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追加エピソード・錦織専務
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社長室の扉がノックされる音に、伸也はパソコンから顔を上げた。すぐに内側へと開き、秘書の後ろから室内へと入って来た男に気付いて、慌てて椅子から立ち上がる。役職では伸也の方が上ではあるが、年齢もキャリアも遥かに上をいく存在に、敬意を払わない訳にはいかない。まだまだ自分は教えを乞う立場だという自覚はある。
「忙しくしておられるところを、申し訳ない」
専務である錦織が、落ち着いた低い声で断りを入れる。そして、鴨井に勧められて応接ソファーに腰を下ろしてから、部屋の中を珍し気に見回している。しゃんと背筋の伸びた座り姿に、彼が自己にはかなり厳しいタイプだと物語っていた。
伸也が就任してから、この男が社長室へ入ってくるのは初めてだ。それもそのはず、当初は神崎率いる常務派がべったりと伸也の後ろについていたから、反対派閥である彼には近寄る隙がなかった。
先代の時とは随分と変わってしまった社長室の光景。デスクとソファーセットだけ、花瓶の一つも無い殺風景な部屋に錦織は驚き顔を隠さない。このビルが建って間もない頃でさえ、もう少し飾り気があった記憶がある。対面に座った伸也に向かって、意外そうに言う。
「安達社長は鍛冶社長以上に、無駄な物がお嫌いのようだ」
「そうかもしれません。本当に必要な物だけがあれば十分だと思っているので」
以前は飾られていた贈答品の類いは、棚ごと撤去してもらった。それらは自分にとって全く必要のない物だと判断したからだ。帰国後も瑞希と連絡が取れないからと、自暴自棄になっていた時の反動。不要な物を消し去ることで、辛うじて精神を保っていたような時があった。
別室のように広々とした空間は、遮る物が無い為に話し声が反響する。
「ああ、それもまた一理あるでしょう。効率重視なのは私も同じく。けれど、無駄の中から生み出されるものも存在しますから、最近はそう頭ごなしに切り捨てることもないのではとも思うようになりましてね」
最初は部屋の装飾について語っているのかと思ったが、錦織が全く別のことを言っているのに気付いた。
「花の香りに癒されることもあれば、壁の絵に奮起することもある。無駄だと思っていた物が話の取っ掛かりになってくれることだって、珍しくはない」
「無駄には無駄なりの使い道がある、と?」
伸也の言葉に、錦織は黙って頷いて返す。
「あれも昔はとても優秀な営業でしてね。私達が作り上げた物を、しっかりと売り込んできてくれていた。人脈を作るのが上手かった関係で、今は人事に口出したりといろいろやってるみたいですが、使い道はまだ十分にあるはず」
「……あるんでしょうか?」
「ああ。確かに人事に関しては何とかしないといけないが、あいつはあの強引さでこれまで多くの取引先を引っ張ってきた実績がある。今、第一線で動いている人間で、あの男に育てられたという者は数えきれない。だから、探せば使い様はいくらだってある」
鴨井が運んで来た湯呑に口を付け、二口ほどをゆっくり啜っている。普段の来客時には珈琲を用意してくることが多いが、今日は緑茶なのは錦織の好みに合わせたのだろう。ちなみに最近は神崎が来ても何も出してこなくなった。そもそも神崎は勧められる前からソファーにふんぞり返るくらい、我が物顔で居座っていくから、ここでは誰からも歓迎されていない。
その神崎と錦織は完全に敵対しているものと思っていたが、話しを聞いている限り意外にそうでもないようだ。取締役会の一件で立場が危うくなりつつある常務だったが、それでもあの男にはまだ利用価値があると専務が主張しているのだから。
だが、経験の浅い伸也にはあの古狸を上手く扱える自信はない。眉間に皺を寄せて考え込んでいると、その様子に錦織がニヤリと笑った。目の前の青年が若者らしい人間味のある反応を見せたことに、少し嬉しそうにしている。
「まあ、その辺りは御父上が得意とされることなので心配は無用ですかな」
「父、ですか?」
「ええ、百合子嬢との婚約を認めて貰う為とは言え、あそこまで子会社を急成長させた腕は見事なもんです。私では、ああはいかない」
どさくさに紛れて両親の馴れ初めを聞かされたようで、伸也は苦笑いする。確かに父は錦織と同じ技術職で、元々はKAJI本社に属していた。子会社の設立と共に出たという話を聞いたことがあるから、何らかの形で専務とは顔見知りだったのだろうか。
「親子だからと、いろいろ言ってくる者がいても気にせず、得意な人間に任せるといい。親は子供の役に立つなら何でもしてあげたいものだ。――そうそう、私も退職後は娘の家族の近くに引っ越すことにしましたよ。もう孫は大きくなってしまって、手伝ってやれることなんて何も無いだろうが」
それでも何かあった時にはすぐに駆け付けることができる距離にいてやりたい。そう言って、錦織は父親の顔をして笑っていた。
