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追加エピソード・弟
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リビングに隣接する和室の押し入れを開けて、瑞希はリンゴが描かれた段ボール箱を引っ張り出す。引っ越しでボロアパートから運んで貰った荷物の大半はとっくに荷解きを終えていたが、唯一この箱だけはずっと手つかずだった。
簡易にガムテープで留められていた蓋を開き、中の物を順に取り出して脇へと乱雑に置いていく。急ぎでは必要のない、細々とした書類。昨年度の源泉徴収票や納税証明書、携帯電話の機種変更の控え、家電の取り扱い説明書と保証書など。安易に捨てるわけにはいかないけれど、取っておいても滅多に使うことのないものばかりが突っ込んである。
中で紙類に埋もれていた手のひらサイズの白い小箱を見つけると、瑞希はその蓋を外して確かめる。ほぼ空に近いそれは、普段から身に着けている腕時計の専用ケースだ。今は小さく折り畳まれた取説と保証書だけしか入ってはいない。時計自体は普段使いしているから箱に収納することなんて一切無いのに、何となく捨て辛くてそのままになっていた。
「あー、やっぱり過ぎてるかぁ……」
悔し気に呟く。そして諦めたように、ふぅとため息を漏らした。
瑞希が手にしているのは、腕時計の保証書。それに記入された購入の日付は今から一年ちょっと前だ。つまりは、メーカーの保証期間はぎりぎりで切れている。
仕事用にしていた腕時計が、最近どうも調子が悪かった。一応は動いてはいるんだけれど、微妙に時刻がズレていることがあり、気付いた際に合わせ直してみても、すぐにまたズレてくるのだ。電池交換の時期かと思って時計店に持って行ったが、交換してもらって三か月もしない内にまた表示がおかしくなり、「電池の初期不良かもしませんね」という店員の言葉を信じてさらに二度目の電池交換をしてもらった。
でも結局、新しい電池を入れ直しても同じ症状が続いたので、もうメーカー修理しか無いと最終宣告されてしまった。その際に聞いてきた修理代があまりにも高かったので、こうして慌てて時計の保証書を探していたのだが……。
――結構、気に入ってたのになぁ。
時計店で聞いた修理代は、瑞希が腕時計を買った価格とほとんど同額だった。否、修理代の方が若干高かった。つまりは、修理に出すくらいなら新しく買い直した方がマシ、ということ。
ポケットにしまい込んでいた時計を取り出すと、瑞希はそっと時計ケースの上に乗せる。事務仕事の際も邪魔にならない小振りな腕時計は、たまたま覗いた時計店でワゴンセールされていた物だった。別に特別な思い入れはないけれど、それでもそれなりには惜しく感じる。
「安物買いの銭失いって、このことかぁ」
二度目の調子悪くなった時に電池交換ではなく修理に出していれば、保証期間内で済んでいたのにと思うと、さらに何倍も悔しい。今更どうしようもないのだけれど。
おもむろに深いため息を一つ吐くと、落ち込んだ気持ちを切り替える。時計の箱を探す為に散らかしてしまった書類達を順に段ボールへと戻していく。急いで片づけを終わらせないと、拓也がお昼寝から覚めてしまう。もし今起きてしまったら、さらに散らかされること間違いなしだ。
「あ、これって……」
まとめて手にした紙類の束に紛れた一冊の冊子に気づき、それだけを抜き出す。書籍ではなく、印字された報告書の束といった方がいいその厚みのある書類に、瑞希はふっと鼻から笑みを漏らした。
あの二年ぶりの再会の夜、伸也から渡されたそれは、あれきり開くことはなかった。瑞希の個人情報が詰まった、興信所の調査報告書。これがなかったら、伸也と再び会えることもなかっただろうと思うと、別にこの存在は気にもならない。もちろん、当時はかなり驚いたけれど。
かと言って、自分の経歴が他人の手によって文字化されているのをわざわざ見たいとも思えず、ずっとしまい込んだままだった。
何とはなしに瑞希はパラパラとページを捲りながら、たまに間に差し込まれている写真を眺め見る。拓也と住んでいた木造アパートも、ずっと通っていた保育園もこうして写真として収められていると、まだほんの数か月前のことなのにすでに懐かしく感じる。
時系列順に記載されていた経歴を目で追っていると、不意に懐かしい名が目に飛び込んできた。
『相沢翔太』
「……翔太、婚約したんだ」
二つ違いの弟がもうすぐ結婚するということを、瑞希はこの報告書で初めて知った。婚約者として記載されている名前には見覚えは無い。長く付き合っていたはずの同級生とはいつの間に別れたのだろうか。瑞希が家を追い出された後、弟にもいろいろあったのかもしれないなと他人事のように思う。
そう、弟でさえももう、瑞希にとっては他人も同然だ。
父親に罵倒され、母親に泣きながら嘆かれ、実家で居場所を失った瑞希。話し合いにもならない言い合いをする三人。その横を、姉のことなどまるで見えていないかのように、平然と素通りしていく弟の姿は忘れない。
決して姉弟の仲が悪かったわけではない。ただ、父親とそっくりな考え方をする翔太のことだ、姉など最初からいないものだと思うことにしたのかもしれない。
