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第三十八話・社内を駆けまわる噂2
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いつも人懐っこい笑顔を張り付けている鍛冶陽介は、伸也からすると「あまりよく知らない奴」だった。神崎常務の言う鍛冶の本家だって、伸也からみれば母方の祖父の実家でしかなく、幼い頃に母に付いて一度行ったきりの遠い親戚。山間の古い日本家屋のことを朧げに覚えているだけだ。
「父方なら、割と仲良く遊んだ思い出はあるんですが、あっちは全然関わりなかったので……」
「先代もあまりご実家へのこだわりをお持ちでなかったようでしたね。あっさりと娘を嫁に出されたくらいですし」
一人娘である百合子の結婚の際、婿養子の話は一切出さず、安達健一へと嫁がせた先代社長、鍛冶宗助。社名に鍛冶の名を掲げてはいるが、それに固執している訳でもない。
あまり付き合いが無いとは言っても、伝手を辿ってKAJIコーポレーションで勤務している親戚筋は少なくない。KAJIの会社規模とネームバリューはコネを使ってでも入りたがるほどの魅力がある。
「ただ実際のところ、対外的には影響力のある苗字ですからね。ご実家関連の方を本社に配置しないのは先代からの方針なんです」
「ああ、通りで――」
この会社に来て、本社で鍛冶家関連の親戚に出会ったことがなかった。視察で地方の支社を訪問した時には、何人かの見知った顔が幹部層に紛れて出迎えてくれたことはあったが。
身内だからと人事で優遇される可能性がないとも言えないと、先代は自分の近くに鍛冶の血筋の者は置かなかった。
「そのおかげで、本社の人間は鍛冶の名に免疫が無いですから、完全に掻き回されていますね。彼は今、社内の噂の中心人物ですよ」
先祖をずっと遡れば何とかの末裔、そういうのが大好きな人間の心理。鍛冶の本家筋だと言われれば、後継者に本来なるべきなのは陽介の方だったのではないかと考えてしまう者も出てくる。
「ま、冷静になれば分かることなんですが」
「しかも陽介本人も、満更じゃなさそうなのが心配です……」
KAJIコーポレーションを創立したのはあくまでも鍛冶宗助個人であり、鍛冶一族ではない。そして、創始者の娘、安達百合子の息子である伸也は間違いなく宗助の直系の孫だ。先代から見たら、鍛冶陽介は同じ姓を持つただの親戚の子でしかない。
関連会社との商談へ向かう途中、鴨井の運転する社用車の中で、伸也は深く長い溜息をついた。
名前だけで通用する仕事なんて無いというのは、KAJIの後継者候補として渡米させられた先で否という程に思い知らされた。周りに担ぎ上げられただけのトップでは、すぐに脚元を掬われてしまうだろう。
鍛冶陽介を支社からわざわざ呼び寄せた神崎が、どこまで考えた上で彼を指名したのかは定かではない。
北関東支社との広域プロジェクトが無事に終盤を迎えたという報告を受けた後すぐ、秘書を通して伸也の元に人事部から確認が入った。
「先代の鍛冶社長はお身内の方の本社勤務を避けておられましたが、安達社長はどうお考えでしょうか?」
「本当に必要な人材であれば、私は特に構わないとは思っていますが、それは具体的にどこへ誰が?」
「……今、北関東支社から出向されている鍛冶係長を、本社に移動させろという声がありまして――」
社長室の応接ソファーに通され、若き代表と向き合いながら、少しばかり言い辛そうに人事課長が言葉を濁す。事あるごとに人事に口を挟んでくる人間は限られている。勝手ばかり言われ続け、それに対応させられる身にもなれとウンザリ顔を浮かべていた。
「えっと、それは人事部としても、彼がこちらにとって必要と判断したということでしょうか?」
トップである伸也の元に話を持ってくるということは、そういうことだと考えるのが普通だ。彼が親族の本社勤務を許可すれば、すぐにでも人事が動く。
もしくは反対に、伸也から拒否されることを期待して、あえて確認という段階を遠巻きに踏んできたのか。彼の許可が降りなければ、それを免罪符にして拒絶できるから。
「鍛冶係長は、安達社長のご親族だと存じてはおりますが、実はその……」
「ああ、彼はほとんど付き合いのない遠縁なので、気を使っていただかなくて大丈夫です」
伸也の言葉に、どこかホッとしたように肩から力を抜いた人事課長は、手に持っているファイルをパラパラと捲ってから、そこに綴じられている資料を差し出してくる。人事部が独自に作成している個人評価。勤務態度や実績、周囲からの評判などを事細かく分析し、それぞれに見合った配属を導き出す為の極秘資料だ。
「一時的な出向ということで、我々もそれほどデータは持ち合わせてはいないので、北関東支社とも情報共有させていただきましたが」
「――これを見る限り、特に本社に呼ぶほどでもないですね」
受け取ったファイルに目を通し、伸也は困ったように眉を寄せた。遅刻欠勤といったものこそ無かったが、特に目立つ功績もない。どうして今回のプロジェクトに彼が筆頭となってやって来たのかが疑問に思えるくらいだ。
「では、安達社長も先代の意向を引き継がれるということで、お断りさせていただいて宜しいでしょうか?」
「そうですね。ゆくゆくは改めていくでしょうが、当面はそのままでお願いします」
