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第一話・ネットカフェ店員
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初めてその人を見た時、その不思議な空気感に幻でも見ているのではないかと疑った。まるで現実の人ではないかのような、そんな錯覚を覚えた。
全体的に色素の薄い色白で、細い顎に切れ長の瞳は、どこか神経質そうな印象を与える。その整った美しい顔は、こちらを向いて「チッ」と舌打ちしてから吐き捨てたのだ。
「ウゼェ。失せろ」
朝霧の立ちのぼる秋の早朝。7時50分。
千咲はバイト先であるネットカフェの、自動ドアの天井近くを見上げながらくぐり抜けていた。
中に入った瞬間、ふわっと漂ってくるのはトーストの香ばしい匂い。フロントの前を通り過ぎ、厨房の中を覗くと、バイト仲間である井口がモーニングセットを乗せたトレーを持って出てくるところだった。
「あ、鮎川さん、おはよっす」
「おはようございます。無料モーニングですか? 井口君、一人?」
「そっす。7時までは白井さんもいたんすけど――。モーニングは多分、この人で終わりっすね」
トーストとミニサラダ、フライドポテトの無料セットは6時から9時まで注文可能だ。朝一に誰かが食べ始めたら、連鎖的にオーダーが入ってくるのは音も匂いも漏れやすい狭い空間だからだろうか。大抵は7時前後らしく、千咲の出勤後にオーダーが入ることはそこまで多くはない。
大学ではアメフト部に所属しているという井口が今着ているのは、白シャツにブルーのチェック柄ネクタイ、黒のベストとパンツ、ロング丈のラップエプロンという、所謂ギャルソン風の制服だ。大柄で厳つく見られがちの彼も、普通に着ていればそれなりに似合うと思うのだが、彼の気質かポリシーなのか、いつもシャツの袖を肘まで捲り上げ、ネクタイもだらしなく緩めているのが残念でならない。
「そう言えばさっき、入口に何かあったんすか?」
「え?」
「入って来た時、鮎川さん、上見てませんでした?」
スタッフルームで着替えを済ませて、セミロングの髪を後ろで一つに束ねる。フロント裏の狭い事務スペースでタイムカードを通していると、ブースから戻って来た井口が訝し気に聞いてくる。複数枚重ねたトレーにグラスやカップをめいっぱい乗せた物を軽々と手に持ちながら。
「え、ああ。ドアの上に大きい蜘蛛の巣が張ってるなぁって思って」
厨房に設置されたモニターでは、エントランスの様子が確認できるようになっている。それで千咲が天井を見上げながら入店してきたのが目に入ったらしい。
前日に払い除けたはずの蜘蛛の巣が、また元に戻っているのを忌々しいと眺めていただけだ。
「へー、鮎川さんて、いつもそういうの気付きますよね。俺は全然っす」
自動ドアの方にちらりと視線を送ってから感心している。千咲からしたら、重い食器類を軽々と運べる彼の腕力の方が凄いと思うのだが。ワゴンを使わずに一気に回収できるのは彼くらいだろう。
「食器類は先に回収してきたんで、残ってるブースのバッシングしてきます」
「ありがとう。洗い物は置いておいて」
「うっす」
バッシング――飲食店でよく用いられる用語で、後片付けのこと。系列店に一般的なカフェもあるからか、この店でも清掃作業のことをこう呼んでいた。他のネットカフェがどうかは知らないが、ギャルソン風の制服やブラウンの木材を基調とした内装など、ここはちょっと小洒落たカフェでもイメージして作られた店なのだろう。
シンクに溜め込まれていた食器類を洗いつつ、千咲は厨房内を見回す。一時間前までは社員の白井が居たというだけあって、それほど荒れてはいない。ついさっき井口が使っていたと思われる調理器具が少し出しっぱなしな程度だ。業務用冷蔵庫に張られたホワイトボードには庫内在庫の加工日が記入されていて、そちらも大半は新しい日付に書き換えられている。
余洗いを終えた食器を食洗機の中にセットすると、両手を伸ばして蓋を閉める。重い蓋を閉めた途端にゴーっという轟音をあげながら、中では熱湯が噴き出し始めた。
「んじゃ、あがります。おつかれっす」
「お疲れさまです」
バッシング用品の入った篭をカウンター下のスペースに戻し、タイムカードをそそくさと押す井口。そして、さっとポケットから自転車の鍵を取り出すと、スタッフルームへも立ち寄らず、そのままの恰好で自動ドアを出ていく。
「……早っ」
制服通勤なのは分かるが、貴重品はポケットに入れっぱなしで仕事していたのだろうか。無防備というか、横着というか……。
夜勤バイトが帰ってしまうと、店のスタッフは千咲一人きりになってしまった。朝勤務のパート達は早い人でも9時出勤。とは言っても、この時間帯は夜からの利用客の退店受付があるだけで、スタッフ一人だけでも十分に対応できる。現に井口は彼女が来るまでの一時間はワンオペでやっていたくらいだ。
厨房の作業を一通り終えると、今度はフロント周辺の業務へと切り替える。溜まっている未処理の会員申込書を取り出すと、順に個人情報を端末へと入力していく。こういった事務的な業務は、フロントからあまり動けない一人時間にこなすのが最適なのだ。