けれど、弟に関する記述を読み進めていた瑞希は、くすりと小さく笑みを漏らす。
「ふ、今の彼女はマッチングアプリで出会ったんだ。意外とイマドキだね」
弟もあの頃とは少しは変わっているのかもしれない。
簡易にガムテープで留められていた蓋を開き、中の物を順に取り出して脇へと乱雑に置いていく。急ぎでは必要のない、細々とした書類。昨年度の源泉徴収票や納税証明書、携帯電話の機種変更の控え、家電の取り扱い説明書と保証書など。安易に捨てるわけにはいかないけれど、取っておいても滅多に使うことのないものばかりが突っ込んである。
中で紙類に埋もれていた手のひらサイズの白い小箱を見つけると、瑞希はその蓋を外して確かめる。ほぼ空に近いそれは、普段から身に着けている腕時計の専用ケースだ。今は小さく折り畳まれた取説と保証書だけしか入ってはいない。時計自体は普段使いしているから箱に収納することなんて一切無いのに、何となく捨て辛くてそのままになっていた。
「あー、やっぱり過ぎてるかぁ……」
悔し気に呟く。そして諦めたように、ふぅとため息を漏らした。
瑞希が手にしているのは、腕時計の保証書。それに記入された購入の日付は今から一年ちょっと前だ。つまりは、メーカーの保証期間はぎりぎりで切れている。
仕事用にしていた腕時計が、最近どうも調子が悪かった。一応は動いてはいるんだけれど、微妙に時刻がズレていることがあり、気付いた際に合わせ直してみても、すぐにまたズレてくるのだ。電池交換の時期かと思って時計店に持って行ったが、交換してもらって三か月もしない内にまた表示がおかしくなり、「電池の初期不良かもしませんね」という店員の言葉を信じてさらに二度目の電池交換をしてもらった。
でも結局、新しい電池を入れ直しても同じ症状が続いたので、もうメーカー修理しか無いと最終宣告されてしまった。その際に聞いてきた修理代があまりにも高かったので、こうして慌てて時計の保証書を探していたのだが……。
――結構、気に入ってたのになぁ。
時計店で聞いた修理代は、瑞希が腕時計を買った価格とほとんど同額だった。否、修理代の方が若干高かった。つまりは、修理に出すくらいなら新しく買い直した方がマシ、ということ。
ポケットにしまい込んでいた時計を取り出すと、瑞希はそっと時計ケースの上に乗せる。事務仕事の際も邪魔にならない小振りな腕時計は、たまたま覗いた時計店でワゴンセールされていた物だった。別に特別な思い入れはないけれど、それでもそれなりには惜しく感じる。
「安物買いの銭失いって、このことかぁ」
二度目の調子悪くなった時に電池交換ではなく修理に出していれば、保証期間内で済んでいたのにと思うと、さらに何倍も悔しい。今更どうしようもないのだけれど。
おもむろに深いため息を一つ吐くと、落ち込んだ気持ちを切り替える。時計の箱を探す為に散らかしてしまった書類達を順に段ボールへと戻していく。急いで片づけを終わらせないと、拓也がお昼寝から覚めてしまう。もし今起きてしまったら、さらに散らかされること間違いなしだ。
「あ、これって……」
まとめて手にした紙類の束に紛れた一冊の冊子に気づき、それだけを抜き出す。書籍ではなく、印字された報告書の束といった方がいいその厚みのある書類に、瑞希はふっと鼻から笑みを漏らした。
あの二年ぶりの再会の夜、伸也から渡されたそれは、あれきり開くことはなかった。瑞希の個人情報が詰まった、興信所の調査報告書。これがなかったら、伸也と再び会えることもなかっただろうと思うと、別にこの存在は気にもならない。もちろん、当時はかなり驚いたけれど。
かと言って、自分の経歴が他人の手によって文字化されているのをわざわざ見たいとも思えず、ずっとしまい込んだままだった。
何とはなしに瑞希はパラパラとページを捲りながら、たまに間に差し込まれている写真を眺め見る。拓也と住んでいた木造アパートも、ずっと通っていた保育園もこうして写真として収められていると、まだほんの数か月前のことなのにすでに懐かしく感じる。
時系列順に記載されていた経歴を目で追っていると、不意に懐かしい名が目に飛び込んできた。
『相沢翔太』
「……翔太、婚約したんだ」
二つ違いの弟がもうすぐ結婚するということを、瑞希はこの報告書で初めて知った。婚約者として記載されている名前には見覚えは無い。長く付き合っていたはずの同級生とはいつの間に別れたのだろうか。瑞希が家を追い出された後、弟にもいろいろあったのかもしれないなと他人事のように思う。
そう、弟でさえももう、瑞希にとっては他人も同然だ。
父親に罵倒され、母親に泣きながら嘆かれ、実家で居場所を失った瑞希。話し合いにもならない言い合いをする三人。その横を、姉のことなどまるで見えていないかのように、平然と素通りしていく弟の姿は忘れない。
決して姉弟の仲が悪かったわけではない。ただ、父親とそっくりな考え方をする翔太のことだ、姉など最初からいないものだと思うことにしたのかもしれない。
けれど、弟に関する記述を読み進めていた瑞希は、くすりと小さく笑みを漏らす。
「ふ、今の彼女はマッチングアプリで出会ったんだ。意外とイマドキだね」
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