畏まりました、と頷きながら、人事課長は社長室へ入ってから初めての笑みを漏らす。人事部に席を置き、課長という役職を与えられながら、周りからの圧力で正しい判断ができない状況は苛立ちでしかなかった。人事が機能しなければ、やがて会社は崩壊への道を進む。
若きトップが今後も毒されないことを願うばかりだ。
「父方なら、割と仲良く遊んだ思い出はあるんですが、あっちは全然関わりなかったので……」
「先代もあまりご実家へのこだわりをお持ちでなかったようでしたね。あっさりと娘を嫁に出されたくらいですし」
一人娘である百合子の結婚の際、婿養子の話は一切出さず、安達健一へと嫁がせた先代社長、鍛冶宗助。社名に鍛冶の名を掲げてはいるが、それに固執している訳でもない。
あまり付き合いが無いとは言っても、伝手を辿ってKAJIコーポレーションで勤務している親戚筋は少なくない。KAJIの会社規模とネームバリューはコネを使ってでも入りたがるほどの魅力がある。
「ただ実際のところ、対外的には影響力のある苗字ですからね。ご実家関連の方を本社に配置しないのは先代からの方針なんです」
「ああ、通りで――」
この会社に来て、本社で鍛冶家関連の親戚に出会ったことがなかった。視察で地方の支社を訪問した時には、何人かの見知った顔が幹部層に紛れて出迎えてくれたことはあったが。
身内だからと人事で優遇される可能性がないとも言えないと、先代は自分の近くに鍛冶の血筋の者は置かなかった。
「そのおかげで、本社の人間は鍛冶の名に免疫が無いですから、完全に掻き回されていますね。彼は今、社内の噂の中心人物ですよ」
先祖をずっと遡れば何とかの末裔、そういうのが大好きな人間の心理。鍛冶の本家筋だと言われれば、後継者に本来なるべきなのは陽介の方だったのではないかと考えてしまう者も出てくる。
「ま、冷静になれば分かることなんですが」
「しかも陽介本人も、満更じゃなさそうなのが心配です……」
KAJIコーポレーションを創立したのはあくまでも鍛冶宗助個人であり、鍛冶一族ではない。そして、創始者の娘、安達百合子の息子である伸也は間違いなく宗助の直系の孫だ。先代から見たら、鍛冶陽介は同じ姓を持つただの親戚の子でしかない。
関連会社との商談へ向かう途中、鴨井の運転する社用車の中で、伸也は深く長い溜息をついた。
名前だけで通用する仕事なんて無いというのは、KAJIの後継者候補として渡米させられた先で否という程に思い知らされた。周りに担ぎ上げられただけのトップでは、すぐに脚元を掬われてしまうだろう。
鍛冶陽介を支社からわざわざ呼び寄せた神崎が、どこまで考えた上で彼を指名したのかは定かではない。
北関東支社との広域プロジェクトが無事に終盤を迎えたという報告を受けた後すぐ、秘書を通して伸也の元に人事部から確認が入った。
「先代の鍛冶社長はお身内の方の本社勤務を避けておられましたが、安達社長はどうお考えでしょうか?」
「本当に必要な人材であれば、私は特に構わないとは思っていますが、それは具体的にどこへ誰が?」
「……今、北関東支社から出向されている鍛冶係長を、本社に移動させろという声がありまして――」
社長室の応接ソファーに通され、若き代表と向き合いながら、少しばかり言い辛そうに人事課長が言葉を濁す。事あるごとに人事に口を挟んでくる人間は限られている。勝手ばかり言われ続け、それに対応させられる身にもなれとウンザリ顔を浮かべていた。
「えっと、それは人事部としても、彼がこちらにとって必要と判断したということでしょうか?」
トップである伸也の元に話を持ってくるということは、そういうことだと考えるのが普通だ。彼が親族の本社勤務を許可すれば、すぐにでも人事が動く。
もしくは反対に、伸也から拒否されることを期待して、あえて確認という段階を遠巻きに踏んできたのか。彼の許可が降りなければ、それを免罪符にして拒絶できるから。
「鍛冶係長は、安達社長のご親族だと存じてはおりますが、実はその……」
「ああ、彼はほとんど付き合いのない遠縁なので、気を使っていただかなくて大丈夫です」
伸也の言葉に、どこかホッとしたように肩から力を抜いた人事課長は、手に持っているファイルをパラパラと捲ってから、そこに綴じられている資料を差し出してくる。人事部が独自に作成している個人評価。勤務態度や実績、周囲からの評判などを事細かく分析し、それぞれに見合った配属を導き出す為の極秘資料だ。
「一時的な出向ということで、我々もそれほどデータは持ち合わせてはいないので、北関東支社とも情報共有させていただきましたが」
「――これを見る限り、特に本社に呼ぶほどでもないですね」
受け取ったファイルに目を通し、伸也は困ったように眉を寄せた。遅刻欠勤といったものこそ無かったが、特に目立つ功績もない。どうして今回のプロジェクトに彼が筆頭となってやって来たのかが疑問に思えるくらいだ。
「では、安達社長も先代の意向を引き継がれるということで、お断りさせていただいて宜しいでしょうか?」
「そうですね。ゆくゆくは改めていくでしょうが、当面はそのままでお願いします」
畏まりました、と頷きながら、人事課長は社長室へ入ってから初めての笑みを漏らす。人事部に席を置き、課長という役職を与えられながら、周りからの圧力で正しい判断ができない状況は苛立ちでしかなかった。人事が機能しなければ、やがて会社は崩壊への道を進む。
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