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第二十六話・父との商談
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帰国したその日に実家へ顔を出して以来、父に会うのは久しぶりだった。ぞろぞろと複数の取締役が出迎えてくれた他の社とは違い、ここADコーポレーションの会議室に現れたのは父とその秘書の二人だけだった。広い会議室で向かい合って座ると、先に口を開いたのは父の方だった。
「どうだ、古巣に戻って来た気分は?」
「古巣って……俺はずっと営業所勤務だったし、ここには何の思い出もないよ」
「んー、そうだったか?」
大学を卒業して以降、伸也はADコーポレーションで営業の仕事をしていた。叩き上げで社長になった父から、甘えずにしっかり現場で働くようにと言われて、本社に顔を出したのは入社後の研修の時くらいだろうか。
まあそうか、と揶揄うように笑う父は、唯一の同伴者であった秘書を会議室から出す。気を利かせた鴨井もそれに伴い、秘書二人は別室で待機することに。
「写真見せて貰ったよ。お前の子供の頃のまんまだな」
妻から唯一譲って貰えた1枚の写真を、胸ポケットに入れた名刺入れの中から取り出してみせる。二つ折りにされたのは今よりも少し小さい頃の拓也の写真。何度も出し入れしているのだろう、写真の縁がヨレヨレになっているのに気付き、伸也はこっそり苦笑する。
「昨日、一緒に風呂に入ったよ。いつ泣かれるか、ハラハラした」
「だろうな。お前も俺が入れる時だけギャン泣きだったな……母さんだと平気なのに」
昔を思い出し、悔しそうにする。孫の話は自分達の子育て中を思い起こしてしまうものらしい。
「で、俺にどうして欲しいんだ?」
「錦織専務の退任後、専務職に就いてください」
「そうきたか」と鼻で笑うと、安達健一は身を乗り出した。周りから担ぎ上げられ無理矢理にKAJIコーポレーションのトップに立った息子が、これからどう動こうとしているのか、純粋に興味があった。
父親としてではなく、客観的に一上司の視点からも、伸也のことはそれなりに評価はしているつもりだった。その息子に渡米前には見られなかった必死さが加わった今、その動向から目を離してしまうのは勿体ない。その動きを一番良い席から眺めるのも一興だろう。
「今日の夜、ビジネス誌のデジタルニュースで社内向けの施策が公表されます。それを父さんが主導して下さい」
「その施策で、どっちが付いてくれると考えてるんだ?」
専務派か、常務派か、どちらを囲い込める試算なんだと父に問われ、伸也はきっぱり言い切る。今後空く予定の専務の椅子を譲ってまでしても伸也を支持したいと思わせられる自信はある。
「それは間違いなく、専務派です」
「ほう。あっちは叩き上げの集団だぞ」
コネ入社の代表のような伸也に、あいつらを説得できるのかと言いたいらしい。妻と出会う前から実力主義で昇ってきた父だから、専務派の気質は十分に理解できる。
伸也が手渡した施策書に目を通している父の顔は、この上なく厳しい。上司に企画書を確認して貰っている時のような緊張感を覚えながら、伸也は父の説得を試みる。
「専務派の大半は子育て世代。夫婦共働きやシングルも多い為に、必要性は感じているはず」
「なるほどな……」
自身の経験からも、真っ向から反対という訳ではなさそうだ。細かいところを詰めて質問され、伸也が順にそれを答えていく。後を任せるつもりだからこそ、この施策に対して誰よりも父の理解を得る必要がある。
「うちにも何人も該当する者がいる。そっちに行くまでにさらに詰めておくとするか」
「お願いします」
関連会社からの取締役の兼任に加えて、伸也の施策の主導。父に対して強いた役割は大きいが、父だからこそ安心して任せられる。
「これ終わらせないと、孫にも嫁にも合わせて貰えないってやつか?」
「そうなるね。二人のことを公に出来ない内は、大っぴらに合わせる理由がない」
はぁと大袈裟に溜め息をついてみせる父は、心底残念そうだった。立ち場的にこっそり会いに行くことも出来ず苦々しいのだろう。
スマホに入れていた拓也の画像をメールで送ってやると、食い入るように眺めている様子はただの孫バカだ。こんなに目尻を下げている父の顔を見るのは初めてだろう。誰に見られるか分からないから待ち受けにするのはダメだと、念の為に釘を刺す。
孫で釣ったような形になってしまったが、思っている以上に早く決着が付きそうだ。
その夜、以前にインタビューを受けたビジネス誌のデジタル版にて、KAJIコーポレーションが社内向けに打ち出した新しい施策についての記事が上がった。主要ポータルサイトでも取り上げられたこともあり、翌朝の秘書課は対応に追われることとなる。
――KAJIコーポレーション、各支社に病児保育室を設置。預け入れ先が無い子供達は同伴出勤可能に。
――子育て世代に寄り添った施策。子供の急な発熱時は、親のすぐ傍の社内保育室で。
――社用携帯のキャリア乗り換えにより通信費の大幅削減に成功。浮いた資金で病児保育室を。
よくある社内託児所ではなく、病児保育室としたところに注目が集まったようで、社内でも詳細を求めて上司に問い合わせる者も少なくないようだった。
「近い内に取締役会にて詳細の説明を。その後、課長クラス以上にメールにて告知を」
