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追加エピソード・変わらず好きなモノ3
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玩具だらけのキッズルームに拓也が夢中になっている隙に、百合子の「今の内に」という目配せに黙って頷き返し、伸也と瑞希はそっと安達の実家を出ていく。かなり興奮していたから、息子が母達が居なくなったことに気付くのはもうしばらく後になってからだろう。
泣いて愚図られることは覚悟していたから、正直言って拍子抜けしていた。拓也は赤ちゃんの頃からいろんなところに預けられているから、場所見知りや人見知りが同じ月齢の子と比べると少ないのかもしれない。それは良いのか悪いかは分からないが。
「どこか行きたいところはある?」
助手席でシートベルトを締めている瑞希へ、伸也は穏やかに微笑みながら聞く。三人で出掛ける時は常に前座席に一人きりで、単なる運転手みたいな状況を密かに寂しく思っていた。だから今は真横に瑞希がいることがただただ嬉しい。勿論、拓也が小さい内は仕方ないと頭ではちゃんと理解している。
窓の外を眺めながら、瑞希は「んー、特にこれと言って……」と考える素振りを見せる。子供抜きに出掛けるという概念はとうの昔に脳内から抹消されている。拓也が行きたがりそうなところ、喜びそうなところというのは一瞬でいくつも思いつく。でも、改めて伸也と二人きりで行きたいところなんて……。
「とりあえず、まだ早いけど昼ご飯を食べに行く? 瑞希が好きそうな店を少し前に会社の子から聞いたんだ。この時間なら並ばずに済むと思うし」
「私が好きそうな、って?」
「パン食べ放題の店」
「行きたいっ!」
予想通りの反応に、伸也はハンドルを握りながら吹き出す。以前の会食前に神崎彩菜が言っていた店。あの時は話半分に聞き流していたが、後から考えたら思い切り瑞希好みだと気付き、辛うじて覚えていた店名をネットで調べ直した。食後のデザートも何種類かから選べるというのも、絶対に喜びそうだなと。
口コミによると、早めの時間帯ならパンの大半が焼き立てらしい。今からなら一番良いタイミングで行けるかもしれない。
「伸也も会社の人達とそういう話するんだね。意外」
「違う違う。一方的に聞かされたっていうか、今日の店はたまたま覚えてただけ」
「じゃあ、その強引な人に感謝しなきゃね」
神崎彩菜に対する『強引な人』というネーミングに、伸也はもう一度吹き出しかけた。その『強引な人』にはさらに押しの強過ぎる父親がいて、それによって自分達が離れ離れにされてしまったというのは、今はあえて言うつもりはない。
彩菜が昼休憩で食べに行くと言っていただけあって、その店はKAJI本社の徒歩圏内にあった。イタリアの三色旗を連想させる看板が目印で、細い階段を上がったビルの2階。真下のテナント、不動産会社は週末ということでカウンターは客で全て埋まっているようだった。
狭くて少し急な階段を昇り切り、ガラス扉を引けば、カチャカチャと食器の鳴る音と甘いパンの香ばしい匂い。パスタ専門店というだけあって、チーズやクリームの香りも食欲をそそってくる。
案内された窓際の席に着き、簡単な説明と注文を終えると、瑞希が颯爽と席を立ちあがる。前菜のサラダとパンは自分で取りに行くビュッフェ形式らしい。食べ易そうな小ぶりのパンを選り好みして皿に乗せ、「種類が多すぎて、取り過ぎちゃった。一緒に食べよ」と照れ笑いを浮かべて席へと戻って来る。一通り食べたいと手を出したものの、メインのパスタの前にお腹がいっぱいになってしまうと途中で気付いたらしい。
「デザートもあるんだし、ほどほどに」
「……分かってる」
