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追加エピソード・差し入れ
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西川恵美のところへ店長昇格の話が来たのは、実は今回が初めてではない。入社して一年が過ぎた頃、新店を立て続けに出すことになった時に、エリアマネージャーになったばかりの古賀から声を掛けられたことがある。勿論、その時は断った。まだ知識にも接客にも自信がある訳じゃなかったし、何よりも自分より年上の男性平社員が沢山いたから。当時は素行や実績が悪くて、いつまでも昇級できない先輩社員が何人も在籍していた。
――あの癖の強い人達を、今なら何とかできるようになったのかなぁ?
社員食堂のテーブルの端で、ボールペンをカチカチと鳴らす。食堂の営業時間はとうに終わって、休憩場所としての利用者はほとんどいない。恵美を含めた数人が、広い食堂内に点在しているだけだ。厨房からは翌日の仕込み作業の音が聞こえてくる。
実際に店長になってみたら、月1の店長会議で本社へ行かなければならなくなった以外、通常の業務はあまり変わり映えはしないと思っていた。実績報告などはサブとして店長不在時にもやっていたし、やることは同じだったから。
ただ、半年に一度あるスタッフ評価表の提出のことは頭からすっぽり抜け落ちていた。賞与の査定資料になる、評価表。ショップスタッフ全員の勤務態度などを数値化して詳細も記載しろという指示なのだが、これが思った以上に面倒な作業。しかも極秘資料になるから店でやる訳にもいかず、今こうして一人で食堂へ移動してきているのだけれど、さっきから一向に進んでいない。
点数は五段階評価だから割と悩まずにつけていけたが、スタッフ全員の勤務を分析して文章化するのに苦戦していた。
「これって、甘過ぎたらやり直しとか無いよね、まさか……」
的確な説明は角度を変えて見れば、事務的な接客だったりする。長所にも短所にもなることは、出来るだけ長所として捉えていたい。今、自分がどうにか店長としてやっていけてるのは、支えてくれるスタッフのおかげだから。
かと言って、良いことばかりしか書かないのはマズイ。欠点を見抜けないのは上司としての自分の評価にも繋がってくるのだから。その塩梅がなかなか難しい。
「ハァ……」
眉間に皺を寄せて、無意識にボールペンをカチカチしながら大きく溜め息をつく。さっきからボールペンのカチカチと、溜め息をずっと繰り返しているだけだった。
と、空欄だらけの評価表を広げて頭を抱えている恵美の前に、コトンという音と共に缶コーヒーが置かれる。
え? と恵美は驚いて顔を上げた。
いつから食堂に居たのだろう、全く気付かなかった。店名入りのブルゾンに紺色のラップエプロン、粉もん屋の店長である村上の人懐っこい笑顔が目に飛び込んできた。手には恵美の前に置いたのと同じコーヒーを持っている。
「お疲れ様です。頑張ってね」
「あ、ありがとうございます……」
フードコートでの時と全く同じ短いやり取り。ただ一言声を掛けただけで、村上はコーヒー片手にそのまま食堂を出て行ってしまう。入り口に設置されている自動販売機へ休憩用の飲み物を買いに来ただけなんだろうか。
目の前に残された差し入れのコーヒーへ手を伸ばし、両手で包み込んで恵美はその缶の温かさを感じる。心臓が急に活発になりだしたのは、思った以上に缶が熱かったせいだろうか。
――やばいっ。何あれ、大人過ぎるんだけど……。
缶からじんわりと伝わってくる温もり。すっかり温められた指でボールペンを持ち直し、恵美は気合いを入れて目の前の書類に取り掛かり始める。
「あれ? 恵美、ブラックは飲めなかったんじゃなかったっけ?」
店へと戻って来た恵美が両手で包み込むように持っている缶コーヒーに気付き、瑞希が首を傾げる。もしかして間違って買っちゃった? と同情的な顔をしている。
「あ、うん。ちょっと押し間違えちゃって……。持って帰ってミルク入れて飲もうと思って」
つい誤魔化してしまったが、特に変には思われていないみたいだ。もうすっかり冷たくなってしまった缶を、恵美はロッカーの中に大事にしまい込んだ。
――あの癖の強い人達を、今なら何とかできるようになったのかなぁ?
