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第十一話・水浸し
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昼夜逆転の生活リズムにもどうにか慣れてきた頃、深夜に現れる常連客の内の誰がこの店にガチで住み込んでいるのかが判別できるようになった。そう、ネカフェ難民は都市伝説なんかじゃなく、実在するのだ。
朝勤務の時によく顔を見るなーと思っていた客も、たまに見ない日もあったりしたから、それまでの千咲的にはよく来る客くらいの認識だった。そのカラクリを教えてくれたのは、近隣の別のネットカフェで友達が働いているという、夜勤バイトの井口だ。
「いつも1番のブースを指定してくる人いるじゃないすか、金髪の怖そうな。あの人、向こうでも常連らしいっす」
「この店と交互に泊まってるってこと? 家に帰ってるとかじゃなくて?」
「みたいっす。着替えとか全部、車にスゲー積んでるらしいっすよ」
頻繁に来店して毎回シャワーを使っていく人=住人だと思ってて間違いないっす、と井口は言い切る。ずっと夜勤ばかりしている彼の持論らしい。
そう言われて千咲が頭に思い浮かんだ客は、少なくとも四人はいた。その内の一人は、今の仕事場が自宅から遠くてビジネスホテル代わりに使っていると話していた現場監督のおじさん。彼は今の建築現場の仕事が終わるまでの期間限定で、持ち家も家族もあるからネカフェ難民とは言えない。しかも、休日には帰宅しているから平日しか来ない。胸元に社名の入った作業服を着てやってくることも多いし、誰よりも素性がはっきりしている。
だが、他の三人は来る時間も出て行く時間もバラバラで、何の仕事をしているのかすら不明だ。
「あ、いつも喫煙のリクライニングにいる男の人は、スロットで稼いでるらしいっすね。こないだ斎藤君と、目押しのタイミングがどーのって盛り上がってたし」
「へー」
「あと、ちょっとロン毛の人いるじゃないっすか、こないだ印刷方法を聞かれたんでブースに説明しに行ったら、職務経歴書を印刷しようとしてました。絶賛求職中みたいっす」
いろんな人がいるんだねぇ、と洗い終えたグラスを拭きながら、千咲は厨房壁面のモニターを見上げる。日付の変わるこの時間帯は客の出入りがほとんどない。たまにトイレやドリンクを取りに来る客の姿がモニターの隅に映り込むくらいだ。
拭き終わったグラスを並べたケースを軽々と三段重ねで持ち上げると、井口はドリンクバーへと補充に行ってしまう。
そして、ドリンクバーで客の誰かと遭遇したのだろうか、通路側から話し声が漏れ聞こえてくる。「え、マジっすか?」という驚いた声は井口のだ。
「なんか、コミック棚の前が水浸しらしいんで、ちょっと確認しに行ってきます」
「え、水浸し?」
ドリンクでも零されてしまったのだろうか。通路がびしょ濡れになっていることはたまにあるが、蔵書コーナーではこれまでほとんど無かったはずだ。両手が空いていないと好きなコミックを思い切り選べないから、ドリンク片手にコミック棚をウロつく人はあまりいない。
「ヤバイっす。棚は無事なんですけど、床が濡れまくってます」
戻って来た井口が、掃除用具入れからモップを取り出す。ベタベタしてないからお茶か水だと思うと言いながら、急いで拭き取りに向かう。
蔵書に被害は無かったと聞いて、千咲はホッと胸を撫でおろした。一応社員の身だから、今日の夜勤の責任者は自分だ。大事にならずに済んで良かった、と。
そう思っていたのも束の間、今度は内線で禁煙席の客からクレームが入る。例の現場監督だ。「通路が濡れてて滑りかけた。早く拭いてくれ」と。
戻って来た井口からモップを引き継ぐと、千咲はモップ用バケツも抱えて禁煙席へと急ぎ足で向かった。