パン好きの瑞希にとって、今日のメインはパスタじゃなくてパンなんだろうなと思うと、おかしくて堪らない。まだほっこりと温かいバターロールを口に頬張り、幸せそうに笑う妻は、あの頃と何も変わっていない。
「あ、今度うちの店で新規契約用のくじ引きするみたいなんだけど、その景品の中にホームベーカリーがあったよ。ホームベーカリーって使ったことないけど、どうなんだろうね?」
「欲しいなら買いに行く?」
「んー、今はいい。手で捏ねるのが好きだから。結構ストレス発散にもなるし」
前に住んでいた部屋で使っていたのはレンジ機能しか無かったらしく、今のマンションに備え付けられていたオーブンレンジを見て、真っ先に「パンが焼ける」と口走って喜んでいた。
実際にも休みの日に拓也と一緒にパン生地を捏ねていることがあり、成形とは縁遠い岩のようなゴツゴツした見た目のパンは息子の力作。粘土遊びの感覚で丸めたり伸ばされた自由奔放な手ごねパン。その形が少しずつ進化してきているのは拓也の成長の証だと密かな楽しみにしていた。
一応はメインであるはずのカルボナーラを食べ終え、運ばれてきたデザートワゴンの中から好きなスイーツを選ぶ。その頃には店内が満席状態になって、ビュッフェコーナーには人だかりができ始めていた。この状態では好きなパンを思う存分に選ぶことは難しそうで、早めに来たのは正解だった。
食後のコーヒーと共にデザートも食べ終わると、混み始めた入り口前で会計を済ませる。ガラス扉の向こうには長い行列が出来ていて、その最後尾は階段の途中まで続いていた。
「美味しかったねー。『強引な人』に感謝だね」
駐車場までの道中、隣を歩いている妻が満足気に笑い掛けてくる。その穏やかな笑顔に、連れて来てよかったとしみじみと幸せを感じる。
その後は折角車で出掛けてるんだからと、少し大きめのスーパーへ立ち寄ることにする。トイレットペーパー等の嵩張る日用品やミネラルウォーターの箱買いといった、色気とは無縁の買い出し。当たり前に思うような日常。そこに伸也も一緒にいるということが、彼と家族になった証なのだろう。恋人ではなく家族。いろいろと途中をすっ飛ばした感はあるが、最終的にたどり着いた今はもう失いたくない。
カートを押す伸也の隣で、瑞希は鼻にそそる香りに思わず振り返った。「あ、」とつい声を漏らし、それに反応した伸也も視線を動かしてから、呆れたように笑う。出入り口付近では高級食パンの出張販売所が出ていた。長テーブルの上に所狭しと並んでいる紙袋の中から、甘いパンの香りが漂っている。
「買って帰ろっか。実家への手土産にも丁度いいし」
照れながらも黙って頷く瑞希の横で、伸也は紙袋二袋を店員から受け取った。
「さっきまでお昼寝してて、今着替えさせたところなのよ。ほんと、子供の寝汗って凄いわねー」
「すみません……着替えは足りました?」
「お昼ご飯の後と今とで二回着替えただけだから、大丈夫よ。そうそう、おうどんも短く切ってあげたらお代わりして、沢山食べてくれたからお父さんが涙ぐんでたわ」
感涙する夫の顔を思い出したのか、ふふふと声を出して笑っている。その涙を浮かべていたという健一の膝の上にちょこんと座って、拓也はリビングでテレビの子供番組を観ているところだった。祖父の膝上だというのに、拓也は家でソファーの上でやっているみたいに音楽に合わせて身体を揺らしている。
「あら、ここのパン美味しいのよね。遠慮なく頂くわね。あ、そうそう、夕飯用にお父さんのおうどんを持って帰りなさい。さっと茹でるだけでいいから。今日は張り切っちゃって、お揚げもかき揚げもあるのよ」
息子から手土産を受け取ると、一気にまくし立てる。既に用意してくれていた紙袋には打ち立てのうどん等がタッパーに詰められていた。「タッパーは返さなくていいから」という言葉に、遠慮なく礼を言ってから受け取る。
