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第二十九話・終業後の一時

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 社長室のデスクで書類に目を通していた伸也は、腕時計で時刻を確認すると、それまで開いていたノートPCをパタンと閉じた。大きく息を吐いた後、凝った首を軽く回してから、足下に置いていた鞄を手に持って立ち上がる。

 別室で仕事をしていた秘書が部屋から出てきた伸也に気付き、社用車の鍵へと手を伸ばして声を掛けた。

「お帰りになられますか?」
「ちょっとだけ顔を見に行こうかと……」

 車出しておきますね、とにこやかに微笑んだ鴨井は、足早に駐車場へと向かう。いつも秘書よりも遅くまで残業していた彼が、19時過ぎには会社を出る日が増えたのは喜ばしいことだ。

「頑張り過ぎは、あまり良くないですからね」

 駐車場へ向かうエレベーターの中、ぽつりと独り言を漏らす。渡米後の彼の生活の話を聞いた時、その過酷さに驚いたものだ。自分の意志ではなく周りから仕組まれて強いられた経営者修行中、彼の心の支えになっていたのは一日も早く愛する人の元へ帰ること。
 なのに、ようやく帰国が許された時にはその人の行方は分からなくなっていて、初めてそれを相談された時には何て残酷な運命なんだと思った。だから、彼女の所在地が判明したとの報告には、彼と同じくらいにホッとした。

 ただ、その彼女が実家を出て一人で子供を産み育てていた事実を知り、さらに驚愕した。彼だけではなく、彼女自身もとてつもなく過酷な生活を強いられていたのだと。不運の一言で片づけていい話ではないだろう。

 ――是非とも、お二人には幸せになっていただきたいものです。そして、犠牲を負わされた彼なら、この会社の腐りかけた部分を正せるかもしれない。

 本社ビルのエントランス手前に車を停めると、秘書がドアを開きに降りるより前に、待ち構えていた伸也が助手席へと乗り込んでくる。

「そろそろ後部座席にも慣れていただきたいのですが……」
「後ろは、まだ落ち着かないです」
「それは困りましたねぇ……」

 はぁっとわざとらしい溜息をついてみせると、伸也がおかしそうに笑う。取締役会の前の緊張した面持ちを知っているだけに、その笑顔に安心する。必死で背伸びして作り込んだ役員の顔ではなく、どこにでもいそうな普通の若者の表情をようやく取り戻せたようだ。

「施策の件、専務派の反応は良さそうでしたね」
「常務派が気になるところですけど……会の前に必要以上に怒らせてしまいましたしね」

 今後の動向に注意しましょうと確認し合った後、瑞希達の住むマンション近くで車を停める。建物の前に目立つ社用車で乗り付けることは避け、少しばかり歩くことにしていた。どこでどんな目があるか分からない。

 途中、流行りの高級食パンの店を見つけると、手土産代わりに一斤を購入する。店名入りの紙袋の中から、ふんわりと甘いパンの香りが漂ってくる。拓也と二人では食べ切れないと叱られるかもしれないが、瑞希が意外とパン好きなのは知っているし大丈夫だろう。

 マンションに着いてキーケースに付けた鍵を手に取るが、少し考えてからそれは使わず、インターフォンで部屋番号を呼び出した。

「はーい」

 短い返事と共にオートロックを解除してもらうと、エントランスホールを抜けてエレベーターに乗って6階に向かう。605号室前まで来ると、玄関前のチャイムを押せば、「開いてるよ」という返事が。

「鍵はちゃんと閉めとかないと」
「今開けたとこだから。っていうか、下のインターフォンもいちいち鳴らさなくていいのに……」

 鍵は持ってるでしょう? と聞かれ、素直に頷く。先日は留守だったからと勝手に上がり込んでしまったが、本当はあれはダメだったんじゃないかと不安になっていた。今の自分達の距離がいまいち掴めず、今日は試しに鍵を使うのを止めてみた。瑞希の反応を確認してみたかった。

「勝手に入っても平気なんだ?」
「え、当たり前じゃない。伸也の家でしょう?」

 夕食の準備をしながら、瑞希は「何、寝ぼけたことを言ってるの?!」と少しむっとした顔をする。忙しい時間にインターフォンで手を止めさせられたことを怒っているのか、それとも急に他人行儀な態度を取ったことを怒っているのか。
 それは別にどちらでもいい。ちゃんと瑞希が自分のことを受け入れてくれているのは分かったから。

「でも、帰って来る時は連絡してくれるかな。ご飯食べるでしょう?」

 作りかけの夕食に野菜を足しているところをみると、食卓の予定が狂ったことを怒っているのかもしれない。「ごめん」と謝りつつ、買ったばかりの食パンが入った紙袋を差し出す。

「あ、そこのお店の?! 気になってたけど、自分では買う勇気なかったんだよね、嬉しい」

 そこまで高くはないけれど、日常買いするには贅沢な価格。普段はスーパーで100円前後で売っている食パンばかり食べている身としては、なかなか手が出ない。気になるものの、いつも前を素通りしてばかりいた店の紙袋を受け取ると、瑞希は大事そうにキッチンカウンターに置いてからパンの香りを嗅いだ。

「んー、朝ご飯まで待てないっ」
「すぐ食べるなら、切ろうか?」
「いい? 5枚切りの厚さでお願い。このくらいで」

 親指と人差し指で希望の厚みを伝えながら、伸也に包丁を手渡す。パン切り用のナイフなんて物は持ち合わせて無いから普通の包丁だが、マメに研いでいるので切れ味は抜群だ。

「耳側をトースターで焼いて。真ん中は拓也も食べると思うし、そっちは薄めで」
「え、注文が多いな……」

 パンに合う献立にすれば良かったと嘆きながらも、瑞希はご機嫌だった。高級食パンも嬉しいが、伸也が瑞希の好きな物をちゃんと覚えてくれていたことの方が嬉しかった。
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