社員食堂のテーブルの端で、ボールペンをカチカチと鳴らす。食堂の営業時間はとうに終わって、休憩場所としての利用者はほとんどいない。恵美を含めた数人が、広い食堂内に点在しているだけだ。厨房からは翌日の仕込み作業の音が聞こえてくる。
実際に店長になってみたら、月1の店長会議で本社へ行かなければならなくなった以外、通常の業務はあまり変わり映えはしないと思っていた。実績報告などはサブとして店長不在時にもやっていたし、やることは同じだったから。
ただ、半年に一度あるスタッフ評価表の提出のことは頭からすっぽり抜け落ちていた。賞与の査定資料になる、評価表。ショップスタッフ全員の勤務態度などを数値化して詳細も記載しろという指示なのだが、これが思った以上に面倒な作業。しかも極秘資料になるから店でやる訳にもいかず、今こうして一人で食堂へ移動してきているのだけれど、さっきから一向に進んでいない。
点数は五段階評価だから割と悩まずにつけていけたが、スタッフ全員の勤務を分析して文章化するのに苦戦していた。
「これって、甘過ぎたらやり直しとか無いよね、まさか……」
的確な説明は角度を変えて見れば、事務的な接客だったりする。長所にも短所にもなることは、出来るだけ長所として捉えていたい。今、自分がどうにか店長としてやっていけてるのは、支えてくれるスタッフのおかげだから。
かと言って、良いことばかりしか書かないのはマズイ。欠点を見抜けないのは上司としての自分の評価にも繋がってくるのだから。その塩梅がなかなか難しい。
「ハァ……」
眉間に皺を寄せて、無意識にボールペンをカチカチしながら大きく溜め息をつく。さっきからボールペンのカチカチと、溜め息をずっと繰り返しているだけだった。
と、空欄だらけの評価表を広げて頭を抱えている恵美の前に、コトンという音と共に缶コーヒーが置かれる。
え? と恵美は驚いて顔を上げた。
いつから食堂に居たのだろう、全く気付かなかった。店名入りのブルゾンに紺色のラップエプロン、粉もん屋の店長である村上の人懐っこい笑顔が目に飛び込んできた。手には恵美の前に置いたのと同じコーヒーを持っている。
「お疲れ様です。頑張ってね」
「あ、ありがとうございます……」
フードコートでの時と全く同じ短いやり取り。ただ一言声を掛けただけで、村上はコーヒー片手にそのまま食堂を出て行ってしまう。入り口に設置されている自動販売機へ休憩用の飲み物を買いに来ただけなんだろうか。
目の前に残された差し入れのコーヒーへ手を伸ばし、両手で包み込んで恵美はその缶の温かさを感じる。心臓が急に活発になりだしたのは、思った以上に缶が熱かったせいだろうか。
――やばいっ。何あれ、大人過ぎるんだけど……。
缶からじんわりと伝わってくる温もり。すっかり温められた指でボールペンを持ち直し、恵美は気合いを入れて目の前の書類に取り掛かり始める。
「あれ? 恵美、ブラックは飲めなかったんじゃなかったっけ?」
店へと戻って来た恵美が両手で包み込むように持っている缶コーヒーに気付き、瑞希が首を傾げる。もしかして間違って買っちゃった? と同情的な顔をしている。
「あ、うん。ちょっと押し間違えちゃって……。持って帰ってミルク入れて飲もうと思って」
つい誤魔化してしまったが、特に変には思われていないみたいだ。もうすっかり冷たくなってしまった缶を、恵美はロッカーの中に大事にしまい込んだ。
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