すっかりくつろいでいた風に見えた拓也だったが、瑞希が声を掛けるとすぐに駆け寄ってきた。そして、誰よりも率先して玄関へと走っていく小さな後ろ姿に、大人達は揃って笑い合う。
「やっぱりお家がいいのねー」
どんなに玩具がいっぱいあろうと、自分の家が一番大好きなのだ。
泣いて愚図られることは覚悟していたから、正直言って拍子抜けしていた。拓也は赤ちゃんの頃からいろんなところに預けられているから、場所見知りや人見知りが同じ月齢の子と比べると少ないのかもしれない。それは良いのか悪いかは分からないが。
「どこか行きたいところはある?」
助手席でシートベルトを締めている瑞希へ、伸也は穏やかに微笑みながら聞く。三人で出掛ける時は常に前座席に一人きりで、単なる運転手みたいな状況を密かに寂しく思っていた。だから今は真横に瑞希がいることがただただ嬉しい。勿論、拓也が小さい内は仕方ないと頭ではちゃんと理解している。
窓の外を眺めながら、瑞希は「んー、特にこれと言って……」と考える素振りを見せる。子供抜きに出掛けるという概念はとうの昔に脳内から抹消されている。拓也が行きたがりそうなところ、喜びそうなところというのは一瞬でいくつも思いつく。でも、改めて伸也と二人きりで行きたいところなんて……。
「とりあえず、まだ早いけど昼ご飯を食べに行く? 瑞希が好きそうな店を少し前に会社の子から聞いたんだ。この時間なら並ばずに済むと思うし」
「私が好きそうな、って?」
「パン食べ放題の店」
「行きたいっ!」
予想通りの反応に、伸也はハンドルを握りながら吹き出す。以前の会食前に神崎彩菜が言っていた店。あの時は話半分に聞き流していたが、後から考えたら思い切り瑞希好みだと気付き、辛うじて覚えていた店名をネットで調べ直した。食後のデザートも何種類かから選べるというのも、絶対に喜びそうだなと。
口コミによると、早めの時間帯ならパンの大半が焼き立てらしい。今からなら一番良いタイミングで行けるかもしれない。
「伸也も会社の人達とそういう話するんだね。意外」
「違う違う。一方的に聞かされたっていうか、今日の店はたまたま覚えてただけ」
「じゃあ、その強引な人に感謝しなきゃね」
神崎彩菜に対する『強引な人』というネーミングに、伸也はもう一度吹き出しかけた。その『強引な人』にはさらに押しの強過ぎる父親がいて、それによって自分達が離れ離れにされてしまったというのは、今はあえて言うつもりはない。
彩菜が昼休憩で食べに行くと言っていただけあって、その店はKAJI本社の徒歩圏内にあった。イタリアの三色旗を連想させる看板が目印で、細い階段を上がったビルの2階。真下のテナント、不動産会社は週末ということでカウンターは客で全て埋まっているようだった。
狭くて少し急な階段を昇り切り、ガラス扉を引けば、カチャカチャと食器の鳴る音と甘いパンの香ばしい匂い。パスタ専門店というだけあって、チーズやクリームの香りも食欲をそそってくる。
案内された窓際の席に着き、簡単な説明と注文を終えると、瑞希が颯爽と席を立ちあがる。前菜のサラダとパンは自分で取りに行くビュッフェ形式らしい。食べ易そうな小ぶりのパンを選り好みして皿に乗せ、「種類が多すぎて、取り過ぎちゃった。一緒に食べよ」と照れ笑いを浮かべて席へと戻って来る。一通り食べたいと手を出したものの、メインのパスタの前にお腹がいっぱいになってしまうと途中で気付いたらしい。
「デザートもあるんだし、ほどほどに」
「……分かってる」
パン好きの瑞希にとって、今日のメインはパスタじゃなくてパンなんだろうなと思うと、おかしくて堪らない。まだほっこりと温かいバターロールを口に頬張り、幸せそうに笑う妻は、あの頃と何も変わっていない。
「あ、今度うちの店で新規契約用のくじ引きするみたいなんだけど、その景品の中にホームベーカリーがあったよ。ホームベーカリーって使ったことないけど、どうなんだろうね?」