千咲がここでバイトをし始めてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。どの作業ももう慣れたものだ。
全体的に色素の薄い色白で、細い顎に切れ長の瞳は、どこか神経質そうな印象を与える。その整った美しい顔は、こちらを向いて「チッ」と舌打ちしてから吐き捨てたのだ。
「ウゼェ。失せろ」
朝霧の立ちのぼる秋の早朝。7時50分。
千咲はバイト先であるネットカフェの、自動ドアの天井近くを見上げながらくぐり抜けていた。
中に入った瞬間、ふわっと漂ってくるのはトーストの香ばしい匂い。フロントの前を通り過ぎ、厨房の中を覗くと、バイト仲間である井口がモーニングセットを乗せたトレーを持って出てくるところだった。
「あ、鮎川さん、おはよっす」
「おはようございます。無料モーニングですか? 井口君、一人?」
「そっす。7時までは白井さんもいたんすけど――。モーニングは多分、この人で終わりっすね」
トーストとミニサラダ、フライドポテトの無料セットは6時から9時まで注文可能だ。朝一に誰かが食べ始めたら、連鎖的にオーダーが入ってくるのは音も匂いも漏れやすい狭い空間だからだろうか。大抵は7時前後らしく、千咲の出勤後にオーダーが入ることはそこまで多くはない。
大学ではアメフト部に所属しているという井口が今着ているのは、白シャツにブルーのチェック柄ネクタイ、黒のベストとパンツ、ロング丈のラップエプロンという、所謂ギャルソン風の制服だ。大柄で厳つく見られがちの彼も、普通に着ていればそれなりに似合うと思うのだが、彼の気質かポリシーなのか、いつもシャツの袖を肘まで捲り上げ、ネクタイもだらしなく緩めているのが残念でならない。
「そう言えばさっき、入口に何かあったんすか?」
「え?」
「入って来た時、鮎川さん、上見てませんでした?」
スタッフルームで着替えを済ませて、セミロングの髪を後ろで一つに束ねる。フロント裏の狭い事務スペースでタイムカードを通していると、ブースから戻って来た井口が訝し気に聞いてくる。複数枚重ねたトレーにグラスやカップをめいっぱい乗せた物を軽々と手に持ちながら。
「え、ああ。ドアの上に大きい蜘蛛の巣が張ってるなぁって思って」
厨房に設置されたモニターでは、エントランスの様子が確認できるようになっている。それで千咲が天井を見上げながら入店してきたのが目に入ったらしい。
前日に払い除けたはずの蜘蛛の巣が、また元に戻っているのを忌々しいと眺めていただけだ。
「へー、鮎川さんて、いつもそういうの気付きますよね。俺は全然っす」
自動ドアの方にちらりと視線を送ってから感心している。千咲からしたら、重い食器類を軽々と運べる彼の腕力の方が凄いと思うのだが。ワゴンを使わずに一気に回収できるのは彼くらいだろう。
「食器類は先に回収してきたんで、残ってるブースのバッシングしてきます」
「ありがとう。洗い物は置いておいて」
「うっす」
バッシング――飲食店でよく用いられる用語で、後片付けのこと。系列店に一般的なカフェもあるからか、この店でも清掃作業のことをこう呼んでいた。他のネットカフェがどうかは知らないが、ギャルソン風の制服やブラウンの木材を基調とした内装など、ここはちょっと小洒落たカフェでもイメージして作られた店なのだろう。
シンクに溜め込まれていた食器類を洗いつつ、千咲は厨房内を見回す。一時間前までは社員の白井が居たというだけあって、それほど荒れてはいない。ついさっき井口が使っていたと思われる調理器具が少し出しっぱなしな程度だ。業務用冷蔵庫に張られたホワイトボードには庫内在庫の加工日が記入されていて、そちらも大半は新しい日付に書き換えられている。
余洗いを終えた食器を食洗機の中にセットすると、両手を伸ばして蓋を閉める。重い蓋を閉めた途端にゴーっという轟音をあげながら、中では熱湯が噴き出し始めた。
「んじゃ、あがります。おつかれっす」
「お疲れさまです」
バッシング用品の入った篭をカウンター下のスペースに戻し、タイムカードをそそくさと押す井口。そして、さっとポケットから自転車の鍵を取り出すと、スタッフルームへも立ち寄らず、そのままの恰好で自動ドアを出ていく。
「……早っ」
制服通勤なのは分かるが、貴重品はポケットに入れっぱなしで仕事していたのだろうか。無防備というか、横着というか……。
夜勤バイトが帰ってしまうと、店のスタッフは千咲一人きりになってしまった。朝勤務のパート達は早い人でも9時出勤。とは言っても、この時間帯は夜からの利用客の退店受付があるだけで、スタッフ一人だけでも十分に対応できる。現に井口は彼女が来るまでの一時間はワンオペでやっていたくらいだ。
厨房の作業を一通り終えると、今度はフロント周辺の業務へと切り替える。溜まっている未処理の会員申込書を取り出すと、順に個人情報を端末へと入力していく。こういった事務的な業務は、フロントからあまり動けない一人時間にこなすのが最適なのだ。
千咲がここでバイトをし始めてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。どの作業ももう慣れたものだ。
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