今更だけど、もう離さない〜再会した元カレは大会社のCEO〜

瀬崎由美

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第十八話・息子の発熱

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 遥か遠くを走る緊急車両のサイレンの音が聞こえるだけの、静まり返った夜中。小さくカタカタと聞こえてくるのは、どこかの部屋のベランダで洗濯用のハンガーが風に揺れている音だろうか。
 隣の子供布団で眠っている拓也が、小さくうなされていることに気付いて瑞希は目が覚めた。

「……拓也?」

 まさかと思い、子供の額に手を置いてみる。――熱い。手の平で感じる高温。あまりの熱さに驚き、体温計と保冷シートを探しに慌てて起き上がった。

 保育園に預けるようになって約一年、最初の頃に比べたら随分マシにはなってきたが、子供はすぐに熱を出すからビックリした。生まれて初めての集団生活では、家にいると接する機会のない病原菌類がすぐ傍にあり、頻繁に発熱することは珍しくない。風邪やインフルエンザだけでなく、トビヒや手足口病、水いぼなどの皮膚疾患など、ありとあらゆる菌やウイルスを貰って来ては小児科へと駆け込んだ。

 まだ免疫力のない月齢な上に、油断するとすぐ何でも口に入れてしまう1歳児。園の誰かが熱を出したり発症したりすれば、感染症はあっという間にクラス中に広まってしまう。

 ただ、ここ最近は誰かが発熱してお休みしたという話は聞いていないので、保育園で何かを貰ってきたという訳ではなさそうだ。となると、連日の通園に加えて休日にも連れ回してしまったことで、拓也の身体に疲れが出てしまったのかもしれない。

 時計を見ると、まだ4時を回ったところだった。スマホのライトで照らしながらシフト表を確認するが、今日の勤務を交代して貰えそうな人はいない。休日予定なのは希望を出して休みを取っている人か、昨日まで長い勤務が続いていた人だけ。さすがに連勤の人に代わって貰う訳にもいかず、病児保育を利用して出勤するしかなさそうだ。

 本当なら、体調が悪い時にはずっと傍にいてあげたい。慣れない場所じゃなく、家でゆっくり休ませてあげた方がいいのは分かってる。けれど、余裕のない人員で簡単に欠勤することなんて出来ない。子供を理由にするなら正社員ではなくパートへの降格を上司から勧められても反論はできない。

 小児科に併設されていたり、専任の看護士が常駐しているような病児保育は預ける親は安心だが、預けられる子供は不安だらけだ。ぐったりした我が子を置いていく罪悪感は何度経験しても辛い。

 人によってはこういう場合、実家に預けたり、実家から手伝いに来て貰ったり、あるいは夫婦のどちらかが交代で休んだりして子供の傍に居てあげるのだろう。一人で拓也を育ててきた瑞希には、そういった選択肢は最初からなかった。

 うなされている拓也の額に冷却シートを乗せてから、汗ばんだ髪を優しく撫でてやる。38度ちょうどの熱で座薬を使うほどではなく、他にはどうしてあげることも出来ない。泣きわめく力も出ないのか、ただ涙ぐんだ目で瑞希のことをすがるように見ている息子はまだ二歳にも満たない。不憫に思いながらも、自分がしてやれることは少ない。寝付くまで静かに身体をさすったり、布団の上からトントンしてあげているのが精一杯。

 朝一で通常の保育園に欠席の連絡をし、病児保育を受け付けている小児科に診察と通園の予約を入れる。風邪などが流行る季節にはすぐに埋まってしまい予約が取れないこともあるが、運が良かったのか職場から近いところで空きがあった。これまでも何度か利用したことがあるから、少しホッとする。

「ごめんね、出来るだけ早くお迎えに来るようにするからね」

 泣いてグズる元気もないのか、発熱して頬を真っ赤にした拓也は看護士さんに抱っこされたまま、寂しそうな顔をしているだけだった。以前に預けた時は保育室の壁に描かれたクマのイラストに大興奮してはしゃいでいたが、さすがに今日はそんな元気はないようだ。熱のせいで少し腫れぼったくなった瞳が、瑞希のことをぼんやりと追っている。

 病院から直行でショップへ向かうと、いつもと変わらない業務が待っていた。家でどんなバタバタが起ころうが、職場ではみんな同じショップの店員だ。客からはそれぞれの家庭事情なんて関係ないし、誰からでも同じサービスを受けられるのが当たり前だと思われている。

『夜中に拓也が熱出して、今日は病児保育をお願いしてきたよ。最近バタバタしてたから、少し疲れが出たのかな』

 昼休憩の時に伸也へと送ったメールには特に深い意味はなかった。ただの近況報告のような、その程度のつもりだった。

『心配だね。そういう時は、いつもどこに預けてるの?』

 休憩が終わる間際に届いたメールに、具体的な病院名などを書いて送ると、瑞希はそれっきり伸也とのやり取りのことは気にも留めなかった。

 他のスタッフに事情を話して、明日と明後日の公休を代わって貰うことができたので、もし拓也の熱が下がっていなくても明日はゆっくり家で傍にいてあげられることになった。そのことは家に戻ってから伸也にメールしておこうと思っていた。
 ――だから、ボロアパートの前で大きな買い物袋を下げた伸也が待っていたことに、瑞希は本当に驚いた。

「ど、どうしたの?!」
「心配だったから、拓也のことも瑞希のことも。何が要るのかよく分からなかったから、適当にいろいろ買ってきたんだけど……」

 とりあえず入って、と玄関の鍵を開けて伸也を中に入れる。高そうなスーツ姿の伸也がボロアパートの前で立ち尽くしてる光景は、別の意味で違和感があって目立ち過ぎる。
 抱っこしていた拓也を下ろし、紙袋に入った物を受け取って見ると、プリンやゼリーなどの拓也が食べれそうな物の他に、瑞希用にとデパ地下総菜やスイーツが大量に入っていた。思いつく限りを片っ端から買って回ったのがよく分かる。

「美味しそうだね、ありがとう。みんなで一緒に食べよっか」

 市販の総菜なんて本当にご無沙汰で、瑞希にとってはデパ地下スイーツなんてどこの国の話? くらいに遠い世界だった。

 昼間にぐっすり眠ったおかげか、拓也の熱は平熱に戻っていたし、併設の小児科で薬も出して貰ったから、もう心配はなさそうだ。伸也に子供の相手を任せて、瑞希は荷物を片付けつつ簡単にお味噌汁の用意をして、病み上がりの拓也にはうどんを茹でる。

 キッチンで作業している後ろでは、伸也が拓也の耳元で何かを一生懸命話していた。耳をそばだててみると、「パパだよ、拓也。パーパ」と必死でパパ呼びを教えていた。
 瑞希は思わず噴き出した。
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