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第二十五話・帰宅後の伸也
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終電ギリギリで自宅マンションに戻ってきた伸也は、リビングのテーブル上にノートPCを置くと電源を入れる。
ロスから帰って来た時に会社から用意されていた1LDKのマンションは、渡米する前の部屋にあった荷物が段ボールに入ったまま壁際に積み上げられていた。
彼が日本を立った後に無断で引き払われた部屋から持ち出された荷物は、一時的に実家で保管され、帰国と同時にここに運ばれて来たようだ。自分の知らないところで何から何まで勝手な段取りを組まれていたことに、怒りを通り越して呆れすら感じる。
帰国して半年ほど経つが、忙しさのあまりに必要最低限の荷解きしかする気が起こらない。本社ビルからほど近いこの家には寝に帰るだけだから、着替えさえあれば十分だったというのもある。それより何より、余分な時間が少しでもあるのなら、それは行方が分からなくなった瑞希を探し出すことに費やしたかった。荷物整理なんて、正直言ってどうだって良い。
着替えて冷蔵庫から出したばかりの炭酸水をボトル半分一気飲みすると、秘書から届いていたメールの添付ファイルを開く。
まだいまいち把握しきれていなかった、社内派閥をまとめた相関図。鴨井による解説付きで分かりやすい。主だったのは錦織専務を中心とした専務派と、神崎常務の常務派だ。
専務派には関連会社から引き抜かれてきた実績主義者が名を連ねて、どちらかと言えば若い世代が多い。常務派には縁故などの所謂コネで、親族もグループ内で役職に就いている者が多い。親近者の入社と出世を目論む者が常務に付いているという感じだろうか。人事部自体が完全な常務派と言っていいのかもしれない。
数年前から、この二つの派閥は半年後に定年退職する予定の錦織の後釜、次期専務の椅子を巡って対立し続けている。
役職順からいけば常務の神崎が後継となるはずだが、近年の神崎にはこれといった功績はない。なので社内外では、実力を評価されている他の取締役の何名かが次期専務として有力視されている。その中にはグループ会社に属する伸也の父の名も含まれていた。
そこで神崎は自らの専務への道を確固たるものにする為、娘と伸也との縁談を百合子に持ちかけたという訳だ。
だから、伸也が娘婿となる可能性が無いのなら、常務派にとって彼は駒としては使えないと判断される。隙を見て、良い踏み台になる別の頭とすげ替えようとしてくるだろう。
おそらく、見合いに関するデマの件は、専務派への牽制か、或いは常務派の拡大を目論んでのことだと考えられる。神崎の後継が濃厚だと推測した者のすでに何名かが他派閥から乗り換え始めたという報告も受けている。
そして、先代の血縁者として代表に担ぎ上げられたばかりの伸也が反対派閥である専務派から支持を得るには、何らかのインパクトある功績を提示する必要がある。専務派は実力至上主義な派閥だ。血筋だけでトップに居座れるほど、KAJIコーポレーションの代表の椅子は軽くはない。
しばらく相関図を眺めて考え込んでいた伸也は、残りの炭酸水を二口ほど飲むと新規メールを作成する。動き出した常務派に蹴落とされる前に、専務派からの反発を受ける前に、自分の周囲を固めておく必要がある。
メールを送信し終えた時、PCのディスプレイの時刻表示はすでに3時を回ろうとしていた。
翌朝はグループ関連会社への視察もあって、秘書の運転する社用車がマンション前まで迎えに来た。打ち合わせも兼ねて助手席に乗り込んだ伸也だったが、シートベルトを着用して座席に身を投じた途端、思わず欠伸が零れてしまう。
「訪問の順番を変更いたしますから、しばらく後ろでお休みになられては?」
「……すみません、そうします」
常に行動を共にしている秘書には、強がったり言い訳したりしても意味がない。伸也がベストな状態で動けるように管理するのが彼の仕事であり、初めて対面した時にも言われたのだ。「専属秘書への意地や見栄は必要ありません」と。
手短に予定を確認し終えると、信号が赤になったタイミングで助手席を降り、後部座席へと移動する。
「あ、相関図、分かり易かったです。あれは祖父の代から変わらず?」
「いえ、先代の時も何かと反発し合ってはいましたが、それでも社長中心にまとまっているようには見えてましたね。常務派の縁故率も、今ほど顕著ではありませんでしたし」
伸也が帰国するまでの間に社長代理を勤めていた錦織よりも、圧倒的に派閥を広げている常務の神崎。伸也を後継にという餌を使って先代の娘である安達百合子を真っ先に引き入れたことが派閥拡充へと起因したのだろう。
ただし、母は初孫との対面以降、神崎を避けているようだが。
後部座席に深く身を預け、伸也は腕を組んだまま下を向いて目を瞑った。鴨井から肩を揺すられて呼び起こされるまでの記憶は全くない。時計を見ると約1時間ほど眠っていたようで、今日の予定の中では一番遠い視察先に到着していた。少しでも眠る時間が取れるよう、距離のあるところから回るようにスケジュールを組み直してくれたらしい。
代表就任後の初めての関連会社への視察は、順調に進んでいった。定型の挨拶と定型の報告はどこへ行っても似たようなものだ。そんな訪問先の全てで、伸也は同じ質問を投げかける。
「こちらでの子育て世帯の割合と、女性の育休後の復帰率はどのくらいですか?」
業績に関する質問ばかりを想定していた担当者は、伸也の問いに即答できず、すぐに調べて後で報告いたしますと焦る者も少なくない。それぞれの視察先で似たような反応を受けた後、伸也は最後の訪問先であるADコーポレーションの会議室で実父が来るのを待った。