禁煙席のリクライニングシートとフラットシートが向かい合う通路。その真ん中に大きな水溜まりができていた。ドリンク用グラスで3杯分はありそうな量の水が、床一面に広がっている。
モップに吸わせた水をバケツに絞り出し、またモップを掛けて水気を取る。それを何度か繰り返している間、遠巻きにその作業を眺めていく客はいたが、自分の仕業だと名乗り出てくる人は誰も居なかった。
「同じ人なんすかね。零したら零したって言ってくれればいいのに……」
いい大人が何なんすかね、と呆れ顔で井口がぼやく。確かにそうだね、と苦笑いしながら、千咲はカウンター前の光景を凝視していた。ブースのバッシングに向かった井口は気付いていないようだったが、エントランスの床が見る見る内に水浸しになっていくのだ。
千咲がじっと眼を凝らしていると、徐々にその犯人の姿が水溜まりの中央に現れる。背丈は小学校低学年くらいだろうか、水かきの付いた手に鱗に覆われた苔色の身体、背には甲羅を背負い、頭に皿を乗せたあやかしの姿。――河童だ。
両手に1個ずつ持った空のグラスが、水浸しの犯人だと物語っていた。身体中に水を滴らせているところを見れば、何をしでかしたかは一目瞭然。濡れた床の上を嬉しそうに飛び跳ねて、水遊びをしているように見えた。
河童はカウンターの中からの視線を感じると、くちばしの上の丸い目を宙に彷徨わせてその場でオドオドし始める。これまで出会ったあやかし達はどちらかと言うと好戦的だったが、真逆の反応だ。まさか怯えられる側になるとは思わず、千咲は苦笑を漏らした。
「ねえ、困るんですけど。店の中で水浴びとかされたら」
千咲が近付いていくと、河童は追い詰められたとばかりに後ずさりする。完全に怖がられている。今まで見た中で一番悪意の感じられない人外かもしれない。捕まえて白井に突き出そうかと考えていたが、何だか可哀そうになってきた。
「……今ならシャワー室空いてるよ。使った後、ちゃんと掃除してくれるならいいけど?」
千咲の提案に、うんうんと首を上下に振って河童が嬉しそうに反応する。思わぬところでシャワー室の掃除人を確保できてしまった。白井が知ったら怒るだろうか?
朝勤務の時によく顔を見るなーと思っていた客も、たまに見ない日もあったりしたから、それまでの千咲的にはよく来る客くらいの認識だった。そのカラクリを教えてくれたのは、近隣の別のネットカフェで友達が働いているという、夜勤バイトの井口だ。
「いつも1番のブースを指定してくる人いるじゃないすか、金髪の怖そうな。あの人、向こうでも常連らしいっす」
「この店と交互に泊まってるってこと? 家に帰ってるとかじゃなくて?」
「みたいっす。着替えとか全部、車にスゲー積んでるらしいっすよ」
頻繁に来店して毎回シャワーを使っていく人=住人だと思ってて間違いないっす、と井口は言い切る。ずっと夜勤ばかりしている彼の持論らしい。
そう言われて千咲が頭に思い浮かんだ客は、少なくとも四人はいた。その内の一人は、今の仕事場が自宅から遠くてビジネスホテル代わりに使っていると話していた現場監督のおじさん。彼は今の建築現場の仕事が終わるまでの期間限定で、持ち家も家族もあるからネカフェ難民とは言えない。しかも、休日には帰宅しているから平日しか来ない。胸元に社名の入った作業服を着てやってくることも多いし、誰よりも素性がはっきりしている。
だが、他の三人は来る時間も出て行く時間もバラバラで、何の仕事をしているのかすら不明だ。
「あ、いつも喫煙のリクライニングにいる男の人は、スロットで稼いでるらしいっすね。こないだ斎藤君と、目押しのタイミングがどーのって盛り上がってたし」
「へー」
「あと、ちょっとロン毛の人いるじゃないっすか、こないだ印刷方法を聞かれたんでブースに説明しに行ったら、職務経歴書を印刷しようとしてました。絶賛求職中みたいっす」
