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追加エピソード・弟2
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KAJIコーポレーションの本社ビル。最上階に配置された社長室のデスクで、伸也は翌日の会合で使用される書類に目を通していた。明日の会は神崎派が絡んでいない案件だから、面倒なヤジが飛び交う可能性は低い。けれど、まだ就任して日の浅い伸也が常に周りから値踏みされ、試され続けている状態はどこに顔を出しても変わりない。目立って敵対してくる常務派だけでなく、他の派閥だってまだ決して味方という訳でもないのだ。油断なんてしている余裕はない。
逃げ場のない自分の立場は、まるでこの社長室のようだといつも思う。ビルの最上階、一番奥まった場所にあるここは、有事の際の避難経路が限られている。全ての従業員が退避するのを見届けるまではという、愛社精神に溢れた先代の意思が強く現れた配置だ。
――俺には、会社と心中する覚悟はないかな……。
「ここまできたら、もう腹を括るしかないぞ」と他人事のように父は笑って言っていたが、自分には仕事よりも大事なものがあるから、それは無理な話だ。
資料の最後のページを読み終えると、伸也は両腕を天井に向けて伸ばした。デスクワークが続いていたせいか、凝り固まって死にかけていた上半身の筋肉がじわじわと生き返っていく感覚。
ふぅっと息を吐きながら腕を下ろしたタイミングで、入り口の扉からノック音が聞こえてくる。
「失礼いたします。郵便物の中に、社長個人宛と思われるものが混ざっておりました。――差出人名が、その……」
秘書課課長である鴨井が少し警戒した表情で手にしていた封筒を伸也の前に差し出してくる。A4サイズの茶封筒には黒色のペンで社名と伸也の名が手書きされている。広報などを通さずにCEOである伸也宛に郵便物が届くことは別に珍しくはない――大方は経営者向けのDMだったりする。が、そういったものの大半は彼の手元に届く前に鴨井が開封して処理してくれているのが常。
だが、それは未開封のままで伸也の元に届けられた。秘書に開封を躊躇わせた差出人が一体誰だろうかと不審に思い、伸也は封筒を裏返してみる。そして、予想外の名前に驚き、少し目を丸くしながら秘書の顔を見上げた。
差出人として記入されていた名は、『相沢翔太』。今は安達の姓に変わっている愛妻の旧姓が相沢だ。
「……翔太、って。瑞希の弟、かな?」
「のようですね。お会いになられたことは?」
声には出さず、首だけを横に振る。瑞希に弟がいるのは当然知っていたけれど、これまで顔を合わせたことは一度もない。両親だって、先日のホテルでの対面が初めてだったくらいだ。
「姉の連絡先が分からないから、俺宛てに送ってきたってとこかな? ここの住所なら、調べれば簡単に出てくるだろうし」
デスクの引き出しからペーパーナイフを取り出し、おそるおそる開封する。伸也宛になっていても、おそらく中身は姉である瑞希に向けたものだろう。何年も家族としての関係を断絶していた弟が、姉に対して今更何の用があるのだろうか。
正直言って、相沢の家族に対しては良い感情は持ち合わせていない。無事に入籍した今も、向こうの親族との交流は一切する気が起らない。家を追い出された時の瑞希のことを思い、伸也は眉間に皺を寄せて奥歯をぐっと噛みしめる。
そして、茶封筒の中から出てきた真っ白の封筒を見て、さらに最上級の苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「それは……結婚式の招待状、でしょうか? これは、何とも……」
人生経験が豊富であるはずの秘書も、かける言葉を途中で飲み込んでしまう。伸也と瑞希、そして拓也の三人の名が記された白色の封書は、封を開けずとも中身が容易に想像できる。
「どういうつもりで、こんなもの……」
確かに彼にとって瑞希は血のつながった姉だし、結婚式をするなら真っ先に招待されるべき存在だ。それはその伴侶である伸也と、息子の拓也も同じ。一般的な家族だったなら至極普通のことで、おめでたいと手を叩いて祝ってやることだろう。
けれど彼ら姉弟の断絶状態は続いているし、姉の窮地に救いの手を差し伸べることなく切り捨てた過去が消えることはない。
いつもより少し早い時間に帰宅した伸也を、瑞希は夕食の支度をしながらキッチンカウンターの中で出迎えた。玄関が開錠される音を聞きつけた息子が、ドタドタと賑やかな音を立てて駆け寄っていくのを、軽くたしなめる。
「拓也、もう夜なんだから、静かに歩いてね」
小さい身体なのにどうしてそんなにうるさい足音が出るのかと、いつも不思議でならない。幼児にとっては、歩くだけでもかなりの全身運動なのだろうか。
片手で軽々と抱き上げられて玄関から連れ戻されてきた拓也は、父親の首筋にしがみついて嬉しそうに笑っている。
「おかえりなさい。ごめんね、出迎えられなくって。ちょうどグリルで魚を焼いてたところだったから」
「ただいま。代わりに拓也が来てくれたから全然いいよ。な、拓也?」
ビジネスバッグをソファーの横に立て掛けてから、小さな息子を抱え直して自分の肩へと乗せかえる。急に目線が誰よりも高くなったことで、拓也はキャッキャと興奮した笑い声を上げている。仕事モードに整えていた髪をあっという間にもみくちゃにされながら、伸也はそのままリビングをゆっくりと息子が飽きるまで何周も回った。