「欲しいなら買いに行く?」
「んー、今はいい。手で捏ねるのが好きだから。結構ストレス発散にもなるし」
前に住んでいた部屋で使っていたのはレンジ機能しか無かったらしく、今のマンションに備え付けられていたオーブンレンジを見て、真っ先に「パンが焼ける」と口走って喜んでいた。
実際にも休みの日に拓也と一緒にパン生地を捏ねていることがあり、成形とは縁遠い岩のようなゴツゴツした見た目のパンは息子の力作。粘土遊びの感覚で丸めたり伸ばされた自由奔放な手ごねパン。その形が少しずつ進化してきているのは拓也の成長の証だと密かな楽しみにしていた。
一応はメインであるはずのカルボナーラを食べ終え、運ばれてきたデザートワゴンの中から好きなスイーツを選ぶ。その頃には店内が満席状態になって、ビュッフェコーナーには人だかりができ始めていた。この状態では好きなパンを思う存分に選ぶことは難しそうで、早めに来たのは正解だった。
食後のコーヒーと共にデザートも食べ終わると、混み始めた入り口前で会計を済ませる。ガラス扉の向こうには長い行列が出来ていて、その最後尾は階段の途中まで続いていた。
「美味しかったねー。『強引な人』に感謝だね」
駐車場までの道中、隣を歩いている妻が満足気に笑い掛けてくる。その穏やかな笑顔に、連れて来てよかったとしみじみと幸せを感じる。
その後は折角車で出掛けてるんだからと、少し大きめのスーパーへ立ち寄ることにする。トイレットペーパー等の嵩張る日用品やミネラルウォーターの箱買いといった、色気とは無縁の買い出し。当たり前に思うような日常。そこに伸也も一緒にいるということが、彼と家族になった証なのだろう。恋人ではなく家族。いろいろと途中をすっ飛ばした感はあるが、最終的にたどり着いた今はもう失いたくない。
カートを押す伸也の隣で、瑞希は鼻にそそる香りに思わず振り返った。「あ、」とつい声を漏らし、それに反応した伸也も視線を動かしてから、呆れたように笑う。出入り口付近では高級食パンの出張販売所が出ていた。長テーブルの上に所狭しと並んでいる紙袋の中から、甘いパンの香りが漂っている。
「買って帰ろっか。実家への手土産にも丁度いいし」
照れながらも黙って頷く瑞希の横で、伸也は紙袋二袋を店員から受け取った。
「さっきまでお昼寝してて、今着替えさせたところなのよ。ほんと、子供の寝汗って凄いわねー」
「すみません……着替えは足りました?」
「お昼ご飯の後と今とで二回着替えただけだから、大丈夫よ。そうそう、おうどんも短く切ってあげたらお代わりして、沢山食べてくれたからお父さんが涙ぐんでたわ」
感涙する夫の顔を思い出したのか、ふふふと声を出して笑っている。その涙を浮かべていたという健一の膝の上にちょこんと座って、拓也はリビングでテレビの子供番組を観ているところだった。祖父の膝上だというのに、拓也は家でソファーの上でやっているみたいに音楽に合わせて身体を揺らしている。
「あら、ここのパン美味しいのよね。遠慮なく頂くわね。あ、そうそう、夕飯用にお父さんのおうどんを持って帰りなさい。さっと茹でるだけでいいから。今日は張り切っちゃって、お揚げもかき揚げもあるのよ」
息子から手土産を受け取ると、一気にまくし立てる。既に用意してくれていた紙袋には打ち立てのうどん等がタッパーに詰められていた。「タッパーは返さなくていいから」という言葉に、遠慮なく礼を言ってから受け取る。
すっかりくつろいでいた風に見えた拓也だったが、瑞希が声を掛けるとすぐに駆け寄ってきた。そして、誰よりも率先して玄関へと走っていく小さな後ろ姿に、大人達は揃って笑い合う。
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