今更だけど、もう離さない〜再会した元カレは大会社のCEO〜

瀬崎由美

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第三十七話・社内を駆け回る噂

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 関連会社への視察という名の挨拶回りを終えて本社ビルに戻ってきた伸也は、エレベーターを待ちながら秘書と翌日のスケジュールを確認していた。
 周囲からの不躾な視線にも随分慣れて、耳まで届く噂話にも聞こえていないフリが出来るようになってきた。本人をすぐ目の前にして、よくもここまで話が弾むものだと感心してしまうことも多々。

「総務の加藤さん、秘書課への配属替えを希望したらしいけど、駄目だったんだってー」
「ええーっ、加藤さんってミスM大でバイリンガルだっていう? あの人で無理なら、誰が移動願い出しても無理なんじゃない」
「秘書課に行けたところで、安達社長の下に付ける訳でもないのにねー」

 女子社員達の丸聞こえなヒソヒソ話に、伸也と共にエレベーターの表示ランプを見上げていた鴨井が苦笑を漏らす。秘書課長でもある彼からすれば、迷惑千万な話題でしかない。

「別に、顔で選んでいるわけではないんですけどね……」

 社内のキレイどころが集まっているイメージのある秘書課だが、実際のところはそうでもない。というか、KAJIコーポレーションに関しては秘書の半分は男性だ。しかも、他部署で経験を積んで現場を熟知した者が役員のサポートに付くべきだという先代の考えもあり、平均年齢もそれなりに高い。
 ただ、若さだけが売りとしか思えないような女性社員もいるにはいた。そういう者を良しとする役員も中にはいるからだ。縁故採用組で、親が人事に手を回したのがバレバレの神崎常務の娘がいい例だ。

 日頃から課の人事には頭を痛めているらしい鴨井は、怪訝そうに眉を寄せる。愛娘を秘書課に送り込みたい親バカがこれほど多いとは思っていなかった。隙を見ては人事への口利きを依頼されることがあるが、今まで一度も受けたことはない。躾のなっていない馬鹿娘を、うちの課に押し付けようとしないで欲しいものだ。

 目の前のエレベーターが到着を知らせると、2人は揃って通路を開けるようにさりげなく脇へと除ける。上階から下りてきた一行の中に、常務の神崎の顔が見えたので伸也は軽く頭を下げた。向こうも伸也がエレベーター待ちしていたのに気付いたらしく、周りを囲んでいた常務派だと思われる者達は慌てたように頭を下げ返してくる。しかし、神崎本人はちらりとこちらへと視線を送ってきただけだった。

「あ、伸也」

 常務派の一行の最後に出て来た男が、驚き顔で目を丸くしながら伸也に向かって呼び掛けてくる。いきなりの下の名呼びに、傍にいた鴨井がギョッとして相手を見た。
 黒のビジネススーツを身に付けた細身の青年は、伸也よりも少し年上といった感じだろうか。先を行く常務達へ軽く挨拶した後、人懐っこい笑顔で伸也へ片手を振って近付いてきた。

「え、陽介? 北関東にいるって聞いてたけど」
「本社チームとの広域プロジェクトでね。……って、あれ? 俺を指名してくれたのって、伸也じゃないんだ?」

 首から下げたネームプレートは、『KAJIコーポレーション北関東支社営業部 係長 鍛冶陽介』と記されている。それを見て、鴨井は全てを納得したように小さく頷いた。最近、神崎が何かを企んでいるような気配を感じていたが、このことだったのかと。

「……おそらく、神崎常務だと思います」

 そっと伸也の耳元に囁くと、「ああ、そういうことか」とすぐに状況を理解したようだ。促すように先にエレベーターへの乗り込んだ鴨井の後を、伸也も無言で続いていく。

 ドアが閉まり、上階へと動き始めたエレベーターの中で先に口を開いたのは伸也だった。

「はとこ、なんです。さっきのは爺さんの兄の孫で」
「ええ、存じております。安達社長の対抗馬になるとでも思われて、呼び付けられたのでしょうか」

 困ったものですね、と言いながらも、鴨井は口の端で笑いを漏らした。あまりに幼稚過ぎて話にもならない。今回は特に対策を練る必要がなさそうだ。
 伸也達の予想していた通り、それ以降、本社ビルで鍛冶陽介の姿を目にすることが多くなった。実働している広域プロジェクトの期間中は近くのホテルを取って、そこから通って来ているらしい。

「よう、伸也。たまには飲みにでも行こうぜ」
「ああ。時間があれば」

 出会えば必ず周囲に聞こえるくらい大きな声で下の名を呼ばれる。それが本社内のどこであっても、だ。会社のトップである伸也を気軽に下の名で呼び捨てる陽介のことは、あっと言う間に社内の噂の中心になっていた。

「さすがにそろそろ騒ぐ者が出てきそうですね」

 そう鴨井が宣言した翌日だろうか、視察に出ようとしていた伸也達がビルのエントランスで神崎常務一行と鉢合わせた。常務と並んで歓談していた陽介が、こちらに気付いて人懐っこい笑顔で名前を呼び捨ててくる「やあ、伸也」と。

「こちらの鍛冶君は本家筋だそうじゃないか。まるで彼の方がKAJIコーポレーションの代表みたいだな。君が本社に移動してくれば、安泰だな」
「いえいえ、僕は北関東の方が性に合ってますから」
「はっはは。謙遜するじゃないか。失礼極まりない分家の奴とは大違いだ」

 これ見よがしに周囲へ聞こえるように声を張り上げて話す神崎は、明らかにこちらのことを煽っている。が、伸也は何も言い返すことなく、その横を静かに通り過ぎた。
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