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第二十三話・神隠し3
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夕方に異臭騒ぎがあったせいで、いつにも増して深夜の喫煙席は閑散としていた。二人いる利用客はどちらも寝息を立てて就寝中で、カチカチと聞こえるマウスを操作する音はアクリル壁で仕切られた向こう側――禁煙席からだ。
白井は喫煙エリアの通路をゆっくりと歩き、その様子を慎重に探っていく。微かにまだ残るブリーチ剤の匂いが鼻の奥にツンときて顔をしかめる。薬剤の匂いはあまり得意じゃない。それでも鼻をスンスンと働かせて、5番ブースに残された香りを嗅いだ。
「……火炎系のあやかし、か」
僅かに漂う、煤の香りと妖気。瞼を閉じて、その移動経路を鼻先で追う。それは5番ブースの真上に設置されている換気口へと続いていた。
「チッ」と小さく舌打ちすると、白井は前髪をワシャワシャと鬱陶しそうに掻く。
稲荷神の名の下に賜った、この現世にて人外の風紀を取り締まる任。妖狐である己がここにいると分かった上での所業かと、腹立たしさに下唇をぎりりと噛む。
フロントへと戻って来た白井の手に、5番ブースに置き去りになっていたボディバッグとスマホがあるのに気付き、千咲はすぐさまパソコンで入店管理の画面を開く。白井は客がもう帰ってはこないと判断したのだ。なら、やる業務は決まっている。
「とりあえずの退店時刻は今でいいですか?」
「ああ。ただ少し気になるから、朝まではメンテナンス表示にしておいてくれ」
了解です、と返事してから、バッシング用材の入った篭を手に持つ。ブースの数には限りがある。客不在のスペースをいつまでも放置しておく訳にはいかない。気持ち的には、事故物件を抱えてしまった大家さんだ。
どんなにイレギュラーなことが続いても、それは他の客にとっては関係のないこと。通常業務をこなして、いつもと変わらないサービスを提供するのが最善。
ブースに放置されていたコミックスを戻しながら、乱れた棚もついでに整理していく。少女コミックの棚前にしゃがみ込んでいる女の子のことは、見て見ぬふりして素通りした。朧気なその輪郭がゆらゆらと揺れているのは、この世とあの世のどちらにも魂が定まっていないからだろうか。
その時、ふっと視界に赤い光が入った気がした。驚いて振り向いてみるが、これといって何もない。歴代の『島耕作』を学生から社外取締役までずらりと取り揃えた、かなり壮観な棚があるだけだ。
――気のせい、かな。
「こんばんは」
フロントへ戻ると、白井が入店受付をしていた客が、満面の笑顔で振り返る。お世辞にもイケメンとは言えないが、誠実を絵に描いたような真面目面の男に、千咲は心の中で「ゲッ」と毒吐く。
「渡辺さん、この時間に珍しいですね」
「うん、夜に来るのは初めてかな。明日は休みだから、たまにはね」
「そうですか、ごゆっくりどうぞ」
形式ばった挨拶を返すとぺこりと頭を下げて、逃げるように厨房へ駆け込む。そんな千咲の様子を白井は何か物言いたげに眺めていた。
千咲が日勤だった時の常連客である渡辺は、27歳の独身で、営業の仕事をしていると言っていた。外回り中のちょっとしたデータ確認などに店のwifiを利用しに、いつもノートパソコン持参で来ていた。
愛想もよく、ブースの使い方も綺麗で、無茶なことも言わない。所謂、神客だ。
でも、初めて会った時から千咲は彼のことが苦手だった。笑っているはずなのに笑っているように見えない目。表情に何となく違和感を感じて、少し怖くもあった。だから、出来るだけ避けるようにしていた。
けれど、一緒に勤務していた相田は渡辺のことがお気に入りらしく「千咲ちゃんには、あれくらい年上の人のが合うんだって」とやたらと千咲に勧めてきた。渡辺にも同じようなことを言っていたのだろう、その気になった彼から連絡先が書かれたメモを手渡されそうになったこともある。顔を合わす度、個人的に声を掛けられることも多かった。
――絶対、相田さんから聞いてきたんだ。
お節介なパート主婦が千咲の勤務移動を喋ったに違いない。じゃなきゃ、毎回必ず領収書を貰って、これまで一度もプライベートな時間帯に利用したことなんてなかったのだから。
洗い物を頑張っている河童の背の甲羅を褒めるよう撫でてやると、肩を揺すって喜びを表している。話さないあやかしだってこんなにも意思の疎通ができるのに、あの感情の無い目の奥が理解できない。
「面白い知り合いがいるんだな」
不意打ちの再会に、心臓のバクバクが止まらない。落ち着けようと厨房の隅で深呼吸していると、笑いを噛み殺した白井が顔を見せる。
「ああ、昼の常連さんです」
「のっぺらぼうの割には、巧く化けてたな」
「……へ?」
――の、のっぺらぼう?! って、顔が無い妖怪の?
