がある」
「え……?」
「まあ、そういう訳だ」と説明途中で厨房へ向かい、冷蔵庫の在庫をチェックし始めた白井に、玉川は顔を青褪めながらその背を追いかける。
「ちょ、ちょっと待ってよ。鬼の祠って言っても、実際は何も入ってないんじゃなかったっけ? それを壊した奴がいるっての?」
「ああ。偽物だったとはいえ、鬼の力を手に入れようと考えた奴がいたことを稲荷神は問題視されている。それに、本物が突き止められるのも時間の問題だろう」
「その本物の祠って、確か――」
言いかけた玉川を、白井はじろりと睨んで黙らせる。無暗に口にするなという圧に、猫又の尻尾が怯えるように垂れ下がった。
自動ドアの上部にいた女郎蜘蛛が、カサカサと足音を立てて天井間際へ上っていく。
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