いろんな人がいるんだねぇ、と洗い終えたグラスを拭きながら、千咲は厨房壁面のモニターを見上げる。日付の変わるこの時間帯は客の出入りがほとんどない。たまにトイレやドリンクを取りに来る客の姿がモニターの隅に映り込むくらいだ。
拭き終わったグラスを並べたケースを軽々と三段重ねで持ち上げると、井口はドリンクバーへと補充に行ってしまう。
そして、ドリンクバーで客の誰かと遭遇したのだろうか、通路側から話し声が漏れ聞こえてくる。「え、マジっすか?」という驚いた声は井口のだ。
「なんか、コミック棚の前が水浸しらしいんで、ちょっと確認しに行ってきます」
「え、水浸し?」
ドリンクでも零されてしまったのだろうか。通路がびしょ濡れになっていることはたまにあるが、蔵書コーナーではこれまでほとんど無かったはずだ。両手が空いていないと好きなコミックを思い切り選べないから、ドリンク片手にコミック棚をウロつく人はあまりいない。
「ヤバイっす。棚は無事なんですけど、床が濡れまくってます」
戻って来た井口が、掃除用具入れからモップを取り出す。ベタベタしてないからお茶か水だと思うと言いながら、急いで拭き取りに向かう。
蔵書に被害は無かったと聞いて、千咲はホッと胸を撫でおろした。一応社員の身だから、今日の夜勤の責任者は自分だ。大事にならずに済んで良かった、と。
そう思っていたのも束の間、今度は内線で禁煙席の客からクレームが入る。例の現場監督だ。「通路が濡れてて滑りかけた。早く拭いてくれ」と。
戻って来た井口からモップを引き継ぐと、千咲はモップ用バケツも抱えて禁煙席へと急ぎ足で向かった。
禁煙席のリクライニングシートとフラットシートが向かい合う通路。その真ん中に大きな水溜まりができていた。ドリンク用グラスで3杯分はありそうな量の水が、床一面に広がっている。
モップに吸わせた水をバケツに絞り出し、またモップを掛けて水気を取る。それを何度か繰り返している間、遠巻きにその作業を眺めていく客はいたが、自分の仕業だと名乗り出てくる人は誰も居なかった。
「同じ人なんすかね。零したら零したって言ってくれればいいのに……」
いい大人が何なんすかね、と呆れ顔で井口がぼやく。確かにそうだね、と苦笑いしながら、千咲はカウンター前の光景を凝視していた。ブースのバッシングに向かった井口は気付いていないようだったが、エントランスの床が見る見る内に水浸しになっていくのだ。
千咲がじっと眼を凝らしていると、徐々にその犯人の姿が水溜まりの中央に現れる。背丈は小学校低学年くらいだろうか、水かきの付いた手に鱗に覆われた苔色の身体、背には甲羅を背負い、頭に皿を乗せたあやかしの姿。――河童だ。
両手に1個ずつ持った空のグラスが、水浸しの犯人だと物語っていた。身体中に水を滴らせているところを見れば、何をしでかしたかは一目瞭然。濡れた床の上を嬉しそうに飛び跳ねて、水遊びをしているように見えた。
河童はカウンターの中からの視線を感じると、くちばしの上の丸い目を宙に彷徨わせてその場でオドオドし始める。これまで出会ったあやかし達はどちらかと言うと好戦的だったが、真逆の反応だ。まさか怯えられる側になるとは思わず、千咲は苦笑を漏らした。
「ねえ、困るんですけど。店の中で水浴びとかされたら」
千咲が近付いていくと、河童は追い詰められたとばかりに後ずさりする。完全に怖がられている。今まで見た中で一番悪意の感じられない人外かもしれない。捕まえて白井に突き出そうかと考えていたが、何だか可哀そうになってきた。
「……今ならシャワー室空いてるよ。使った後、ちゃんと掃除してくれるならいいけど?」
千咲の提案に、うんうんと首を上下に振って河童が嬉しそうに反応する。思わぬところでシャワー室の掃除人を確保できてしまった。白井が知ったら怒るだろうか?
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