錦織専務の定年退職まで、残すところは後一か月。ここを立ち去る前の助言のつもりでやってきたのだろうか。彼が後のことで何の懸念も抱えていないようで、伸也は内心ホッとしていた。彼が率いていた派閥は、今や社内で最大のものとなっているのだから油断できない。
「忙しくしておられるところを、申し訳ない」
専務である錦織が、落ち着いた低い声で断りを入れる。そして、鴨井に勧められて応接ソファーに腰を下ろしてから、部屋の中を珍し気に見回している。しゃんと背筋の伸びた座り姿に、彼が自己にはかなり厳しいタイプだと物語っていた。
伸也が就任してから、この男が社長室へ入ってくるのは初めてだ。それもそのはず、当初は神崎率いる常務派がべったりと伸也の後ろについていたから、反対派閥である彼には近寄る隙がなかった。
先代の時とは随分と変わってしまった社長室の光景。デスクとソファーセットだけ、花瓶の一つも無い殺風景な部屋に錦織は驚き顔を隠さない。このビルが建って間もない頃でさえ、もう少し飾り気があった記憶がある。対面に座った伸也に向かって、意外そうに言う。
「安達社長は鍛冶社長以上に、無駄な物がお嫌いのようだ」
「そうかもしれません。本当に必要な物だけがあれば十分だと思っているので」
以前は飾られていた贈答品の類いは、棚ごと撤去してもらった。それらは自分にとって全く必要のない物だと判断したからだ。帰国後も瑞希と連絡が取れないからと、自暴自棄になっていた時の反動。不要な物を消し去ることで、辛うじて精神を保っていたような時があった。
別室のように広々とした空間は、遮る物が無い為に話し声が反響する。
「ああ、それもまた一理あるでしょう。効率重視なのは私も同じく。けれど、無駄の中から生み出されるものも存在しますから、最近はそう頭ごなしに切り捨てることもないのではとも思うようになりましてね」
最初は部屋の装飾について語っているのかと思ったが、錦織が全く別のことを言っているのに気付いた。
「花の香りに癒されることもあれば、壁の絵に奮起することもある。無駄だと思っていた物が話の取っ掛かりになってくれることだって、珍しくはない」
「無駄には無駄なりの使い道がある、と?」
伸也の言葉に、錦織は黙って頷いて返す。
「あれも昔はとても優秀な営業でしてね。私達が作り上げた物を、しっかりと売り込んできてくれていた。人脈を作るのが上手かった関係で、今は人事に口出したりといろいろやってるみたいですが、使い道はまだ十分にあるはず」
「……あるんでしょうか?」
「ああ。確かに人事に関しては何とかしないといけないが、あいつはあの強引さでこれまで多くの取引先を引っ張ってきた実績がある。今、第一線で動いている人間で、あの男に育てられたという者は数えきれない。だから、探せば使い様はいくらだってある」
鴨井が運んで来た湯呑に口を付け、二口ほどをゆっくり啜っている。普段の来客時には珈琲を用意してくることが多いが、今日は緑茶なのは錦織の好みに合わせたのだろう。ちなみに最近は神崎が来ても何も出してこなくなった。そもそも神崎は勧められる前からソファーにふんぞり返るくらい、我が物顔で居座っていくから、ここでは誰からも歓迎されていない。
その神崎と錦織は完全に敵対しているものと思っていたが、話しを聞いている限り意外にそうでもないようだ。取締役会の一件で立場が危うくなりつつある常務だったが、それでもあの男にはまだ利用価値があると専務が主張しているのだから。
だが、経験の浅い伸也にはあの古狸を上手く扱える自信はない。眉間に皺を寄せて考え込んでいると、その様子に錦織がニヤリと笑った。目の前の青年が若者らしい人間味のある反応を見せたことに、少し嬉しそうにしている。
「まあ、その辺りは御父上が得意とされることなので心配は無用ですかな」
「父、ですか?」
「ええ、百合子嬢との婚約を認めて貰う為とは言え、あそこまで子会社を急成長させた腕は見事なもんです。私では、ああはいかない」
どさくさに紛れて両親の馴れ初めを聞かされたようで、伸也は苦笑いする。確かに父は錦織と同じ技術職で、元々はKAJI本社に属していた。子会社の設立と共に出たという話を聞いたことがあるから、何らかの形で専務とは顔見知りだったのだろうか。
「親子だからと、いろいろ言ってくる者がいても気にせず、得意な人間に任せるといい。親は子供の役に立つなら何でもしてあげたいものだ。――そうそう、私も退職後は娘の家族の近くに引っ越すことにしましたよ。もう孫は大きくなってしまって、手伝ってやれることなんて何も無いだろうが」
それでも何かあった時にはすぐに駆け付けることができる距離にいてやりたい。そう言って、錦織は父親の顔をして笑っていた。
錦織専務の定年退職まで、残すところは後一か月。ここを立ち去る前の助言のつもりでやってきたのだろうか。彼が後のことで何の懸念も抱えていないようで、伸也は内心ホッとしていた。彼が率いていた派閥は、今や社内で最大のものとなっているのだから油断できない。
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