「承知しました」
父から、いつでも行けるぞという心強い連絡もあり、緊急の取締役会の招集を決める。父の兼任などは株主総会での議決を必要とするが、おおよそのことは各派閥にも周知させておきたい。
「どうだ、古巣に戻って来た気分は?」
「古巣って……俺はずっと営業所勤務だったし、ここには何の思い出もないよ」
「んー、そうだったか?」
大学を卒業して以降、伸也はADコーポレーションで営業の仕事をしていた。叩き上げで社長になった父から、甘えずにしっかり現場で働くようにと言われて、本社に顔を出したのは入社後の研修の時くらいだろうか。
まあそうか、と揶揄うように笑う父は、唯一の同伴者であった秘書を会議室から出す。気を利かせた鴨井もそれに伴い、秘書二人は別室で待機することに。
「写真見せて貰ったよ。お前の子供の頃のまんまだな」
妻から唯一譲って貰えた1枚の写真を、胸ポケットに入れた名刺入れの中から取り出してみせる。二つ折りにされたのは今よりも少し小さい頃の拓也の写真。何度も出し入れしているのだろう、写真の縁がヨレヨレになっているのに気付き、伸也はこっそり苦笑する。
「昨日、一緒に風呂に入ったよ。いつ泣かれるか、ハラハラした」
「だろうな。お前も俺が入れる時だけギャン泣きだったな……母さんだと平気なのに」
昔を思い出し、悔しそうにする。孫の話は自分達の子育て中を思い起こしてしまうものらしい。
「で、俺にどうして欲しいんだ?」
「錦織専務の退任後、専務職に就いてください」
「そうきたか」と鼻で笑うと、安達健一は身を乗り出した。周りから担ぎ上げられ無理矢理にKAJIコーポレーションのトップに立った息子が、これからどう動こうとしているのか、純粋に興味があった。
父親としてではなく、客観的に一上司の視点からも、伸也のことはそれなりに評価はしているつもりだった。その息子に渡米前には見られなかった必死さが加わった今、その動向から目を離してしまうのは勿体ない。その動きを一番良い席から眺めるのも一興だろう。
「今日の夜、ビジネス誌のデジタルニュースで社内向けの施策が公表されます。それを父さんが主導して下さい」
「その施策で、どっちが付いてくれると考えてるんだ?」
専務派か、常務派か、どちらを囲い込める試算なんだと父に問われ、伸也はきっぱり言い切る。今後空く予定の専務の椅子を譲ってまでしても伸也を支持したいと思わせられる自信はある。
「それは間違いなく、専務派です」
「ほう。あっちは叩き上げの集団だぞ」
コネ入社の代表のような伸也に、あいつらを説得できるのかと言いたいらしい。妻と出会う前から実力主義で昇ってきた父だから、専務派の気質は十分に理解できる。
伸也が手渡した施策書に目を通している父の顔は、この上なく厳しい。上司に企画書を確認して貰っている時のような緊張感を覚えながら、伸也は父の説得を試みる。
「専務派の大半は子育て世代。夫婦共働きやシングルも多い為に、必要性は感じているはず」
「なるほどな……」
自身の経験からも、真っ向から反対という訳ではなさそうだ。細かいところを詰めて質問され、伸也が順にそれを答えていく。後を任せるつもりだからこそ、この施策に対して誰よりも父の理解を得る必要がある。
「うちにも何人も該当する者がいる。そっちに行くまでにさらに詰めておくとするか」
「お願いします」
関連会社からの取締役の兼任に加えて、伸也の施策の主導。父に対して強いた役割は大きいが、父だからこそ安心して任せられる。
「これ終わらせないと、孫にも嫁にも合わせて貰えないってやつか?」
「そうなるね。二人のことを公に出来ない内は、大っぴらに合わせる理由がない」
はぁと大袈裟に溜め息をついてみせる父は、心底残念そうだった。立ち場的にこっそり会いに行くことも出来ず苦々しいのだろう。
スマホに入れていた拓也の画像をメールで送ってやると、食い入るように眺めている様子はただの孫バカだ。こんなに目尻を下げている父の顔を見るのは初めてだろう。誰に見られるか分からないから待ち受けにするのはダメだと、念の為に釘を刺す。
孫で釣ったような形になってしまったが、思っている以上に早く決着が付きそうだ。
その夜、以前にインタビューを受けたビジネス誌のデジタル版にて、KAJIコーポレーションが社内向けに打ち出した新しい施策についての記事が上がった。主要ポータルサイトでも取り上げられたこともあり、翌朝の秘書課は対応に追われることとなる。
――KAJIコーポレーション、各支社に病児保育室を設置。預け入れ先が無い子供達は同伴出勤可能に。
――子育て世代に寄り添った施策。子供の急な発熱時は、親のすぐ傍の社内保育室で。
――社用携帯のキャリア乗り換えにより通信費の大幅削減に成功。浮いた資金で病児保育室を。
よくある社内託児所ではなく、病児保育室としたところに注目が集まったようで、社内でも詳細を求めて上司に問い合わせる者も少なくないようだった。
「近い内に取締役会にて詳細の説明を。その後、課長クラス以上にメールにて告知を」
「承知しました」
父から、いつでも行けるぞという心強い連絡もあり、緊急の取締役会の招集を決める。父の兼任などは株主総会での議決を必要とするが、おおよそのことは各派閥にも周知させておきたい。
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