驚き顔で目を丸くした千咲に、「気付いてなかったのか?」と白井は呆れた溜め息を吐く。
「わ、分かる訳ないじゃないですかっ。店長みたいに余計なものがひょっこり出てるならまだしも――」
「はははっ、確かにな。無いはずの顔があったら、のっぺらぼうじゃないからな」
声を出して笑い出す白井。千咲は珍しい物でも目撃したかのように目をぱちくりさせた。彼が笑っているところなんて、これまで見たことがあっただろうか。
ただ、彼の次の台詞に一気に背筋が凍りつく。
「気を付けろよ。のっぺらぼうはストーカー体質だからな」
暗い夜道、助けを求めて声を掛けた人全ての顔がのっぺらぼう。
白井は喫煙エリアの通路をゆっくりと歩き、その様子を慎重に探っていく。微かにまだ残るブリーチ剤の匂いが鼻の奥にツンときて顔をしかめる。薬剤の匂いはあまり得意じゃない。それでも鼻をスンスンと働かせて、5番ブースに残された香りを嗅いだ。
「……火炎系のあやかし、か」
僅かに漂う、煤の香りと妖気。瞼を閉じて、その移動経路を鼻先で追う。それは5番ブースの真上に設置されている換気口へと続いていた。
「チッ」と小さく舌打ちすると、白井は前髪をワシャワシャと鬱陶しそうに掻く。
稲荷神の名の下に賜った、この現世にて人外の風紀を取り締まる任。妖狐である己がここにいると分かった上での所業かと、腹立たしさに下唇をぎりりと噛む。
フロントへと戻って来た白井の手に、5番ブースに置き去りになっていたボディバッグとスマホがあるのに気付き、千咲はすぐさまパソコンで入店管理の画面を開く。白井は客がもう帰ってはこないと判断したのだ。なら、やる業務は決まっている。
「とりあえずの退店時刻は今でいいですか?」
「ああ。ただ少し気になるから、朝まではメンテナンス表示にしておいてくれ」
了解です、と返事してから、バッシング用材の入った篭を手に持つ。ブースの数には限りがある。客不在のスペースをいつまでも放置しておく訳にはいかない。気持ち的には、事故物件を抱えてしまった大家さんだ。
どんなにイレギュラーなことが続いても、それは他の客にとっては関係のないこと。通常業務をこなして、いつもと変わらないサービスを提供するのが最善。
ブースに放置されていたコミックスを戻しながら、乱れた棚もついでに整理していく。少女コミックの棚前にしゃがみ込んでいる女の子のことは、見て見ぬふりして素通りした。朧気なその輪郭がゆらゆらと揺れているのは、この世とあの世のどちらにも魂が定まっていないからだろうか。
その時、ふっと視界に赤い光が入った気がした。驚いて振り向いてみるが、これといって何もない。歴代の『島耕作』を学生から社外取締役までずらりと取り揃えた、かなり壮観な棚があるだけだ。
――気のせい、かな。
「こんばんは」
フロントへ戻ると、白井が入店受付をしていた客が、満面の笑顔で振り返る。お世辞にもイケメンとは言えないが、誠実を絵に描いたような真面目面の男に、千咲は心の中で「ゲッ」と毒吐く。
「渡辺さん、この時間に珍しいですね」
「うん、夜に来るのは初めてかな。明日は休みだから、たまにはね」
「そうですか、ごゆっくりどうぞ」
形式ばった挨拶を返すとぺこりと頭を下げて、逃げるように厨房へ駆け込む。そんな千咲の様子を白井は何か物言いたげに眺めていた。
千咲が日勤だった時の常連客である渡辺は、27歳の独身で、営業の仕事をしていると言っていた。外回り中のちょっとしたデータ確認などに店のwifiを利用しに、いつもノートパソコン持参で来ていた。
愛想もよく、ブースの使い方も綺麗で、無茶なことも言わない。所謂、神客だ。
でも、初めて会った時から千咲は彼のことが苦手だった。笑っているはずなのに笑っているように見えない目。表情に何となく違和感を感じて、少し怖くもあった。だから、出来るだけ避けるようにしていた。
けれど、一緒に勤務していた相田は渡辺のことがお気に入りらしく「千咲ちゃんには、あれくらい年上の人のが合うんだって」とやたらと千咲に勧めてきた。渡辺にも同じようなことを言っていたのだろう、その気になった彼から連絡先が書かれたメモを手渡されそうになったこともある。顔を合わす度、個人的に声を掛けられることも多かった。
――絶対、相田さんから聞いてきたんだ。
お節介なパート主婦が千咲の勤務移動を喋ったに違いない。じゃなきゃ、毎回必ず領収書を貰って、これまで一度もプライベートな時間帯に利用したことなんてなかったのだから。
洗い物を頑張っている河童の背の甲羅を褒めるよう撫でてやると、肩を揺すって喜びを表している。話さないあやかしだってこんなにも意思の疎通ができるのに、あの感情の無い目の奥が理解できない。
「面白い知り合いがいるんだな」
不意打ちの再会に、心臓のバクバクが止まらない。落ち着けようと厨房の隅で深呼吸していると、笑いを噛み殺した白井が顔を見せる。
「ああ、昼の常連さんです」
「のっぺらぼうの割には、巧く化けてたな」
「……へ?」
――の、のっぺらぼう?! って、顔が無い妖怪の?
驚き顔で目を丸くした千咲に、「気付いてなかったのか?」と白井は呆れた溜め息を吐く。
「わ、分かる訳ないじゃないですかっ。店長みたいに余計なものがひょっこり出てるならまだしも――」
「はははっ、確かにな。無いはずの顔があったら、のっぺらぼうじゃないからな」
声を出して笑い出す白井。千咲は珍しい物でも目撃したかのように目をぱちくりさせた。彼が笑っているところなんて、これまで見たことがあっただろうか。
ただ、彼の次の台詞に一気に背筋が凍りつく。
「気を付けろよ。のっぺらぼうはストーカー体質だからな」
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