ロスから帰って来た時に会社から用意されていた1LDKのマンションは、渡米する前の部屋にあった荷物が段ボールに入ったまま壁際に積み上げられていた。
彼が日本を立った後に無断で引き払われた部屋から持ち出された荷物は、一時的に実家で保管され、帰国と同時にここに運ばれて来たようだ。自分の知らないところで何から何まで勝手な段取りを組まれていたことに、怒りを通り越して呆れすら感じる。
帰国して半年ほど経つが、忙しさのあまりに必要最低限の荷解きしかする気が起こらない。本社ビルからほど近いこの家には寝に帰るだけだから、着替えさえあれば十分だったというのもある。それより何より、余分な時間が少しでもあるのなら、それは行方が分からなくなった瑞希を探し出すことに費やしたかった。荷物整理なんて、正直言ってどうだって良い。
着替えて冷蔵庫から出したばかりの炭酸水をボトル半分一気飲みすると、秘書から届いていたメールの添付ファイルを開く。
まだいまいち把握しきれていなかった、社内派閥をまとめた相関図。鴨井による解説付きで分かりやすい。主だったのは錦織専務を中心とした専務派と、神崎常務の常務派だ。
専務派には関連会社から引き抜かれてきた実績主義者が名を連ねて、どちらかと言えば若い世代が多い。常務派には縁故などの所謂コネで、親族もグループ内で役職に就いている者が多い。親近者の入社と出世を目論む者が常務に付いているという感じだろうか。人事部自体が完全な常務派と言っていいのかもしれない。
数年前から、この二つの派閥は半年後に定年退職する予定の錦織の後釜、次期専務の椅子を巡って対立し続けている。
役職順からいけば常務の神崎が後継となるはずだが、近年の神崎にはこれといった功績はない。なので社内外では、実力を評価されている他の取締役の何名かが次期専務として有力視されている。その中にはグループ会社に属する伸也の父の名も含まれていた。
そこで神崎は自らの専務への道を確固たるものにする為、娘と伸也との縁談を百合子に持ちかけたという訳だ。
だから、伸也が娘婿となる可能性が無いのなら、常務派にとって彼は駒としては使えないと判断される。隙を見て、良い踏み台になる別の頭とすげ替えようとしてくるだろう。
おそらく、見合いに関するデマの件は、専務派への牽制か、或いは常務派の拡大を目論んでのことだと考えられる。神崎の後継が濃厚だと推測した者のすでに何名かが他派閥から乗り換え始めたという報告も受けている。
そして、先代の血縁者として代表に担ぎ上げられたばかりの伸也が反対派閥である専務派から支持を得るには、何らかのインパクトある功績を提示する必要がある。専務派は実力至上主義な派閥だ。血筋だけでトップに居座れるほど、KAJIコーポレーションの代表の椅子は軽くはない。
しばらく相関図を眺めて考え込んでいた伸也は、残りの炭酸水を二口ほど飲むと新規メールを作成する。動き出した常務派に蹴落とされる前に、専務派からの反発を受ける前に、自分の周囲を固めておく必要がある。
メールを送信し終えた時、PCのディスプレイの時刻表示はすでに3時を回ろうとしていた。
翌朝はグループ関連会社への視察もあって、秘書の運転する社用車がマンション前まで迎えに来た。打ち合わせも兼ねて助手席に乗り込んだ伸也だったが、シートベルトを着用して座席に身を投じた途端、思わず欠伸が零れてしまう。
「訪問の順番を変更いたしますから、しばらく後ろでお休みになられては?」
「……すみません、そうします」
常に行動を共にしている秘書には、強がったり言い訳したりしても意味がない。伸也がベストな状態で動けるように管理するのが彼の仕事であり、初めて対面した時にも言われたのだ。「専属秘書への意地や見栄は必要ありません」と。
手短に予定を確認し終えると、信号が赤になったタイミングで助手席を降り、後部座席へと移動する。
「あ、相関図、分かり易かったです。あれは祖父の代から変わらず?」
「いえ、先代の時も何かと反発し合ってはいましたが、それでも社長中心にまとまっているようには見えてましたね。常務派の縁故率も、今ほど顕著ではありませんでしたし」
伸也が帰国するまでの間に社長代理を勤めていた錦織よりも、圧倒的に派閥を広げている常務の神崎。伸也を後継にという餌を使って先代の娘である安達百合子を真っ先に引き入れたことが派閥拡充へと起因したのだろう。
ただし、母は初孫との対面以降、神崎を避けているようだが。
後部座席に深く身を預け、伸也は腕を組んだまま下を向いて目を瞑った。鴨井から肩を揺すられて呼び起こされるまでの記憶は全くない。時計を見ると約1時間ほど眠っていたようで、今日の予定の中では一番遠い視察先に到着していた。少しでも眠る時間が取れるよう、距離のあるところから回るようにスケジュールを組み直してくれたらしい。
代表就任後の初めての関連会社への視察は、順調に進んでいった。定型の挨拶と定型の報告はどこへ行っても似たようなものだ。そんな訪問先の全てで、伸也は同じ質問を投げかける。
「こちらでの子育て世帯の割合と、女性の育休後の復帰率はどのくらいですか?」
業績に関する質問ばかりを想定していた担当者は、伸也の問いに即答できず、すぐに調べて後で報告いたしますと焦る者も少なくない。それぞれの視察先で似たような反応を受けた後、伸也は最後の訪問先であるADコーポレーションの会議室で実父が来るのを待った。
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