「いっぱい遊んでもらったから、今日はすぐ寝ちゃったね」
「俺、かなり頑張った感あるよ……拓也、意外と体力あるし」
和室に敷いた子供布団で寝息をたてている息子の顔を、二人並んで眺める。この穏やかな時間は、ずっと待ち望んでいたものだ。もう二度と手放すものかと心の中で誓いながら。
逃げ場のない自分の立場は、まるでこの社長室のようだといつも思う。ビルの最上階、一番奥まった場所にあるここは、有事の際の避難経路が限られている。全ての従業員が退避するのを見届けるまではという、愛社精神に溢れた先代の意思が強く現れた配置だ。
――俺には、会社と心中する覚悟はないかな……。
「ここまできたら、もう腹を括るしかないぞ」と他人事のように父は笑って言っていたが、自分には仕事よりも大事なものがあるから、それは無理な話だ。
資料の最後のページを読み終えると、伸也は両腕を天井に向けて伸ばした。デスクワークが続いていたせいか、凝り固まって死にかけていた上半身の筋肉がじわじわと生き返っていく感覚。
ふぅっと息を吐きながら腕を下ろしたタイミングで、入り口の扉からノック音が聞こえてくる。
「失礼いたします。郵便物の中に、社長個人宛と思われるものが混ざっておりました。――差出人名が、その……」
秘書課課長である鴨井が少し警戒した表情で手にしていた封筒を伸也の前に差し出してくる。A4サイズの茶封筒には黒色のペンで社名と伸也の名が手書きされている。広報などを通さずにCEOである伸也宛に郵便物が届くことは別に珍しくはない――大方は経営者向けのDMだったりする。が、そういったものの大半は彼の手元に届く前に鴨井が開封して処理してくれているのが常。
だが、それは未開封のままで伸也の元に届けられた。秘書に開封を躊躇わせた差出人が一体誰だろうかと不審に思い、伸也は封筒を裏返してみる。そして、予想外の名前に驚き、少し目を丸くしながら秘書の顔を見上げた。
差出人として記入されていた名は、『相沢翔太』。今は安達の姓に変わっている愛妻の旧姓が相沢だ。
「……翔太、って。瑞希の弟、かな?」
「のようですね。お会いになられたことは?」
声には出さず、首だけを横に振る。瑞希に弟がいるのは当然知っていたけれど、これまで顔を合わせたことは一度もない。両親だって、先日のホテルでの対面が初めてだったくらいだ。
「姉の連絡先が分からないから、俺宛てに送ってきたってとこかな? ここの住所なら、調べれば簡単に出てくるだろうし」
デスクの引き出しからペーパーナイフを取り出し、おそるおそる開封する。伸也宛になっていても、おそらく中身は姉である瑞希に向けたものだろう。何年も家族としての関係を断絶していた弟が、姉に対して今更何の用があるのだろうか。
正直言って、相沢の家族に対しては良い感情は持ち合わせていない。無事に入籍した今も、向こうの親族との交流は一切する気が起らない。家を追い出された時の瑞希のことを思い、伸也は眉間に皺を寄せて奥歯をぐっと噛みしめる。
そして、茶封筒の中から出てきた真っ白の封筒を見て、さらに最上級の苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「それは……結婚式の招待状、でしょうか? これは、何とも……」
人生経験が豊富であるはずの秘書も、かける言葉を途中で飲み込んでしまう。伸也と瑞希、そして拓也の三人の名が記された白色の封書は、封を開けずとも中身が容易に想像できる。
「どういうつもりで、こんなもの……」
確かに彼にとって瑞希は血のつながった姉だし、結婚式をするなら真っ先に招待されるべき存在だ。それはその伴侶である伸也と、息子の拓也も同じ。一般的な家族だったなら至極普通のことで、おめでたいと手を叩いて祝ってやることだろう。
けれど彼ら姉弟の断絶状態は続いているし、姉の窮地に救いの手を差し伸べることなく切り捨てた過去が消えることはない。
いつもより少し早い時間に帰宅した伸也を、瑞希は夕食の支度をしながらキッチンカウンターの中で出迎えた。玄関が開錠される音を聞きつけた息子が、ドタドタと賑やかな音を立てて駆け寄っていくのを、軽くたしなめる。
「拓也、もう夜なんだから、静かに歩いてね」
小さい身体なのにどうしてそんなにうるさい足音が出るのかと、いつも不思議でならない。幼児にとっては、歩くだけでもかなりの全身運動なのだろうか。
片手で軽々と抱き上げられて玄関から連れ戻されてきた拓也は、父親の首筋にしがみついて嬉しそうに笑っている。
「おかえりなさい。ごめんね、出迎えられなくって。ちょうどグリルで魚を焼いてたところだったから」
「ただいま。代わりに拓也が来てくれたから全然いいよ。な、拓也?」
ビジネスバッグをソファーの横に立て掛けてから、小さな息子を抱え直して自分の肩へと乗せかえる。急に目線が誰よりも高くなったことで、拓也はキャッキャと興奮した笑い声を上げている。仕事モードに整えていた髪をあっという間にもみくちゃにされながら、伸也はそのままリビングをゆっくりと息子が飽きるまで何周も回った。
「いっぱい遊んでもらったから、今日はすぐ寝ちゃったね」
「俺、かなり頑張った感あるよ……拓也、意外と体力あるし」
和室に敷いた子供布団で寝息をたてている息子の顔を、二人並んで眺める。この穏やかな時間は、ずっと待ち望んでいたものだ。もう二度と手放すものかと心の中で誓いながら。
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