今更だけど、もう離さない〜再会した元カレは大会社のCEO〜

瀬崎由美

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第二十一話・引っ越しの朝

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 いつもと同じように目が覚めて、朝食とお弁当の用意をしようとキッチンに立ち、はたと気付く。冷蔵庫も電子レンジも無くなった、ガランとした空間。引っ越すからとリサイクルショップに買い取って貰ったのをすっかり忘れていた。当然、いつもは当たり前に中へ入れていた物も何も無い。

「あ、牛乳無い」

 インスタントコーヒーの瓶を手に持ったまま固まる。カフェオレにして飲むのが習慣になっていたが、牛乳無しでは物足りない。仕方なく、非常用に取っておいたミネラルウォーターを開けて、常温のままグラスに注ぎ入れる。

 バタバタし過ぎて朝食のことは何も考えていなかった。なので、買い置きしていたバターロールとバナナに、お湯を注ぐだけのカップスープがこの部屋での最後の食事になってしまった。
 ちゃんとしたお弁当も作れそうもないので、炊飯器の残りご飯でオニギリを握って持って行くことにする。

 それ以外は至って変わらない朝だった。保育園からショップへとママチャリを飛ばして、イケメン店長の参考にならない朝礼を受ける。

「それでは、本日もよろしくお願いします」
「「よろしくお願いします」」

 世間は夏休み真っ只中で、ショッピングモールの客足は多いが、隅っこのテナントでは閑古鳥が鳴きかけていた。お盆前後はキャリアからも本社からもイベントの指示が減るし、秋の新機種発表を前にして客は買い渋りを始める。

 打開策になるかどうかは分からないが、手の空いたスタッフが順にエスカレーター前でチラシを配ることになった。効果は微妙だけれど、売上が悪かったのでチラシを配りましたという弁明のような報告がしたいのだろう。勿論、言い出した店長自身は社用PCで遊んでいるだけだけど。

「ダメです。全然受け取って貰えないです」
「やっぱ、チラシだけは厳しいかもね。販促用のティッシュってまだ余ってたっけ?」

 先陣を切っていったバイト君が、ゲンナリした顔で戻ってきて弱音を吐いていた。即席のチラシだけでは手に取って貰えないのは当然だ。興味のないチラシはただのゴミにしかならない。たとえ受け取って貰えても、すぐ目の前にあるゴミ箱に放り込まれるのがオチ。
 瑞希はバックヤードからキャリアのロゴ入りのポケットティッシュを探し出してくると、小さく折り畳んだチラシをその一つ一つにセットしていく。

「次、私行ってきますね」

 チラシ入りティッシュを紙袋に詰めて、バイト君と同じようにエスカレーター前に立つ。降りて来た人に店名を案内しながら差し出すと、半分くらいが受け取ってくれる。その受け取った人のどれくらいがチラシに目を通してくれるかまでは分からないが、ティッシュのおかげでゴミ箱直行だけは避けられそうだ。

 あっと言う間に持って来た紙袋が空になり、瑞希はホクホク顔で店に戻った。ティッシュ付きなら楽勝、と残りのチラシをバイト君と詰める作業に没頭していたところ、カウンターで恵美が対応しているカップル客から名前を呼ばれた気がして振り向いた。

「瑞希?」
「え、瑞希って、相沢?」

 カウンターの向こうに座る客が、二人揃ってこちらの方を向いていた。瑞希はどちらのことも知っている。高校の同級生の江崎由依と伊藤圭吾だ。確か、サッカー部のキャプテンとマネージャーで高校の時から付き合っていたはず。特別親しかった訳ではないが、フルネームですぐに思い出せるくらいには覚えている。

 「相沢ってどういうこと?」と無言で説明を求める恵美の視線へ「後で話す」とこちらも視線で返す。空気を読んで余計な口を挟んでこないところが、恵美の出来たところだ。

「久しぶり」
「ここで働いてたんだね、沙月達が連絡が取れなくなったって心配してたよ」
「ああ、うん。いろいろあってね……二人は今日は?」

 恵美が受けている途中の契約書をチラリと覗き見して、姓名&住所変更と家族割引の新規加入だと知る。この二つの書類があるということは、つまりそういうこと。

「おめでとう。結婚したんだね」
「ありがとう。そう言えば、瑞希は子供がいるって聞いたけど」

 お祝いの言葉へ照れたように笑いながら、由依が瑞希の名札を見ながら言う。田上の苗字は二人には見慣れないから、きっと結婚して変わったとでも思ったのだろう。

「うん、もうすぐ2才の男の子がいるよ。――ごめんね、手続きの邪魔しちゃって」

 精一杯の自然さを装って、瑞希はバイト君の元へと逃げるように戻った。一人にしている間もせっせとチラシのセットを作り続けてくれたようで、バイト君の周りにはチラシ入りティッシュの山が出来ていた。それを一緒に紙袋に詰め込んでいると、手続きを終えた恵美が眉を寄せて難しい顔をしながら寄ってきて、ガシッと瑞希の右腕を掴んでくる。

「暇だし、休憩行こうか」

 店長のOKは貰ってあるから、と半ば引きずるように連れて行かれた社員食堂で、恵美はメロンパンを片手に瑞希をじっと見ていた。話辛いことでもあるのだろうと気を利かせてくれたのか、隅っこのテーブルを選んでくれたのも恵美の気遣いだろう。持ち込んだ手作りオニギリのラップを剥がしている瑞希へ向かって声を潜めた。

「今日はオニギリだけ? 珍しいね。 ――言いたくないなら、別に無理しなくていいから」
「ううん、話すし聞いてくれる? ただ、どこから話したらいいのか……」

 恵美のことは信頼しているけれど、伸也の会社の人と接する機会が無いという訳でもない。伸也に迷惑がかからないよう、言葉と話題を選びながら説明し始める。今話せるのは祖父母に養子縁組していたことと、それを先日に解消したこと、そして今日から引っ越して住所が変わったことくらいだろうか。

「そっか、なかなかややこしいね。ここでは田上さんのままで通すの?」
「うん、健保とかの関係もあるから経理の花井さんにはメールで報告済みだけど、店長にはしばらくは田上でって伝えてある」

 瑞希としては元の相沢の方が馴染みはあるが、今日のように昔の知り合いと会うことを考えたら、苗字が違っていた方が都合が良いこともある。

「そうだね、その内に今度は安達に変わりましたって言ってくるだろうし、今はそのままでいいんじゃない」

 恵美から冷やかすように言われて、早くそうなればいいなと思っている自分がいることに気付き、瑞希は少しばかりドキっとした。子供の為ではなく、自分が伸也と一緒に居たいと思っていることにようやく気が付いた。
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